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2009年9月17日

ウイーン紀行③終「世紀末ウイーン、そしてクリムト」


 「世紀末ウイーン」とは、いったいなんだったのだろうか?
ウイーンの街を歩きながら、そんな疑問が時差ぼけの頭の片隅を時々かすめた。

 650年近く続いたハプスブルグ家の宮廷文化が爛熟した終焉期を迎えようとしていた19世紀後半に、美術、建築、音楽、文学などだけでなく、心理学や経済の分野まで怒涛のようにウイーンの街を襲った文化の大波。
既存勢力からは多くの批判を浴びながら、華麗、かつ斬新、そしてちょっぴり快楽の匂いもする作品を次々と描き出した芸術家たち。

 ドイツ、ハンガリー、ポーランド、チェコ、クロアチアにイタリア、ユダヤ人・・・。10近い民族を抱えたハプスブル帝国のコスモポリタン的な雰囲気が「世紀末ウイーン」文化の生みの親だともいう。
「オーストリア啓蒙主義の成果」というよく分からない分析もある。
 ハプスブルグ宮廷文化が「歴史主義様式」と称して過去の模倣に終始するなか、それに飽き足らない新興市民層の支持を得たからとか、皇帝フランツ・ヨーゼフⅠ世の新ユダヤ政策などの改革が生んだあだ花という見方も・・・。

 理屈は二の次。「世紀末ウイーン」、とくにその主役ともいえるクリムトの世界に少しでもふれられた幸せをかみしめる。

 リングをもう一度回ってみるつもりだったのに、乗ったトラム(路面電車)が急に右に曲がった。路線の変更があったことは聞いていたが、案内所では「路線1かDに乗れ」と言ったのに・・・。
ベルヴェデーレ宮殿に行くのかな?」。同行の友人たちと回りをキョロキョロ見ていたら、向かいのメタボっぽいおじさんに「次だ、次。早く降りろ」と目としぐさでせかされた。

 ちょうどベルヴェデーレ宮殿上宮の庭園の前だった。バロック様式で建てられたハプスブルグ家の遺産が、世紀末から現代までの近代美術館「オーストリア絵画館」に変身している。バロックと近代のミスマッチが、なんとなく愉快だ。

 この美術館のハイライトは、クリムトの世界最大のコレクション。

 傑作「接吻」は、宮殿2階の1室の白い壁の中のガラスケースに保護され、なにか孤高を感じさせるような存在感で展示されていた。
 モデルは、クリムト自身と恋人のエミーリエ・フレーゲといわれる。クリムトの特色である金箔をふんだんに使い、男は四角、女は丸いデザインの華やかなデザインだが、幸せの絶頂にいるはずの女性の表情がなぜか遠くを見るように暗い。

 17世紀の画家、カラヴァッジョアルテミジア・ジェンティスレスキなども描いた旧約聖書「ユディト記」に出てくるユダヤ人女性ユディットをテーマにしている「ユディットⅠ」
 以前にこのブログでも書いたが、アルテミジア・ジェンティスレスキらは、自ら犠牲になって敵の将軍の首を描き切る凄惨さに肉薄した。しかし、クリムトは決意を秘めて将軍に迫ろうとする妖艶な表情を描き切っている。

 さらにオスカー・ココシュカエゴン・シーレの迫力ある作品の部屋が続く。

 クリムトが率いた芸術家グループ、ウイーン分離派会館「セセッション」には、どうしても行きたかった。
 数日前に生鮮市場のナッシュマルクトを案内してもらった時に前を通っているから、もう迷わない。カールスプラッツ駅から歩いて10分ほど。まっすぐに地下の展示場に飛び込み、ベートーヴェンの交響曲第9番をテーマにしたクリムトの連作壁画「ベートーヴェン・フリーズ」の前に立った。
 白い壁の上部3面、明かり取りの天井に張りつくように飾られたフレスコ絵は、高さ約2・5メートル、長さ約35メートル。絵巻物のように、見上げる観客に迫ってくる。

