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2010年11月30日

読書日記「メッテルニヒ 危機と混迷を乗り切った保守政治家」(塚本哲也著、文藝春秋刊)

メッテルニヒ
メッテルニヒ
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塚本 哲也
文藝春秋
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 まず、著者の塚本哲也氏についてふれたい。

 著者の「エリザベート ハプスブルグ家最後の皇女」(文藝春秋刊)のことを、このブログで書いたのは、昨年の11月末だった。

 この本で大宅壮一ノンフィクション賞を受け、オーストリア政府から勲章を授与された直後の2002年、脳出血で倒れて右半身まひとなった。ルリ子夫人とともに群馬県の老人ホームに入り、リハビリを兼ねて左手パソコンを打つ練習を始め「マリー・ルイーゼ」を執筆中の2005年。「メッテルニヒを書いたら」と励ましていたルリ子夫人を腹部大動脈瘤破裂で亡くした・・・。そんなすさまじい生きざまを、WEBなどで知った。

 ブログを書いた約2週間後。昨年の12月12日付け読売新聞朝刊で橋本五郎特別編集委員の記事「メッテルニヒに学ぶ」を読んだ。塚本さんの「メッテルニッヒ」が完成したことを、新聞広告で知った直後だった。記事には「妻との永別の寂しさを紛らわすため、左手だけのパソコンで1年半かけ書き上げた」と書かれていた。

 「亡き妻 ルリ子に捧ぐ」と書かれた本をさっそく読んだが、雑事に追われてブログに書くのに1年近くかかってしまった。

 18世紀の末から19世紀に活躍したオーストリアの政治家、メッテルニヒの生涯を時系列的に追いながら、その魅力たっぷりな人間性を書き込まれている。元・米国国務長官、キッシンジャーをうならせた外交手腕も、ジャーナリストらしい簡潔な筆致で浮かび上がってくる。「繰り返しが多い」という批判も一部にあるが、現在のEUの基礎を築いたと言われる頑固なまでの保守・平和主義?をその時代とともに浮かび上がらせて、あきさせない。

 フランスに大使として赴任したメッテルニヒは、その大国主義から「生涯の敵」としていたナポレオンと渡り合い、友情を深めて、故国・オーストリアに大きな貢献をする。ナポレオンのロシア遠征をいち早く確認し、その準備にとりかかれたのだ。

 八年後の一八〇二年、メッテルニヒは回顧している。
 「ナポレオンと私は、お互いに相手の動きを注意深く観察しながら、あたかもチェスをするように数年間を過ごしたのです。私が彼に大手をかけようとすると、彼は、私をチェスの駒もろとも打ち滅ぼそうとした・・・」(『回復された世界平和』キッシンジャー)。


 メッテルニヒが、真骨頂の外交手腕を発揮したのは、ナポレオン戦争のヨーロッパ体制を話し合うために開かれたウイーン会議だった。

 議長のメッテルニヒは、各国の対立をさますために、実質的な論議を遅らせることをいとわなかった。

 音楽の都の本格的なオーケストラで、美しい女性と舞踏会で踊るチャンスは滅多にあるものではない。シャンパン、ワイン、食事代はすべてメッテルニヒが払ってくれる。責任ある数ヵ国の代表団以外は、みんな笑顔のほろ酔い加減で、夜更けまで踊った。寝坊しても会議はないのだ。
 だから「会議は踊る、されど進まず」なのである。


 その間。メッテルニヒの巧みな誘導で領土問題の話し合いは妥結し、長くヨーロッパの国際秩序を守ったウイーン体制が確立された。

 十九世紀のウイーン会議は今日のヨーロッパにつながっていく重要な分岐点でもあった。


 しかし、均衡と秩序を守ろうとしたメッテルニヒは、歴史家から「保守・反動」と呼ばれ、盛り上がっていく産業革命の中で「次第に浮き上がり、取り残されることになった」。

 そして、たぐまれな外交家も老いには勝てなかった。

 用事もないのにぶらっと宮廷の皇族の部屋を訪れて、よく自分の想いを、頼まれもしないのに一方的に話していくことが多くなった。この二、三年ぶつぶついっていた。


 大柄だが、すらっとしていて、優雅だが勇気があって、よく話をするが、お喋りではなく、人の話に耳を傾ける時は上手に沈黙し、いつもユーモアとエスプリがあって、女性には親切で優しかった。


