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2008年2月21日

隠居、ネット時代の「知的生産の技術」を考える?日記と記録など:終

 私と同じように、「知的生産の技術」の現代的意味を読み解いておられる中学校の理科の先生がおられる。学校の先生らしく、深く深く読んでおられる。多分、そのようにこの本に傾倒されおられるのは、9章の「日記と記録」の記述に、ご自身で記録的に続けておられるブログの賛同意見を見いだされたのではないかと、かってに推測している。少なくとも、私はそうだからである。

 勤めていた頃は、私もメモ帳的な日記をつけていた。ただ、この日記的なものは、サラーリーマンとして仕事上のことばかりであったから、退職と共にすべて捨ててしまった。五木寛之のいう「黄金の林住期」になって、過去を捨てて新しい世界を楽しみたいという気持ちになったせいもある。
 新しい世界を楽しむためにはじめたブログは私にとっては、<ネット時代の「知的生産の技術」を考える?>で書いたように、梅棹さんが「知的生産の技術」でいう 日記と記録 になった。
 梅棹さんは、
日記というのは、要するに日づけ順の経験の記録のことであって、(中略) 航海日誌とか業務日誌のたぐいをおもいうかべればよい。
と説いておられるが、まさしく私のブログ( Web Log=航海日誌) も林住期生活の気ままな 日記と記録 なのである。

 私が日記としているのは、 Movable Type というソフトで作るブログである。ブログはそれ自身がポータル・サイト的な性格を持っているが、私はそれをカスタマイズして、さらに自分用のポータル・サイトにするつもりでつくっている。 これらの大部分は、iGoogle などのポータル・サイトでほとんど実現できることが多いが、自分の日記なので自分がもっとも使いやすいようにしたいと思っているのである。

 ここまでこだわらなくても、「知的生産の技術」の9章に書かれている 「バラ紙にかく日記」「日記をかんがえなおす」「日記と記録のあいだ」「記憶せずに記録する」「カードにかく日記」「個人文書館」の項目で記述されている記録の方法はブログによってクリアできると思う。
 とくに最後の「個人文書館」の項の中で、
ぼう大な記録カードや日記の蓄積は、いわば個人のためのアルキーフ(文書館)である。わたしがいっているのは、知的生産にたずさわろうとするものは、わかいうちから、自家用文書館の建設を心がけるべきである、ということなのである。
と説いておられるが、アルキーフ(独語)とは英語でアーカイブのことであり、ブログではデーターベースが自動的に文書館をつくってくれるのである。

 問題は、「メモをとるしつけ」「野帳の日常化」である。この項目における要点は、いつでも記録できる体制にあれということであろうから、コンデジを常にポケットに忍ばせておくとか、ケイタイで文書を書くのを習熟するとかでネット時代ではカバーできるだろう。さらに小さなMP3レコーダーでも携帯しておれば鳥の鳴き声だって、簡単に明瞭に録れるのだ。40年前に比べれば、記録することははるかにたやすくなっている。しかし、重要なことは、道具が変わっても、なんにでも好奇心をもっておくことであろう。これは、40年経っても変わらない。

 歳をとって物忘れがひどい。日記を自分のための生活記録と考えて、新しく経験したことについて記録をしておけば、あとで役に立つ。経験したことの感想だけではあとで役に立たない。9章の「自分のための業務報告」の項にでてくる宮廷の台所日記という『御湯殿上日記(おゆどののうえのにっき)』的でなければならない。
 例えば、自分で作ったブログ・サイトに何か新しい Plugin をインストールしたときには、そのインストール方法や苦労した点あるいは参照した Web URL などについて記録しておく。そうすれば、また同じことにぶつかったときに役に立つ。
 私は、この自分のための生活記録を隠居の気楽さで恥も外聞もなくブログという形で公表している。Google や Yahoo! などの検索にひっかかって、私と同じようなPC上のトラブルとか、音楽編集の方法などのエントリーへ訪問される方が、一日200人を越えるようになった。いちど訪問して、「なんや、つまらん!」と思う人がほとんどだと思うが、梅田望夫さんがいうように、
個人が、しらべ、読み、考え、発見し、何か新しい情報を創出し、それをひとにわかるかたちで書き、誰かに提出するまでの一連の行為(「ウェブ時代をゆく」 p.146)
 を知的生産と位置づけるなら、私も少しは 知的生産 をしているのかもしれない。

