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2016年1月28日

 読書日記「みんな彗星を見ていた 私的キリシタン探訪記」(星野博美著、文藝春秋刊)


みんな彗星を見ていた 私的キリシタン探訪記 (文春e-book)
文藝春秋 (2015-11-20)
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 著者の作品を読むのは、久しぶりだが、読み終えるまで意外に時間がかかった。「キリシタン」というテーマへの取り組みが尋常ではないほど真摯で、難解な引用文献も多かったせいらしい。

 自分の先祖にキリシタがいたのではないか」と勝手に思い込んだのが「私的キリシタン探訪記」という副題をつけたゆえんらしい。16世紀にローマに派遣された 天正遣欧使節の4人の少年たちが持ち帰り、秀吉の前で演奏を披露したという弦楽器・リュートを買い求めて習い始めることから始め、長崎のキリシタン迫害の地を訪ね歩く。ついには殉教宣教師の故郷であるスペインにまで足をのばす、という時空を超えた異文化漂流記だ。少しはキリシタン文化をかじったことのある自分にも、新しい発見を突き付けられるノンフイクションだった。

 とくに興味を引いたのは、このブログでもなんどかふれたことのある 「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の世界遺産登録推薦への厳しい視線だ。

 筆者はキリシタンに興味を持ちだした2008年に、殉教した天正遣欧使節の1人、 中浦ジュリアンが、ローマ・カトリック教会から 「列福」されるのを知り、長崎を訪れる。

 私も見る機会があった「バチカンの名宝とキリシタン文化展」長崎歴史文化博物館で鑑賞、そこを出た道のはす向かいに 「サン・ドミンゴ教会跡」という碑を見つける。

 
 矢印に誘われるように、地下へ通じる階段を降りた。階段を一段降りるごとに、表を通る車の音は遠ざかっていき、気温が下がっていく。どこへ連れていかれるのか、不安な気持ちのまま降りていくと、ライトアップされた遺構が目の前に現れた。
 ひんやりして静まりかえった構内は、回廊から地下を見下ろす構造になっており、波打った石畳や地下室、排水溝が見えた。壁には市内で出土した磁器や花十字紋瓦(十字架模様のついた瓦)が展示してある。敷地の広さや頑丈な石が多く使われていることから、かつては立派な石造りの建物であったことがうかがえる。


 ここは、現在は 桜町小学校の校庭の一角なのだが、1609年、長崎代官のキリシタン、村山等安が寄進した土地に、薩摩を追われたドミニコ会のフランシスコ・モラーレス神父が建てた、サント・ドミンゴ教会の地下遺構だった。

 長崎には、禁教令以前には13の教会があったが、すべて幕府命で取り壊された。
 世界遺産に推薦された他の教会は、すべて明治の禁教令解禁後に、信者たちが金を持ち寄って建てたものだ。

 壊された教会跡はどうなったのか。

  トードス・オス・サントス(詩聖人)教会の跡地には、春徳寺が建てられた。
 岬の教会は、長崎奉行所西役所から長崎県庁へ。
 サン・ジョアン・バウチスタ教会は、日蓮宗本蓮寺。
 「ミゼリコルディアの組」本部教会は長崎地方法務局。
 サン・フランシスコ教会は、処刑を待つ多くのキリシタンを収容した桜町牢になり、長崎市水道局庁舎へ......。
 そして、 山のサンタ・マリア教会は、長崎歴史文化博物館! 


 異なる宗教を信じる信徒を弾圧し、そのあとに為政者側の象徴-仏寺や行政機関- を建てることが、長崎では繰り返されたのである。

 長崎は、異国への窓口であり、多くのキリシタンが暮らした街であると同時に、激しい弾圧で多くの血が流された街でもある。

 「国際色豊かな自由な街というイメージは、いったん保留しなければ」と、筆者は思う。

 小学校の広い校庭から発掘されたことで保存が可能になったサン・ドミンゴ教会跡は「日本では真に貴重なキリシタン遺跡」なのに「世界遺産」候補にさえなっていない。隣接して、入場無料の資料館があるだけだ。

 このブログを書いている最中に、たまたま大阪で長崎県と朝日カルチャーセンターの共催で昨年に続いて「『長崎の教会群とキリスト教関連遺産』の魅力Ⅱ」セミナーが開かれた。友人Mを誘って、出席した。

