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2020年9月17日

読書日記「教皇たちのローマ ルネサンスとバロックの美術と社会」(石鍋真澄著、平凡社)

 著者は、イタリア美術史を専門とする成城大学教授。本棚を見ると、「サン・ピエトロが立つかぎり 私のローマ案内」「聖母の都市シエナ 中世イタリアの都市国家と美術」「ありがとうジョット イタリア美術への旅」と、著書が3冊も見つかった。

 14年前に、イタリア巡礼ツアーに参加する際に購入したらしい。その後、2017年にはカラヴァッジョの作品を再び見たくて2度目のローマ訪問を果たしたが、この本でもローマという都市にはぐくまれた芸術の歴史を満喫することができた。

 著書は、歴代の教皇たちを縦軸に、その教皇らが推進したルネサンスバロック美術を横軸にしてローマの歴史を展望してみせる。

 著者は、その両軸が織りなしたローマの街に大打撃を与えたサッコ・ディ・ローマ(ローマ劫掠・ごうりゃく)という事件に多くのページを割いている。

 1527年5月、神聖ローマ帝国皇帝兼スペイン国王カール5世の軍勢がイタリアに侵攻、ローマの古い町並みを根こそぎ破壊し尽くした。

 兵士たちは金や銀を求めて、聖堂やパラッツオ(邸館)に押し入った。家財を奪ったあとは、その家の者に身代金を要求、払えない者は、残酷な拷問にかけられ殺害、少女から老女まで家族の前で乱暴され、殺された。
 多くの司祭や修道士が殺され、奴隷として売られた。修道女の多くはりん辱されて殺され、残った者も半裸か冗談で司教の衣装を羽織らされて売春宿に売られた。

 サン・ピエトロ大聖堂(ヴァチカン宮)にいた教皇クレメンス7世は、危機一髪でサンタンジェロ城に逃れた。

 14年前にローマを訪ねたときには、サンタンジェロ城は古い甲冑などが展示された博物館になっていたが、約1キロ離れたヴァチカン宮との間に秘密の地下道があると聞いた覚えがある。実際には、この2つを結ぶ城壁に造られたパセット(小道)を通って、教皇は逃げ込んだ。城に据えられていた大砲がなんとか教皇を守ったらしい。

 サッコ・ディ・ローマについて、多くの歴史家がこう記述している。
 「サッコ・ディ・ローマによってルネサンスは終った」

 ローマの町が徹底的に破壊されたことで、14,5世紀に教皇ユリウス2世レオ10世などがパトロンとなって栄華を極めていたローマのルネサンス文化も姿を消した。ミケランジェロラファエロの作品は残ったが、ローマ中の聖堂にあった、貴重な聖母子像、磔刑像、祭壇画の多くが破壊された。

 同時に、11,13世紀に花開いたコムーネ(自治都市)文化の貴重な海外や彫刻も破壊され、記録や資料さえ残っていない。

 しかし、ローマは不死鳥のようによみがえる。17世紀のカラヴァッジョ、ベルニーニに代表されるバロック美術が、教皇たちの強い後押しで栄華を極めたのだ。

   著者によると、サッコ・ディ・ローマから14年後の1541年に完成したミケランジェロの「最後の審判」の壁画も「サッコ・ディ・ローマという大きな悲劇が生み出した傑作」だという。

 システィーナ大聖堂の正面壁に描かれたこの大壁画に感じられるのは「サッコ・ディ・ローマ後に広がったペシミスティックな空気だ」 「罪の意識と悔悟、神の怒りへの畏怖、惨劇のトラウマ、無力感、そしてすべての人間の上に下される審判への待望。教皇は、・・・それらが時代を超えて理解されるようにミケランジェロの手で視覚化されることを望んだのだ」

 このようにして、荒廃のなかから再生されたローマの街を、現代の我々も楽しむことができる。

 ところで、この本には歴代の教皇の多くが、愛人を作り、司祭や枢機卿時代に実子や庶子をもうけていたという記述が何度も出てくるのに驚く。
 庶子などを「ニポーテ(イタリア語でおい、めいの意味)」と偽って、枢機卿などに登用する「ネポティズム(縁故主義)」という言葉が何回も出てくる。  「ルネサンス期の教皇は、枢機卿だけでなく、司教、教皇軍、教会国家の要職に身内の者を採用、教会の富が身内にわたるようにした」「身内の登用や不在聖職者の悪用、兼職、聖職売買、不要なポストの創設といった悪弊が行われるようになった」

 ウイキペディアによると、このような縁故主義が終るのは、1692年のインノケンティウス12世が発布した教皇勅書からだという。

 ひるがえって現代。カトリック教会では、聖職者の性的虐待事件が頻発している。現教皇フランシスコは「断固とした対応をする」と声明したが、解決の糸口は見えない。

 現在の性的虐待事件と中世の聖職者女性問題に、共通項があることは否めそうにない。  司祭志願者が減っているなかで、将来、プロテスタントのように婚姻する聖職者が現実の話しになった場合、ネポティズムの悪弊に染まった中世の教訓を生かせるだろうか。