 一日に200人もの人が訪れるようになったので、ブログを自分への経験記録だけでなく、「知的生産の技術」の10章(原稿)・11章(文章)で書かれているように、他人のために「かく」ことを意識せざるをえなくなってきた。
 それも、ブログのおかげで私のような隠居でも気軽に簡単に発信できるようになったからである。活字にする必要がなくなったからである。私の父は、下手な短歌を作るのが趣味であったが、彼が唯一外に向かって発信したのは、なけなしの退職金をはたいて歌集を自費出版したことであった。今のネット時代なら、もっと気楽に発信できたであろう。

 梅棹さんは、11章「文章」「まずわかりやすく」のなかに、古くからからいわれている 文章は俳句のつもりでかけ という心得をとりあげて
 この忙しい世の中で、俳句をあじわうようなつもりで、論文をなんどもよみかえして、あじわってくれる人はあるまい。一ぺんよんで、すっとわからぬような文章は、やはりぐあいがわるいのではないか。わたしは、苦心して文章をみじかくすることの愚をさとった。みじかいことよりも、わかることのほうがたいせつである。文章は、電報ではないのだから、
 賛成である。特に、記録としての意識をもてば、文学作品を書く必要はない。ただ、私のエントリーが分かりやすいかどうかには自信がない。良い文書をかくようにこころがけたいと思う。と同時に、ブログの体裁を整える方法も、もっと習熟する必要がある。歳をとってからの学習は、はかがいかないが。

 このシリーズのエントリーは、今回で終わりにしたいと思う。第1回で書いたように、40年前の「知的生産の技術」を、今のネット時代で実施するとどのようななるのかを、浅薄な知識は承知の上でシリーズで書いてきた。どんな意味があるのというようなことは問わないで欲しいが、何人かの方々が隠居の日記に興味を持っておられるのがせめてもの救いと思っている。

2008年2月13日

隠居、ネット時代の「知的生産の技術」を考える?手紙

 今回は、「知的生産の技術」8章の「手紙」をネット時代では、どのように考えるかについてふれてみたい。
 梅棹さんは、「知的生産の技術」を発刊された1969年当時においても日本では手紙の形式が崩れていることやコミュニケーションは電話ですまし、手紙を書かなくなっていると指摘されている。確かに、ずっと前から郵便受に入るものは、印刷されたダイレクトメールか振り替え通知ばかりであり、友人からの手紙なんて滅多にない。こちらが筆無精で手紙を書くのは苦手であり、こちらから発信しないのだから無理もない。こまめに手紙をくれるひとには感服してしまう。それが、電子メール( eMail )が一般的になって激変した。

 eMail が一般的になったのは、Windows95 がブームとなった 1995 年頃であろう。この年、日本でのインターネット牽引者である 村井純さん が「インターネット(岩波新書)」を発刊されている。インターネットが庶民のものとなって、たかが、まだ12?3年しかならないのである。この12?3年の間に、少なくとも私にとってはコミュニケーションの世界が全く変わってしまった。eMail という形式を介して、頻繁に多くの方と eMail という手紙をやりとりするようになったのである。

 梅棹さんは、手紙を情報交換の知的な技術と定義しておられるが、手紙がeMail に置き換わった今のネット時代では人びとの間の情報交換は、飛躍的に増大していると思われる。ネット時代では、情報の交換はこのeMail 網だけではなくブログなどもっと大きな場が拡がっているが、この現象については、また別のエントリーで考えてみたい。

 知的な情報交換とは言えないが、今、郵便受けに入る手紙・はがきには、この歳になるとやたらに同窓会・OB会の案内が多くなる。この案内状をメールに代えれば、事務作業はあきらかに簡便となる。私も参加しているシニアばかりのプライベートなゴルフ・コンペへの参加資格は、メールアドレスを持っていることである。メール以外の案内は一切しない。幹事の負担は、物理的な手紙・はがきで案内することとは比べものにならないほど楽ちんである。楽天が提供するような無料のメーリング・リスト( ML ) サービスを利用すれば、もっと楽ちんである。

  eMail を発信するのは手紙を書くことに比べるとはるかに楽であり形式も自由であるが、顔を知らない外国人からの英語での eMail は、梅棹さんが指摘されている形式が今も守られているようだ。下の例は、UKのソフト会社から私宛の  eMail の一例である。
 
