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2012年10月17日

旅「東北・三陸海岸、そしてボランティア」(2012・9・30―10・6)・下



 大船渡市市赤崎町に住む金野俊さんという元中学校の校長先生に出会った。

 話しているうちに、金野さんの口からこんな言葉が飛び出した。「私は、日本人とは思っていません。 縄文人 弥生人が"和合"した子孫です」

 金野さんの話しは、東北・ 蝦夷征伐の英雄、 坂上田村麻呂と蝦夷(アイヌ)の指導者、アテルイの抗争と和解にまで及んだ。

 東北の地は1万年に及ぶ縄文文化にはぐくまれてきた土地であることに気づかされた。

 大船渡港に入るさんま漁船などが目標にするという尾崎三山。その南端の岬にある 「尾崎神社」に行ってみた。縄文人の流れをくむアイヌが神事に使う 「イナウ」に似たものが宝物として納められている、という。海岸の鳥居を抜け、揺拝殿までの境内は、このブログでもふれた 中沢新一の「アースダイバー」に書かれた縄文の霊性の世界。そんなパワー・スポットだった。

 たった3日間だけだったが、 カリタス大船渡ベース「地ノ森いこいの家」 で御世話になりながらのボランティア活動中も、縄文の昔からの「地の力」とそこで震災と闘い続ける「人の力」を不思議な思いで受けとめた。

 大船渡ベースは、カトリック大阪管区が管轄しており、管区の各教会の信者が交替でボランティアに来ているが、東京などから週末の連休を利用して来る若いサラリーマンも多い。

 初日の3日は、牡蠣の養殖をしている下船渡の漁場で、舟のアンカーや養殖棚の重しに使う土のう作り。60キロ入りの袋に浜の小石を詰め、運ぶ作業はけっこうきつい。軽いぎっくり腰になったのには参った。
 午後は、仮設住宅の草抜きをしていた女性グループと合流、堤防のすぐ後ろにある漁師の方の住宅跡の草抜き。腰をかばうのか、反対の膝まで痛くなり、裏返したバケツに座って作業をする始末。まさに「年寄りの冷や水」

 2日目は、漁師さんたちが住む末﨑町・大豆沢仮設住宅へ。倉庫を作る資材を運び上げたが、すぐれ(時雨=しぐれ)が降りだし、台風も近付いているというので、作業は中止。仮設の集会場で、仮設に住む人たち(老人が多い)の世話をする支援員の人たちと「お茶っこ(お茶飲み会)」。パソコンの写真を見せがら津波直後の話しがほとばしるように出てくる。瓦礫の山を避けて、山によじ登りながら家族や知り合いを必死に探した、という。
 午後はベースに帰り、リーダーの深堀さんが買ってきた材料キットで仮設の住民が使うベンチ作り。これも慣れない作業だったが、比較的短時間で完成し、皆でバンザイ。

 3日目は、再び大豆沢仮設住宅で、再度、倉庫造りに挑戦した。といっても、仮設住宅支援員の永井さん、志田さんの指示に従って砂利土を掘り下げてコンクリートの土台を埋め、床材を組み、支柱を打ち込み、床にベニア板を張る・・・。電動ドライバーの使い方にやっと慣れたころ、その日の作業は終了となった。

 午後の「お茶っこ」の時間に、女性支援員の村上さんが「最近ゆうれいが出る、という話しをよく聞く・・・」と言いだした。男たちは「そんなバカな」と笑いとばしたが、まだ行方不明になっている親類や知人を抱えている人は多い。「ここは多くの方が亡くなられた鎮魂の土地なのだ」と、改めて気づかされた。

「大船渡魚市場」でサンマの仕分けをしていた 鮮魚商「シタボ」の村上さん(61)は、末﨑町の家と店舗を流された。テント張りの店を再開しながら、近くの仮設住宅に来るボランティアやNPOの世話役も買って出ている。たくましい笑顔を絶やさない人だったが、津波でスーパーに勤めていた24歳の娘さんを亡くしたことを、他の人から聞くまで一言ももらさなかった。

元中学校長の金野さんが、ホテルに1枚のDVDを届けてくれた。
 地元の新聞社「東海新報社」が、社屋近くの広場から津波が襲ってくる様子を撮影したものだった。「湾内から脱出できず、転覆して亡くなった方の船も映っています。その場面では手を合わせていただければと思います」。そう書かれた手紙が添えられていた。

 「いこいの家」に常駐しているシスター(カトリックの修道女)の野上さんから「ここに来た若い方がたは、不思議に変わって帰られます」という話しをきいた。
  「ああ、アウシュヴィッツにボランティアとして来るドイツの高校生と同じだな」と思った。

