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2012年7月19日

 読書日記「愉快な本と立派な本 毎日新聞「今週の本棚」20年名作選 1992-1997」



愉快な本と立派な本  毎日新聞「今週の本棚」20年名作選(1992~1997)
丸谷 才一 池澤 夏樹
毎日新聞社
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  「快楽としての読書 日本篇 海外篇」(丸谷才一著、ちくま文庫)の後を追うように出版された。前著が週間朝日に掲載された丸谷才一の書評を選んでいるのに対し、表題書は毎日新聞の書評欄に様々な評者が書いたものを丸谷才一、池澤夏樹両氏が選び出したもの。

 図書館に買ってもらい、パラパラめくりながら、気になるページにポスト・イットをはさんでいくと、結果的に丸谷才一の書評が一番多くなった。  「カサノヴァの帰還」、(A・シュニッツラー著、金井英一、小林俊明訳、集英社)の評には「小説は大好きだが、今出来のものは辛気くさくて鬱陶(うつとう)しくてどうもいけないと言う人にすすめる」とある。  18世紀の高名な色事師カサノヴァの50代を19世紀末の「世紀末ウイーンの恋愛小説の名手シュニッツラーが老境にさしかかって描いた作品とか。シュニッツラーは「社会の約束事を踏みにじった人間の研究をしようとして、絶好の題材を得た」。何年か前に、「世紀末ウイーン探訪の旅をしたことを思い出した。

カサノヴァの帰還 (ちくま文庫)
アルトゥール シュニッツラー
筑摩書房
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ミステリー・映画評論家「瀬戸川猛資」の「夢想の研究 活字と映像の想像力」(早川書房)についての項では「嘱望する評論家の出現。じつにおもしろい本をひっさげて彼はやって来た」と絶賛している。
 瀬戸川の説は「突拍子もないが、説得力がある」という。例えば「オーソン・ウエルズの「『市民ケーン』はエラリー・クイーンの「 『Xの悲劇』の換骨奪胎」「アメリカ映画に聖書物が多いのは、ハリウッドの帝王たちがみなユダヤ人で、ユダヤ教の信仰を捨てていないから」など・・・。
 丸谷は、毎日の書評欄を引きうける際、瀬戸川とエッセイストの「 向井敏を評者に起用したが、この2人は若くして世を去った。丸谷は表題書のまえがきで「桃と桜に分かれたような大きな喪失感を味わされた」と悼んでいる。

夢想の研究―活字と映像の想像力 (創元ライブラリ)
瀬戸川 猛資
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 その瀬戸川が「丸谷才一 不思議な文学史を生きる」(丸谷才一著、新井敏記編 文藝春秋)を評して「誰だぁ? 文学をおもしろくないなんて言うのは?」と切り出している。
 新井の丸谷へのインタビューで編成させているのだが、過激かつ戦闘的な内容に満ちている。  「鴎外は小説家の才能としては、そんなに恵まれていなかった人じゃないかと思いますね。想像力による構築という才能がないでしょう」「小説家的才能においては、夏目漱石のほうがずっとあったと思いますね」
 特注のお奨め品だそうである。

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丸谷 才一
文藝春秋
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 向井敏の書評もかなり掲載されているが「丸谷才一批評集 全6巻」(文藝春秋)も、堂々と評している。
 丸谷がはじめての評論集「梨のつぶて」(晶文社)を公にしたのは昭和41年のことだそうだが、向井が一読して驚くのはその守備範囲の広大さ。
 古典から近代文学。英米文学に王朝物語や和歌。正宗白鳥の空想論、菊池寛の市民文学、北杜夫のユーモアを語る・・・。その守備範囲の広さの脳裏には「日本の近代文学を袋小路に追い込んできた実感信仰、実生活偏重から救いだす」という大きな構想があったという。  そして今回の全6巻批評集は、丸谷がしっかりした基盤のうえに批評を築いてきた証になっているという。
 それに花を添えているのが、各巻巻末の対談らしい。池澤夏樹、渡辺保川本三郎ら若い気鋭の批評家の大胆不敵な仮説や機敏を衝く問いに「著者(丸谷)はしばしばたじろぎ、・・・感無量だったのではあるまいか」

 丸谷の書評を、もう1篇。

 「泥棒たちの昼休み」(新潮社)の著者・結城昌治のことを、丸谷は「舌を巻くしかないくらい文体がよい。常に事柄がすっきりと頭にはいって、文章の足どりがきれいだ」と絶賛している。
 この本は、刑務所の木工場で働く懲役囚が昼休みにする話しを綴った短編集だが、明らかに阿部譲二「堀の中の懲りない面々」に刺激された設定。それが「次々と新しい工夫で読者を驚かし、(結城自身が)何年か(刑務所に)入っていたのかと疑いたくなる」出来栄えらしい。
 「近代日本小説の主流の筆法と対立する、いわば西欧的な書き方を、こんなに自然な感じで身につけている探偵作家は、ほかにいなかった」
 希代の書評家にこれだけほめらると、天国の結城も作家冥利につきると照れていることだろう。

泥棒たちの昼休み (講談社文庫)
結城 昌治
講談社
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   書評集というのは、これまではどちらかというと敬遠していたが、浅学菲才の身に新しい知的刺激を与えてくれる。なかなか捨てがたい味わいを感じた。

 ところで、この表題の本。丸谷と池澤夏樹の共編になっているのだが、丸谷に並ぶ書評家として勝手に"尊敬"して池澤の文章が「書評者が選ぶ・・・」などの短文にしか見当たらないのが、なぜなのか。いささかもの足りない。

 

2012年5月22日

読書日記「氷山の南」(池澤夏樹著、文藝春秋刊)


氷山の南
氷山の南
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池澤 夏樹
文藝春秋
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 18歳のアイヌの血を引く日本青年、ジン・カイザワは、オーストラリアの港から南極を目指す「シンディバード」号に密かに乗り込む。密航だった。

 ニュージーランドの高校を出たばかりのジンは、ゲームやファンタジーの熱を上げている中学や高校の同級生にどうしてもなじめず、そんな閉塞感を破りたいと、この船が挑戦しようとしている" 氷山プロジェクト"を見てみたいと願った。