Dear Shuhei Nxxxxxxx

This is to let you know that xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx:

Please note xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx.
If this happens, please see http://www.xxxxxxxxxxxxxxxxxx.com/xxxxxxxxxxx for further instructions.

xxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx
Ixxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxxx

For further assistance please go to http://www.xxxxxxxxxxxxxxxxx.com/help.asp

Best wishes,

xxxxxxxxxxxxxxx.com
Our ref: xxxxxxxxxxxxxxxxxx


 手紙をワープロで作成するにあたっても、米国あたりでは形式が守られているのか、Miscrosoft の 文書作成ソフト日本語 Word にも、オートフォーマットという機能があり、文頭に「拝啓」と入力すると文末は「敬具」と自動的に表示されるような機能や月毎の時候の挨拶が用意されている。Word の元々は米国だから、そのようなテンプレートを用意するのは当然であっただろう。

 eMail も米国発であるから、Miscrosoft あたりが提唱するメールの形式は物理的な手紙のメールの形式が色濃く残っている。 eMail には eMail なりのエチケットみたいなものがある。これは「ネチケット(Netiquette)」という言葉になっている。
 先日、あるML仲間で eMail のやりとりが続いた。返信・返信で情報の交換をしているうちに、メールの件名( Subject )からはずれた情報の交換となった。ネチケットにうるさいシニアからお叱りがでたが、話題を変えるときは件名( Subject )を変えるのが望ましい。
 Google が無償で提供する WebメールGmail では、同じ件名で送受信したメールをスレッドとして整理してくれるから、件名を変えるのはまことに賢明なのである。話がそれるが、「2ちゃんねる」などで有名な「匿名掲示板」での日本語は乱れているが、件名と内容が異なる投稿をすると「スレ違い」などと言われる。また、話題が終了した掲示板は、「死にスレ」などという表現が使われたりする。若い人のやりとりにはついていけないので、遠慮しているが、スレ違いにならないようにしたいものだ。

 ネット時代になってでてきた巨大な情報交換の場の一つは、eMail を発端としたネット掲示板( BBS )である。例えば、私が愛用させてもらっている [K'sBookshelf] の「この花の名は?掲示板」に、名前の解らない花の写真を添えて掲示板にアップすると、たいていの場合 10 分ほどもたたないうちに誰かが教えてくれる。手持ちの花の図鑑やネットで調べても解らないときには重宝する。市井の一市民の知識が即座に引き出せるのである。eMail や BBS によって知識の増幅のスピードは、格段にスピードアップした。

 梅棹さんは、この手紙の章で、手紙のコピーとアドレス・カードの方法についてもふれておられるが、ネット時代では全く問題がない。
 eMail の送受信はファイルで残っているから、コピーの心配はない。心配は、前々回かいたように、デジタル・ファイルを消してしまうことである。
 私は、アドレスは、「筆まめ」というソフトで整理している。何かの会で住所録をエクセルかなにかの表形式で整理したものがあれば、テキスト形式で簡単に取り込める。このようなソフトのいいところは、年賀状などの宛名書きを全部自動的に印刷してくれることである。(年末の忙しい時間に、プリント・ゴッコで印刷し、悪筆の手書きで宛名を書いていたころが懐かしい。) また、年賀状をいただいた方、出した方の記録や喪中はがきをもらった人も記録できる。二重にだしたり、喪中の人へ出したりする失礼もなくなる。また、デジタル・ファイルであるから、検索は簡単にできる。
 ただ、eMail がかなり拡大しても、年賀はがきはなくならないだろう。年賀はがきは、ただ単なる手紙のやりとりとは違うのだ。

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2008年2月 5日

隠居、ネット時代の「知的生産の技術」を考える?「かく」

 「ネット時代の『知的生産の技術』を考える?」では、梅棹流読書法は、このネット時代ではどうなるかについて考えてみた。今回は、「知的生産の技術」第7章「ペンからタイプライター」について考えてみたい。

 梅棹さんは、この章にかなりのページ数を割いておられるが、要するに、日本語というやっかいな言語体系のなかで「かく」ことの効率化の話である。効率化を求めて、鉛筆→万年筆→ローマ字でのタイプライター→カナモジタイプライター→ひらがなタイプライターと発展させた話である。推定であるが、その変遷の期間は 20 年余りと思われる。

