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2014年3月11日

読書日記「旅立つ理由」(旦 敬介著、岩波書店)


旅立つ理由
旅立つ理由
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旦 敬介
岩波書店
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 今年の読売文学賞の「随筆・紀行賞」受賞作。全日空(ANA)の機内誌に掲載された21の短篇をまとめたものだ。

 「旅立つ理由」なんて正面切った表題には「いささか抵抗感があるなあ」と思いながらも、図書館で借りてしまった。

 「BOOK」データベースにも「現代の地球において、人はどういう理由で旅に出るのか、どうして故郷を離れることを強いられるのかを問う」とあり、硬派の旅分析と想像していた。

 ところが読んでいくうちに、ほとんどが南米やアフリカのへき地といった、よほどの旅好きでないといかない土地を訪ね、そこに流れついた人々との"激流"のような交流を描いたフィクションであることが分かってくる。

 南米のメキシコとグアテマラ に国境を接するベリーズという国では、半年前に中国・上海から来て小さな中華料理店を切り盛りする娘と エル・サルバドル出身の港で働く若者という「遠くから来た」もの同志の「熱帯の恋愛誌」に出合ってしまう。

 メキシコ沿岸の港湾都市ベラクルス郊外にあるマンディンガという集落にある、水上に張り出した小さな海鮮食堂。牡蠣料理の注文を聞いてから海に飛び込み採りにいくのは、その昔アフリカから奴隷として連れてこられた人々の子孫たち。

 ケニアの首都・ナイロビで友達になったマリオは、政変でエチオピアの政変で逃れてきた。そのマリオも、何代もの祖先が住んでき土地をたたんだお金を手にビザのとれたカナダにまた新天地を求めて旅立っていく。

 「ダン」と呼ばれる著者と二重写しを思わせる主人公の旅もまことに"浪漫"かつ"放浪"的だ。

 ケニアで知り合った手足の長いウガンダ人の難民女性・アミーナが、ナイロビの病院で2人の息子を生んだことを知らされた時、父親のダンは「アフリカを西にまるごと横断し、さらに南太平洋を横断した」ブラジルにいた。

 「子どもの誕生」というまったく新しい体験に狂騒状態に陥った彼は、2か月以上もカーニバルで友人たちと祝い騒ぐ。

 やっと「会いにいかなくちゃ」と思ったが、手元にあった航空券がリスボンに途中下車できるチケットであることが分かると「ドキドキしてしまい」ポルトガルに10泊する予定で飛行機の予約を入れてしまう。

 旧約聖書の「逃れの町」と同じよう城塞都市が国境の山岳地帯に点在することを知ったからだ。

 南米・ベリーズに国境を越えて入った時、彼はこんなことを思う。

 通り過ぎる車のラジオからはスペイン語の歌と広告の断片が流れてくる。商店からは観光客目当ての正統的な英語が聞こえてくる。道端からは、動詞の活用形が省略されたクレオール英語が地を這(は)うように響いてくる。・・・ことばなんて、手近にあるものを適宜便利に組み合わせて使っていけばいい。人生は整理整頓されてなくていい。パッチワーク、寄せ集め、ミクスチャーでいい。


 旅した土地で出会うのは、流れてきた人をはぐくんできたその国の民族料理だ。

 アミーナがよく作ったのは「細かく刻んで塩もみしてから洗ったり絞ったりした玉ねぎやャベツに、やはり細かく切ったトマトと香菜と緑トウガラシを混ぜてレモン汁でじっくり和えた」「カチュンバーリ」というサラダ。その来歴がすごい。

 
 ヴァスコ・ダ・ガマの時代から続く全地球的規模の暴虐な歴史の展開にダイレクトに結びついていて、流行語として「ポスト・コロニアル」と呼ばれる世界の構成と分かちがたいものであることを思う・・・


 ブラジルで借りたアパートの披露パーティに友人の女性・ナルヴァが作ってくれたブラジル料理の「フエイジョアータ」は、材料の仕入れから完成まで3日もかかった。

 豚の足や尻尾、耳、腸詰め、牛のばら肉や塩漬け肉、色々な内臓を水で洗い、酢につけ、全体にクミンとパプリカを塗り込める。塩漬け肉は空の鍋で加熱、水を何度も取り替えて塩抜きする。水に浸したインゲン豆を入れ、みじん切りの玉ネギ、コリアンダー、トマト、ピーマンを入れて、時間が料理を完成してくれるのを待つ。


 ナルヴァは、あの時のパーティで知り合ったアルゼンチン人と一緒にブエノス・アイレスに旅立ったことを半年後に知る。

  ナイロビでマリオが焼いていたインジェラは、エチオピア料理には欠かせない。

 テフとい粒の細かい雑穀をすりつぶして水で溶き、3,4日発酵させてから円形の鉄板か陶板に流しこんで蒸し焼きにする。・・・ひんやりと冷たくて、しっとりと湿り気があって・・・、かなり酸味がある。パンやクレープの仲間であることはたしかなのだが、・・・そのどれとも似ていない。


 食べるときには、丸い大きなインジェラスの上に、何種類ものシチュー状の煮物や炒め物、野菜が、混ざらないように分けて盛りつけられている。・・・エチオピア人は右手だけでちぎったインジェラで巧みに包んで食べる。


ウガンダでの最初の食事は「肉のかけらがころりと入った落花生味のソースにマトーケ(青バナナ)を浸して食べる」料理だった。

 手を洗ってから素手で食べた。味わい深くて、染み入るようにうまくて、機嫌は跳ねあがった。マトーケはつぶした芋のようにとろりとなって、料理の味をまったく邪魔しない理想の主食に思えた。他に一人の客もいない国境の食堂でうまい料理が食べられるのだから、悪い国のはずはなかった。


 先月下旬に発刊された対談集 「一神教と国家 イスラーム、キリスト教、ユダヤ教」 (集英社新書)(内田樹、中田考著)という本で、著者の1人、 内田樹が、遊牧民と定住(農耕)民の違いについて、こんなことを語っている。

 旅しながらでないと生きていけないような人の場合、「身一つが資本」というか、生身の身体のリアリティを常に意識する生き方になるような気がするんです。人とのつながりを大事にする。助け合って生きる。


 「旅する理由」で著者が出会った人々の多くは、まちがいなく「旅しながらでないと生きていけない遊牧民」「著者自身もひょっとすると生まれながらに遊牧民のDNAを身につけているのではないか」

 読み終えて、そんなことをふと思った。