 最初に「長崎県キリスト教史の概要」について講話した長崎県長崎学アドバイザーの本馬貞夫さんによると、キリシタン全盛時代に建設された教会は、13ではなく14。
 これらの教会は、幕府が近隣の藩に取り壊しを命じたが、その作業の徹底ぶりが担当した藩によって差があり、サン・ドミンゴ教会は"ずさん"な作業で埋め立てた上に代官屋敷が建てられてしまい、地下遺跡として残ったらしい。
 山のサンタ・マリア教会は、長崎歴史文化博物館を建てる時に発掘調査が行われたが「ほとんど、なにも出てこなかった」

 近く、岬の教会があった県庁駐車場の一部発掘が行われるらしいが、明治初期にキリスト教禁教令が解かれてから、あまりに長い年月が経っているのに「〇〇教会跡」という石碑しか残っていない。「(長崎の)キリスト教に対する体温が低いことが気になった」と、星野博美は思う。

 「島原に行ってみるしかない」
 筆者は、キリシタン大名、有馬晴信の居城だった日野江城跡を訪ねる。

 筆者にとって日野江城は、 セミナリオ(修道士育成の初等学校)を城下に備えた、キリシタン文化の「ゆりかご」という位置づけだった。

 国と長崎県が世界遺産に推薦する「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」の1つにもなっているが「道しるべや看板、の類がほとんどなく、ここをアピールしようという積極的な意思がまったく感じられない」。民家の敷地の端にあるセミナリオ跡は、ひさしの下に碑と案内板があったが「バス停と間違えそうだ」

 
前日「ここにはキリシタンの遺跡がほとんどない」と落ち込んだばかりの長崎でも、それが400年前のものではないにせよ、十字架や教会が数多く視界に入った。長崎では、どんな形であれ、キリシタンの記憶は受け継がれている。ここにはそれがない。十字架の類もまったくない。あ、やっと十字架を見つけた、と思ってよくよく見ると、ただの電柱だった。

 いくら禁教令が二五〇年ほど続き、キリスト教が天下の御法度になったとはいえ、その土地の持つ記憶や気配というものは、これほど見事に消せるものだろうか。土地の記憶が、ここでは受け継がれなかったのか。  そこではたと思う。記憶を受け継ぐはずだった人間は、みんな死んでしまったのだ。住民は入れ替わった。記憶がつながるはずもない。


 日野城が「ゆりかご」なら、同じ世界遺産候補で島原の乱の決戦場となった 原城跡は「『キリシタンの世紀』の終末を象徴する『墓場』」だ。

 そこは、ほとんど森と化した日野江城跡とは対照的に「一言で言えば、何もない原っぱだった。(本丸大手門跡などの案内板はあるが)ここで三万七〇〇〇もの民が殺されたとう事実を想像するのは難しい」

 幕府軍の大将の記念碑、乱の鎮圧後に赴任した代官が建てた供養塔のほか、祈りをささげる天草四郎像、白い十字架、天草四郎の墓碑はある。しかし、この墓碑は近くに民家の石垣に埋もれていたのが移されたものという。

 
 禁教令が続いた明治初期ならまだしも、もう二十一世紀である。この地の慰霊は、キリスト教会に委ねるべきではないかと私は思うのだが、話はそう単純ではない。
 幕藩体制の根幹を揺るがす反逆と見なされた彼らを、安らかに眠らせてなるものかという「お上」意識を、原城からなんとなく感じるのである。

 (教会にとっても)原城の犠牲者の取り扱いが難しいのは、教会が説く「世俗権力への服従」と「無抵抗」を破ったからだ。世俗権力に徹底抗戦を挑んだ彼らの死は、カトリック教会では「殉教」とは認められない。


 大阪での「『長崎の教会群とキリスト教関連遺産』の魅力Ⅱ」セミナーで、2人目の講師を務めた南島原市教育委員会文化財課課長の松本慎二さんによると、原城跡は1938年(昭和13年)に国の史跡に指定された。