 「知的生産の技術」が出版されてから、10 年後の 1979 年に東芝のJW-10 というワードプロセッサが発売された。当時、私は新薬メーカーの経理部員として、新薬開発部門の生産性を見ていた。新薬の認可を受けるためには、トラック1台分くらいの書類を厚生省に提出しなければならなかった。(現在は、デジタル化した資料になっていると思う) この書類の手書きでの作成、印刷、校正、修正には薬剤師の資格を持った女性達を中心に多大な労力を要していた。
 JW-10の発売を知り、一も二もなく購入を勧めたことを覚えている。価格は、確か450万円くらいしたと思う。JW-10については、次のPDF文書に詳しくでているので参照してほしい。
日本語ワードプロセッサーの誕生とその歴史

 その後のワープロの進化は、皆さんご存知の通りである。1988年の11月に、梅棹さんの編集で、「私の知的生産の技術」という本が出版されている。この新書には、岩波新書創刊50年を記念した募集論文「私の知的生産の技術」の入選作12篇に、梅棹さんのエッセイが付いている。そのエッセイの中で、ワープロについて次のようにふれられている。
 『知的生産の技術』のなかでは、日本語の現在の表記法のままではタイプライターにのらないことをのべ、ひらがなタイプライターなど、その点を克服するたのくふうについてのべた。それがワープロの出現によって事情は一変したようである。(中略)
 とにかくワープロによって日本語は機械にのった。人びとは悪筆コンプレックスになやませれることもなく、むつかしい漢字にふりまわされることもなく、らくらくと文書をたたきだすようになった。この数年間におけるワープロの普及ぶりは、まったくおどろくばかりである。これもまオフィスばかりか、家庭のなかにまで着実に浸透しつつある。

 余談であるが、梅棹さんの文書を引用させていただいてパソコンから入力しているときに気がついたが、梅棹さんはできるだけ漢字を使わないようにされているのではないかと思う。はじめ、それはひらかなタイプライターを使っておられたせいと思っていたが、どうやらそうではないらしい。先の引用の続きに、このような文章がある。
 しかし、ワープロによって問題のすべてが解決したのではけっしてない。ワープロによって、事務革命は完成したわけではないのだ。近代文明語としての日本語の問題点は、単に機械化がむつかしいというばかりではなく、学習の困難さ、国際化への障害など、いくつも難点がある。ワープロの発達は問題を解決しないで、むしろ先送りしたともいえる。

 これに関して思い出すことがある。富士通のOASYSのワープロで親指シフトのキーボードが、一時流行したことである。(今も愛用されている方も多いようだが。)ワープロの日本語入力の主流は、QWERTYキーボードでローマ字入力だとおもう。機械式英文タイプライターのキー配列は、早く打ちすぎると機械の方が追いつかなくて故障してしまうことから, QWERTY配列が、de facto standard になってしまったようだ。私も、完全ではないが、QWERTYキーボードのブラインド・タッチを習熟してしまった。
残念ながら、IT の国際言語は英語である。ネット時代になって、日本語の国際化はますます困難である。

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2008年1月23日

隠居、ネット時代の「知的生産の技術」を考える?読書

 ネット時代の「知的生産の技術」を考える?では、ネット時代における発見の記録について考えてみた。今回は、ネット時代の読書について考えてみたい。

 読書は、このネット時代になっても、デジタル書籍みたいなものがあるものの、依然として重要な知識獲得手段である。梅棹さんは「知的生産の技術」の6章読書の中で、本の内容の正確な理解には、はじめから終わりまで読むことが必要であると説いており、そのようにして読書した本は、「よんだ」といい、一部分だけよんだ場合には、「みた」ということにしておられるらしい。「よんだ」本の記録には、京大型カードを使って、読書カードをつくっておられる。

 梅棹さんはまた、「読書においてだいじなのは、著書の思想を正確に理解するとともに、それによって自分の思想を開発し、育成することなのだ」、と説かれ、そこで誘発されたことがらは、発見の記録として、京大型カードに残されるのである。誘発されることがらのレベルは雲泥の差ではあるが、私は「よんだ」本から得られた情報はブログにエントリーするようにしている。
 Amazon のアフリエートを利用してエントリーにリンクしておけば、出版社や価格などの情報まで付加された読書カードとなる。ブログはもともと日付順(投稿の何時何分までも)になっていたり、カテゴリーといった分類があったり、タグとよばれるキーワードを付ける機能があるから、記録しては理想的である。