 氷山プロジェクトは、アブダビのオイルマネーを原資とした基金「氷山利用アラビア協会」が企画した。南極の氷山を曳航して帰り、それを溶かした真水をオーストリア南西部の畑地の灌漑に役立てようというもの。
運ぶ氷山は1億トン前後、小さめのダム1個分の貯水量。氷山は、 カーボン・ナノチューブの網をかぶせて、大型けん引船で運ぶ。名付けて「海の中を行く大河」作戦。食糧増産を可能にする壮大な計画だ。

 乗り込んでいるのは、このプロジェクトを成功させるための専門家ばかり。ジンを降ろそうとするリーダーを抑えて、協会総裁である「族長」の好意で、食堂と船内新聞の編集の手伝いという職を得る。

地球観測衛星など、最新科学技術を駆使して曳航するのにふさわしい氷山が見つかる。 ジムは、船内新聞の記者特権で、ヘリコプターで目的の氷山に降りる。

 
その場で仰向けに寝た。
 ・・・。
 青い空が広がっていた。
 ああ、空というのは絶対にこの色であるべきなんだ、と見る者に思わせるような青だった。その青のせいで空までの遠い距離がそのまま身体の下の側にも転移され、今、自分は上下左右あらゆる方向へ無限に広がる空間の中点に浮いているという幻覚が湧いた。
 背中の下には確かに固い氷があるのに、浮揚しているという感覚は消えない。
 宇宙サイズの目眩みたいな。
 それで、中心はこの氷山なんだ。
 他のどの氷山でもなく、この海域でたった一つ、地球の上でたった一つ、この氷山。
 奇妙な、とても不思議な気分だった。ずっと離れていた土地へ帰ってきた時のようにが反応している。ここは懐かしい。


  南極のオキアミを研究する科学者のアイリーンらと、カヌーでこの氷山を一周してみることにした。

 ジンは、カヌーを漕ぎながら、オーストリアの山、 ウルル(俗称エアーズ・ロック)に行ったことを思い出した。
この山は、先住民・ アボリジニの聖地であるため、登ることは禁止されている(実際には、観光客は登ることを許可されているらしい)。

 やむをえず、山の周り約10キロを歩いてみた。山そのものが迫ってくる。歩くうちに、山は「敬え!」と迫ってきた。

 
ぼくたちは今、この氷山の霊的な虜になっている。この氷山もやはり「敬え!」と言っている。だってこんなに大きくて、白くて、冷ややかに輝いているんだから。


 船に帰ってから、アイリーンも言った。「なぜだか人が手を掛けてはいけないもののような気がしたわ」

 この氷山曳航計画に反対し、阻止を公言しているグループがあった。「アイシスト」。「無理に訳せば、氷主義者?氷教徒?」。一種の宗教団体らしい。

 「氷を讃えよ」と機首に書いた無人飛行機が飛んできて「シンディバード」号の甲板に南極の氷の"弾"を降らしていった。警告のつもりらしい。この船の位置を正確に知っていた。ということは、船内に同調者がいることを示している。世界中にシンパもいるらしい。

 アイシストは、こう主張する。文明の規模を大きくし過ぎて、様々なひずみが生まれた。そんな社会を「冷却する。過熱した経済を冷まして、投機を控えて、みんな静かに暮らす」

 著者は、まさしく3・11を産んだ現代社会を批判している。フィクションという大きなオブラートに包んで「開発と浪費の悪循環を断つべきだ」と主張している。

 3・11だけでなく、世界で起きている現象を見ると「アイシスト」のような主張集団が出ることは、当然のことと思える。本当に、こんな集団があるのではないかと、私はGoogleで検索までしてしまった・・・。

 氷山曳航作戦は突然、終幕を迎える。

 港に曳航された氷山が、突然割れたのだ。
 氷山内部の計測を担当する科学者が、内部に歪みがあり、割れる危険があるデーター隠していたらしい。彼は、独立独歩の環境テロリストだったようだ。

 このプロジェクトへの投資家を納得させるため、もういちど氷山プロジェジュトを実施するための資金計画が決まった。

 航行の途中でタンカーに運んでおいた水をペットボトルで売る。「融ける時にぴちぴち音がする」氷も切り出して世界中のバーに売る、という。
 私も昔、ある会合で南極の氷のオンザロック・ウイスキーを飲んだことがある。10万年の前に氷に閉じ込められた空気が氷の融けるのと同時にグラスにはねて軽やかな音がするのだ。

 崇高な氷山曳航作戦は地にまみれて、単なる金もうけの手段に陥ってしまった・・・。

 著者の本のことをこのブログに書くのは、 「すばらしい新世界」など、数回に及ぶ。特に、3・11以降、著者が多く描く自然と人間、科学と社会をテーマにした著作に引かれるためだろう。これからも、これらのテーマの著作に出あえたらと思う。

   

2012年2月26日

読書日記「イエスの言葉 ケセン語訳」(山浦玄嗣著、文藝春秋新書)


イエスの言葉 ケセン語訳 (文春新書)
山浦 玄嗣
文藝春秋
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この本が誕生したいきさつは、序文「はじめ」のなかで説明されている。

 3・11の東北大津波で、医師である著者の診療所がある大船渡市も市街地の半分が流された。 カトリック信者である山浦医師は、古代ギリシャ語で書かれた新約聖書を、東北・ 気仙地方で普段に使われるケセン語訳で出すことに挑戦した。だが、出版した大船渡市の イー・ピックス出版も社屋を失った。

ところが、奇跡が起こった。

津波でつぶれた出版社の倉庫の泥にまみれた箱の中からほとんど無傷の三千冊のケセン語訳聖書の在庫が見つかったのだ。津波の洗礼を受けた聖書として有名になったケセン語訳聖書は、日本中の人びとの感動を呼び、数カ月で飛ぶように売れてしまった。

そんな時、文嚢春秋の女性編集者が「瓦礫と悪臭におおわれた惨憤たる道を踏み越えて」訪ねてきた。

ケセン語訳聖書がこんなに多くの人びとに喜ばれ、受け入れられているのは、難解だった従来の聖書の翻訳をほんとうにわかりやすくしたからです。この心を全国の人びとに伝えたい。人の幸せとは何かと問う福音書の心こそ、災害に打ちひしがれている日本人によろこびの灯をともすはずです。イエスのことばをふるさとのことばに翻訳した中で得た多くのことをぜひ本にしてみなさんに読んでいただきましょう!


