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2012年3月 8日

読書日記「瓦礫の中から言葉を わたしの<死者>へ」(辺見庸著、NHK出版新書)



 著者は宮城県石巻出身だが「脳出血の後遺症で右半身がどうして動かない」ため、被災地に駆けつけた友人、知人を助けにいくことができない。
 代わりに、友人たちからの電話などで情報が集まってくる。

 
三陸の浜辺に夜半、打ち上げられた屍体があった。それは首のない屍体であったり、手足や眼球をなくした屍体であったり、逆に首だけの、胴だけの、片眼だけの部位だったりする。それが真っ暗闇の浜辺に何体も何体も打ち上げられている。
   今度の津波はゆっくりと水位が上がってくるようなものではなかったのです。・・・もっと金属的なひどく重いものが、一気に突進してきたような。・・・人間のからだはどうなるのか。それはもうねじ切れてしまう。爆撃を受けたみたいに破断する。わたしの友人は、そういう大げさなひどい言葉をつかわない人間だけれども吐くように言っていました。「地獄だ」と。


 しかし、当時の新聞やテレビで流されていたのは「おびただしい屍体をかき消した薄っぺらな風景」でしかなかった。
死者、行方不明者数や放射線量など乾いたデータばかりで「死はそれぞれの重み、厚み、深み、リアリティを奪われ、風景はいわば漂白され除染され除菌され消臭されていました」

 東京のある放送局につとめる若い友人は、3・11後の局内の雰囲気を「まるで戒厳令下です」と話した。

 
経験したこともない大きな出来事に遭遇すると、ニュースメディア内部では異論の提起、自由な発想がとどこおり、沈黙と萎縮、思考の硬直とパターン化におちいったりするものです。だれが命じたわけでもないのに、表現の全分野で自己規制がはじまります。


   「法律も戒厳司令部も発令主体も責任の所在」もなく「だれからともなく、菌糸のように発酵し」ひろがっていく「心の戒厳令」が、世の中を覆ってしまったのだ。

 3・11という深い現実に迫ろうとする本当の「言葉」は、どこにも見あたらなかった。

 政府が「福島原発から放出された放射性セシウム137は広島に投下された原子爆弾の百六十八個分」という試算を発表した時もそうだった。
 「語り手や記事の書き手が、数値と人間の間の恐ろしい真空を、生きた言葉で埋めようとしていないために、なにごとも表現していない状況が続いた。

 著者にとって、広島に落とされた原発は単なる「数値」などではありえない。被爆体験はないが、中学3年生の時に読んだ 原民喜の小説 「夏の花」から得た迫体験が、心の奥深く刻み込まれたからだ。

この小説のなかに、次のようなカタカナの1節が挿入されている。

ギラギラノ破片ヤ
 灰白色ノ燃エガラガ
ヒロビロトシタ パノラマノヨウニ
アカクヤケタダレタ ニンゲンノ死体ノキミョウナリズム
スベテアツタコトカ アリエタコトナノカ
パット剥ギトツテシマッタ アトノセカイ
テンプクシタ電車ノワキノ
馬ノ胴ナンカノ フクラミカタハ
ブスブストケムル電線ノニオイ


「スベテアツタコトカ アリエタコトナノカ」
 「パット剥ギトツテシマッタ アトノセカイ」
この2行について著者は「そのまま大震災、原発メルトダウンにあてはめてもなんら違和感はありません」と書く。

 さらに著者は、"数値報道"で隠されてしまった「ひとりひとりの死」について考える。    シベリア抑留体験をした詩人、石原吉郎の言葉を引用している。

 
私は、広島告発の背後に、「一人や二人が死んだのではない。それも一瞬のうちに」という発想があることに、つよい反撥と危倶をもつ。一人や二人ならいいのか。時間をかけて死んだ者はかまわないというのか。戦争が私たちをすこしでも真実へ近づけたのは、このような計量的発想から私たちがかろうじて脱け出したことにおいてでは なかったのか。
 「一人や二人」のその一人こそが広島の原点である。年のひとめぐりを待ちかねて、燈寵を水へ流す人たちは、それぞれに一人の魂の行くえを見とどけようと願う人びとではないのか。広島告発はもはや、このような人たちの、このような姿とははつきり無縁である。
              (「アイヒマンの告発」『続・石原吉郎詩集』思潮社より)


 著者は「『一人の魂の行くえを見とどけようと願う』だけでよいのか」と自問しつつ、 堀田善衛の著書のなかにある「人間存在というものの根源的な無責任さ」という言葉に救いを求めようとする。「人間存在の無責任さ」を「私自身の無責任さ」と、置き換えることによって・・・。

  
......大火焔のなかに女の顔を思い浮べてみて、私は人間存在というものの根源的な無責任さを自分自身に痛切に感じ、それはもう身動きもならぬほどに、人間は他の人間、それが如何に愛している存在であろうとも、他の人間の不幸についてなんの責任もとれぬ存在物であると痛感したことであった。それが火に焼かれて黒焦げとなり、半ば炭化して死ぬとしても、死ぬのは、その他者であって自分ではないという事実は、如 何にしても動かないのである。
                            (『方丈記私記』ちくま文庫より)


 辺見庸の作品は、年々難しくなっているように思う。3・11前後に書かれた何冊かを手にしたが、浅学菲才の頭脳が消化できず、途中下車してしまった。

 「あとがき」のなかで著者は「この本のテーマ(キーワード)は『言葉と言葉の間に屍がある』と『人間存在というものの根源的な無責任さ』」と書いている。

 「言葉と言葉の間に屍がある」も本文にある。やはり消化できないままでいる。