 隠居生活に入ってから、「みた」本は多いが「よんだ」本は少なくなってしまった。少ないが、「よんだ」本の、例えば、マイク・モラスキーというミネソタ大学の教授が書いた「戦後日本のジャズ文化」という本を「よんだ」記録は、2006年12月2日のエントリーにあるとおりである。

 このような「知的生産の技術」のまねごとができるようになったのは、ブログでいろいろなことを記録しはじめてからである。私にとっては、ブログこそがそのような世界を開いてくれたのである。

 消費的読書(読書を楽しむだけ)は、たいてい本屋の店先にならんでいるのを見て衝動的に求める場合が多いが、生産的読書(知的生産のための読書)のための書籍は、このネット時代には Amazon のようなネットショップで検索するのが普通になってきた。Amazon へ検索にいく前に、Google などで得たい情報をサーチすることは、大抵の方がしていると思う。インターネットという巨大な百科事典は、ほんの数年前まではなかったのである。

 ただ、購入したいが、もう絶版になっている本もある。たとえば、「知的生産の技術」に出てくる「神々の復活」という本は絶版になっている。図書館の放出本がでたこともあったようだが、今は「復刊ドットコム」というサイトで復刊希望者の投票が集められている。(注:英語版なら、英国でペーパーバックで売られている。"The Forerunner. a Romance of Leonardo Da Vinci : Dmitri Merejkowski ;")
 Google では 「ブック図書館プロジェクト」を立ち上げている。これが実用に供されれば、図書館まで探しに行かなくても、抜粋ぐらい手に入る世界はそんなに遠くないかもしれない。

 このように、なんでもデジタル化してしまえば、保管も整理も検索も楽なのであるが、問題はうっかりすると蓄積した情報が全てなくなってしまうことである。このことについては、坂村健教授が、1月20日付の毎日新聞朝刊2面の「時代の嵐」というコラムに以下のように書いておられる。(梅棹さんは、自分で書くものには、できるだけ引用が少ない方が良いと説かれているのであるが。この記事は、前回に書いたように、スキャナーとOCRソフトで新聞記事をテキスト・デジタル化したものである。)
 デジタル化した記録は、しっかりとバックアップをとっておくことが、このネット時代には重要である。記憶デバイス・メディアの価格は恐ろしく安くなっている。クラッシック音楽LP100枚分をデジタル化し、MP3という音楽ファイルにして、iPod Classic 80GB(そのうちの20GBに) にいれて持ち歩いている友人がいる。2重3重にデータを持っていたって、たいしたことはないのである。

 
時代の風 デジタルデータよ永遠に 千の風になって
                                                     坂村健 東京大学教授

 家の古い8?ビデオカメラに、テープが入ったままずっと取り出せなくなっていた。
最近、メーカーに持っていきなんとか取り出してもらったが、故障については直そうにももう部品がないという。

 昔だったら子供の成長の記録を残すため、たいていの人はフィルムのカメラで写冥を撮っていた。 ところがふと気がつくと時代はデジタルカメラ。
 撮った瞬間に液晶画面で確認できるし、最新のものはそのままデータを無線LANでインターネットに送り、投稿サイトに公開できる機能まで持っているらしい。
 しかし、ふと気がつくと私の8?ビデオのように、以前子供を一生懸命撮った方式のカメラは世の中から姿を消している。

 そして規格が廃れると、再生機も売られなくなり、故障しても修理できなくなりという具合で、せっかく撮ったものが見られなくなってしまう。
 そこで重要なのは、記録のデジタル化だ。音声でも写真でも動画でもまずデジタル化することをお勧めする。デジタル化してしまえば、デジタルデータが保存できる媒体になら何にでも記録できる。デジタルデータが送れるネットワークなら何を通しても送れる。
 さらにデジタルデータはいくらコピーしても劣化しない。またその方式はコンピューターのプログラムで決まる。だからパソコンで再生できない規格のデータがあっても、ネットからそれを処理できるプログラムを取ってくればすぐ再生できたりする。

