検索結果: Masablog

Masablogで“イサム・ノグチ”タグの付いているブログ記事

2011年1月17日

読書日記「イサム・ノグチ 宿命の越境者 上・下」(ドウス昌代著、講談社文庫)



イサム・ノグチ(上)――宿命の越境者 (講談社文庫)
ドウス 昌代
講談社
売り上げランキング: 12240

イサム・ノグチ〈下〉―宿命の越境者
ドウス 昌代
講談社
売り上げランキング: 20891


 このブログにも書いたが、昨年末に見た映画「レオニー」が、年が明けても尾を引いている。

 映画を見終えてすぐ、1階下の書店で表記の文庫本2冊を買った。日系2世のアメリカ人彫刻家、イサム・ノグチの詳細なドキュメンタリー伝記だ。読み終えて、この人最後の作品となったモエレ沼公園 をどうしても見たくなった。先週末、神戸空港からANA便に乗り、大雪の札幌に向かった。

 札幌郊外にあるこの公園は、海に近いだけ市街地より雪が多いらしい。JR札幌駅下の地下鉄で3駅、そこから約30分バスに揺られ、降りたバス停から方向も分からなくなるほど降る雪の中を約20分。やっと、この公園のシンボルである「ガラスのピラミッド」(愛称・HIDAMARI)に飛び込んでひと息ついた。

 事前に問い合わせたとおり、イサム・ノグチが長年温めていた構想がやっと実現した「プレイマウンテン(遊び山)」も、公式の地図にもちゃんと載っている札幌一低い人工の山「モエレ山」(標高62メートル)も雪ですっぽりおおわれていた。

 そのモエレ山で、子どもたちが喜々としてソリ遊びをし、カラマツの森の周りをスキーで歩いている人がいる。広い公園の雪の下には、ノグチが「閑(レジャー)を大切にする」というコンセプトでデザインした遊具や、サンゴに囲まれた池、噴水からの水が流れる運河が春まで眠っている・・・。

 ノグチ自身が「HIDAMARI」2階のギャラリーに置かれた映像施設で語っていた「地球そのものを彫刻する」という世界観をしっかりと実感できた雪見行だった。

 イサムは、日本人詩人・野口米次郎とアメリカ人の教師でありジャーナリストのレオニー・ギルモアの間で1904年にニューヨークで生まれた。2歳の時に母とともに来日するが、米次郎にはすでに日本人の妻がいた。イサムは生涯、私生児として生きた。

 《「バカ」「ガイジン」と毎日、罵られた。アイノコなのが、ただの外人よりよくないとされた。なぜだかよくわからずに、でも自分だけが他の子供たちの世界に属せないのを意識させられた》


 《結局、ぼくのような生まれには、帰属問題がつねについてまわる。それが問題とならないのは芸術の世界しかない。・・・芸術家には自分しかない。一人だけで何かを作りあげていく、孤独な世界だ。孤独の絶望からこそ、芸術は生まれる》


 19歳の時、母親に勧められて医学校を辞め、グリニッチ・ヴィレッジの近くにある美術学校に入る。校長は「初対面で、イサムのけた外れな天分を直感した。ミケランジェロの再来だと思った」

 イサムは雑誌インタビューで「創造の源泉となった力は?」と聞かれて《怒り》と答えている。
 《絶望と闘争ともいえる怒りだ。闘争こそ創造を刺激する源だ》


 彫刻家をめざしたとき、イサムを奮い立たせた怒りの根源には、父親米次郎の姿がある。自分に日本の国籍をあたえなかった父親への行き場にない愛憎が、イサムの野心に火を放つ。無断でノグチ姓を選ぶことで、自分の権利としての「日本人」を主張した。父親の姓を名乗ることで、イサムは自分の内部ではげしく燃える炎を、逆に生きるエネルギーに置き換えようとした。


 イサム・ノグチの作品を生みだす、もう一つのエネルギーは、その豊潤かつ怒涛のような女性遍歴だったのかもしれない。

 著者は、イサムが愛した女性たちをくわしく記述している。画家、舞踏家、女優、美術評論家、作家、インド・ネール首相の姪ナヤンタラ・・・。メキシコの画家、フリーダ・カローラと密会しているのを夫のリベラに見つかり「屋根越しに逃げるイサムをリベラがピストルを手に追いかけた」。そして、女優山口淑子との結婚と離婚。

