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2018年6月 8日

読書日記「完本 春の城」(石牟礼道子著、藤原書店、2017年刊)


完本 春の城
完本 春の城
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石牟礼 道子
藤原書店
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 名著「苦海浄土」著者が10数年をかけて「島原の乱」を取材した旧題「アニマの島」(1999年刊)が、取材紀行やインタビュー、解説などを入れた完全版としてよみがえった。900ページを超える大作である。

 島原の乱は、江戸時代初期に起きた、過去最大の一揆だ。歴史的に「藩の圧政に苦しんだ百姓、浪人が起こした」一揆という見方と「迫害に耐えかねたキリシタンが起こした」という説があるが、著者が描くのは飢饉と圧政に苦しみながらも信仰を守ろうとするキリシタンが主役である。

 益田四郎時貞(天草四郎)が15歳の元服を迎えた日。四郎は、父甚兵衛らにある覚悟を打ち明けた。

 
「イエズス様の踏まれし道を踏まねばなりませぬ。・・・わたくしには、山野や町を灼きつくす炎が見えまする。その劫火をくぐらねば、真実の信心の国に到ることはできぬのではござりますまいか」
 二人の大人は、今何を聞いたかといった表情で黙りこんだ。ややあって、甚兵衛が遠慮がちに問うた。
 「そなた、その劫火とやらにわが身を焼くつもりか」
 少年は固くまなこを閉じ、一筋の涙が頼を伝った。


   父に言われて、ある村を訪ねた時、人々の心を統べる気持ちだったのだろうか。四郎は、留学先の長崎で学んだ奇跡(魔術)を行った。

 
静まり返っている一団の中で四郎はひざまずき、人には聞きとれぬほどな祈りの言葉を口のうちに唱えながらゆっくり立ち上ると、大切そうに皿を抱えている女童の前に立った。それから胸の十字架を外すと掌に持った。瞬きもせぬさまざまの眸がその手の動きに集中した。指の間から光が放射した。長く細いがこの世のものではないように雅びやかに動いて、十字架は女童の額にしばらく当てられ、静かに皿の上におろされた。
 子糠雨を降らせていた雲間がその時晴れ、陽がさした。その瞬間、幼女の両手に抱えられた白い皿の上に、あざやかな朱(あけ)の一点が浮き出てみんなの目を射た。


 
よく見ると早咲きの柘榴の花が一輪、ふるえを帯びながら載っていた。女童が持っていたのは、一家心中を図った家の男の子・次郎吉が使っていた皿だった。・・・。

 四郎は幼児の耳にそっと囁いた。「次郎やんの魂ぞ、アニマ(霊魂)ぞ。落とすなや」。さらに、6人の子らの掌に一輪ずつ花を載せた。


 四郎の唱えるオラショに和しながら、人々はかって覚えたことのない陶酔に引き込まれた。人々はいつしか四郎に向かって手を合わせていた。

 長雨と日照りが交互に起き、これまでにない凶作が人々を苦しめ続けた。

「わしは一揆する決心にござり申す」
 甚兵衛はひたと二人の目(まなこ)に見入った。伝兵衛父子は喰い入るように甚兵衛を見返している。
 「領主どもをこの天草の地から追い払い、切支丹の国を樹てる所存でござる。デウスの御旗のもと神の軍勢をあらわして、領主どもの米蔵を破り、主の栄光をこの地にもたらす。・・・長い間の切支丹の盟約が試される時が来たと存ずる。わしも切支丹のはしくれ、万民のために十字架に登られし御主の、世にたぐいなき勇猛心を鑑として、全身くまなくおのれを晒し、仁王立ちする覚悟にござり申す」


   
伝兵衛はすりよって甚兵衛の手をつかんだ。
 「甚兵衛どの、獄門、はりつけは覚悟の上じゃ。生くるも死ぬるも一緒ぞ」・・・
 甚兵衛の脳裏を一瞬、来し方のさまざまがよぎった。・・・
 今にしてやっと得心がいった気がする。武士であるとは義に生きるということであったのだ。・・・たとえ行く手に槍ぶすまが待っていようとも、御主キリシト様のごとく、同胞の危難に赴くのが義の道である。


 原城に籠城した四郎の軍勢に、幕府の征討軍が猛攻撃をかけた。

 
十字を切ろうとしている四郎の肩をその時弾丸が撃ち抜いた。おなみがかけ寄り、蒼白になって傷口を縛りにかかった。・・・それは炎上する春の城に浮かんだ一幅の聖母子像であった。・・・。
 闇に沈んでいく城内では、炎上する建物の中に入って次々と自決を遂げる女たちの姿が照らし出された。天も地も静まりかえるような情景であった。