 これほど便利なデジタル化だが、データが壊れたときの「取り返しようのなさ」は最悪だ。アナログビデオならノイズがあっても画面が汚くなるだけで、何が映っているかぐらいはわかる。それに対して、デジタルの場合、ワンセグのテレビを見ていればわかるように、電波の受信状況があるレベルを下回ると急に画面が止まってしまう。

 デジタル記録といえども結局はDVDやハードディスクのように物理的な物質の上に記録されている。当然劣化するし、小さな媒体にたくさんの情報を入れている素材ほど、情報はほんの小さな違い―ミクロン単位の穴があるかないかとか、磁気の向きがどっちかどかぎで書き込まれているから、それはちょっとしたことで失われる。

 CDをはじめとするデジタルメディアは歴史も浅く、本当のところどれくらいの寿命があるかもわからない。CDよりDVDの方が弱いし、メディアの品質が悪ければあっという間に読めなくなるとも言われている。パソコンのハードディスクも永遠ではない。データを入れたままにしておくとある日突然恐ろしい音とともに壊れて、データがまったく取り出せなくなる。

 これをなんとかならないかと思う人は多いだろう。そこで、注目すべきは、デジタルデータがコピーしても品質が落ちないということだ。CDにしろDVDにしろハードディスクにしろ、定期的に新しいものにコピーしていけばいい。技術進歩により記憶容量の単価はどんどん安くなっている。常により広い家に引っ越せるようなもので、荷物を捨てる必要は無い。

 しかし、この方法の問題は定期的に手間と出費がかかること。ついついコピーを先延ばしにしていると、いつのまにかデータが失われてしまっていたりする。

 そこで、インターネットの時代、自分が記録したものをすべてインターネットのサイトにアップしてしまえばいいというアイデアが出てくる。そのサイトが存続してくれる限り、コピーを繰り返してデータを守るための手間は相手がやってくれる。しかもインターネットがあればどこからでも見られる。

 サイトと契約しなくても、最近流行の写真や動画投稿サイトを利用する手もある。他人に見られる可能性はあるが、本人が思っているほど他人のプライベートビデオは面白いものではない。問題になったファイル交換ソフトのウィニーなども「違法ファイルが消せないのが問題」というなら、いっそのこと保存したいファイルをウィニーに放流し、必要になったら呼び寄せるという利用法もある。他人に読まれたくないなら暗号化すればいい。
 逆に、自分を覚えていてほしいと強く願う孤独な人が死の直前に自作の詩集(やらなにやら)をウィニーに放流する、というせつない話もそのうち出てくるだろう。

 極端な話、インターネット開闢(かいびゃく)以来のサイトのデータをすべてコピーして蓄積していると噂されているNSA(米国国家安全保障局)に人類の文化の記録係の役割を担ってもらおうか。

 ワープロなどが広まり「オフィスのペーパレス化」などと言われた頃、紙の記録が電子化されてしまうので、下手すると電子時代の文明は後世から見たら何も文献が残っていないかもしれないと論じられた。私もつい最近まで、それが正しいと思っていた。しかし、デジタル時代の常識はどんどん変わる。巨大なネットワークの中に、人類のデータが増殖しながらさ千の風になって永遠に流れ続ける。はっきりいって残ってほしくないデータまで......そういう時代の入り口にわたしたちは来ているのである。
 

2008年1月16日

隠居、ネット時代の「知的生産の技術」を考える?:発見の記録

 このエントリーは、私の同年代ではパソコン恐怖症で、いまだに昔の情報整理にこだわっておられる方も多いので、死ぬ前に、革命が起こっているネット時代を覗いてみたらという気持ちで書いている。パソコンを使いこなしておられる方には、別に新しい話でもないので、どうぞ退室していただきたいと思う。

 このエントリーは、ネット時代の「知的生産の技術」を考える?」の続きである。なんとなく、しょうもないことを始めたといささか後悔をし始めているが、自分自身の記録と思って、オブリゲーションなしに続けることにする。

 梅棹忠夫の「知的生産の技術」の前半では、
  1. 発見の手帳
  2. ノートからカードへ
  3. カードとその使い方
  4. きりぬきと規格化
  5. 整理と事務
と手帳、ノート、カード、ファイルなど、知的生産における装置(ツールという表現をした方がいいのかもしれないが)を取り上げている。