 イサムが京都にくれば顔をあわせた佐野藤右衛門は、イサムの作品の「色気」に感心して、あるとき「あんないい色、どこから出すんや」と尋ねた。「このおなごから」とイサムは真顔でそのとき一緒にいた若い女性を指さした。


 数多くの彫刻、庭園設計で評価を高めていったイサムは、しだいに《石に取りつかれて》いく。

 石の本性は重さにある。重力と闘うのは「離れ業」である。・・・最も深遠な価値は各材料本来の性質のなかにこそ見出されるべきだ。いかにして、これを壊すことなく変貌せしめるか!》


倉敷・大原美術館の庭園にあるイサム作品;クリックすると大きな写真になります
昨年末に訪ねた倉敷・大原美術館の庭園にあるイサム作品、「山つくり」とあった
 現在、アメリカ美術界でイサム・ノグチという日本名をもつ彫刻家について語られるとき、「ノグチの本領」として評価されるのは、晩年の約二十年間に制作した石彫である。「彫刻に自然を取り入れた」とも評されるユニークな石の彫刻は、すべて牟礼の仕事場で制作されたものである。


 石工からスタートしてイサムに育てられた彫刻家、和泉正敏との出会いである。

 高松市牟礼にある「イサムノグチ庭園美術館」、ニューヨーク・ロングアイランド市の「the Noguchi museum」・・・。「イサム・ノグチへの旅」を続けたい思いがつのる。

▽参考にしたWEBページ 「ISAMU NOGUCHI PRIVATE TOUR」

ガラスのピラミッド;クリックすると大きな写真になりますモエレ山;クリックすると大きな写真になりますイサム作の黒御影の滑り台;クリックすると大きな写真になります北海道神社;クリックすると大きな写真になります
モエラ沼公園のシンボル「ガラスのピラミッド」は、半分雪に埋もれていたピラミッドから見たモエレ山。午後から雪もやみ、雪遊びの人々が増えた札幌・大通り公園にあるイサム作の黒御影の滑り台。雪まつりの準備で、立ち入り禁止だった最終日に訪ねた北海道神社。第二鳥居の前にあるフレンチの「モリエール」でランチを堪能、前日夜は南3条の「oggi」でイタリアンを。同行3人がプレゼントしてくれた思いもよらない古希記念の"口福"


2010年12月17日

読書日記「「忘れても、しあわせ」(小菅もと子著、日本評論社刊)、「寂寥郊野」(吉目木晴彦著、講談社刊)、「ターニングポイント」(松井久子著、講談社刊)

忘れても、しあわせ
忘れても、しあわせ
posted with amazlet at 10.12.17
小菅 もと子
日本評論社
売り上げランキング: 96150

寂寥郊野 (講談社文庫)
吉目木 晴彦
講談社
売り上げランキング: 343543

ターニングポイント-『折り梅』100万人をつむいだ出会い
松井 久子
講談社
売り上げランキング: 272146


きっかけは、友人Mに誘われて先日見に出かけた映画「レオニー」だった。

 世界的な彫刻家、イサム・ノグチ の母、レオニー・ギルモアの生涯を描いた作品だが、松井久子監督、「ユキエ」折り梅」に続く3作目の作品だという。

 「ユキエ」はテレビの再放送で何度か見ていたが「折り梅」は知らなかった。DVDチェーンのツタヤにもなかった。大手映画館を通さない自主鑑賞会で100万人を越える観客を動員した作品らしかった。あきらめていたら、今月はじめ、たまたま芦屋市が人権週間の催しで「折り梅」の上映と松井監督の講演会を催すことを知って出かけた。