 かってフランス社交界を魅了し、多くの女性を愛人にしたそんな姿は、もううかがえなかった。

 メッテルニヒの人生の最後の言葉は「私は秩序を守る岩石である」というもので、一生を貫いた信念だった・・・


 ▽最近読んだ、その他の本
  • 「黙祷の時間」(ジークフリート・レンツ著、松永美穂訳、新潮社刊)
     はじめて知ったが、82歳のときにこの本を書いた著者は現代ドイツ文学を代表する作家だそうだ。
     18歳の高校生が、美しい英語教師・シュテラに恋をする。表題は、その追悼式のことだが、最初から最後までの静ひつな文章に引き込まれる。主人公を見守る父親、シュテラが愛した父親、2人の恋人たち・・・。どの人たちも、しっとりとやさしい。
     シュテラからもらった最後の絵葉書には、こう書いてあった。
     クリスティアン、愛は暖かくて豊かな波のようです」

     遺体は灰となって、海に吸い込まれ、花束が投げられる。
     運ばれていくこれらの花々は、ぼくにとって永遠に不幸を象徴するだろうな、と思った。喪ったものを、この華が慰めに満ちた姿で体現してくれたことは、けっして忘れないだろう、とも。

     この小説は「ウラ」という女性に捧げられている。訳者によると、2006年に56年間連れ添った妻に先立たれた著者は、2008年にこの本を書き、2010年に長年の隣人だった女性、ウラと再婚したという。
    黙祷の時間 (新潮クレスト・ブックス)
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  • 「私は売られてきた」(パトリシア・マコーミック著、代田亜香子訳、金原瑞人選、作品社刊)
     図書館で借りようとしたら、児童書の書架に並んでいた。ヤング・アダルトという分野の本。このブログに書いた本もいくつかリストアップされている。
     ネパールの山村で育った13歳の少女が、わずかな金で継父に売られ、インドの売春街で悲惨な経験をしながら、アメリカ人のボランティアに救われる。
     少女の日記というかたちを取っているが、ジャーナリストでもある著者は「言葉にならない恐怖を経験した」多くの少女と面談し、インド・コルカタの売春街、救助・援助団体の人たちに取材を重ね、この小説を書いた。
     訳者は「シアトルの書店で、あどけない少女の写真に"Sold"というタイトルの表紙を見た瞬間、胸がざわざわし・・・」翻訳を決めたという。
    私は売られてきた (金原瑞人選オールタイム・ベストYA)
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2009年11月23日

読書日記「エリザベート ハプスブルク家最後の皇女」(塚本哲也著、文藝春秋刊)

エリザベート―ハプスブルク家最後の皇女
塚本 哲也
文藝春秋
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おすすめ度の平均: 4.5
4 興味深かったですが、社会情勢が複雑で難しかったです
4 興味深い本
5 一人の人の人生とは思えない!


 きつーい中国語教室の宿題に追われたり、パソコンが不調だったりして、ブログを書くのも久しぶりだ。

 1992年に発刊されたけっこう古い本だが、この夏に出かけた「ウイーン紀行」を、このブログに書いた後、急に再読したくなって本棚からひっぱり出して一挙に読んだ。2003年には文春文庫(上、下)にもなっている。

著者は、毎日新聞のウイーン支局長や防衛大学教授を歴任した人で、この本で大宅壮一ノンフィクション賞を受けている。

 今年は、日本、オーストリアの交流年。様々な行事が行われており、先日も大阪・天保山で「クリムト、シーレ ウィーン世紀末展」を見てきたが、来年1月早々からは京都国立博物館で「THEハプスブルク」展も開かれる。

 この本の主役は、京都の展覧会でも活躍するであろう絶世の美女「皇妃エリザベート」ではない。その孫娘「エリザベト・マリー・ペネック」だ。

 シシイの愛称で知られる「皇妃エリザベート」は、日本でもなんどかミュージカルになっているが、孫娘「エリザベート」もそれに負けない波乱に満ちた一生を送った。

 17歳の時に宮廷舞踏会で出会った青年騎馬中尉に一目ぼれ、孫を溺愛する皇帝フランツ・ヨーゼフⅠ世の「余は軍の最高司令官として・・・エリザベートとの結婚を命ずる!」という一言で、皇位継承権まで放棄して身分違いの結婚をする。
 4人の子供に恵まれるが、夫の浮気と金遣いの荒さ、知性のなさに悩まされ、長い離婚訴訟が続く。海軍士官レルヒとの悲恋、ハプスブルク家の崩壊。そして社会民主党の指導者レポルト・ペツネックとの出会い。社会民主党に入党し「赤い皇女」とも呼ばれた79年の異色の生涯を、筆者はち密な取材で綴っていく。