 私も、少しは変われたろうか。縄文時代から培われた「地と人の力」、そして「鎮魂の思い」に揺り動かされ続けたたったの1週間だったが・・・。

 ※参考にした本
 ▽ 「白鳥伝説」 (谷川健一著、集英社刊)
 東北には、白鳥を大切にする白鳥伝説が伝えられている。その伝説を探りながら縄文・弥生の連続性を探った本。大船渡「尾崎神社」にもページを割いている。

 ▽「東北ルネサンス」(赤坂典雄編、小学館文庫)
 東北学を提唱している 赤坂典雄の対談集。
 このなかで、対談者の1人、 高橋克彦は「蝦夷は血とか民族ではなくて、・・・東北の土地という風土が拵(こしらえ)るもの」と話している。
 同じ対談者の1人の 井上ひさしは、岩手県に独立王国をつくる 「吉里吉里人」という小説を書いた意図について「我々一人ひとり、日本の国から独立して自分の国をつくるれぞということをどこかに置いておかないと、また兵隊をよこせ、女工さんをよこせ、女郎さんをよこせ、出稼ぎを言われつづけける東北になってしまうのではないか」と書いている。
 「原発の電気をよこせ」の一言は書かれていない。

尾崎神社;クリックすると大きな写真になります 鮮魚商の村上さん;クリックすると大きな写真になります 大船渡魚市場;クリックすると大きな写真になります
森閑とした尾崎神社。市内には、国の史跡に指定された縄文時代の貝塚も多い サンマの仕分けをする鮮魚商の村上さん。今年は、三陸沖の水温が高く、北海道産しか、あがっていない カモメが群れ飛ぶ大船渡魚市場。市場が古くなり、新市場を隣に建設中だが、完成まじかに震災に見舞われた
地ノ森いこいの家;クリックすると大きな写真になります 60キロの土のう;クリックすると大きな写真になります 仮設住宅の倉庫作り作業;クリックすると大きな写真になります
「地ノ森いこいの家」。ボランティア男女各8名が2食付き無料で泊れる 60キロの土のうを計66個。いや、きつい! 仮設住宅の倉庫作り作業。電動ドライバーも、慣れた手つきで?


付記・2012年11月21日

 ▽読書日記「気仙川(けせんがわ)」(畠山直哉著、河出書房新社刊)

 岩手県陸前高田市出身の写真家である著者が出した写真集。

 ちょうど、陸前高田市の隣の大船渡市のボランティアに行く準備をしていた9月中旬。 池澤夏樹の新聞書評でこの本のことを知り、図書館に購入申し込みをし、先週借りることができた。

 不思議な迫力で迫ってくる本である。前半は、著者が「カメラを持って故郷を散歩中にふと撮りたくなった」カラー写真が続く。
 ところが、ページの上半分は空白。下半分に載った風景は、もう見ることができない三陸の普通の風景・・・。戦慄が走る。

 写真の合い間に、著者が家族の安否を確認するためオートバイで故郷に向かう文章が挟み込まれている。これも、上半分は空白である。

「いまどこ?」「山形県の酒田。雪で進めなくて」「あたしは角地(かくち)。これから母さんと姉さん捜しに行くから」「え、一緒じゃないの?」「なに言ってるの」「だって避難者名簿に出てたんだから、末崎の天理教に三人一緒にいるつて」「宗教なんて信じちゃ駄目よ」「いやそうじやなくて」「後ろに待ってる人がいるから、じやあね」。あ、待って、切らないで。くそったれ。じゃあ、あれは存在する結果ではなかったのか。固い床の上で寄り添って、毛布を被っている三人なんて、いなかったというのか。あの情景を、いまさら僕の頭から消せというのか。


 真白な1ページをはさんで、写真は一変する。空白はない。

 津波が引き上げた跡の陸前高田市。瓦礫が積み重なり、民家の屋根だけが残り、杉林に自動車の残骸が押し込まれ、陸橋が浜辺の砂に埋まっている。

 これは、同じ場所の写真なのだろうか。この10月に見ただだっぴろい平野にコンクリートの建物と民家の土台だけが残っていた陸前高田市。

 しかし、行った時には切り倒されていた一本松も、大きな水門も、「幽霊が出る」といううわさが消えないホテルも、橋が流出して渡れなかった気仙川も、確かに写っている・・・。

 写真集の後半部には、文章はない。

「あとがきにかえて」には、こう書かれている。

あの時僕らの多くは、真剣におののいたり悩んだり反省したり、義憤に駆られたり他人を気遣ったしたではないか。「忘れるな」とは、あの時の自分の心を、自分が「真実である」と理解したさまざまを「忘れるな」ということなのだ。


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2012年6月12日

読書日記「サラの鍵」(タチアナ・ド・ロネ著、高見浩訳、新潮社クレスト・ブックス)



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  この本が原作の映画は数カ月前に見た。友人から借りて、長い間サイドテーブルに積んだままだった 原作を読んだのは、このゴールデンウィークにポーランドのアウシュヴィッツを訪ねた後だった。