   この本は、イエスの言葉を引用しつつ、山浦医師の生きざま、復興に立ち向かう東北の人々の思いのたけを綴っている。

話し言葉である「ケセン語」を、文章に直すのは至難の業だったろう。だから最初に「ケセン語の読み方」という注釈がついている。

本文で、「が(●)ぎ(●)ぐ(●)げ(●)ご(●)」はガ行濁音で、「がぎぐげご」はガ行鼻濁音で読む。
 振り仮名で「ガギグゲゴ」はガ行濁音、「がぎぐげご」はガ行鼻濁音。また、振り仮名で促音「つ」は「ツ」と書く。

*尚、聖書引用は日本聖書協会『聖書新共同訳』による。


 学生時代に東北地方を旅し、列車の中で出会った行商のおばさんたちが話す言葉がさっぱり分からず、あ然、がく然とした思い出がある、

 この本に書かれた「ケセン語」のイエスの言葉もちっとやそっとでは理解できない。しかし、それに続く山浦医師の解説は、カトリック信者のはしくれである私にも「目からうろこ」の連続だった。そして「ケセン語訳」イエスの言葉が身にしみてくるのである。

敵(かだギ)だってもどご(●)までも大事(でァじ)にし続(つづ)げ(●)ろ。
                           (ケセン語訳/マタイ五・四四)

敵を愛し...(中略)...なさい。
                                (新共同訳)


 「ケセン語には愛ということばはない。・・・そういうことばは使わない」。山浦医師は、東北人らしく率直に切り出す。

 「愛している」なんて、こそばゆくて、むしずが走るようなことばだ。『神を愛する』なんて失礼な言葉はない。『お慕申し上げる』ならわかるが、『愛する』はないでしょう。ペットではあるまいし!」

 「ギリシャ語の動詞アガパオーを『愛する』と訳したために、聖書の言葉が日本人の心に届いていない」。420年ほど前のキリシタンは「大切にする」と訳し、「愛する」は妄執のことばとして嫌ったという。

「『お前の敵を愛せ』は誤訳だ。イエスは『敵(かたギ)だっても大事(でアじ)にしろ。嫌なやつを大事にすることこそ人間として尊敬に値する』と言っているのだ」

医師の言葉は、どこまでも先鋭かつ鮮烈である。

願(ねが)って、願(ねが)って、願(ねげ)ア続(つづ)げ(●)ろ。そうしろば、貰(もら)うに可(い)い。探(た)ねで、探(た)ねで探(た)ね続(つづ)げろ。そうしろば、見(め)付(ツ)かる。戸(と)オ叩(はで)アで、叩アで、叩(はだ)ぎ続(つづ)げろ。そうしろば、開(あ)げ(●)もらィる。
 誰(だん)でまァり、願(ねげ)ア続(つづ)げる者(もの)ア貰(もら)うべし、探(た)ね続(つづ)げる者(もの)ア見(め)付(ツ)けんべし、戸(と)オ叩(はだ)ぎ続(つづ)げる者(もの)ア開(あ)げ(●)でもらィる。
                        (ケセン語訳/マタイ七・七~八)

求めなさい。そうすれば、与えられる。
 探しなさい。そうすれば、見つかる。
 門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。
 だれでも、求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。
            (新共同訳)


 山浦医師は、この箇所をケセン語に訳そうとした時、新共同訳を見て「ちょっと待てよ」と思った。
 「人生を振り返って、求めたからといって与えられるとは限らない。・・・それどころか、求めて得られず、探して見つからないことが多すぎるからこそ、・・・人生で苦労している」

 疑問の答えが見つからないまま、ギリシャ語文法の勉強をしていた時、ギリシャ語の命令形には、その動作を継続して実行することを要求する「継続命令」と、ひとくくりに一回性のものとして要求する「単発命令」という2つの種類があることに気づいた。
  マタイ伝を読みなおして「求めろ、探せ、たたけ」は「継続命令」であることが分かった。 そして、ケセン訳と同時に、こんな日本語"私訳"をつくった。

  
願って、願って、願いつづけろ。そうすれば、貰える。
 探して、探して、探しつづけろ。そうすれば、見つかる。
 戸を叩いて、叩いて、叩きつづけろ。そうすれば、戸を開けてもらえる。
 誰であれ、願いつづける者は貰うであろうし、探しつづける者は見つけるであろうし、戸を叩きつづける者は開けてもらえる。 


 医師は続けて書く。
 「イエスはたとえ話しの後でよく『聞く耳のある者は聞け』といいます。これは継続命令です。・・・一度聞いた話を心の中で何度も反芻し、繰り返し繰り返し、聞き続けろということです。"神さまのお取り仕切り(ケセン語訳で神の国、天の国のこと)"に参加するには、このしつこさが必要なのだと、イエスはしつこくしつこくいっている・・・。」

   この本の巻末に「新しい聖書翻訳のこころみ」という数ページがある。
 例えば「永遠の命」は「いつまでも明るく活き活き幸せに生きること」、「心の貧しい人」は「頼りなく、望みなく、心細い人」、「柔和な人」は「意気地なし、甲斐性なしなし」・・・。

 池澤夏樹の 「ぼくたちが聖書について知りたかったこと」という本にこんな一節がある。

 
秋吉さん(秋吉輝雄・立教女学院短期大学教授)は、本来、聖典は朗諦・朗詠されるものだと書かれていますね。その意味で見事なのは、岩手の山浦玄嗣さんというお医者さんが出したケセン語訳の聖書「ケセン語訳新約聖書」( イー・ピックス刊、二〇〇二)です。福音書を岩手県気仙地方の言葉に訳したのですが、あれはまさしく読むだけでなく、朗唱するものとして作られている。山浦牧師(?)は、信仰というものは魂に訴えるのだから、生活の言葉でなくてはダメだと考えて、ケセン語訳をしたんです。聞いていた信者のおばあさんが「いがったよ! おら、こうして長年教会さ通ってね、イエスさまのことばもさまざま聞き申してきたどもね、今日ぐれァイエスさまの気持ちァわかったことァなかったよ!」 と言ったとか。


