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2016年12月28日

映画鑑賞記「ニコラス・ウイントンと669人の子どもたち」(マティ・ミナーチェ監 督)、 読書日記「キンダートランスポートの少女」(ヴェラ・ギッシング著、木畑和子 訳、未来社)


キンダートランスポートの少女
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 クリスマスの日。ナチスによるユダヤ人迫害に興味を持ち続けている友人Mに誘われて、この映画を見た。
 主役は、イギリス人のニコラス・ウイントン

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ユダヤ人を虐殺から救ったオスカー・シンドラー杉原千畝やこのブログにもアップした小辻節三以外にも、こんな人物がいたことを初めて知った。

 第2次世界大戦直前。ロンドンで株式仲買人をしていた29歳の時、かかってきた1本の電話がニコラス・ウイントンの運命を変えた。

 かけてきたのは、一緒にスイスにスキー旅行に出かける計画をしていたチェコの友人。ナチスによる迫害の危険が迫っており、プラハの街に住むユダヤ人を救援するために旅行をキャンセルしたい、という。

 よく事情が分からないまま、ニコラスはプラハに飛ぶ。そして、ユダヤの子供たちをチェコから連れ出す「キンダートランスポート(子供の輸送)」プロジェクトを始める。しかし、アメリカをはじめ各国はこの計画に冷たく、子供たちの受け入れを拒否した。
 ユダヤ難民の受け入れで、失業者がさらに増え、反ユダヤ主義が高まるのを懸念したのだ。
 ようやく受け入れを認めたのがイギリスだった。ただ、50ポンドの保証金を政府に払い、里親を確保すること、その費用はすべてニコラスらが立ち上げた民間団体が負担する、という条件を付けた。ニコラスは、ロンドンの自宅を事務所にし、プラハとロンドンの友人らに助けられて、旅行許可証や入国許可証を取得するための書類作成や里親を確保する仕事に没頭した。時には、許可証を偽造することまでした。

 そして、最初に200人の子どもを乗せた列車がプラハ・ウイルソン駅(現在のプラハ本駅)を出発、計8本の列車が仕立てられて計669人の子どもたちを逃し、彼らは生き延びた。

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 チェコでの帰属意識や財産、仕事を捨てきれなかったこともあったのか。残った親たちは、その後の第2次世界大戦の勃発によるナチ・ドイツ軍の侵攻で、強制収容所に送られ、ほとんどの人が亡くなった。

cap-03.jpgcap-032.JPG この映画の原案本となった「トランスポートの少女」の著者、ヴェラ・ギッシングも、この列車に乗った1人、当時10歳だった。
ギッシングは、この著書のなかで駅を出発した時のことをこう回想している。




 駅のホームでは不安な面持ちの親たちがあふれかえり、列車は興奮状態の子供たちでいっぱいでした。そこで繰り広げられていたのは、涙と、最後の注意と、最後のはげましと、最後の愛の言葉と、最後の抱擁でした。出発の笛がなると、私は思わず「自由なチェコスロヴァキアでまた会おうね!」と叫びました。その言葉に、私の両親もまわりの人も、近くにいるゲシュタポを気にして不安そうな顔になりました。汽車がゆっくりと動き始めると、多くの人びとの中、私の目には、身を切られるような苦しさを隠そうと必死に笑顔を浮かべる最愛の両親の姿しか入りませんでした。


   確かに映画でも、列車はドイツの軍服に囲まれていた。
 ナチが支配しているなかで、子どもたちだけでも、なぜ出国できたのか?

 このことについて、「トランスポートの少女」の訳者である木畑和子・成城大学名誉教授は、映画のパンフレットで「当時のナチ政権がまずとったのは、ユダヤ人の強制的出国政策であった」と解説している。この政策の目的の1つは「ユダヤ人たちの資産を奪い、貧窮化したユダヤ人を大量入国させて、相手国の負担にさせることであった」

 子どもたちを乗せた列車は、ナチが支配する恐怖のニュールンベルク、ケルンを抜け、オランダのから船でイギリスに渡り、ロンドンに着いた。

 途中、オランダの停車駅では、民族衣装の女性たちがオランダ名産のココアと白いパンをふるまってくれた。
 この白いパンを食べたであろうヴェラ・ギッシングはしかし、著書のなかでは丸くて堅いチェコのパンを何度もなつかしがっている。

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 ニコラスのリストには、出国させるべき6000人の子どもの名前が載っていた。
 しかし、250人の子どもたちを乗せた9本目の列車が出発しようとした1939年9月1日、ドイツ軍のポーランド侵攻で第2次世界大戦が勃発した。計画は中止され、子供たちは強制収容所で死んだ。

 これを悔やんだニコラスは、彼の偉業についてけっして語ろうとせず、里親や助けた子どもたちとも会わなかった。

 それから50年後、1988年のある日。ニコラスの2度目の妻グレタが屋根裏部屋でほこりをかぶった1冊のスクラップブックを見つけた。そこには、ニコラスが救った子どもたちの住所などの詳細な記録が残っていた。

 ニコラスによって生かされた80人の"子どもたち"が見つかり、テレビ番組で対面した。

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 世界中で暮らす"生かされた"子どもたちと、その子や孫は約2200人に及ぶという。

 彼らや、ニコラスの行動に感動した多くの人々は、世界各地で様々なボランティア活動を始めた。それが"ニコラスの遺産"となって、今でも大きく広がり続けている。

 ニコラス自身も、自らの活動を多くの子どもたちに語り始めた。
 エリザベス女王からナイトの爵位を与えられ、チェコの大統領からも栄誉勲章を受けた。2015年、106歳で世を去った。

