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2015年1月13日

読書日記「ミラノ 霧の風景」(須賀敦子著、白水社刊)


ミラノ霧の風景 (白水Uブックス)
須賀 敦子
白水社
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 著者の本は、これまで何度か手にしたことがある。しかし、そのたびに自分の知的水準がその内容についていけず"途中下車"していた。

 昨年末、ふとしたきっかけで、表題の処女作エッセイ初め4冊の新書、文庫本を買って、少しずつのめり込んでいった。

著者は、聖心女子大を卒業、パリ留学を経てイタリアに渡り、日本文学をイタリア語に翻訳する仕事をしていたものの、イタリア人の最愛の夫に死に別れて42歳で帰国、いくつかの大学で教えた。

 この作品を書いたのは、なんと61歳の時。その後ほとばしるように創作の道を突き進み、 69歳で急死した後には、全8巻〈別巻1〉の 「須賀敦子全集」(河出書房新社)が残された。

 須賀敦子は、13年に及んだイタリア生活のほとんどをミラノで過ごした。勉学と仕事の場であった コルシア・ディ・セルヴィ書店と自宅のアパートを市電で通う毎日だった。

 夕方、窓から外を眺めていると、ふいに霧が立ちこめてくることがあった。あっという間に、窓から五メートルと離れていないプラタナスの並木の、まず最初に梢が見えなくなり、ついには太い幹までが、濃い霧の中に消えてしまう。街灯の明りの下を、霧が生き物のように走るのを見たこともあった。そんな日には、何度も窓のところに走って行って、霧の渡さを透かして見るのだった。


 霧の「土手」というのか「層」というのか、「バンコ」という表現があって、これは車を運転していると、ふいに土手のよぅな、堀のような霧のかたまりが目のまえに立ちはだかる。運転者はそれが霧だと先刻承知でも、反射的にブレーキを踏んでしまう。そのため、冬になると町なかの追突事故が絶えないのだった。霧の「土手」は、道路の両側が公園になったところや、大きな交差点などでわっと出てくることが多かった。


 
 ミラノに霧の日は少なくなったというけれど、記憶の中のミラノには、いまもあの霧が静かに流れている。


 著者は、様々な人とのつながりを広げていくなかで、イタリアの上流社会をかいま見ることもあった。

カミッラ・チェデルナは、ミラノのモードや上流社会のゴシップを軽妙な都会的タッチで描いてみせることで有名な評論家、だという。

 イタリアではチュデルナの名を聞いただけで、またあのゴシップ好きが、と顔をしかめるむきも少なくないのであるが、私たち外国人にとって、彼女はなかなか貴重な存在である。それは彼女がふつう「よそもの」には扉を閉ざしている世界、歴史や社会学の本には書いてないヨーロッパ社会のひとつの面について教えてくれるからである。この閉ざされた社会、すなわち、目に見えぬところでヨーロッパを動かしている、いや、動かすとまでは行かぬまでも、そこにずっしりと存在している社会、とくに貴族たちについて、もっと正確に言えば、この特殊な「種族」が社会の一隅でひそやかに発散しつづける、そこはかとない匂いのようなものについて、彼女は教えてくれるからである。


 ミラノに来て2年目に、コルシア・ディ・セルヴィ書店の仕事仲間であるペッピーノと結婚することになり、結婚指輪を買うためにある店を紹介される。

 実際、その値段は私たちの想像していたのよりはるかに安かった。ほっとしたのと同時に、私は例のヨーロッパの秘密の部分の匂いをかすかながら感じとった気がした。この町の伝統的な支配階級の人たちは、表通りのぎらぎらした宝石店と、この女主人の店を見事に使い分けている。彼らの家には先祖代々の宝石類があるから、自分たちがふだん身につけるものは、こういう店でいろいろと手を加えさせたりするのだろう(ちょうど私たちが母の形見のきものを仕立てかえさせたり、染めかえたりするように)。ずっとあとになってから、やはりミラノの古い家柄の女性たちと、ある内輪の晩餐の席をともにしたとき、彼女らが、ある新興ブルジョワの家庭の度はずれた贅沢を批判しているのを耳にしたことがある。「だって、あそこでは始終Bでお買物よ」Bというのは、まさに大聖堂ちかくのぎらぎらした貴金属店の名だった。あたらしい貴金属を「始終」買うということはその家に先祖代々伝わったものがないからだ、と言わぬばかりの彼女たちの口ぶりだった。


 著者は、コルシア・ディ・セルヴィ書店でガッティというちょっと風変わりな男性と知り合い、長い友情を続けることになる。

 ガッティは、あの忍耐ぶかい、ゆっくりした語調で、原稿の校正の手順や、レイアウトのこつを教えてくれることもあった。すこしふやけたような、あおじろい、指先の平べったいガッティの手が、編集用の黒い金属のものさしで行間の寸法を計ったり、紙の角を折ったりするのを、私は吸いこまれるように眺めていた。全体のじじむさい感じとは対照的に、よく手入れされた神経質な手だった。


 (夫ペッピーノが急死して4年後)日本に引きあげることになったある日、私はガッティの家をなにかの用で訪ねた。まだ翻訳やら、書評やらの仕事が残っていて、私は夜もろくろく寝ていない日が多かった。ガッティはなにやら、校正のような仕事をしていたので、私は区切りのよいところまで待つあいだ、ソファで新聞を読んでいた。そのうち、まったく不覚にも、私は眠りこんでしまった。いったい、どれくらい寝たのだろうか。ふと気がつくと、ガソティが仕事机から、ちょっと困ったような、しかしそれよりも深い満足感にあふれたような表情でこっちを見ていた。ごめん、ガッティ、疲れていたものだから。そう謝りながら、私はガッティのあたたかさを身にしみて感じ、それとともに、もうこんな友人は二度とできないだろうと思った。


 何年か後著者は、アルツハイマー症になってミラノ郊外の老人ホームに入っているガッティを訪ねた。

 まもなく夕食の時間がきて、ふたたび看護人がガッティを迎えに来た。チャオ、ガッティ、という私たちのほうを振り向きもしないで、ガッティは食堂に入ると、向うをむいたまま、スープの入った鉢をしっかりと片手でおさえて、スプーンをロに運びはじめた。
 幼稚園の子供のような真剣さが、その背中ぜんたいににじみでていた。


 須賀敦子のミラノでの足跡を訪ねた「須賀敦子のミラノ」(大竹昭子著、河出書房新社)という本には「ガッティはアツコのことが好きで、・・・(想像だが)アツコがミラノにずっといれば、ガッティはあんなふうにならずにすんだかもしれない」というコルシア書店時代の若い友人、ピッチョリの言葉が載っている。
須賀敦子のミラノ
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 「ミラノ 霧の風景」には、ジャコモ・レオパルディジョバンニ・パスコリエリオ・ヴィットリーニカルロ・ゴルドーニウンベルト・サバ など、浅学菲才が初めて知ったイタリアの詩人、作家についての記述がちりばめられており、著者の知的水準の高さをうかがうことができる。

 サバについては、著者自身が日本語に訳して出版しており「あとがき」の最初のその1節が引用されている。

 死んでしまったもの、失われた痛みの、
 ひそやかなふれあいの、言葉にならぬ
 ため息の、
 灰。


 そして、こう続ける。

 本があったから、私はこれらのページを埋めることができた。夜、寝つくまえにふと読んだ本、研究のために少し苦労して読んだ本、亡くなった人といっしょに読みながらそれぞれの言葉の世界をたしかめあった本、翻訳という世にも愉楽にみちたゲームの過程で知った本。それらをとおして、私は自分が愛したイタリアを振り返ってみた。