  新しい情報の生産を知的生産というのなら、そのための素材がなければならない。その素材は、「あらゆる現象に対する、あくことなき好奇心、知識欲、包容力」で発見したことがらである。それらを素早く記録するためのツールとして、京大型カードにたどりついたとある。手帳→ノート→カードの進展型で京大型カードとなった。

 私も長続きはしなかったが、京大型カードを使った記憶がある。私が勤めていた会社の研究所でも、これに似たカードが採用されていた。それは、化合物のデーター・ベースみたいなもので、カード1枚1枚に亀の甲が特殊なタイプライター・ヘッドを使って、プロのタイピストが打ったものである。偉大なる労力を使っていたのだ。今でも、この分野は特殊なソフトが使われているようだが、3Dのグラフィックで立体的に表示されるようになっているようだ。

 それは兎も角として、「知的生産の技術」では、この部分に、かなりのページ数を割かれて記述されている。

 何かを発見をしたときにその場で文書を書くには、今ならケイタイで文書をつくり自分のPCにメールで飛ばすことができそうだ。1993年発刊の野口悠紀雄の『「超」整理法』は、「知的生産の技術」が発刊されてから24年目の、いわば「知的生産の技術」の焼き直し版である。その中に「持ち歩き端末」(p.191) が便利であるとある。それから、14年しか経ていないが、この世界はどんどん進化しているのである。そう言えば、WorkPad が流行ったこともありましたね。引き出しの奥になぜか、2台が眠っている。

 最近のケイタイには、解像度の高いデジカメまで付いている。それに不満なら、ちいさなコンデジ( Compact Digital Camera)をポケットに忍ばせておけばよい。とにかく、素早くデジタル化しておくのがいいのではないだろうか。受信したメールを Notepad か何かに copy & paste して、野口悠紀雄の『「超」整理法』にあるように、時系列にデジタル・ファイル化しておけば、後の活用に生きてくる。デジタルの世界になって、あきらかに整理の方法が変革したのだ。

 京大型カードで工夫された点は、あとで整理をしやすくすることである。これも、梅棹さんがいう「発見」をデジタル化しておけば、カード時代に苦労されたこと(複写であるとか、グループ化など)が簡単にできる。

 「知的生産の技術」P63 では、カードも多くなれば持ち運びが大変ということを書いておられる。P56 にあるカードの絵をもとに1枚あたりの情報量を計算すると、カード一杯に書いても文字数は300文字くらいだから、漢字1文字は、2バイトの情報量なので 600文字×2バイト=1200バイト(約1.2KB)である。
 今、¥3000たらずで売っている1GBのUSBメモリーにカード 90万枚ちかく(1GB=1024MBx1024KB=1,048,576KB ÷1.2KB=873,813 )の情報量が入ることになる。しかも、まだムーアの法則は健在だから、情報を蓄積する技術は、創り出される情報量を十分吸収できるのだ。

 第4章では、切り抜きと写真の整理について書かれている。切り抜きは、インターネットでほとんどの情報が得られる今でも、情報を集める有効な方法であろう。ただ、今ではスキャナーという便利な機械を使えば、わざわざスクラップ・ブックを作らなくても、デジタル・ファイル化することができる。おまけに、スキャンした情報が新聞のようなものであれば、OCRソフトがあるから、イメージデータを文字データに変換することもできる。私も、仕事をしていた7?8年前くらいから新聞・雑誌などでとっておきたい情報は切り抜かずスキャナーして、「読んでココ!」というOCRソフトで 、テキスト・デジタル化していた。最近では、OCRソフトの識字率も非常に向上し、自動化も進んでいるようだ。
  例えば、2003年7月9日の日経新聞の記事は、テキスト・デジタル化したものをHTMLで表現したものである。スクラップ・ブックに貼っていたら、とっくに捨てていただろう。デジタル・ファイルだから、パソコンの片隅に残っている。

 「知的生産の技術」の P75 あたりには写真整理の話が出てくる。もちろん、銀塩写真である。今、写真を銀塩フィルムで撮る人はよほどのマニアか、よほど時代に遅れている人しかいないだろう。今や写真はデジタル・ファイルであるから蓄積は他のデータファイルと変わらない。Google が提供する Picasa2 のようなソフトを利用すれば、写真の整理が簡単にできるし、修正できたり、CDに焼いたりできる。