 この「ケセン語訳新約聖書」が、3・11で奇跡的に見つかり、完売した聖書だ。

一方で、山浦医師らの長年の夢が3・11で失われた。「ケセン語になじみのない一般の日本人にもたのしめるような『セケン(世間)語訳』を出してほしい」という要望で、日本各地の方言をしゃべる新しい福音書が出版を間近にして流されてしまったのだ。

 しかし「日本中のふるさとの仲間にイエスのことばをつたえようという望み」は消えなかった。生き残った社員が集まり、山浦医師の書斎に残っていた原稿から新しい版を起こす仕事が始まった。

山浦玄嗣医師訳 「ガリラヤのイェシュー;聖書-日本語訳新約聖書四福音書」(イー・ピックス出版)は、昨年11月に出版された。

山浦医師によると「イエスは仲間内で喋るときには方言丸出しだが、改まったお説教をするときや、 階級の上の人に対しては公用語を使う。さらに、ファイサイ衆は武家用語、領主のヘロデは大名言葉、 ユダヤ地方の人は山口弁。ローマ人は鹿児島弁、 ギリシャ人は長崎弁」と全国各地の方言が飛び交う。

芦屋市立図書館には、すでに所蔵されていた。予約したが、まだ手にすることはできていない。

ぼくたちが聖書について知りたかったこと
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ガリラヤのイェシュー―日本語訳新約聖書四福音書

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2011年11月28日

読書日記「半島へ」(稲葉真弓著、講談社刊)


半島へ
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稲葉 真弓
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 今年の 谷崎潤一郎賞受賞作。この作家のことは知らなかったが、書評者として現在一番尊敬している池澤夏樹が「読んでいる間ずっといい気持ちが持続する小説」と選評していたので読む気になった。
 ところが、肝心の本が手に入らない。図書館は貸出中。計5件の書店がいずれも在庫なし。AMAZONも「5-7日待ち」。つまり、流通在庫はゼロということらしい。結局、今月の9日に芦屋ルナ・ホールで開かれた著者の受賞記念講演会場で買うことになった。

 東京に住む主人公は、志摩半島に別荘を買い、1年に数カ月過ごす生活をしている。
 
折り畳みのデッキチェアーに体を投げ出し、ぼうっと空を見ていると、波動のようなものが体内をかすめていく。地球の自転の震えだろうか。体と一瞬にしてつながるような未知の感覚に襲われる。同時に人間が流れることなく地につながれていることが、なぜか奇跡のように思えてくる。夜風の動き、葉擦れのかすかな音が五感の境界を溶かしていくのか、体が人間の生理学、ヒトの時間をどんどん離れ、得体のしれぬものに変化していくようだ。ああ、こんなふうに、体は肉体を離れていくのか。これが無になるという感覚なのか。どこか遠い場所で放たれた、見知らぬ人の体に乗り移ったようである。


 私小説風のフィクションということだが、現実にあったことを書いているのは「6割ぐらい」と、著者はインタビューに答えている。離婚を経験し、熟年にさしかかった女流作家が、半島での生活で老いの静かさを実感していく。

   
梅雨明けから続いた猛暑のなか、私は自分でも落ち込むほどにへばっていた。年齢による体力の衰えも関係していたが、盆の過ごし方がまるでわからないのだ。・・・家族の団欒姿は、私の日常からなによりもとおいものだった。
 だから私は。自分のなかに欠落しているものを痛いほど意識しながら、家族とともに過ごす半島の住民たちを見ないようにしていた。ムキになって草取りをし、花の終わったアジサイの剪定にやっきになり、崩れかけた花壇に土を運んだ。その不自然さ、ぎこちなさ、疲れが、他愛ない笑いとともにすっと溶けて行く。


 
藪椿の森を歩く。おびただしく落下する花を踏んで、先に行く気が失せてしまう。「この道は藪椿の墓地」だと思う。
 ひと足をついと踏み出せば、そのまま大地に吸い込まれ、体ごと帰れなくなりそうだった。・・・花の死骸の下にも、ひとには見えない強い道がある。季節の変わり目、終わりを迎えた花にしてみれば、ここは「最後の地」のようなものなのだろう。そう思った途端、熟れた蜜と思った花のにおいに、突如、腐臭が漂い出す。


周りに住んでいるのは、定年を迎えて第2の人生をこの土地で楽しもうとやって来た人たち。彼ら、彼女らと、半島にあふれるばかりの自然の恵みを満喫していく。

 
散歩から帰ると、玄関先に掘り立てのタケノコが積み上げてあった。倉田さんが届けてくれたのだろう。九本の太ったタケノコだった。
 ・・・
 「竹林んなかを通ると、眠気が覚めるね。体内の毒気を吸い取るなんかがあるのかもしれねぇよ」
 「毒気?竹のどこが毒気を吸うの?」
 ・・・「節かな。あんなかは真空だし、真空ってことは宇宙みたいなもんやないか。それにさ、タケノコは一日に何十センチも伸びるだろ。あのエネルギーが、こっちに乗り移るんかね。うまく言えねぇけど、竹林を通ると、この先、死にそうにないような気がするよ。・・・」


 近所の人が、間引いて明るくなった竹林で開いた酒宴に呼んでくれる。竹の切り口に立てた二百本ものロウソクがあちこちでゆらめく。酔った私はだんだん頭が朦朧としてくる。
 
ぐるりを見回すと、どのひとももう人間ではなくなっていた。全部が海のもの、山のもの。女たちが集まっていたところでは、たくさんのイソギンチャクがひらひら口を開いたり閉じたりしている。
 別の場所では大小の牡蠣が不格好に躍っている。ごつごつしてどれも陰影が深い。肩を組んで重なりあっているのは蟹だろうか。大きなハサミを振り回しながら、間断なくぶくぶく泡を吹いている。・・・
 覚えているのは、だれかが私を支えながら家まで送ってくれた曖昧な記憶だけ。・・・ふたりの女は野うさぎの顔をしていた。枯れ草のしみた毛皮のにおいがふっと鼻孔をよぎっていく。


