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2008年5月14日

読書日記「別冊太陽 河鍋暁斎ー奇想の天才絵師 超絶技巧と爆笑戯画の名手」(監修・安村敏信、平凡社)「図録・絵画の冒険者 暁斎ー近代へ架ける橋」(京都国立博物館)

 このブログで以前に書いた「カラヴァッジョへの旅」の著者・宮下規久朗氏が、確か読売新聞に今月11日まで京都国立博物館で開催されていた「河鍋暁斎」展を「この春、いや今年で最も興味ある展覧会」と絶賛していた。

 これは見逃せないと、連休前に出かけてみた。ちらしのキャッチコピーが「泣きたくなるほど、おもしろい」。

 最近は展覧会に行っても「冥土への土産に持っていくわけにもいかない」と、本棚の荷物になる図録などは買わないことにしているが、帰りに思わず、この2冊を買ってしまった。いずれもA4変形版。厚紙を使った300ページ強と約170ページが、重いこと。

 恥ずかしながら、これまで河鍋暁斎(きょうさい、1831~89)という画家を知らなかった。「別冊太陽」には「幕末・明治の動乱期、強烈な個性を前面に押し出し、日本画の表現領域を広げ続けた桁外れの絵師がいた」とある。狩野派の流れをくむ絵師のようだが、二つの図録の表題に書かれた奇想、超絶技巧、爆笑戯画、冒険者といった言葉がちっともおおげさと思えない新鮮な驚きを、図録を見直しても感じる。

 「没後120年記念 特別展覧会」と銘打った京博の展覧会は8部で構成されていた。

 まず、驚かされるのが、数々の「幽霊図」。

 ほとんど単色使いで、乱れ髪でヌーと立つリアルさが、本当に怖い。なんと、生首を口にくわえた幽霊までいる。

九相図 ネットで見つけた図柄がちょっと小さくて、分かりにくいが、左の「九相図」も、別の意味で鬼気迫る作品。長さ1・3メートル、下絵は6・8メートルもあり、人間(下絵を見ると貴婦人らしい)が死んだ後に腐敗し、白骨化し、土に戻るまでを9段階に分けて描いている。死をみつめ続ける視点に身震いが来る。

 展覧会では「巨大画面への挑戦」というコーナーがあった。

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幅3メートルを越える「地獄極楽図」、高さ3・5メートルを越える「龍頭観音」と並んで、幅17メートルと展示室いっぱいに広がった「新富座妖怪引幕」は、なかでもあ然とする迫力だ。開場して2年目の新富座舞台の引幕で、人気役者を妖怪に仕立てている。暁斎は酒を飲みながら、この巨大画面を4時間で描きあげたという。

蛙が人力車を引いてる絵蟹の綱渡り 「笑いの絵画」のコーナーでは、蛙が人力車を引いたり、昆虫が踊ったり、瓜の山車に乗った猫をねずみが祭りよろしく引き回したり・・・。(右)ユーモアたっぷりのKyousaiワールドが展開される。

 「蟹の綱渡り」(左)は、一匹が唐傘と扇子を持ち、得意げに綱を渡り、落ちそうになったもう一匹は鋏でぶら下がり、綱は切れる寸前だ。下では、太鼓をたたいたり、三味線ではやしたりの大騒ぎ。

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 暁斎は、様々な動物を自宅で飼い、写生に励んだという。

 展覧会には出展されていなかったが「別冊太陽」に掲載されている「鳥獣戯画 カエルのヘビ退治」は、いつも脅されているヘビの自由を奪うことに成功したカエルたちがヘビの胴体で曲芸をしたり、ぶらんこをしたりして日ごろの憂さ晴らしをしている。大英博物館の所蔵。暁斎の想像力の広がりがおもしろい。

 おもしろさだけでは、暁斎は終わらない。

 尊敬する美術記者である木村未来さんは、4月24日付け読売紙面で「(暁斎の)根底にあるのは、徹底した観察眼と筆力の確かさだ」と書いている。

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「大和美人図屏風」は、弟子となったイギリス人建築家・コンドルに美人画の制作技法を示そうと1年をかけて仕上げた作品。「細密な描写の緊張感あふれる美しさに魅せられる」と、木村記者は書く。コンドルは、この作品を生涯大切に所蔵。大英博物館が獲得を熱望したが、日本のコレクターが購入し、京都国立博物館に寄託したという。