 1902年「分離派」の展覧会に出品されたが、当時のカタログには「一つ目の長い壁(向かって左側):幸福への憧れ・・・狭い壁(正面)敵対する力・・・二つ目の長い壁(右側):幸福への憧れは詩情のなかに慰撫を見出す」とある。とても理解できない・・・。

メモ帳に張ってきた「図説 クリムトとウイーン歴史散歩」(南川三治郎著、河出書房新社)の解説コピーを見ながら、ようやく頭上の世界に焦点が合ってきた。

 高みに雲のように浮かんでいる女性の長い列。・・・「幸福への憧れ」は裸の弱者の苦しみと、彼らの願いを受けて幸福のために戦う・・・戦士が描かれている。
正面の「敵対する力」が暗い影を投げかけている。悪の象徴としてのゴリラのような巨大な怪獣チュフォエウス、・・・三人の娘のゴルゴン、その背後や右側には病、死、狂気、淫欲、不節制(太った女)などが描かれ、さらにその右には独り懊悩する女が巨大な蛇とともに描かれる。・・・
(右の壁画では)憧れが「詩の中に静けさ」を見つける。竪琴を持った乙女たちは・・・芸術による人類の救済を示唆している。・・・クライマックスは天使の合唱で・・・裸で抱き合う男女の愛をもって全体は終わる。


猥雑、醜悪という声が巻き起こったこの作品。実は展覧会が終わると取り壊されることになっていた。解体寸前になってあるユダヤ人実業家に買い上げられたが、ナチスが没収。戦後、長い交渉の末にオーストリア政府が買い上げたという、いわくつきの名作だ。

ゲストルームに泊めていただいたパンの文化史研究者、舟田詠子さんに、クリムトの墓に連れていってもらった。舟田さんのアトリエ近く、シェーンブルン宮殿の南の端にあるヒーツイング墓地にある墓標は、クリムトの自筆のサインを彫りこんだものだった。「世紀末ウイーン」の時代を象徴するように繊細かつモダンな文字だ。

 「世紀末ウイーン」を代表する建築家、オットー・ワグナーが設計した旧郵便貯金局のガラス張りのホール。「装飾は悪だ」と直線的なデザインを駆使したロース・ハウスが市民の避難を浴びたアドルフ・ロース
 楽友会館やシェーブルン宮殿のオランジェリーで聞いたオーケストラがアンコールで必ず演奏されるのは、やはり世紀末に生まれた3拍子のウインナーワルツだった。そして、作家、アルトウル・シュニツラーの作品「輪舞」などで描かれる娼婦と兵隊、伯爵と女優たち・・・。

 「世紀末ウイーン」の世界が走馬灯のように頭のなかを駆け巡り、今でも離れようとしない。

下の地図は、Google のサービスを使用して作成しています。
地図の左上にあるスケールのつまみを上下すれば、地図を拡大・縮小できます。また、その上にあるコンソールを使えば、左右・上下に地図を動かすことができます。
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2009年9月 6日

ウイーン紀行②「ドウナ川、そしてクライン・ガルテン」



上の地図は、Google のサービスを使用して作成しています。
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世界遺産「ウイーン歴史地区」の中心にある「リングシュトラーセ(環状道路)」の沿道には、様々な時代の建築様式の建造物が並び、まるで歴史博覧会のパビリオン群のようだ。

 市役所は中世の都市の自治を象徴するゴシック様式、国会議事堂は民主主義の原点・ギリシャにならって新古典様式、ウイーン大学は文藝復興にふさわしいルネサンス様式バロック様式がいかめしい旧陸軍省(政府合同庁舎)。この建造物群は、その建築様式の時代に建造されたものではない。皇帝フランツ・ヨーゼフⅠ世の命令で19世紀の半ばから城壁(市壁)を取り除いて次々と造られ、ちょっと、特異な都市景観を形づくっているのだ。

