読書日記「サラの鍵」(タチアナ・ド・ロネ著、高見浩訳、新潮社クレスト・ブックス)
この本が原作の映画は数カ月前に見た。友人から借りて、長い間サイドテーブルに積んだままだった 原作を読んだのは、このゴールデンウィークにポーランドのアウシュヴィッツを訪ねた後だった。
映画は、第23回東京国際映画祭で監督賞、観客賞をW受賞するなど評価が高かったようだ。ただ、 「イングリッシュ・ペイシェント」でアカデミー主演女優賞にノミネートされた クリスティン・スコット・トーマスが演じる米国人の女性ジャーナリスト・ジュリアの役割をもう一つ理解できないで終わっってしまった。ユダヤ人少女サラが生きた第二次世界大戦の時代と、ジュリアが生活している現代という2つの時空が交錯するストーリーにいささか戸惑ったせいかもしれない。
しかし、この本を読んでみると、ジュリアの悩みや生きざま、視点が目や心に焼きついてくる。これは、先日のアウシュヴィッツ体験の結果だったようにも思える。ジュリアが繰り返した「ただ、伝えたい。決してあなたをわすれはしないと」という言葉を、あの場所でも聞いたような気がしてきて・・・。
この小説はフィクションだが、フランス・パリで起きた1つの史実が軸になっている。
フランスがナチス・ドイツの占領されていた親ナチスの ヴィシ政権(1940-1944)下で起きた「ヴェルディヴ事件」は、半年ほど前に見た映画「黄色い星の子供たち」の主題でもある。
映画「サラの鍵」のパンフレットに、 渡辺和行・奈良女子大学教授の小エッセイが載っていた。
フランスは1942年、パリを中心にユダヤ人の一斉検挙に踏み切った。検挙の主役はフランス警察や憲兵で、パリを占領していたドイツ軍の姿はなかった。約13000人が逮捕され、うち家族連れ8000人がパリ郊外の自転車競技場「ヴェルディヴ」に収容された。食糧、水不足で病人も出るなか、数日後にはアウシュヴィッツに移送、子供たちはそのままガス室に送り込まれた。フランスからユダヤ人を乗せた移送列車は計74回、7万6000人を運んだ。
シラク大統領が「時効のない負債」とフランス政府の責任を認めたのは1995年7月16日。53年前の一斉検挙と同じ日だった。「ヴェルディヴ」跡地に建てられた記念碑には「道行く人よ、忘れるな!」と刻まれている。
1942年のその日、10歳のユダヤ人少女・サラは、住んでいたアパート来た警官に両親とともに連行されるが、すぐに戻れると信じて怖がる弟を秘密の納戸に隠して鍵をかける。「なんとか、弟を助けなければ」という一念から収容所を脱出したサラは、住んでいたアパートにたどり着くが・・・。
パリ在住のアメリカ人を対象にした雑誌に勤務していたジュリアは、編集長から「ヴェルディヴ事件」の取材を命じられ「正真正銘のフランス国民だったユダヤ人を、フランス政府自身が迫害していた」事実に衝撃を受ける。
取材を始めたジュリアは、収容所に送られたはずのサラと弟が行方不明者として名簿にないことをつきとめる。サラ探しを始めたジュリアは、驚くべき事実に直面する。
ジュリアが愛する夫と引っ越そうとしていたサントンジュ通りアパート。夫の祖母から譲り受けたものだった。
「そこに、かってサラが住んでいた」・・・。
「あの女の子」(義父の)エドウアールはくり返した。奇妙な響きを帯びた、くぐもった声で。「あの女の子はな、もどってきたんだ。サントンジュ通りに。わたしはそのとき、まだ十二歳の少年だった。でも、忘れられない。この先も忘れられないだろう、サラ・スタジンスキーのことは」
サラと少年(義父)は、納戸の奥で「膝を抱いてまるくなって・・・すっかり黒ずんで、眼鼻立ちもくずれた」小さな人間の塊を見た。サラは「ミッシェル」と絶叫した。
ジュリアは、収容所から脱出したサラをかくまった老夫婦の孫・ガスパール・デュフォールに会うことができた。
サラの行方を知りたいと懇願するジュリアに、デュフォールは鋭い眼を向けて何度も尋ねた。「それを知ることが、なぜあんたにとってそれほど重要なのだ。・・・アメリカ人のあんたに」
わたしは答えた、サラに伝えたいんです。わたしはいまも彼女のことを思っている。わたしたちは忘れていない、と。・・・
「わたし、自分が何も知らなかったことを謝りたいんです。ええ、四十五歳になりながら、何も知らなかったことを」
サラは1952年の末にアメリカに渡っていた。そして、結婚して子供までもうけながら、自動車で立ち木に激突して死去していた。自殺だった・・・。
ジュリアは、45歳で恵まれた子供を産むことに反対された夫と別れ、ニューヨークに住むことになった。
生まれた子供を「サラ」と名付けた。
他の名前など、考えられなかった。この子はサラ。私のサラ。もう一人の、別のサラの谺(こだま)。あの黄色い星をつけた、私の人生を根底から変えた少女の谺。