 著者は、谷崎賞記念講演で「十六年通い続けた土地の力に一番影響を受け、書く力を得てきた」と語った。かって力を支えてきた土地は、長年住み慣れた東京・品川だったが「パワースポットは志摩半島に移りつつある」という。
 そして「今回の東北大震災の土地に住んでいた二万人の人々の膨大なかけがえのない日常が、フィクションの宝庫だと思えてきた」と、次の作品を予言した。

 
私はひとが「え、しばらく向こうに行くんですか。これまで通り、通えばいいじゃないですか?どういう心境の変化です?」と尋ねるたびにこう答えることにした。
 「地層がね、呼んだんですよ。むき出しなんだけど強そうで・・・」


 著者は、この本の冒頭近くで、志摩半島の地層を調べたことを書いている。ここの地層は「中生代白亜系からジュラ系の和泉層群、領石層群、鳥巣層群、四万十層群の四層からなっている」らしい。

地殻変動によって海から押し上げられた土地らしいこともわかった。そうか、ここは海底に眠っていた土地だったのか。・・・原始を抱えて地上にやってきたもの、地殻変動に耐えて長い年月生き延びたものが、私の足元を支えていたなんて。わ、すごい。掘れば貴重種の化石がざくざくと出てくるかもしれない。胸が躍った。


2011年10月19日

読書日記「春を恨んだりはしない」(池澤夏樹著、中央公論新社)、「日本の大転換」(中沢新一著、集英社新書)、「神様2011」(川上弘美著、講談社)

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神様 2011
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 表題最初の「春を恨んだりはしない」の著者、池澤夏樹は、9月20日付け読売新聞の著者インタビューで「この半年は(東日本大震災について)考えているか、書いているか、被災地に行っているか。ほかのことはほとんどしていない」と語っている。
 
たくさんの人たちがたくさんの遺体を見た。彼らは何も言わないが、その光景がこれからゆっくりと日本の社会に染み出してきて、我々がものを考えることの背景になって、将来のこの国の雰囲気を決めることにならないか。
 死は祓えない。祓おうとすべきではない。
 更に、我々の将来にはセシウム137による死者たちが待っている。


そして池澤は「原子力は人間の手に負えないもので、使うのを止めなけばならない」と、次のように力説する。
 
原子力は原理的に安全ではないのだ。原子炉の中でエネルギーを発生させ、そのエネルギーは取り出すが同時に生じる放射性物質は外に出さない。・・・あるいは、どうしても生じる放射性廃棄物を数千年に亘って安全に保管する。
 ここに無理がある。その無理はたぶん我々の生活や、生物たちの営み、大気の大循環や地殻変動まで含めて、この地球の上で起こっている現象が原子のレベルでの質量とエネルギーのやりとりに由来しているのに対して、原子力はその一つ下の原子核と素粒子に関わるものだというところから来るのだろう。


 ここまで読んで、同じような考え方にふれたのを思い出した。

 震災直後に朝日新聞出版から緊急出版された宗教学者の中沢新一、神戸女学院大学名誉教授の 内田樹、経済関係の著書が多い平川克美の鼎談冊子「大津波と原発」のなかで、中沢はこんなことを話している。

「核力からエネルギーを取り出す核融合反応というものは、もともと太陽で行われているものです。・・・核分裂はようするに生態圏の外にある」「原子力は一神教的技術なんです」

 なぜ生態圏の外にあった反応を生態圏に持ち込んだから、原発は制御不能なのか?
  超自然的な存在である神と原子力を一神教という名のもとにひとくくりしてしまうのも、キリスト教信者のはしくれである身には理解しがたい・・・。

大津波と原発
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 最近、その中沢が「日本の大転換」という本を出した。「大津波と原発」で言っていたことを敷衍しているらしい。各紙の書評欄でも次々取り上げられたので、読んでみた。

 中沢は、これまでの世界・社会は太陽の恵み(贈与)で成り立っていたのに、人間は原子炉のなかで"小さな太陽"を作ろうという無謀な試みをしようとして厳しいしっぺ返しを受けようとしている、と主張する。

 
太陽から放射される莫大なエネルギーの一部は、地球上の植物の行う光合成のメカニズムをつうじて「媒介」されることによって、生態圏に持ち込まれている。そうした植物や動物がバクテリアなどによって分解・炭化され、化石化したものが石炭や石油なのである。・・・
 ところが、原子炉はこのような生態圏との間に形成されるべき媒介を、いっさいへることなしに、生態圏の外部に属する現象を、生態圏のなかに持ち込む・・・。


 
津波によって、生態圏外的な原子炉と生態系をつないでいた、脆弱な媒介システムが破壊されたのである。むきだしになった核燃料は、臨界に達する危険をはらみながら、大量の放射性物質を放出し続けることとなった。そしてあらためて、人々の意識は、数万年かかっても処理しきれない、おびただしい放射性廃棄物を生み出すこの技術の、もうひとつの致命的な欠陥に注がれることになった。


 川上弘美の「神様2011」は、1993年に初めて書いた「神様」という短編を3・11後の世界に置き換えたものだ。放射能に汚染されて、人々は防護服を着、被爆量を気にしながら生きている。「神様」では2行で終わっている結びが5行に増えている。

 
部屋に戻って(熊の神様が作ってくれた)干し魚をくつ入れの上に飾り、眠る前に少し日記を書き、最後に、いつものように総被爆量を計算した。今日の推定外部被爆量・30μ㏜、内部被爆量・19μ㏜、推定累積内部被爆量178μ㏜・・・。


 池澤の「春を恨んだりはしない」のなかで、このブログでもふれた著書 「新しい新世界」で予言した世界をこう描いている。

   
進む方向を変えた方がいい。「昔、原発というものがあった」と笑えて言える時代の方へ舵を向ける。陽光と風の恵みの範囲で暮らして、しかし何かを我慢しているわけではない。高層マンションではなく屋根にソラー・パネを載せた家。そんなに遠くない職場とすぐ近くの畑の野菜。背景に見えている風車。アレグロではなくモデレート・カンタービレの日々。