 この建造物を楽しむには、リングを回るトラム(路面電車)に乗るのが、手っとり早い。ウイーン大学の前をトラムがぐっと右に回ると、すぐに川にぶつかる。
「ドナウ川の向こうは、中心街と違って近代的な建物が多いですね」。ゲストルームをお借りしているパン文化史研究者、舟井詠子さんに、いささかトンチンカンだった問いかけをしたら「あれはドナウ川でなく、ドナウ運河」と。観光客も、よく間違えるらしい。さっそく、ほんもののドナウ川を見に連れて行ってもらった。

 夕方、街の中心・カールスプラッツ駅地下ターミナルで待ち合わせ、地下鉄U1に乗って10番目の駅・ドナウインゼル(ドナウ島)駅で途中下車する。2つの川の間に、中州(ドナウ島)があり、そこにかかっている橋の上に地下鉄の駅と歩道橋がある。

 川の1つは、洪水対策のために、20世紀後半に約10年をかけて掘られた全長20キロの放水路・ノイエドナウ(新ドナウ)川。島の森越しに見えるのが、ドナウ川本流。ドイツ南部の泉に始まって東欧10か国を流れ、世界遺産ドナウ・デルタ にそそぐ国際河川だ。教会の下に国際航路の大型船が停泊しているのが見える。

 長さ21キロもあるという中州、ドウナ島に降りてみる。広い公園があり、中国系らしい人たちが草地に座り込んでトランプを楽しんでいた。ここは、アジア、トルコ系の人たちのたまり場になっているらしい。
 この中州は長い間、川土を積み上げた荒地だったようだが、今では川辺に水草が繁り、生物が生きられるビオトープとして生き返っている。

 再び地下鉄に乗り、2つ目のアルテドナウ(旧ドナウ川)駅で降りる。IAEA(国際原子力機関)などが入っている国連都市(UNOシティ)のビル群を右に見ながら左折、大きな橋を渡り切って、アルテドナウの河畔に出た。

 アルテドナウは、19世紀末の治水工事でドナウ本流から切り離されて、ドナウ川の東端にできた約160ヘクタールの三日月型の湖。今ではウイーン市民の最大のレクリエーションの場になっている。
 もう午後の7時前というのに、ヨットがいくつも浮かび、艇庫からカヌーを運び出す人がおり、河畔で憩う水着姿の人、水に飛び込んで抜き手で泳ぐ人・・・。湖畔では、以前はヌーディストクラブだったという庭園でバーベキューを楽しむ風景が見られ、水辺のいくつものレストランも火曜日の夕方というのに大盛況だ。

 ぜひに、とお願いして、湖畔にある「クラインガルテン」をのぞかせてもらった。クラインガルテンはドイ語で「小さな庭」という意味。市民が公共団体から300平方メートル前後の小屋付き農園を借り、週末に野菜づくりを楽しむ。日本でも少しづつ普及しており、私も兵庫県下にあるクラインガルテンまがいの貸農園2か所ほどを借りたことがある。

 しかし、ウイーンのクラインガルテンは少し様子が違う。車の乗り入れを禁止した路地の両脇にある敷地に野菜畑は一つもなく、すべて整備された芝生と木々、季節の花であふれている。寝椅子でくつろいでいる老人や、アルテドナウで泳いできたのだろうか、バスタオルを身体に巻いたまま花の世話をしている女性の姿が垣間見える。ラウベと呼ばれる住宅も小屋と呼ぶのにはほど遠いりっぱなものばかりだ。なかには、敷地を買い取って地下室まで作った"別荘"もあるようだ。

 ネットサーフインをしてみると「調査した300区画のなかで、菜園らしいのは1区画しかなかった」という報告「州法の改正で、規制がなくなったことが生んだウイーンの特異性」というレポートもあった。ウイーンの市民が、クラインガルテンの快適性を追求して勝ち取った権利なのだろう。

