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2013年1月11日

読書日記「大阪アースダイバー」(中沢新一著、講談社刊)


大阪アースダイバー
大阪アースダイバー
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中沢 新一
講談社
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 一昨年の11月に、このブログで著者が書いた縄文時代から説き起こす東京論 「アースダイバー」についてふれた。その時にも少し書いた「大阪アースダイバー」が、昨年10月にやっと単行本になった。予想通りの人気で、図書館で借りることができたのは、昨年暮になってしまった。

 中沢は、江戸時代に大阪・道頓堀の芝居小屋で始まったと言われる「とざい、とうざい」という 「東西声」には、単に芝居前の口上ではない「もっと重い大阪的意味がこめられている」と、思いもよらない切り口で大阪都市論を始める。

 現代の大阪の街では、南北を走る「筋」という道が自動車道路などとして優先されている。しかし、実際に徒歩で大阪の街を歩き、古地図を見ても東西に走る「通り」のほうが、大阪の街の成り立ちとして重要だというのが、著者の"第六感"。

東京のように皇居(江戸城)を中心とした権力思想の都市でも、京都のように中国から輸入された観念論的に設計された都市でもなく、・・・大阪は太陽が動く東西の軸を基に設計する「自然思想」が都市の土台になっており「古代人のような自然なおおらかさと、人間の野生が都市の構造に組み込まれている」・・・


この大阪の東西方向を走るその見えない軸を、著者は自然と野生を象徴するものとして「 ディオニュソス軸」と名付け、大阪の深層をこの軸上に描き出そうとする。

 縄文の昔、人々は 河内湖(現在の大阪平野)という巨大な潟の岸辺近くにムラをつくり、生駒山の自然と河内湖のもたらす幸に恵まれて生活していた。
 人が住むことができる土地は、生駒山麓とその対岸の細長い半島(現在の 上町台地)のような地面しかなかった。

map1;クリックすると大きな写真になります ネット検索で見つけた 画像①(左)に見られるように二千年ほど前には、大阪平野は、河内湖の底にあり、上町台地の東西に広がる西成と東成も水の底にあった。天満も船場も・・・軟弱な土砂層の上にあって海水に洗われていたし、ミナミなどは影も形もなかった。

 ウメダも、 前述したように同じ状態。梅田は埋田の異名もあり、かっては海の底だったのだ。

 大化の改新(7世紀)の後、皇徳天皇は、上町台地の突端に近い高台に難波宮を建設した。この都の中央には 朱雀大路が、そのまた南には「難波大道」が続いていた。

map2;クリックすると大きな写真になります 著者は、この軸線を「生命力が美しい形と威力をもって立ち上がる『アポロンの軸』」と呼ぶ。軸沿いには、画像②(右)に見るように、四天王寺、住吉大社、古墳群など「死に関係するスポット」が連なっていった。

   この南北の軸に対抗して生駒山地から発する東西の軸が、目には見えない「ディオニュソス軸」。

 この2つの軸を「自分の骨格のうちに強力に組み込むことによって、ほかの都市とは違う『大阪』となった」と、著者は主張する。
 権力思考の「アポロン軸」に対し、民衆的な野生の思考軸のせめぎあいが、大阪の活力を支えてきた、という論法だ。

 「ディオニュソス軸」上に育まれてきた「 船場の商人道は、我が国の資本主義の発祥となった」

ナニワの商人世界は、まさに敗者のオンパレードである。船場に屋敷を構えた有名どころを調べてみても、鴻池家は滅亡した尼子氏の出、住友家は秀吉に滅ぼされた柴田勝家の家臣として、立派な敗軍の将であった。関ケ原の戦いで西軍方について戦って、破れた武将の関係者も多い。淀屋、心斎橋筋の大丸下村家の大文字屋呉服店など、静々たる豪商の多くが、戦場で戦って破れた敗北者を先祖としている。
 そうした敗者にたいして、大阪は聖徳太子以来の寛容さをもってふるまった。