 
人々の心の中で変化が起こっている。自分が求めているモノではない、新製品でもないし無限の電力でもないらしい、とうすうす気づく人たちが増えている。この大地が必ずしもずっと安定した生活の場ではないと覚れば生きる姿勢も変わる。
 これからやってくる世界は、どちらだろうか。

 川上の描く世界が、ますます″日常化"するなるなかで、池澤らが提言する世界を目指す努力がどこまでできるのか。これからを生きる孫たちを思う・・・。

2011年6月25日

読書日記「すばらしい新世界」(池澤夏樹著、中公文庫)


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 読売新聞朝刊に連載されていたのが1999年だから、もう十数年も前の作品。連載時は時々流し読みをしていたが、東北大震災の後に再読し、新たな感慨がよみがえった。

 出版社の紹介文には「ひとと環境のかかわりを描き、新しい世界への光を予感させる長篇小説」とある。
物語は、途上国へのボランティア活動をしている妻・アユミ、小型風力発電の技術協力をするためネパールの奥地・ナムリンに出かけることになった大手電機メーカーの技術者である夫、林太郎、ひとり息子の森介の3人を軸に展開する。

 アユミに勧められて林太郎が取り組もうとしているカジマヤー(沖縄語で風車の意)計画は、ナムリンの荒地を豊かな畑にするために100メートル下の川から水をくみ上げるための電気を風力でおこそうというものだ。

せいぜい数キロワットの電力だが、確実に供給しなければならない。・・・村の人々が労力をかけて耕し、貴重な肥やしをやり、種を播いて育てている作物が、生育の途中で水不足で枯れたら、それまでの労力の投下はすべて無駄になる。その年の冬には深刻な食糧不足が生じる。


(このあたりの事情は先進国と同じだ。電力会社の最大の義務は安定供給である。社会全体が電気に依存している以上、台風などの不可抗力による以外の停電は許されない。逆に言えば、社会は独占企業である電力会社に生命維持装置を預けているわけで、それだけ立場が弱いということでもある。)


林太郎の小型風力発電の提案に賛成してくれた課長の浜崎は、こんなことを言う。

「おれはな、これ(小型風力発電プロジェクト)で社内の雰囲気がほんの少しでも変わらないかと思ったんだ」
「ここはものを作る会社だ。作るものがなければ存続しない。しかしもう大きいものは頭打ちなんだよ」「・・・原子力や大きな火力はもうそんなに造れないぞ」
 「長大な送電線から消費者の消費癖まで含めて考えた時に、大型に頼る今のエネルギー・システムが本当に効率いいかどうか」
「ひょっとしたら、流れが変わるかもしれないと思うんだ。大規模なシステムを、コンピューターを使って、ぎりぎりの効率で運用する。そういうやり方はもうしばらくすると本当に変わるかもしれない」


アユミと林太郎は、息子の森介がこれから生きていく社会について、こんな話しをする。

「ああいう奴がのびのびできる社会になるか、ただの変わり者で終わるか」
「ちょっとした乱世が来るんじゃない。均質社会の枠組みは至るところで壊れているよ。既得権益を握った連中は揺さぶられている。先送りにしておいたものが全部支払いを迫られている。変わるよ」
「それじゃ、あなたや森介やわたしにとってはおもしろい時代が来るってことね」


 林太郎が出席した課内の会議で、十年後の電力生活についての論議が始まる。

 「原発はほとんど消滅」と本多(林太郎の同僚)が言った。「核融合は実用化の前に諦められた。火力はまだあるでしょう。大型のガス・タービンが増えている。太陽光と風力は今よりずっと多い。丘の上にはどこも風車。エレガントな美しい風車が優雅に回っている」
  「大気圏外に太陽光発電所を造って、マイクロ波で送電するという技術も実用化している」
 「消費の側が変わります」と林太郎が言った。「省エネがすすんで、家庭でも工場でも電力消費は今の三分の一くらい。家庭では電力をトータルに管理して、必要に応じて各家電機器に時間差をつけて配電するシステムが実用化されている。これでピークを抑えられる」


しかし、この小説が書かれて10年以上たった今、現実になったのは、核融合が諦められようとしているぐらい。
人々は、福島原発の放射能拡散におびえ、電力会社は原発再開を狙って?15%節電のおどしをかけている。

現実は現実として、せっかくだから著者が目指そうとしている"すばらしい新世界"に、もうすこし"酔って"みたい。

完成したナムリンの風車を見に訪ねてきた米国人ジャーナリストに、林太郎はこんな問答をしかける。

 「ぼくは言いたいのは風車のこと。家の絵の横に木を描くように、子供たちが自分の家を描く時、かならず横に風車を描く。それくらい風車が身近になったらと思うんですよ」
 「木は太陽の光と空気中の二酸化炭素と水とで光合成しています。でも、木を見る人はそんなことは考えない。ああ、きれいな木だなとか、あの木陰で休もうかとか、鳥が巣を作っているとか、そんなことしか思わない。それと同じくらい目立たない風車ってどうですか?」
 「今の話、すごくいい。技術というのは本当はそれくらい透明になって、自然の中に溶け込むべきかもしれない。今の風車はまだダメですね」
 「そう。まだ俺が風車だって顔をしてますから」


 著者、池澤夏樹は、今回の東北大震災をどう見たのか。
 4月Ⅰ3日付読売新聞に被災地を訪ねたレポートが載っている。

 地震と津波は多くを奪ったし、もろい原発がそれに輪をかけた。その結果、これまでの生活の方針、社会の原理、産業の目標がすべて変わった。多くの被災者と共に電気の足りない国で放射能に脅えながら暮らす。
 つまり、我々は貧しくなるのだ。よき貧しさを構築するのがこれからの課題になる。これまで我々はあまりに多くを作り、買い、飽きて捨ててきた。そうしないと経済は回らないと言われてきた。これからは別のモデルを探さなければならない。