   ヨハン・シュトラウスの「美しく青きドナウ」で歌われる歌詞は次のように始まる。(「横顔のウイーン」=河野純一著、音楽之友社刊より)
  いとも青きドナウよ
  谷や野を越えて
  静かに波うちながら流れていく
  わがウイーンはお前に挨拶する
  銀色の流れは国々を結びつけ
  喜ばしい心が美しい岸辺ではずんでいる


 アルテドナウ河畔やクラインガルテンで、ウイーンの人たちの気持ちがウインナーワルツに乗ってはずんでいるのが見えてくるようだ。

 川の水が「青きドナウ」から程遠いのが、ちょっぴり残念だが・・・。

2009年9月 2日

ウイーン紀行①「ウイーンの森」


 ウイーンの森への旅は、かって貴族の別荘だった館の庭にある小さな森から始まった。

オーストリアに640年にわたって君臨したハプスブルグ家の夏の離宮だった世界遺産・シェーンブルン宮殿のすぐ近く。ビーダーマイヤー時代最盛期の1825年に建てられたこの館に、アトリエを構えておられるパン文化史研究者、舟田詠子さんのゲストルームに泊まらせていただく幸運に恵まれたのだ。

 建物の玄関は石の壁と巨大な木の扉で守られているが、庭に面して大きなガラス窓のサンルームが広がり、外壁はカラマツのこけら板で覆われている。庭には、トウヒらしい巨木のほか、サクラ、レンギョウ、カリン、アンズ、モモ、洋ナシ、クルミなどの樹木が繁り、フジの大枝が伸び、壁をおおうツタの太い枝が時代を感じさせる。
奥の小山をぐるりと回って上ると、頂上のブドウ棚から「世紀末ウイーン」をリードしたウイーン分離派の建築家・ヨーゼフ・ホフマンが設計した館などが臨める。
 舟田さんのアトリエを含めたこれらの館は、ウイーンでも貴重な建築物として文化財の保護下にあるという。

 庭のテーブルに並べられた朝食の皿には、ウイーン名産のハム、ソーセージの逸品や野菜料理が盛られ、日曜日にはいくつも教会の鐘が次々と響いてくる。向いの作曲家の館からピアノの音まで聞こえてきて・・・。なんともはや「森の都」ウイーン文化の奥深さに圧倒されてしまった。

 
舟田さんのアトリエのある館:クリックすると大きな写真になります館の外壁:クリックすると大きな写真になります庭の小さな森:クリックすると大きな写真になりますウイーン分離派(アールデコ)時代の隣邸:クリックすると大きな写真になります
舟田さんのアトリエのある館。かって貴族は、この木のドアーを開けさせ、直接、馬車を乗りいれたという庭に面した外壁はこけら板とツタで覆われている庭の小さな森は奥深く、見あきないウイーン分離派(アールデコ)時代の隣邸


 さっそく、ウイーンの森の探訪に出かけた。シェーンブルン宮殿の周辺は、もう森の一部だという。
 宮殿の南西部にある公園は、歩く人も少ない広葉樹の森。ウイーンの森を管理するウイーン市森林局の事務所の横にある門をくぐって、宮殿南部の高台にある記念碑・グロリエッテへ。道を少しそれると、昼でも薄暗いブナなどの林が続く。
  森が急に切れて、細長い草原に出た。はるか下にウイーンの街並みが臨める。なんと、この草原は、ウイーンの街に森の冷気を送りこむ「風の道」なのだ。確か、皇居に風の道を通せば、東京都心のヒートアイランド現象はかなり緩和できるという話しを聞いたことがあったが、ウイーンの街は残された貴重な遺産を見事に生かしきっている。

シェーンブルン宮殿とウイーンの市街:クリックすると大きな写真になります宮殿内の森:クリックすると大きな写真になります「風の道」森の観察路の説明板:クリックすると大きな写真になります
グロリエッテから見たシェーンブルン宮殿とウイーンの市街人気も少ない宮殿内の森森を貫く「風の道」森の観察路の説明板