 「アポロン軸」の西にあるミナミの繁華街・ 千日前界隈は、中世までは海の底だったところが砂州となり、陸地になった場所。かっては墓地、刑場があり、火屋(火葬場)もあった。そこが整地され、寄席、見世物小屋、芝居小屋が雨後のタケノコのように出現した。

座席の下には、二百数十年もの間、営々と埋葬され続けた人骨が眠り、その上で吉本の芸人たちが演ずる・・・芸に、人々は笑い転げてきた。・・・
 まったくここにはむきだしの人類がいる。まるで、カラカラと歯を鳴らして、白骨が笑っているように、人々が笑っている。日本中を席巻し続けてきた大阪ミナミの笑いは、このような ネクロポリス(死者の都)の上に、比類のない成長をとげてきたのである。


  漫才も「このネクロポリスで誕生」し、上町台地の 生玉(生國魂)神社の境内で「最初の落語と言われる「『彦八ばなし』が演じられた。
 「芸能の王とは、なにあろう死なのである」  著者はあとがき「エピローグにかえて」のなかで、こんなことを書いている。

東京で「アースダイバー」をやった後に、つぎは大阪でやると私が言いましたら、それはまずできないでしょうと、おもに関西出身者たちから言われました。なぜかといえば、アースダイバー的に力の強い場所を探っていきますと、大阪ではかならず微妙な問題にふれていくことになる、早い話が差別に関わる微妙な問題に抵触せざるを得ないから、東京でやったみたいに気楽な気持ちではできないよと、その人たちは忠告してくれるのです。


 しかし著者は、「あいりん地区」「コリア世界」、そして「被差別発祥の地」という「ディープな大阪」に果敢に切り込んでいく。

 おもしろいのは「大阪のおばちゃん」の原点を、朝鮮・ 新羅の女神に見つけようとしていることだ。

 この神話はけっこう有名らしく、先日の出雲旅行の際にも聞いた覚えがある。

その昔、新羅のアグ沼のほとりで、一人の若い女がしどけない格好で昼寝をしていた。その様子を太陽の神が見て、うれしくなった。太陽神は一筋の日光に身を変えて、目の前に広げられた女の股間にまっしぐら、光はみごと女陰への侵入を果たした。妊娠した女は不思議なことに、一つの赤玉を産み落とした。赤玉は美しい少女に姿を変え、成長して、新羅の王子である「アメノヒボコ(天之日矛)」の妻になった。つまり彼女は母親と同じように、あるいは母親とは違う意味で、「太陽の妻=ヒルメ=ヒメ」となったのである。・・・
 ヒルメ(日妻)となった彼女が、ある日突然、自分の故郷はここではなく、日本列島にあると言い出したのである。これには新羅の王家も困った。いくら説得しても聞く耳もたない彼女は、ついに小舟に乗って船出をして、日本にたどり着き、北九州を経てついに大阪湾に入り、・・・上町台地に上陸したのである。『古事記』には、「このお方こそがナニワの ヒメコソ神社にいまします アカルヒメである」と善かれている。


 「太陽の妻」の子孫である「大阪のおばちゃん」というという存在の背後には「恐ろしいほどに深い歴史の真実が隠されている」と、著者はおばちゃんたちに喝采を送る。

 そして「エピローグにかえて」の最後で、こんなことまで書く。

大阪の空洞化をさらに加速しようとしているのは、 新自由主義的グローバリズムです(その通り!)。・・・そういう問題に維新の会はどう対処しているのでしょうか。橋下市長と維新の会の背後に、私はどうしても新自由主義を語り続けて来た人々の野望を感じ取ってしまいます。・・・  しかし問題は、現在大阪に疲弊をもたらしているものが、これまでの大阪の ポピュリズムを突き動かしてきたものとは、異質な原理であるという点です。・・・  しかしどうも最近「大阪のおばちゃんたち」はそのことに少し疑問をいだきはじめているように感じます。・・・もう少し時間が経てば、かならず強靭な「大阪の原理」「大阪の理性」が再び働き始めるはずです・・・。