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 子どもたちが到着したロンドンの リヴァプール・ストリート駅前には、当時の様子を残した銅製の群像が立っている、という。

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2016年2月24日

「命のビザを繋いだ男 小辻節三とユダヤ難民」(山田純大著、NHK出版)

命のビザを繋いだ男―小辻節三とユダヤ難民
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 亡命を求めるユダヤ人の求めに応じて、 リトアニアの地で日本行きのビザを発行し、6000人ノユダヤの命を救った日本人外交官 杉原千畝。その名前は、あまりに有名になってしまった。

 しかし、短期ビザで日本に来たはずのユダヤ人は、どうして安住の地に旅立つことができたのか・・・。

 先月、ある会合でこんなことが話題になった時、この会の主唱者である元銀行家のK氏が紹介してくれたのが、この本。

 あまり期待もせずに、図書館で借りた。意外に面白かった。

 小辻節三。始めて聞いた名前だ。この本の表紙などで見ると、口ひげを生やした細おもての朴訥そうな人物。実はこの人が、日本に亡命して来たユダヤ人の「命のビザを繋いだ男」だった。

 京都の神官の家に生まれた小辻はある時聖書に出会い、勘当同然の身で、東京・ 明治学院大学神学部に進学、牧師になる。しかし、新約聖書の教義に疑問を持ち、旧約聖書を学ぶために、妻子を連れて渡米する。

 旧約聖書の研究から、当然のようにユダヤ教に興味を持つ。 古典ヘブライ語の研究で博士号を得て帰国するが、不遇の日々が続く。

 1938(昭和13)年、小辻のもとに南満州鉄道(略称・満鉄)総裁の 松岡洋右(後の外務大臣)から「総裁アドバイザーとして働いてほしい」という招へい状が舞い込み、一家を挙げて満州に渡る。

 当時、日本陸軍は、河豚計画」という奇怪な作戦を進めていた。
 ヨーロッパでナチス・ドイツに迫害されつつあったユダヤ難民を満州に大量移住させ、ユダヤ系米国人の政治力で、満州で米国の協力を得ようとするものだった。

 間接的にこの計画にかかわった小辻は、満州でのユダヤ人との会議で、古典ヘブライ語を駆使した演説をして喝采を博した。

 松岡が、外務大臣になった直後に、小辻も満鉄を辞し、帰国した。

 同じころ、杉原千畝に「命のビザ」をもらった6000人の亡命ユダヤ人は、シベリア鉄道経由で渡日、敦賀経由で神戸に滞在していた。

 ただ、杉原ビザで許可された日本滞在日数はわずか10日。それを過ぎると、ユダヤ難民は強制送還され"死"が待っている。

 ユダヤ難民の代表が、あの感激的なスピーチをした小辻を思い出し、手紙を出した。

 小辻は外務大臣の松岡を訪ねた。しかし、軍部からの圧力で外務省は、すでに強制送還の方針を決めていた。

 しかし、松岡は小辻を外に連れ出し、皇居のお堀に沿って歩きながら、そっと話した。

 「ユダヤ難民のビザを延長する権限は、神戸の自治体にある。もし、君が自治体を動かせたら、外務省は見て見ぬふりをしよう」
 松岡には、ユダヤ人を助けておけば、アメリカとの戦争を回避できるかもしれない、という読みがあった。

 滞在許可を発行する窓口は、警察署だった。小辻は、親戚から資金を借り、警察幹部の接待を繰り返した。ユダヤ人の長期滞在が可能になった。

 日本に滞在するナチス幹部の圧力が続くなかで、小辻は、ユダヤ人たちをやっと目的の国に送り出すことができた。

 1959(昭和34年)、小辻は妻の強い勧めでエルサレムに渡り、ユダヤ教に改宗した。

 1973(昭和48年)、アブラハム小辻は永眠した。享年74歳。小辻の遺体は、本人の希望でエルサレムに空輸され葬られた。

 当時、イスラエルは第4次中東戦争という混乱のまっさい中。尽力したのは、日本から脱出した難民の1人であるイスラエルの宗教大臣、ゾラフ・バルフティックだった。

 この本の著者、山田純大の父は、俳優で歌手の杉良太郎。杉の現在の妻で演歌歌手の伍代 夏子は義母に当たる。

追記(2016/2/27):

 杉原千畝や小辻節三だけでなく、ユダヤ難民の「命のビザ」を繋いだ多くの日本人がいたらしい。

 外務省の訓令を無視して、シベリア鉄道でやって来たユダヤ難民を日本に向けた船に乗せた駐ウラジオストック日本総領事館の 根井三郎総領事代理のことは、上記の本にも記載されている。

 真偽ははっきりしないが、満州の避難してきたユダヤ人を救済した、ハルピン特務機関長の 樋口 季一郎・元陸軍中将などの軍人のほか、ウラジストックからの船の手配に尽力した日本交通公社、日本郵船の社員たち、敦賀では、営業を一日休んで悪臭を放つユダヤ難民に開放した銭湯「朝日湯」の主人などの話しなども文献などに記録されているようだ。

 妹尾河童の自伝小説 「少年H」には、神戸に着いたユダヤ人の汚れた衣服を繕う少年の両親たちの話しが載っていたのも思い出した。