表題、最初の「忘れても、しあわせ」 は、その映画折り梅」の原作だ。

 夫と2人の子どもと暮らす平凡な主婦・もと子が義母と同居を始めた直後から、義母の認知症(痴呆)が始まる。

 「私の自由を奪ったあんたを殺してやりたい。私の胸の内がわかるか。心に突き刺さっている。私はあんたの胸を突き刺して殺してやりたい」
 泣きながら向かってきた。手に持っていたヘヤーブラシを私に投げつけ、
 「首をしめてやりたい」と両手を私の首に回した。


 絵画教室に通い出したことが、救いだった。
 「やるじゃん!」義母が描いているのをはじめて見ての私の偽らざる感想だ。淡いブルーと茶系の貝がひっそりと並んで、うまいなーーと思った。


 しかし、義母の暗さは治らない。
 口から出るのは、ためいきと「何のために生きているのか。私はあやつり人形だ」という言葉。


 仏壇の数珠がない。財布がない。「あんたたちがとった」。お菓子の盗み食い、徘徊・・・。

 旅行先の自然の中の義母の表情は、あまりに自然だった。
 「そうだ、治そうと思うのでなく、今できること、感じることをそのまま私が受け止めればよいのだ。・・・「母になろう」。そう決心する


 義母・マサ子さんは、大きな公募展「東美展」に入選、個展を開くまでになり、おだやかな日々が訪れた。たくさんの人に支えられた結果だった。

著書には、マサ子さんが絵を書いておられる様子や個展風景の写真があるが、ご本人の描かれた絵は載っていない。

しかし、映画「折り梅」の公式サイトのなかに、ちゃんとマサ子さんのコレクションがたっぷりと掲載されている。映画のように画像が鮮明でないのは、ちょっと残念だが・・・。

マサ子さんは、006年10月、90歳で亡くなった。最後まで人としての尊厳を重んじた医療を受け、たくさんの人や自分が描いた作品に囲まれての最後だった、という。

第1作、「ユキエ」の原作である「寂寥郊野」は、平成5年上半期の芥川賞受賞作品。

朝鮮戦争で来日した米国人のリチャードと結ばれた幸恵は、30年過ごしたルイジアナ州バトンリュージュで、突然アルツハイマー病に見舞われる。老いる2人が直面する"寂寞"感が胸を打つ。

この「寂寥郊野」という表題からは最初、なにかおどろおどろしい印象を受けた。
しかし読んでみて、米国。ミシシッピー河西岸に「ソリテュード・ポイント」という農作地帯があり、「寂寥郊野」はその邦訳であることを知った。この地で起こった農薬汚染問題が、この老夫婦を悲劇へと追い込んでいく重要な伏線になっている。

 ユキエは、訪ねてきた息子たちに言う。 
「つまり父さんは、私のこの状態を何か不当なことだと思っているのね。・・・でも、私は人間というものは、そんな具合にできていないように思うのよ・・・」


当時の芥川賞選者の1人、古井由吉は、こう選評している。
 今回はまっすぐに、吉目木晴彦氏の「寂寥郊野」を推すことができた。落着いた筆致である。急がず迫らず、部分を肥大もさせず、過度な突っこみも避けて、終始卒直に、よく限定して描きながら、一組の老夫婦の人生の全体像を表現した。なかなか大きな全体像である。しかも、たっぷりとした呼吸で結ばれた。主人公夫妻の、意志の人生が描かれている。このことは私にとって妙に新鮮だった。


 「ターニングポイント 『折り梅』100万人がつむいだ出会い」は、3つの映画を監督した松井久子さんの自叙伝。
20代は雑誌のライター、30代は俳優のマネージャー、40代のテレビプロデューサーを経て、50代になって映画監督という転職に恵まれ、挑戦を続けている。

「ユキエ」のシナリオを依頼した新藤兼人監督に、監督もとお願いに行ったところ、こう言われた。
 「これは私の映画じゃありません。あなたの映画ですよ。自分で撮らないでどうします。誰かに任せてしまったら、あなたの考えとまったく違う映画になってしまいます。それじゃ困るでしょう」 ・・・
「自分で撮りなさい。女の人が、もっと撮ったらいいんです」


この言葉が、松井さんを変えた。
3作目の「レオニー」は、映画化を決心してから完成まで7年をかけた。