異色の心理学者 「チクセントミハイ」に注目しよう  

報酬や自由はやる気に作用する
 やがて(すべてを積み上げると)崩れ去ると知っていて石を丘に積んでいく作業にみるように、一見すると単調でまるで罰や呪いのように見える仕事でも、外的報酬(お金)や自由や目的や仲間がいると、やる気に違いがでてくるはずです。
 もしも最後の一個を置けば(崩れるのでなく)すべて積み上げることができるのなら、目的のなかに、何か気高いもの、精神性や崇高なるものがあり、それとあわせて、達成感を味わいたいという目標が作業に心的エナジーを維持しやすくなるでしょう。
 モティベーション論のなかに、内発的モティベーション論という領域があります。お金などの外発的報酬がなくても、どのような場合にどのような人なら、内から出てくるエナジーで動機づけられのかが研究されてきました。達成感以外にも、有能感(コンピタンスが発揮できてうれしいという感覚)、自己決定感(自分でこれをやりたいと決めたことに取り組んでいるんだという感覚)が、内発的な動機を喚起することが、これまでの経営学のなかで注目されてきました。これらの要因よりもより満たされるまでの時間幅がぐつと長くなりますが、アブラハム・マズローがいう自己実現も、内発的なものに深くかかわっています(ただし、自己実現は、短期的なモティベーションの枠組みよりも、生涯を通じて追求する発達課題だと考えたほうがマズローの考えに近いとわたしは考えています。詳しくは、金井監訳のマズロー著『完全なる経営』 日本経済新聞社、を参考してください)。
 でも、達成感が高くても、作業しているプロセスはとんでもなくつらい仕事もあります(石がすごく重ければ、石を積む作業もそうでしょう)。うまくできても、好きなことをやっていてそのプロセスを楽しんでいるとはかぎりません。ひとは、うまくできることは好きだと思い込んだほうが都合がいいので、そうしがちですが、心の奥の声まで聞くと違うことがあります。つまり、有能感があるからといって、仕事をしているときにものすごく楽しめているとはかぎらないのです。さらに、自分でやりたいと思った仕事でも、やっている最中には、難関がたくさんあって、そこをくぐつているときには楽しむというよりは、苦しんでいるときもあるでしょう。自分で決めたこと(自己決定した課題)とはいえ、なんでこんなに苦労しないといけないのかと自分を叱咤激励したことが、ありませんか、これもがんばる人なら誰でも身に覚えがあるのではないでしょうか。自己実現は、非常に大切なことだとわたしは思っていますが、街のなかを歩いていて、「あっ、今、あのひと楽しそうに自己実現しているところよ」という瞬間に出会うことはありません。それは、もっと息の長いものです。自己実現が生涯を通じての課題なら、途中は当然山あり谷ありで、たとえば、マズローが自己実現している人の例としてあげるリンカーンでも、内戦の南北戦争でゲティスバーグでなんとか勝利する前の苦境では(自己実現の長い道程での一こまですが)、戦争を楽しんだりできないでしょう(もし、そういうことができるなら、怖いものです)。つまり、自己実現のためには、いっぱい苦しみも悩みもくぐるはずです。また、そのようなものをくぐつてきた人ならではの人間的魅力があります。だから自己実現の欲求を滴たすには、そのような峠や苦境を通るべきだともいえるのかもしれません。
 このようにながめていきますと、達成感も有能感も自己決定感も自己実現も、仕事をしている最中の楽しみという問題そのものを直視しているとはいえません。わたしが(経営学者としては)ずいぶんと早い時期から、とてつもなくユニークな心理学者として注目したチクセントミハイには、そのような発想があります。
 やっていることそれ自体が楽しいということを、経営学のなかのモティベーション論は、あまり扱ってこなかったのではないかという反省がここにはあります。本書のテーマそのものである、心のエナジーをもっとも素直に高めるのは、やっていることが気持ちいい、楽しいということです。これを書いている前日に、温泉の出る近所の銭湯で、お風呂上がりにビールを飲みながら中年の男性が、「あぁ、気持ちよかった」という風呂上りの母親に対して、「人が気持ちいいのは、お風呂とか、食べているときとか、眠りかけているときとか、にきまっているじゃん」と相槌を打っていました。もちろんお望みなら、これにセックスを足してもらってもいいかもしれません。興味深いことに、チクセントミハイは、それ自体が楽しくて気持ちよく没頭できる行動を様々な場面で研究しました。そのなかで、一つの比較の準拠として、性行為を考えていました(楽しみ−−フロー経験と呼ばれます−−を測定する質問紙のなかで、その行為が性行為とどの程度似ているかを尋ねています)。