 池澤夏樹は、2005年に「すばらしい新世界」の続編「光の指で触れよ」を書いている。数年後には「震災の日を起点に、林太郎と森介が東北で活躍する」第3部を書く予定だという。
 その時の東北では、はたして瓦礫と原発は消えているだろうか。

2011年2月27日

読書日記「本は、これから」(池澤夏樹編、岩波新書)、「電子本をバカにするなかれ 書物史の第三の革命」(津野海太郎著、国書刊行会)


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▽「本は、これから」
 本とはいったいなになのか、これからどう変貌していくのか・・・。
 本の過去と未来について、書店、古書店、取次業者、装丁社、編集者、そして書き手や読み手の立場から30数人の人が語りつくしたエッセイ集。
 編者の池澤夏樹によると、集められた文章を要約すれば「それでも本は残るだろう」という結論になる。
 あるいはそこに「残ってほしい」や、「残すべきだ」や、「残すべく努力しよう」が付け加わる・・・。


 それにしても、色々な意見があるものだ。

 「記憶媒体としての電子書籍・・・、自分の頭を鍛えるための紙の本・・・という棲み分けができそう」(池内 了・総合研究大学院教授=宇宙物理学)

 「無機的に冷たく光る・・・iPadのマージン(余白)を見るたびに、密室に閉じ込められたような不安感を覚える」(桂川 潤・装丁家)

 「(電子書籍の)大きなポイントは老眼に対するホスピタリティで、文字の大きさと光度の、『痒いところに手が届く』感は半端ないですね」(菊池成孔・音楽家)

 「電子化を奇貨として、日本の書籍を何らかの程度に国際商品へと衣替えしようという出版人や著作者は現れないものか。・・・電子書籍こそ日本文化を発信し、日本の書籍の魅力や優秀性を売り込むための願ってもない武器であるはずだ」(紀田順一郎・評論家)

 「書籍は技術を売り物にする商品ではありませんよね。・・・それほど離れた位置にあったはずの書籍に先端技術がなんとか絡もうとしているのは、その先端技術とやらがすでに終盤に来ていう証です」(五味太郎・絵本作家)

 「本は、人が生きた証として永遠の時を刻む。紙か電子かは門構えの違い」(最相葉月・ノンフイクションライター)

 「もしこの時代に自分が学生だったら、出版社に入りたいと思う。だって、今なら何でもできそうだから。絶好調の業界に入っても面白くないでしょう・・・」(鈴木敏夫 ・スタジオジブリ代表取締役プロデユ―サー)

 「デジタル化は、本の『物質性』の消滅を意味すると思う。積極的には『物質性』の制約や束縛からの解放であり、消極的には『パッケージ』であった本の『枠』が外され、知識が情報化・断片化していく」(外岡秀俊・ジャ-ナリスト)

 「電子書籍は紙の世界かのコンテンツのほかに動画像、映像、音声、音楽など、紙の世界では表現できない新しいコンテンツが扱えるわけで、書籍までがマルチメディア情報の時代になってきた」(長尾 眞・国立国会図書館長)

 「メディアやデバイスが変わったからといって、読書行為に伴う何かはめったなことでは失われないし、・・・iPadによって黙読が"触読"に進んだだけのこと」(松岡正剛・編集工学研究所所長)

   ▽「電子本をバカにするなかれ」

 この表題から、IT関連業界人の電子書籍礼讃本だと思ったが、まったくの勘違いだった。

 津野氏は、編集者として「紙に印刷された本」(著者いわく、書物史の第二の革命の本)の側に立ちながら、同時に季刊・本とコンピューター(すでに廃刊)の総合編集長として、本とコンピューターの関係について思考を重ねてきた人らしい。

 著者は「いま(二〇一〇年夏)、これから本の世界に生じるであろうことを・・・四つの段階にわけて考えている」と書く。
(第一段階)好むと好まざるとにかかわらず、新旧の書物の網羅的な電子化が不可避に進行していく。
 (第二段階)その過程で、出版や読書や教育や研究や図書館の世界に、伝統的なかたちの書物には望みようのなかった新しい力がもたらされる。
 (第三段階)と同時に、コンピューターによってでは達成されえないこと、つまり電子化がすべてではないということが徐々に明白になる。その結果、「紙と印刷の本」のもつ力が再発見される。
 (第四段階)こうして、「紙と印刷の本」と「電子の本」との危機をはらんだ共存のしくみみが、私たちの生活習慣のうちにゆっくりもたらされる・・・。


 それでは、従来の出版業界はどうなっていくのか。
 けっきょく、旧来の出版産業はインターネットのそとで、これまでどおりの紙の本の世界にとどまりつづける。・・・
 ただし、それでは従来の経済規模を維持することはできない。したがって戦線を徐々に縮小していくしかない。


 もう門外漢だが、同じことが大量の発行部数にこだわり続ける新聞業界にも当てはまりそうだ。

 そして、これからの「まだ見えていない新しい出版ビジネスをになう」のは、(現在の伝統的な出版モデル)を知らない「いま保育園や幼稚園にかよっている子どもたちからあとの人たち」だという。

 単なる「本、大好き」人間にとっても、なかなかエクサイティングな未来予想である。

 ▽日本一の本屋・周遊記
 大阪・茶屋町にオープンした日本一の本屋と評判の「MARUZEN&ジュンク堂書店 梅田店」に、2月の初めに行ってみた。広さ約6800平方㍍、在庫200万冊を誇るという。

 地下1階のコミックを除いて、1階から7階までくまなく歩いた(もちろんエスカレーターを使って)。

 各フロワーでフエアをやっており、話題本を集めたコーナーがあり、書架も細かいジャンルに分かれている。
 例えば、2階では「大阪出身作家」のフエアが開かれ、「いい話」「皇室」「シルバエッセイ」「闘病記」「ケータイ小説」「乙女本」などのコーナーがあり、新刊の新書本を集めた「新書ナビ」コーナーも、食文化、西洋哲学、就活などに分かれている。

 とにかく楽しい。博覧会会場かディズニーランドに行った気分で、思わず衝動買いをしてしまった。

 ところが・・・。

数日前のNHK「週間ブックレビュー」で紹介されていた、ある画家の画集兼随筆をどうしても見たかった。検索コーナーにいる若い女性からベテランらしい男性に替わり、絵画コーナー担当者も出てきたが見つからない。

