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2019年7月24日

読書日記「大往生したければ医療とかかわるな 『自然死』のすすめ」(中村仁一著、幻冬舎新書)



   著者は、京都の社老ホーム付属診療所の医師。終末期のお年寄りに対する過剰医療について疑問を投げかけてきた。

 この本には、ショッキングな写真が載っている。入院した病院で胃ろう歴4年、85歳で亡くなった女性だ。
  胃ろうは、口から食べられなくなった終末期の患の腹部に穴を開け、チューブで栄養補給する治療。

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手足の関節が固まって曲がってしまっています。一見しただけでは、どこに手があって、どこに足があるのかわかりません。
 おむつをあてるのに、かなり難渋したようです。このままでは、棺桶に入りませんし、両手を組むこともできません。納棺の時に葬儀社の方に骨を折ってもらう"ポキポキケア"を実施してもらうしかありません。


 この写真で、もう一つ異常に見えるのは、折れ曲がってむき出しになっている両足が、85歳の老人と思えぬほどテカテカとむくんでいることだ。

胃ろうで病院から(同医師が所属する老人ホーム帰ってくる)ケースでは、概して必要カロリー、必要水分量の設定が(通常の倍前後と)多い傾向にあります。飲み込めない、飲み込まない年寄りは、もう寿命がきているのです。ほとんど寝たきりで、活動するわけではありません。基礎代謝という最低必要エネルギーも、健康な年寄りに比べて低いはずです。


 ベストセラーになった表題本に続いて著者が出した「大往生したけりゃ医療とかかわるな【介護編】 2025年問題の解決を目指して」でも、この同じ写真をもう一度掲載、こう論じている。

 
(この女性は)全く、本人と意思の疎通はできません。また、四肢が固まっていますから身じろぎも不可能です。しかし、人工的に流動物を入れていますから、呼吸もして心臓も動き、排泄もします。全く将来の展望が何もないまま、ただただ、死ぬことを先送りされている状態です。・・・このような無惨な姿で生かされることを、本人が望んだとは、到底、思えません。ある意味、人間の尊厳に対する、大変な冒瀆といってもいいのではないかと思います。


 北海道の 医師夫妻の共著本、「欧米に寝たきり老人はいない」(宮本顕二・礼子著、中央公論社刊) にも、同じようなことが書かれている。

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まったく物も言えず、関節も固まって寝返りさえ打てない、そして、胃ろうを外さないように両手を拘束されている高齢の患者を目の前にすると、人間の尊厳について考えざるを得ない。


 2人は、ヨーロッパの福祉国家であるデンマークやスウェーデンに調査に行ったところ、寝たきり老人、胃ろうなどの経管患者は一人もいなかったという。

 
高齢者が終末期を迎えて食べられなくなるのは当たり前で、経管栄養や点滴などの人工栄養で延命を図ることは非倫理的であるだけでなく、老人虐待であるということを国民が認識しているからだ。


 関西在住の医師で作家でもある久坂部羊「日本人の死に時――そんなに長生きしたいですか」(幻冬舎新書)という本で、こう述べている。

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今や長生きの危険が高まっているといえます。いったん胃ろうや人工呼吸器をつけると、簡単にははずせません。はずすと死に直結するので、だれも手が下せないのです。


 表題の著者、中村仁一医師は京都で「自分の死を考える集い」を毎月1回主宰している。先月中旬、279回目という集いに出かけてみた。
 「胃ろうや人工呼吸器をつけないで死ねるのか」という質問に、中村医師は「やはり医者は"死は敗北"と考えていますから」と、病院に入院してしまうと胃ろうなどの"過剰医療"は避けることが難しくなると答えた。「"自然死"を容認する医者はなかなかいない。それをどう実現するかが、これからの課題です」

 それでは"自然死"とはなにか。
 中村医師は、著書のなかで「自然死は、いわゆる『餓死』です」と、ぎょっとするようなことを言う。

 
死に際は、いのちの火が消えかかっていますから、腹もへらない、のども乾かないのです。・・・飢餓になると脳内モルヒネ様物質が分泌され、いい気持ちになる。脱水で血液が濃くの詰まることで、意識レベルがさがる。呼吸状態が悪くなって体内に炭酸ガスがたまり、麻酔作用で死の苦しみを防いでくれる。・・・年寄りの"老衰死"には、このような特権が与えられているのです。


「口からたべられなくなったらどうしますか 『平穏死』のすすめ」(講談社刊)の著者・ 石飛幸三さんは、東京の特別養護老人ホーム診療医。"自然死"のことを"平穏死"と呼ぶ。

 
病院では最後まで点滴をします。最後になると体は水分や栄養を受け付けないのに、それでも入れ続けます。ご遺体の顔や手足はむくみます。これに比べて、自宅で、自然に亡くなられた場合は、綺麗なお顔をされているそうです。ホームで亡くなられた場合も、・・・ご家族が一番喜ばれるのは、その綺麗なお顔の表情です。


 しかし、胃ろうなしに幸せな最後を迎えようとしてもなかなかできない大きな障壁がある、と中村医師や石飛医師は口をそろえる。
 意識のなくなった年寄りを「どんな姿でいいから生きていてほしい」と、家族が胃ろうなどを望むケースが多いことだ。中村医師は、こう書いている。

 
しかし、この場合、そう決断した人が自分でずっと世話し続けるならともかく、施設の預けたうえでというのはあまりに身勝手、虫がよすぎる気がしてなりません。


 日本尊厳死協会という財団法人がある。この団体は終末期を迎えた時の医療選択について意思表示をする「終末期医療における事前指示書」を作成するよう推奨している。
 そこには、こう記されている。「私の傷病が、現代の医学では不治の状態であり、既に死が迫っていると判断された場合には、ただ単に死期を引き延ばすためだけの延命措置はお断りいたします」

 しかし中村医師は「医療現場では、これは実用的ではない。内容の具体性が必要です」と、次のような事前指示を勧めている。

  • できる限り救急車は呼ばない
  • 脳の実質的に損傷ありと予想される場合は、開頭手術は辞退する
  • 一度心臓が停止すれば蘇生術は施さない
  • 人工透析はしない
  • 経口摂取が不能になれば寿命が尽きたと考え、経管栄養、中心静脈栄養、末梢静脈輸液は行わない
  • 不幸にも人工呼吸器が装着された場合、改善の見込みがなければその時点で取り外して差し支えない


 "終活"の一環として、この事前指示をモデルに自分でも"遺書"を作成してみようかと思う。家族の説得が難題だろうが・・・。