 マリア・テレジアの夫のフランツⅠ世が1792年、宮殿内に作った世界最古という動物園に入ってみた。
 パンダやペンギンは珍しくもないが、階段を上って森の木々や葉を下からでなく目の前で眺められる樹木観察路があるのが「森の都」の動物園らしい。
 所々に、樹木の葉や小鳥、小動物など森の住民を解説した掲示板まである。ブナ、シデ、シナノキ(菩提樹)、トネリコ、カエデなどの名前が書いてある。

 オーストリア連邦森林局(現在は民営化されてオーストリア連邦森林株式会社)の林業専門家であるアントン・リーダーが書いた「ウイーンの森―自然・文化、歴史―」(戸口日出夫訳、南窓者刊)によると、ウイーンの森の木々の75%がブナ、ナラなどの広葉樹、25%がクロマツ、トウヒといった針葉樹という。
 針葉樹が多いドイツの黒い森と違って、広葉樹がつくる明るい森がウイーンの人々の開放的でのんびりした気風を育てているのだろうか。

 著者と訳者によると、ブドウ畑や居住地を含めたウイーンの森の総面積はおよそ1250平方キロと、東京23区の2倍以上。
世界のいかなる大都市も、このような周辺部を持つものはなく、・・・その自然のなかで、ビーダーマイヤー時代には、シューベルトの「美しき水車小屋の娘」やベートーヴェン「田園」が生まれ、ウイーンの森と音楽の都が結びついた


 舟田さんに、さらに森の奥へと案内してもらった。
 夕方、中心街・リンク沿いにあるウイーン大学前のショッテントーア駅の地下ターミナルで待ち合わせてトラム(路面電車)38番でワインを飲ますホイリゲが並ぶグリンツイングへ。そこで白ワインを軽く飲み、バス38Aで海抜484メートルのカーレンベルクに着く。

 カーレンベルクのことをアントン・リーダー氏は「忘れがたい場所」の筆頭にあげて、こう書いている。
頂からウイーンを見下ろせば、その中心にはシュテファン大聖堂も見える。少し先にベルヴェテーレ宮殿も見える。きらきら光るドナウ(川)のわきに国連都市のビルがあり、その右にプラーター(公園)の大観覧車も小さく確認できる。・・・真下の麓には一面に葡萄畑が広がり、それが上方のブナ林のなかに吸い込まれてゆく。


 この丘にある小さな教会にも、ウイーン市指定の史跡であることを示す国旗を模した旗が掲げてある。
1683年、ポーランド王率いるキリスト教連合軍が、この教会でミサにあずかった後、一気に斜面を駆け降りて、ウイーン城を包囲していたトルコ軍を急襲、敗走させた、という。

 ウイーンの森が終わるレオポルヅベルクまで森のなかを歩く予定だったが、時間がなくなった。ブドウ畑の間を早足で降りる。「ブドウ畑を持つ首都はウイーンだけ」と、舟田さん。

予約した7時は少し過ぎたが、ワインセラーの庭にはウイーンの街を真下に臨む席が用意されていた。降りた分だけ、街が近く見える。
 ローストポークにチーズ味のパテ、オリーブがいっぱい入ったサラダと、白ワイン。街が少しずつ夕日から夜景に変わっていく。ウイーンの森で飲むワインの一口、一口が、深く静かに身体に回ってきて・・・。

ホイリゲの陽気なボーイさん:クリックすると大きな写真になります;">カーレンベルクの丘から見たウイーン市街:クリックすると大きな写真になります;">キリスト教連合軍が祈願した教会:クリックすると大きな写真になりますワインセラーの団らん:クリックすると大きな写真になります
ホイリゲの陽気なボーイさん。チップはずみすぎ?カーレンベルクの丘から見たウイーン市街。左にドナウ川が見えるキリスト教連合軍が祈願した教会。18世紀初めに再建された(壁にあるのが、史跡指定の旗)ウイーン市街の夜景を眼下に、森のなかの団らんは続く


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