 あきらめて帰り、自宅でAMAZONを開いたらすぐに購入できた。ただし「届くのは月末」という表示。どうも版元で在庫切れだったようだ。

 日曜日の各紙に掲載される「読書特集」だけでなく、「週間ブックレビュー」の情報ぐらいは、書店全体でどうして共有できないのか。
 失礼ながらジュンク堂の店員は、このような情報に他の大型書店員以上にうといように感じるのは、私だけだろうか。

 リアルな書店がネットショップにぶざまに負けていく様子はできれば見たくないだが・・・。

2010年1月16日

読書日記「偏愛ムラタ美術館」(村田喜代子著、平凡社刊)

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  このブログにも書いたことがある芥川賞作家の村田喜代子が、小説を書く時の「栄養剤」として"偏愛"している絵画の数々を独断と偏見で書き綴った、なんとも凄みのある本である。

「大道あや」という画家を、この本で初めて知った。「しかけ花火」という絵について書くなかで、聞き取り「へくそ花も花盛り」という本に書かれた大道あやの言葉を引用している。あやの夫は経営していた花火工場が爆発して死ぬ。

 主人は焼け焦げとりました。でも誰も主人を運び出してくれようとせんのです。(中略)じゃから、私が主人の頭を抱くように抱え、弟が布を添えて足のほうを持って、運び出した。そしたら、主人の頭がパカッと割れて、脳味噌がドロッと落ちました。倉庫にあった茶箱に白い布を敷いて、主人を入れ、脳味噌も、こんなところに一滴でもおいていけんと思うて、みんな手ですくうて、紙につつんで、シーツにつつんで茶箱に入れて、家に帰りました。


 その事故の2年後に「しかけ花火」は描かれた。さく裂し、崩れ落ちる花火の間を魚が泳いでいる・・・。すべてのものでカンバスを埋めつくさずにはおられない「巨大な空間に対する圧倒的な畏怖の念」を著者は感じる。

 村山槐多「尿する裸僧」について著者はこう書く。

 これは彼のもう一つの自画像だろう。彼が死んだあばら家の壁は落書きだらけで、その中に男が放尿する絵も幾つもあったらしい。槐多の絵の放尿はまるで「爆発」だ。思いっきりの射精であり、エネルギーの放出であり、それから何だろう。まるで滝だ。人体のなかに滝を落下させている。


 この絵は信州上田市の「信濃デッサン館」にある。昨年、近くの「無言館」を訪ねた時に、時間がなくて行きそびれたのが、なんとも残念だ。

   著者は、大分県湯布院町の老人ホームに隣接している「東勝吉常設館」を訪ね「由布岳の春」など、デフォルメされた独特の絵を飽きずに眺める。
 東勝吉は長年木こりを生業としてきたが、老人ホームに入ってから院長に勧められて83歳で初めて絵筆を握り、99歳で死ぬまで絵を描き続けた。

 人間というのは、つくづくびっくり箱だと思う。何十年も生きているうちに、ある日ひょいと、とんでもないものが飛び出してきたりする。

 19世紀から20世紀にかけて素朴派と呼ばれる画家たちがいた、という。普通の生活をしていた人たちが、70歳を過ぎてから絵筆を握っている。

 そうか、年を取るというのは、身軽に自在になるということだったのか・・・。


 私でも遅くないかなと、思ってみたりする。

 まだまだある。著者はロバート・ジョン・ソーントンの奇怪なボタニカル・アートに引き込まれ、このブログにも書いた河鍋暁斎の想像力に「負けないでいこう」と、わが身を奮い立たせる。

 数々の「受胎告知」の作品のうち、私も何年か前のイタリア巡礼で見たフイレンツエ・サン・マルコ修道院にあるフラ・アンジェリコの壁画について、こう書く。

 微光に包まれたような柔らかさが好きだ。・・・

絵は完全飽和なのだ。アンジェリコの「受胎告知」は受諾と祝福で飽和して、一点の矛盾も不足もない。満杯である。


▽参照
    平凡社のこの本の紹介WEBページ

▽その他、最近流し読みをした本
  • 「林住期を愉しむ 水のように風のように」(桐島洋子著、海竜社刊)
     「林住期」 といえば、2007年に発刊された五木寛之 の著書 がベストセラーになったが、なんとこの本は1998年の刊である。 図書館の返却棚に並んでいるのを見つけて、思わず借りてしまった。この著者 のエッセイは、その明るさが好きでいくつか読んだが、相変わらず生活力と活動力にあふれたタッチがいい。ほかにも「林住期が始まる」「林住期ノート」という著書もあるようだ。

  • ・「バブルの興亡 日本は破滅の未来を変えられるか」(徳川家広著、講談社刊)
     著者 は徳川将軍家直系19代目にあたるエコノミスト。
     エコノミストの経済予測ほどいいかげんなものはないと読まないことにしているだが、結構評判がよかったので、昨年10月の発刊直後に図書館に予約を入れて、先日借りることができた。
    昨年9月の政権交代直後に書かれたが「史上最大の予算出動」など、けっこう当たっている。「バブルが発生するのは、だいたい危機の二年後」「その規模は空前の巨大規模」「そのバブルも崩壊して廃墟経済がやって来る」「バブル期には金の価格が下がる」・・・。小気味のよい予想は続く。マー、まゆつばで流し読みも一興。

  • ・「ぼくたちが聖書について知りたかったこと」(池澤夏樹著、小学館刊)
     フランスなどに長く住み、聖書の知識なしにはヨーロッパ社会を理解できないことを知った著者 が、父の母方の従弟である聖書学者の碩学、秋吉輝雄 に、自らの深い教養から出てきた疑問を投げかける稀有の本。
    聖書についてより、ユダヤとユダヤ人について多くのページがさかれるが、国境を持たない国に生きてきたユダヤ人への理解がなかなか進まない。聖書とユダヤについて、なにも知らなかった自分に気づかされる。



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5 『聖書』をひもとき歴史にひらく