漂流奇憚西洋劇 「漂流奇憚西洋劇」は、その下絵が興味深いと木村記者は書いている。「和紙を張り重ねて墨線を何度も引き直し・・・スカートの長さや膨らみ、シルクハットの角度などを、あれこれ試した痕跡である」

 なんど見ても、おもしろい、この2つの図録。冥土への土産にはならなくても、お買い得でした。

 注:左側にならんでいる「新富座妖怪引幕」「鳥獣戯画 カエルのヘビ退治」「大和美人図屏風」は、クリックすると大きな写真になります。


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2008年2月27日

読書日記「カラヴァッジョへの旅 天才画家の光と闇」(宮下規久朗著、角川選書)

 イタリア・バロック時代の巨匠といわれるカラヴァッジョという画家を始めて知ったのは、一昨年9月、「和田幹男神父と行く『イタリア巡礼の旅』」(ステラ コーポレーション主催)というツアーに参加したのが、きっかけだった。

 著名な聖書学者である和田神父に導かれるままに古い教会にたどり着くと、薄暗い礼拝堂に掲げられたカラヴァッジョの宗教画が、かすかな光のなかに浮かびあがってくる。

 その強烈な印象が忘れられず、帰国してからカルヴァジョ研究の第一人者と言われる著者(神戸大大学院人文学研究科准教授)の本3冊を入手した。

 著者は、最新作「カラヴァッジョへの旅」の後書きにある「カラヴァッジョ文献案内」などで、この3冊について説明している。

 「私の集大成」と言う「カラヴァッジョ 聖性とヴィジョン」(名古屋大学出版会、2004年)は、A5版、本文だけで300ページ近い大部なもの。作品の解釈なども詳しく、サントリー学芸賞や地中海ヘレンド賞を受けている。

 「カラヴァッジョ 西洋絵画の巨匠⑪」(小学館、2006年)は「これを越える画集は世界にない」と著者が自負する大型のカラー図版。

 カラヴァッジョ研究の総集編という「カラヴァッジョへの旅」は、各地に残る天才画家の足跡をたずねる旅で構成されている。

 ミラノに生まれ、ローマで後世に残る名品を残しながら、殺人を犯して南イタリアに逃亡。ナポリやシチリア、マルタ島でもけんかや暴力ざたなどの無頼をつくしながら描き続け、真夏のトスカーナの港町で行き倒れる。著書は、38歳の短い生涯を綴りながら、描いた作品を簡明に解説している。

 その内容を書くには、どうしても作品の図版が欠かせないが、著書からコピーすれば、やはり著作権にふれるのだろう。WEBを探していたら、サルヴァスタイル美術館という個人サイトを見つけた。画像はあまり鮮明ではないものの、カラヴァッジョの主要作品のコピーを見ることができる。

  一昨年のイタリア巡礼の後、ツアー仲間の岡本さんから詳細な記録をいただいた。それによると初めてカルヴァジョの作品に接したのは、ローマ滞在5日目。ナヴォーナ広場に近い聖ルイ教会(フランス人の教会)のなかにある5つの礼拝堂の一つの正面に「聖マタイと天使」、左の壁に「聖マタイの召命」、右に「聖マタイの殉教」と、マタイ3部作が掲げられていた。右側の献金箱にコインを入れると、電気の明かりがついて暗い闇に沈んでいた作品が浮かびあがる。

 「聖マタイの召命」は、絵画のなかの誰がキリストの召しだしを受けたのかという「マタイ論争」で有名な絵。諸説があるなかで、宮下准教授は右端でうつむきコインを数えている徴税吏の若者がマタイだと断言する。「次の瞬間、ばたんと立ち上がって、呆気にとられる仲間を背に、キリストとともにさっさと出て行くであろう」クライマックスの直前を捉えた作品、という。

 キリストが伸ばした右手は、システィーナ礼拝堂天井にミケランジェロが描いた「アダムの創造」のアダムの左手を左右半回転したもの。

 どこで読んだか、聞いたりしたのかの記憶がないのだが、この手を伸ばす構図が映画「ET」にも生かされていることでも知られている。

 ローマ滞在5日目の昼前には、聖アウグスチヌス教会で「ロレートの聖母」を見た。ひざまずく農夫の足の裏の汚れのリアリティさには、当時の「民衆が大騒ぎした」らしいが、聖母のモデルをめぐる著書の記述も興味深い。