 この大作を書こうと思ったきっかけについて、著者は連載した地元紙などのインタビューに、こう答えている。

 
根っこに水俣病にかかわった時の体験があります。昭和四十六年、チッソ本社に座り込んだ時、ふと原城にたてこもった人たちも同じような状況ではないかと感じました。
 機動隊に囲まれることもあったし、チッソ幹部に水銀を飲めと言おうという話しも出ていた。もし相手に飲ませるなら自分も飲まなければという思いもあって命がけだったけど、怖くはなかった。今振り返ると、シーンと静まり返った気持ちに支配されていたような気がします。それで原城の人たちも同じ気持ちでなかったかと。(一九九八年一月三日、熊本日日新聞)


 「自分も飲もう」と死を覚悟した気持ちが、絶対に勝ち目のない一揆を起こさざるをえなかった人々の思いに重なったのだろうか。

 「島原の乱」の主戦場となった原城跡は、近く世界遺産と認定されることが決まった 長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の1つだが、その城跡には「島原の乱」の遺産が眠っている。

 このブログにも書いたが、「みんな彗星を見ていた 私的キリシタン探訪記」(星野博美著、)という本のなかで、著者は、3万人をこえる「島原の乱」の犠牲者が、発掘もされずに眠っている現状を厳しく糾弾している。

 それは、水俣病に続いて島原の乱の犠牲者を鎮魂しようとした石牟礼道子と同じ視線のような気がする。

2015年8月31日

読書日記「石牟礼道子全句集 泣きなが原」(石牟礼道子著、藤原書店)

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 4大公害病と言われた 水俣病を告発した「苦海浄土」の著者が、40数年にわたってこつこつと詠んできた全句集がでた。

 著者の句集が生まれるまでには、2人の俳人の努力があったことが、この全句集を読み進むとわかってくる。

祈るべき天とおもえど天の病む


 大分県九重町に生まれた俳人、故・穴井太が、新聞の学芸欄でなにげなく、この句を主見出しに採った石牟礼道子の原稿を見つけたのは、昭和48年の夏だった。

 「水俣病犠牲者たちの、くらやみに棄て去られた魂への鎮魂の文章であった」と穴井は思った。

 地中海のほとりが、ギリシャ古代国家の遺跡であるのと相似て、水俣・不知火の海と空は、現代国家の滅亡の端緒の地として、紺碧の色をいよいよ深くする。たぶんそして、地中海よりは、不知火・有明のはとりは、よりやさしくかれんなたたずまいにちがいない。


 
 そのような意味で、知られなかった東洋の僻村の不知火・有明の海と空の青さをいまこのときに見出して、霊感のおののきを感じるひとびとは、空とか海とか歴史とか、神々などというものは、どこにでもこのようにして、ついいましがたまで在ったのだということに気付くにちがいない。


穴井は、こう思った。

「『神々などというものは、ついいましがたまで在った』という石牟礼道子さんの思いの果てが、やがて断念という万斛(こく)の想いを秘めながら『祈るべき天とおもえど天の病む』という句へ結晶していった」

穴井は、九重高原・涌蓋(わいた)山の山麓にある、通称「泣きなが原」という草原での吟行に石牟礼を誘った。

死におくれ死におくれして彼岸花


三界の火宅も秋ぞ霧の道


死に化粧嫋嫋(じょうじょう)として山すすき


前の世のわれかもしれず薄野にて


そのとき高原は深い霧につつまれ、深い闇につつまれていた。

  穴井は、この後、断わりもせずに作った石牟礼の句集「天」の編集後記に、こう書いた。

「裸足になって歩き出した石牟礼さんを、『泣きなが原』のお地蔵さんが、しきりに手招きしていたようだ」

 2015年2月。女流俳人で、日経俳壇の選者でもある黒田杏子(ももこ)は、東京で開かれた「藤原書店二五周年」会に招かれ、会場に並べられている石牟礼の対談集を求め、会場の一隅で一挙に読了した。

 
 これまで人間が長年かけてつくりあげてきた文明は、結局、金儲けのための文明でしかないようです。いま日本では、金儲けが最高の倫理になっておりますが、それをふり捨てて、もっと人間らしい、人間の魂の絆を大切にする倫理を立て直さなければ、いまの文明の勢いを止めることはできません。


 この後、黒田杏子は、藤原書店の社長に「句集『天』はまぼろしの名句集となっています。石牟礼さんの全句集を出して下さい」と直訴した。二日後、発刊決定の電話があった。

 黒田は、石牟礼の句のなかでも、「「祈るべき天とおもえど天の病む」に並んで、次の句が心に沁む、という。

 
さくらさくらわが不知火はひかり凪


 石牟礼が84歳の誕生日を迎えた、5年前の3月11日。地震と津波が東北を襲った。

 石牟礼は、水俣と同じことが福島でも起こる。「この国は塵芥のように人間を棄てる」と思った。

 
毒死列島身悶えしつつ野辺の花