2011年3月13日

 読書日記「舟越保武 石と随想」(舟越保武著、求龍堂刊)、「石の音、石の影」(同、筑摩書房刊)


 もう故人である、 この彫刻家のことは、NHKの番組で紹介された 画文集で初めて知った。

 佐藤忠良 と、東京美大の同級生で、文化功労章を受けた戦後日本を代表する作家だったらしい。

 どうしても見たくなりAMAZONに申し込んだ。版元で在庫切れだったらしく、1か月近く待たされた。
 白い堅紙で装丁した大型本で、作品の写真も文章も聖謐さにあふれている。いつものように気に行った箇所に線を引く気にとてもならない。
 先日来、思い立って3000冊近くの蔵書を整理、本棚の一部も寄付した。しかし、この本だけは本棚にしまっておいて、時々そっと開きたくなりそうだ。

 2度ほど訪ね、このブログにも書いた 「長崎26殉教者記念像」が、この彫刻家の代表作の1つであるのを浅学にして知らなかった。もっと、しっかりと像の1つ1つを見ておくべきだった。

 著者は、この像を「探しまわって、どうしても見つからない夢」をなんども見たという。
 私はあの夢を見るのが怖い。
 一度でいいから、夢の中でも二十六聖人像の現実のままを見たい。・・・
 昨年の秋、長崎に行って、・・・長い時間、眼がいたくなるまで二十六体の彫像をにらむように見据えてきた。


 ヴァチカン美術館に買い上げられた 「原の城」も代表作の1つ。
 この像の粘土の原型を東京芸大の研究室で完成させた時、作者は不思議な体験をしている。
 (隣室で謡曲の練習している学生たちの声に)しばらく耳をかたむけていると眼の前の粘土の武士の彫像がゆっくりよろよろと歩き出すように見えた。謡曲の声につれて私のつくった粘土の武士が静かに歩き出すのを私は呆然と眺めていた。


 著者は長男の死をきっかけに受洗したカトリック信者。西坂の地で殉教した 日本二十六聖人島原の乱原城 に散ったキリシタンへの思いが、自分の彫像と重なりあう深層体験だったのだろうか。

 この彫刻家は、聖謐な女性像をいくつも残している。それが、神戸の街にあると知って、見に出かけた。
 神戸市役所1号館の1階喫茶室にある頭像「LOLA」(1980年)は、こげ茶の金属で仕上げられ、清々しくほほえんでいた。セビリアで知り合ったレオン家の2女であるという。
 市役所のすぐ南、フラワーロード沿いにある「シオン」(1979年)は、小柄なブロンズの全身像。雨に打たれてできたらしい白い涙を流している。
 市役所の「LOLA」のすぐ近くには、生涯の友人だった佐藤忠良作の「若い女・シャツ」が逆光のなかに立っていた。
「LOLA」;クリックすると大きな写真になります「若い女・シャツ」;クリックすると大きな写真になります「シオン」;クリックすると大きな写真になります
「LOLA」の頭像「若い女・シャツ」のブロンズ像「シオン」の像


 著者は、いくつかの随筆集も残しており、日本エッセイクラブ賞も受けている文章の練達でもあるらしい。

 「石の音、石の影」は、1985年に発行された、たぶん著者最初の随筆集。

 本は、それまで挑戦する彫刻家がほとんどいなかった石彫に挑戦するエピソードから始まる。
 うす赤い色のその大理石を見たとき、私の身体の中を熱いものが走るように思った。・・・
 (近くに住む墓石屋の親方から、2本の鑿(のみ)を借り)・・・
 力まかせに石をたたくものだから、槌が鑿から外れて、いやというほど手の甲をひっぱたいた。河がやぶけて血が出る。痛みをこらえて、生まれてはじめて石を彫るという感動の方が大きかった。カーン、カーンと四方にひびく石の音が快かった。

 著者の石彫第一作の頭像は、こうして誕生した。

 石彫は、粘土で作る塑造と違って「付け足すことが出来ない。・・・削り減らして、或る形に到達する作業」になる。
 不定形の荒石を前にして、この石の中に自分の求める顔が、すでに埋もれて入っているのだと自分に思い込ませて、仕事にかかるのだが、石の中にある顔を見失うまいとする心の緊張があった。・・・
 たしかに見えていた筈のその顔が、私の前に現れるのを恥じらって、なかなか現れてこない。作業はいつも捗らなかった。


 自己嫌悪に陥って、完成したばかりの大理石頭像を衝動的にハンマーで毀したことがあった。
 粉々に砕けた床一面が白一色の石片で埋まった中の、一片のかけらに私の眼がとまった。五センチほどに欠けた石片は、眼の部分であった。・・・恨めしい眼でも悲しい眼でもなく、やさしい眼のままで私の方を見ていた。


     舟越保武という彫刻家は知らなかったが、その作品にどこかで出会った"幻想"が消えない。そうだ、 天童荒太「永遠の仔」表紙を飾っているあの作品群・・・

作者は 舟越 桂。舟越保武の次男だった。なにか、DNAの森を遡って清冽な泉に突き当たったような思いがした