   しかし、発掘調査が始まったのは、2000年(平成2年)。しかもそれは、キリスト教史跡の発掘としてではなく、この土地を公園として整備するのが目的だった。

 発掘の結果、鉛弾でつくった十字架、メダイ、ロザリオの珠と同時に、多くの人骨が出土した。首と胴体は切断されてそれぞれ別の場所に埋められた。特に胴体は不自然に切り刻まれ、膝から下を切り落としたものも多い。その上には石垣の巨石がかぶせられていた、という。

 著者は、さらに今回の世界遺産推薦について、こうも書いている。

 
 東と西の交流を賛美したい気持ちはわからなくもないが、ザビエルの渡日から鎖国までの「キリシタンの世紀」を(長崎・大浦天主堂での) 「信者発見」という美談でハッピーエンドに仕立てているように見える。また、日本人が日本の信徒のみならず、数多くの外国人を殺したという視点も抜け落ちている。
 (仮にこれらが世界遺産となったら)弾圧の実態を巧妙に隠した美談の史観がさらに広く流布されるのではないだろうか。


   日本で殉教した外国人宣教師は、故郷でどう受けとめられているのだろうか。 著者は、スペイン巡礼に出かけることにした。

 同行したスペイン在住歴40年の日本通訳は、かってポルトガル国境の町で「おまえたちがスペイン人を殺した」と責め立てられたという。

 福者・ ハシント・オルファーネルの故郷は、 バレンシア州ビナロス近郊の村だった。

 もちろん、村人はハシントンのことを"聖人"としてよく知っていたが、筆者への視線は冷ややかだった。

 教会の神父に頼まれ、筆者は「キリシタンの世紀」とその後の弾圧の事を話した。

 
 最盛期には30-40万人もの信徒が生まれたが、十分な記録がない殉教者は4万人、なんらかの記録がある殉教者は灼4000人。そのうち外国人司祭を含めた福者が393人、42人が聖人になった。「彼らは信仰を棄てるより、神父とともに殉教することを望んだ」


 神父がそれを説教で話すと、会衆から驚きのどよめきが起き、ミサ後、会衆が筆者を取り巻き、次々と話しかけてきた。

 
 (外国人宣教者にしたことは今も世界で)見られている。
 そんな視点を欠いたまま、都合の悪いことは忘れ去り、やれ世界遺産だのなんだと騒ぐことがいかに滑稽であるかは、もはや言うまでもないだろう。


追記(2016/2/16): 

 このブログを書いた直後の2月初め。政府が急きょ、閣議で「長崎教会群」の世界遺産推薦を取り下げることを決めた。

 長崎県や国は今年7月にもユネスコの世界遺産委員会で決定されることを期待していたが、ユネスコ諮問機関である 国際記念物遺跡会議(イコモス)が「2世紀以上にわたるキリスト教禁教の歴史に焦点を当てるべきだ」という中間報告書を日本政府に届けていたのだ。

 政府は2018年以降の登録を改めて目指す方針だが、このブログに取り上げた著者・星野博美が何度も指摘していたように、長い禁教時代に続いた"日本の歴史的恥"をさらすことになるだけに、再検討の道筋は厳しいだろう。

 ブログにもふれたように、今回の「長崎教会群」の推薦内容には「あまりに多くの日本人信徒、外国人宣教師を殺した」という、200年余りにわたる、禁教、殉教の歴史の実証がまったく抜け落ちていた。

 星野博美は、著書の「あとがき」で改めて書いている。

 
もし四〇〇年前、現在のインターネットのような、瞬時に映像が世界中忙伝わる手段があったとしたら、私たちがいま処刑者に向けているおぞましさに満ちた視線は、そのまま私たちに向けられていたことだろう。


 
いや、当時も最速の情報手段で伝わっていたのである。日本で迫害が進行しているさなか、(ヨーロッパでは宣教師が伝えた)殉教録が出版され、・・・教皇庁では列聖調査が進んでいた。とろ火による火あぶりも穴吊りも、そして雲仙温泉の熱湯責めも、同時代に(オランダ船などで運ばれた)絵で伝えられていたのだ。
 国が閉じられ、世界の情報から隔絶された日本人が知らなかっただけで、私たちはあの頃、確かに見られていた。


 それが、今回のイコモスの指摘でもあったのだ。

 「みんな彗星を見ていた」
 この本の表題の意味は、そのことだったのだと気づいた。