 その日の夕方、聖マリア・デル・ポポロ教会礼拝堂で「聖パウロの改心」を見た印象は、とくに強烈だった。

 「画面を圧する大きな馬の足元に若い兵士が横たわって両手を広げている。この兵士はサウロ(後のパウロ)であり、今まさに改心しつつある」。

 その証拠に、絵に描かれた「馬丁も馬もパウロに起こった異変にきづいていないかのように動作を止めてうつむいている」。つまりこの絵は、パウロの脳のなかで起こったことを描いていると、宮下准教授。

 「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」(使徒言行録第9節4章)という聖書の言葉を、ガラヴァジョは「一人の人間の内面に起こった静かなドラマに変容させてしまった」のだ。

 名画の完成度が高まるにつれてガラバッジョの無軌道ぶりは増していく。そして、友人やパトロンに何度も助けられながらも、同じ過ちを繰り返す。

 著者は終章でこう書く。「私がカラヴァッジョに引かれるのは・・・こうした彼の生涯と破滅的な人間性のためである」「私も自分が抑えられないかたちで、怒りを暴発させては・・・失敗と後悔を繰り返してきた」「誰しも『内なるカルヴァッジョ』を抱えて生きているのだ」

 宮下准教授のホームページに、ある雑誌に載った顔写真が貼り付けてある。

 「趣味は、任侠映画鑑賞」と言う無頼っぽい表情は、ウイキペディアに掲載されているカラヴァッジョの肖像画に似ていなくもない。

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(追記:2013/3/10)  
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 久しぶりのカラヴァッジオとの再会である。

著者のものを読むのは初めてだが、2度にわたるカラヴァッジオを訪ねる旅を綴っている。それを個人美術批判誌に連載しているうちに、表題の「カラバッジオへの旅」が刊行されたため「・・・からの旅」といった、いささか中途半端な題名になったようだ。
カラヴァッジオ作品の分析も、宮下紀久朗と一味違う。
 例えば、 「洗礼者聖ヨハネの斬首」(マルタ島、サン・ジョヴァンニ大聖堂)を見て発見したのは「色彩の二種類の美しさ」だという。
 
ひとつは、聖ヨハネの赤い布。すこし朱色のまじった、ほとんど超絶的としかいいようのない赤い色である。超絶的とは、色彩を極めていって色彩を超えるところまで到達してしまった色彩、という意味でもある。そして色彩を超えることによって「絵画」 の何かをまで超えてしまっているという意味にはかならない。この赤は、赤そのものであり、同時に赤という色を超えてしまった赤でもある。・・・
 そしてもうひとつは、背景の、というよりこの絵のひろがりそのものを作り出している色彩である。それは現実的には壁、格子窓、門、門のアーチの石組み、地面(床面)の茶色っぼい、黒っぼい色彩のことだ。この大作の面積からいうと、その部分がいちばん大きい。この色彩がうまく描けないと、絵そのものが台無しになる。左側の人物たちを描くことができても、それらを真に存在させるためには、ひとつのまとまったひろがりのなかへと着地させなければならない。そしてその「ひろがり」とは、色彩によってしか実現されえないのである。そういう「色彩」というものがある。そうして、そのような「色彩」が、とくべつの自己主張をすることなしに美しい、ということが起りうる。

「聖母の死」(パリ・ルーヴル美術館)が、現代人の心を打つのは「神々しくない」からだ、という。
 
髪はボサボサで、お腹はすこし膨れたように描かれ、美しいとはいいがたい素足の両足先が投げ出され、ありふれた、普通の死体としてころがっている。その顔は、大方の図版よりはずっと灰色に近く、骸の土気色をしている。テヴェレ河のじっさいの水死体をモデルにしたという説もある。

この絵のハイ・ライト、内容の点でいちばん光が当っているのは、いうまでもなく聖母の顔である。よく見ると、その顔には苦痛も神々しさもないかわりに、なんとも言い難い穏やかさが浮んでいる。この顔をそのように表現したことに、僕は、カラヴァッジオの鋭い直感力と天才を感ずる。

著者が「最高峰」と評価するのは、「ロレートの聖母」(ローマ・サンタゴスティーノ聖堂)
 
二人の巡礼が眼にしているのは、現実界に姿を現した聖母子というよりは、現実界に現実に存在する母子である、というように見える。・・・それはどまでに、「物語性」をこえて、「リアル」なのである。・・・
 その「リアル」さが、この絵を劇的なものではなくて、むしろ静かなものにしている。そこにいかなる大仰な身振りもなく、過剰な舞台背景もないことが、この作品の美しさをより深めている。そしてそういう深さが、静けさをもたらす。