 「皇妃エリザベート」の生きざまが縦糸だとすると、筆者は大切な2本の横糸をこの物語に織り込んでいく。
  •  1つは、筆者が「あとがき」で書いているように、この本が「エリザベートとハプスブルク王朝を軸にした中欧の歴史物語」であるということ。
  •  2つ目は、ハプスブルク家の歴史が、現在のEU誕生の原型になっているということだ。
 

 「エリザベート」の父で、オーストリア・ハンガリー帝国の皇太子ルドルフは、エリザベートが4歳の時に愛人と情死してしまう。フランス名画「うたかたの恋」のモデルにもなったが、筆者はルドルフをこう評価している。

 政治的外交的に鋭い洞察力を持ち、いち早く二十世紀を視野に入れていた有能な皇太子であった。先見の明があり過ぎたために、保守的な(ドイツ頼みをやめようとしない)フランツ・ヨーゼフ皇帝と衝突、父との戦いに敗れての自殺であった


 後にフランス首相となり、反ドイツ主義者であったジョルジュ・クレマンソーに会った時に、ルドルフがこう語ったという。
 ドイツ人には全く理解できないらしい、オーストリアにおいてドイツ人、スラヴ人、ハンガリー人、ポーランド人がひとつの王冠の下で一緒に暮らしていることが、どんなに意義深く重要かをーー。・・・オーストリアは、様々な人種、民族が一つの統合された指導部の下で一緒になった連合国家なのだ。世界文明にとっても大切な理念だと思っている。


 エリザベートが生まれ、育った十九世紀末のウイーンは、画家のクリムトやシーレ、作曲家ヨハン・シュトラウス親子らが活躍し「世紀末」の繁栄に酔っていた。

 しかし思いがけず第一次世界大戦が勃発し、広大な版図を持つハプスブルク帝国は崩壊、古き良き時代は突然幕を降ろす。傘下にあった各民族はナショナリズムに燃え、それぞれ自らの国家建設に走り出し、四部五裂になっていく。ばらばらになった国々はみな小国で、国づくりの困難と格闘しているうちに、ヒトラーの餌食となり、続いてスターリンの圧政に苦しみ、不幸な苦難の途をたどった。


 「ハプスブルク王朝が滅亡しなければ、中欧の諸国はこれほど永い苦難の経験をしなくてもすんだであろう」。英国の首相だったウイストン・チャーチルも嘆いている。

 第二次世界大戦後のヨーロッパ最悪の紛争といわれる、ボスニア・ヘルツエゴビナ紛争も、ハプスブルグ王朝の崩壊に遠因があったと言えなくもないかもしれない。

 しかし、著者はエピローグで明確に語っている。
 とはいっても、王朝の復活はありえないし、一度滅びた多民族国家はもはやもとに戻らないことを、ハプスブルク帝国崩壊の歴史は教えている。
 一方で、著者はもう一本の横糸を繰り出す。

 エリザベートは「汎ヨーロッパ運動主義」に関心を持ち、それを提唱「EUの父」とも呼ばれるリヒャルト・クーデンホーフ・カレルギーへの支援を惜しまなかった、というのだ。

 こんな記述がある。
 (ヒトラー率いるドイツのオーストリア併合の危機が迫るなかで)いち早く逃亡脱出したエリザベートの知り合いもいた。パン・ヨーロッパ運動のクーデンホーフ・カレルギー伯爵・・・
  映画「カサブランカ」の主要登場人物のモデルとなるクーデンホーフ・カレルギー伯爵の逃避行の始まりである。
クーデンホーフ家の墓碑。クーデンホーフ・ミツコの名前も刻まれている(ウイーン・ヒーツイング墓地で):クリックすると大きな写真になります

 この夏、ウイーン在住のパンの文化史研究者、舟井詠子さんに案内されてシェーンブルン宮殿南端にあるヒーツイング墓地にあるクーデンホーフ家の墓地を訪ねた。
 墓碑に刻まれた名前の一つに「グーテンホーフ・ミツコ」とある。日本名は「青山光子」。「EUの父」リヒャルト・クーデンホーフ・カレルギーの母親である。