 映画は、第23回東京国際映画祭で監督賞、観客賞をW受賞するなど評価が高かったようだ。ただ、 「イングリッシュ・ペイシェント」でアカデミー主演女優賞にノミネートされた クリスティン・スコット・トーマスが演じる米国人の女性ジャーナリスト・ジュリアの役割をもう一つ理解できないで終わっってしまった。ユダヤ人少女サラが生きた第二次世界大戦の時代と、ジュリアが生活している現代という2つの時空が交錯するストーリーにいささか戸惑ったせいかもしれない。

 しかし、この本を読んでみると、ジュリアの悩みや生きざま、視点が目や心に焼きついてくる。これは、先日のアウシュヴィッツ体験の結果だったようにも思える。ジュリアが繰り返した「ただ、伝えたい。決してあなたをわすれはしないと」という言葉を、あの場所でも聞いたような気がしてきて・・・。

 この小説はフィクションだが、フランス・パリで起きた1つの史実が軸になっている。

 フランスがナチス・ドイツの占領されていた親ナチスの ヴィシ政権(1940-1944)下で起きた「ヴェルディヴ事件」は、半年ほど前に見た映画「黄色い星の子供たち」の主題でもある。

 映画「サラの鍵」のパンフレットに、 渡辺和行・奈良女子大学教授の小エッセイが載っていた。

フランスは1942年、パリを中心にユダヤ人の一斉検挙に踏み切った。検挙の主役はフランス警察や憲兵で、パリを占領していたドイツ軍の姿はなかった。約13000人が逮捕され、うち家族連れ8000人がパリ郊外の自転車競技場「ヴェルディヴ」に収容された。食糧、水不足で病人も出るなか、数日後にはアウシュヴィッツに移送、子供たちはそのままガス室に送り込まれた。フランスからユダヤ人を乗せた移送列車は計74回、7万6000人を運んだ。


 シラク大統領が「時効のない負債」とフランス政府の責任を認めたのは1995年7月16日。53年前の一斉検挙と同じ日だった。「ヴェルディヴ」跡地に建てられた記念碑には「道行く人よ、忘れるな!」と刻まれている。


 1942年のその日、10歳のユダヤ人少女・サラは、住んでいたアパート来た警官に両親とともに連行されるが、すぐに戻れると信じて怖がる弟を秘密の納戸に隠して鍵をかける。「なんとか、弟を助けなければ」という一念から収容所を脱出したサラは、住んでいたアパートにたどり着くが・・・。

 パリ在住のアメリカ人を対象にした雑誌に勤務していたジュリアは、編集長から「ヴェルディヴ事件」の取材を命じられ「正真正銘のフランス国民だったユダヤ人を、フランス政府自身が迫害していた」事実に衝撃を受ける。

 取材を始めたジュリアは、収容所に送られたはずのサラと弟が行方不明者として名簿にないことをつきとめる。サラ探しを始めたジュリアは、驚くべき事実に直面する。

 ジュリアが愛する夫と引っ越そうとしていたサントンジュ通りアパート。夫の祖母から譲り受けたものだった。
 「そこに、かってサラが住んでいた」・・・。

「あの女の子」(義父の)エドウアールはくり返した。奇妙な響きを帯びた、くぐもった声で。「あの女の子はな、もどってきたんだ。サントンジュ通りに。わたしはそのとき、まだ十二歳の少年だった。でも、忘れられない。この先も忘れられないだろう、サラ・スタジンスキーのことは」


サラと少年(義父)は、納戸の奥で「膝を抱いてまるくなって・・・すっかり黒ずんで、眼鼻立ちもくずれた」小さな人間の塊を見た。サラは「ミッシェル」と絶叫した。


   ジュリアは、収容所から脱出したサラをかくまった老夫婦の孫・ガスパール・デュフォールに会うことができた。

 サラの行方を知りたいと懇願するジュリアに、デュフォールは鋭い眼を向けて何度も尋ねた。「それを知ることが、なぜあんたにとってそれほど重要なのだ。・・・アメリカ人のあんたに」

 
わたしは答えた、サラに伝えたいんです。わたしはいまも彼女のことを思っている。わたしたちは忘れていない、と。・・・


   
「わたし、自分が何も知らなかったことを謝りたいんです。ええ、四十五歳になりながら、何も知らなかったことを」


   サラは1952年の末にアメリカに渡っていた。そして、結婚して子供までもうけながら、自動車で立ち木に激突して死去していた。自殺だった・・・。

 ジュリアは、45歳で恵まれた子供を産むことに反対された夫と別れ、ニューヨークに住むことになった。

 生まれた子供を「サラ」と名付けた。

 
他の名前など、考えられなかった。この子はサラ。私のサラ。もう一人の、別のサラの谺(こだま)。あの黄色い星をつけた、私の人生を根底から変えた少女の谺。