 フロー経験における6つの特徴
 それでは、フロー経験に共通の特徴をまず見てみましょう。
 チクセントミハイによれば、やっていること自体が楽しい活動、つまりフロー経験の特徴として、つぎの6つの要素があげられています。彼が、ケース・スタディでとりあげたのは、チェスに熱中する人、バスケットボールに打ち込んでいる高校生、ロックダンスに夢中になる人、ロッククライミングにはまっている人、仕事の世界ではむずかしい手術に没頭する外科医などです。チクセントミハイ自身がロッククライマーなので、以下の箇条書きの括弧内には、ロッククライミングのケースから例示して、簡単な説明を加えました。皆さんは、仕事の世界に限らず、自分がわれを忘れるほど打ち込める楽しい活動を思い浮かべながら読んでください。
 (1)行為と意識の融合(やっている行為に夢中になっているので、自分の意識や注意がそこに溶け込んでいること、なぜロッククライミングに熱中しているかなどを考えずにそれに打ちこんでいること)
 (2)限定された刺激領域への注意集中(マズローなら「過去と未来の破棄」と言うものにかかわり、今登っている岩壁の小さな凹凸だけに集中、過去は30秒、先は5分ぐらいしか考えないほど)
 (3)自我の喪失・忘却、自我意識の喪失(マズローなら、「個の超越」「世界との融合」とも表現するところの状態。ロッククライミングに熱中していると、自分という意識などなくなり岩のなかに溶け込んでしまうような感覚になること)
 (4)自分の行為が環境を支配しているという感覚(3)で述べたように、山や岩という環境に溶け込みながらも、その環境を支配しているのは自分だ、あるいは、環境や対象を支配していなくても、自分で自分の世界を支配しているという気持ち)
 (5)首尾一貫した矛盾のない行為が必要とされ、フィードバックが明瞭(岩肌を1ステップずつ登りながら、そのステツプが正しかったか間違っているのかが明瞭にわかる。そして、全体のステツプが流れる(フロー)かのごとく首尾一貫していること−−フロー経験という名称は、そこから生まれた)
 (6)自己目的的な(autotelic)性質(ほかに報酬−−たとえば、登頂の栄光・賞賛を得るなどの目的がなくても、それ−−ロッククライミングそれ自体が明確な目的)
 
 同じ著者による後年の作品(チクセントミハイ、1990)では、さらにつぎのように敷衍されています。今度は、括弧内に、上記の前著(1975)との関係を付記しておきます。
 (1)能力を必要とする挑戟的活動
 (2)行為と意識の融合(上の(1)と同じ)
 (3)明確な目的(上の(6)とかかわる)
 (4)フイードバック(上の(5)と部分的に対応)
 (5)今していることへの注意集中(上の(2)に対応)
 (6)困難な状況を自分が統制しているという感覚(統制しているという現実よりも、自分がその場を操れるという可能性、あるいは統制喪失の懸念がないこと)(上の(4)に対応)
 (7)自意識、自己感覚の喪失、対象や環境と一体になり自己を吟味する余地がないこと(上の(3)に対応)
 (8)時間が普通とは異なる速さで進むこと、あるいは時間の圧力からの自由

 いかがでしょうか。皆さんにも、このような経験が、仕事や趣味であるでしょうか。
わたしの場合は、へたくそですが、ギターーやドラムをしますので、演奏中に没頭してしまいます(没頭していたら、プロではない、うまくない証拠だと言われますが)。仕事の世界では、これが生じるのはたぶん稀てす。でも、2〜3年に1回、学部の学生むけの経営管理論の講義が非常にうまくいったときに、これらの要素のかなりが教室内でのわたしに生じていることがあります。また、ものを書くのは一方で苦痛でもあるので七転八倒することが(この本を仕上げている今がそうであるように)しばしばですが、その合間に、ほんとうに深く没頭して、いっきにかなりの枚数を書き上げることができることもあります。だから、仕事の世界でフロー経験がないとあきらめないでください。
 神戸大学経営学部の金井ゼミでは、チクセントミハイの 『楽しむということ』 が必読文献で、ゼミ生がこれまで経験したフロー経験を持ち寄ります。アメフト、ラフティング(筏での急流くだり)、スキー、マージャン、デートなどいろんな例があがりますが、アルバイトでレジをしていて、バーツと一気に打ち出して、列で並んでいた人が減るのを見ながら、これを感じた人もいます。これらが学部のゼミ生ですが、実務経験もある社会人MBA院生の一人は、薬品会社でMR(医薬情報提供者)をなさっている方でしたが、なかなかうまく話が通じなかったお医者さまに、どんどん入り込むことができた商談の場面で、これらのフロー経験の諸要素がなりたっているとレポートしました。ですから、皆さんも、仕事の世界は所詮、面白くない。だから、その証拠に給科をもらっている、と断言しないでください。また、わたしは仕事の中の精神性は大事なことだと思っていますが、一気に高尚な世界にばかり飛びすぎて、崇高なこと、スピリチユアルなことにしか燃えないとまで、極端に行かないでください。
 仕事のなかに、面白さ、楽しさを求めることを、けっして忘れたり、あきらめきったりしないでください。

引用:「組織を動かす最強のマネジメント心理学」金井壽宏