 第5章では、蓄積した資料の整理の方法を述べておられる。ちょっと余談であるが、その中に、「整理」と「整頓」とは違うという以下のようなくだりがある。
整理というのは、ちらばっているものを目ざわりにならないように、きれいにかたづけることではない。それはむしろ整頓というべきであろう。ものごとがよく整理されているというのは、みた目にはともかく、必要なものが必要なときにすぐとりだせるようになっていること、ということだとおもう。

 詳しく書くと家庭内争議になるので書かないが、家内といつももめるのはこのことである。

 この章には、それこそ物理的なファイリング・システムについても説明されているが、今の時代では自分で集めた資料は 100% 近く、パソコン (Personal Conputer) のディスクに保存される。Windows の検索機能を使えば、すぐさま、ありどころを教えてくれる。それでも、梅棹さんが説くように、それぞれの情報の「あり場所」は決めておいた方がよいようだ。これだけ Hard Disk が安くなれば、文書用ディスク、スクラップ用ディスク、写真用ディスクと分けておいた方がいいかもしれない。USBで接続できる外付けのポータブル・ディスクであれば、場所もとらないし、持ち運びだって簡単である。

 次回には、第6章以降の「読書」とか「手紙」などに関する知的生産の技術について、ネット時代の今ならどうなのかを考えてみたい。

  
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5 整理法までをも整理してしまった本
3 整理のポイントは使用頻度

2008年1月 3日

隠居、ネット時代の「知的生産の技術」を考える?

 1969年に初版がでた梅棹忠夫の「知的生産の技術」は、まだかなり売れているようである。 引退したときに持っていたビジネス関係の書籍はほとんど処分したが、この新書はまだ本棚に残っていた。
 セピア色に変色したこの本を引っ張り出してきたのは由がある。最近読んだ梅田望夫の「ウェブ時代をゆく」の第五章「手ぶらの知的生産」冒頭に、この本が3ページを割いて紹介されていたからである。
 知的生産ということばを作った梅棹さんは、知的生産を以下のように説明する。
知的生産とよんでいるのは、人間の知的活動が、なにかあたらしい情報の生産に向けられているような場合である、とかんがえていいであろう。この場合、情報というのはなんでもいい。知恵、思想、かんがえ、報道、叙述、そのほか、十分ひろく解釈しておいていい。つまり、かんたんにいえば、知的生産というのは、頭をはたらかせて、なにかあたらしいことがら―情報―を、ひとにわかるかたちで提出することなのだ、くらいにかんがえておけばよいだろう。この場合、知的生産という概念は、一方では知的活動以外のものによる生産の概念に対立し、他方では知的な消費という概念に対立するものとなる。

 あさはかな知恵を働かせながら続けている私のブログにも、1日100人以上の方が訪ねてくれるようになった。アクセス解析サービスの Artisan で内容を見ると、やはり How to 的なエントリーへの訪問が多いようである。訪問して、「なーんだ、つまらん」と帰る人がほとんど思うが、いくらか役に立っている部分もあるのかもしれない、と考えると、ひろい解釈で知的生産をしているのかもしれない。 現在のネット時代を背景に読み返してみると梅棹さんが苦労して作り上げられた知的生産の技術が、パソコンの前に座るとほとんどのものが容易に手に入るようになっている。だが、知的生産の意義そのものはまったく変わらない。
 今更、知的生産を目指すような歳ではないが、私にとってはブログは公開日記と思っているので、梅棹さんが日記を航海日誌(英語では、log ですね)的とする次のような考え方と合致する。
日記というのは要するに日づけ順の経験の記録のことであって、その経験が内的なものであろうと外的なものであろうと、それは問題でない。 日記に、心のこと、魂のことをかかねばならないという理由は、なにもないのである。(p.163)

 ブログを続けることに、この本で勇気をもらった。梅田望夫さんも先の本で触れておられるように、
個人が、しらべ、読み、考え、発見し、何か新しい情報を創出し、それをひとにわかるかたちで書き、誰かに提出するまでの一連の行為(「ウェブ時代をゆく」 p.146)
である「知的生産」の仕方を、40年前の「知的生産の技術」を、今のネット時代で実施するとどのようななるのかを、浅薄な知識は承知の上でシリーズで模してみたいと思う。それが、どんな意味があるのというようなことは問わないで欲しい。なにしろ隠居日記に書いておきたいだけだから。

知的生産の技術
知的生産の技術 (岩波新書)
梅棹 忠夫
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