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2011年9月30日

読書日記「絵に生きる 絵を生きる 五人の作家の力」(島田誠著、風来舎刊)



 神戸・ハンター坂にある ギャラリー島田の島田誠さんがこの本を書かれたことは、島田さんが猛烈なエネルギーで発信されているメールマガジンで知った。

 この本には、島田さんが人生を共にしてきた5人のユニークかつ孤高の画家たちへの思いが語りつくされている。

 プロローグに、こうある。
 
自ら強い意志をもってそれぞれの表現にこだわり、自分の生を主役として生きる作家たち。・・・彼らは苦労しているのではなく、・・・苦を選びとって生きているのである。


神戸の街を無頼で生き「溶き油を使うことも知らず、やたらチューブからひねり出した色をそのまま塗りつけ、自分の暴力的なまでの鬱屈した思いをぶつけて」いた 武内ヒロクニさん

看板屋に勤めながら「弟子入りしたり、手本にした人はいない」と、孤高を選ぶなかで絵を描き続け、不慮の火災で最愛の妻と3人の子供を亡くした。後追いまで考えたが、その母子を主題として描く覚悟をした在日2世の 松村光秀さん

「不遇の極みで、その生活を奥様や兄弟に支えられ、ご自身は歯を食いしばって、食べるものも食べない」で、制作にすべてをかけた 山内雅夫さん

 郵便局で手紙の仕分けの仕事をしながら専業画家となる夢を悶々と抱き続け「仕事を続けるか、やめて画家としてやっていくか、たびたび阿弥陀籤(くじ)で進路を占ったりしていた」故・ 高野卯港さん

 最後の章には、以前にこのブログでも紹介した "奇跡の画家" 石井一男さん

 画壇にも、売らんかなの画商にもそっぽを向き、自らの生のうめきから生み出される作品に命をかける画家群像が書き込まれている。

 そして画廊主である島田さん自身も「山内雅夫先生にいつも『島田さん、あなたが展覧会をやるということは、あなたが何を見、何を考え。どう生きるかを表現していることです』と言われ」続けてきた。それを実践する島田さんの生きざまの記述は、この本の大切な縦糸になっている。

 2008年に59歳で亡くなった高野さんを除くと、残り4人の画家と島田さんはいずれも昭和10年代の生まれ。
 一気に読んだこの本は、戦後の混乱と昭和の動乱、そして平成の混迷のなかで、自らの生を貫こうとした"同志"たちの闘争の物語に思えてきた。

 発刊に合わせて、登場する何人かの個展に巡り合ったのは、幸運だった。

武内ヒロクニ展(ギャラリー島田で);;クリックすると大きな写真になります 9月中旬。神戸・ハンター坂のギャラリー島田地下1階で開かれている「武内ヒロクニ展」に出かけた。

幸穂里さん;;クリックすると大きな写真になります ちょうどおられた奥様の幸穂里さんに絵の解説をお願いした。
 「ヒロクニさんは、街が好き、地下鉄が好き、そしてそんな街のなかを走るのが、好きなのです」。そんな躍動感が、赤を基調にした絵のなかにあふれている。これが、色鉛筆で描かれたとは・・・。

 絵のなかの、どこかに不思議なものが存在している。ど真ん中にある太陽、顔とおっぱいとおしりだけの一本足の少女、花、自画像・・・。
 「頭のなかの意識、体にしみ込んだ感覚、体臭みたいなものがほとばしり出るみたいです」と幸穂里さん。下描きは一切、しないという。

 著書のなかで、島田さんは「CHA-CHA-CHA」など武内ワールドの美しさについて、こう書いている。
記号化されたモザイクの隅々まで彼の生きた時代、空気、埃、淀み、流された血、精液などが塗り込まれている。・・・記憶の靄(もや)の中から抽出された、女性器、骸骨、顔、月、太陽、星、英文字。電車、街、看板、花などが曼荼羅のように物語を語る。 


壇ノ浦風景;;クリックすると大きな写真になります須磨海岸の絵;;クリックすると大きな写真になります 翌週からは、同じギャラリーで高野卯港展が始まった。
 来館者の応対に忙しい奥様の京子さんに少しだけ話しを聞くことができた。「茶色や赤の色が好きでした。自分の気持ちや思い出を描いていました。1枚の絵を何年もかけて仕上げるのです」

 不思議な絵があった。正面に大きく陶器の酒瓶。男と女がいて、その前の茶色の壁がカーブをきって大きく開かれ、その奥に砂浜と海が広がる。
 「これは、神戸・須磨の海。空気が抜けていくところなのです」。絵全体を覆うさわやかさは、壁の空間を抜け、海辺にいたる風のしわざなのか。

 風景画が多い。縦や横に、ぐいー、ぐいーとのびた黄色や緑のタッチが、やわらかく、かつ力強い構図を描き出している。

 著者の島田さんは、こう書いている。
 
卯港さんの風景画や物語をはらんだ叙景画は独特の味わいをもっている。洛陽でさまざまに染め上げられ、刻々に変幻し、黄昏(たそがれ)てゆく空。そこに鮮やかな緑や黄を勢いよく刷く。卯港さんの夢と現実との間(あわい)を揺れ動く思いが凝縮され、独特の色彩が綾なす感傷美にとどまらない切迫した気配は誰にも表現できない荘厳にして絢爛たる交響詩である。・・・心を動かすもの、美しいものを描くことが自分にとっての救いであり、歓びであることを真摯(しんし)に求め、それが若き日から卯港さんの日々に降り積もる悲しみを抱えて、宿命のような長期の潜伏期間をもつ病とともに蚕が繭を吐き出すように紡いだ作品を産んだ。


 9月の初め。阪神・岩屋駅に近い BBプラザ美術館で石井一男展が始まった。

石井さんの作品にふれるのは、昨年1月以来だ。この展覧会は「『奇跡の画家』に書かれたお客様に渡っている作品が大半」(島田さん)だそうだ。一回りした後「女神」「母と子」図の前に置かれたソファに座っていると、当の石井さんが学芸員らしい女性に伴われて現れた。

1年前に見た細身の体にキャンバス地のジャケットを着こなし、ちょっと猫背の姿は変わらない。
「テーマは、今でも女神ですか」と聞いてみたが、寡黙の石井さんは「最近は、色々描いています」と右壁の作品群を指さされた。

島田さんが石井さんを見出して個展を開き、ノンフィクション作家の後藤正治さん(元・神戸夙川学院学長)が石井さんを主人公に書いた「奇跡の画家」がベストセラーになり、出された2冊の画集も重版を重ね、孤高の画家・石井さんの環境は劇的に変わった。それにつれて、描くテーマも広がりを見せ始めた。「石井さんが孤独で死に向いあっていた状況は変わりましたが、揺らぐことのない豊かな世界が広がった、ということでしょう」と、島田さんは話す。

 島田さんは、著書の最後で石井さんについて、こう語る。
 
石井さんが、ゆったりと作品と対話し、イメージが降りてくるまで待つこと。そして、いつまでも蝸牛の歩みであることを願っている。
石井さんに当たる光は小さな教会の伽藍や破れ寺の暗い御堂に差し込む薄明であってほしいいし、賞賛は密かな吐息や独白であってほしい。
・・・石井さんの女神たちや心象風景が、地下水脈からこんこんと水が流れるように大地を潤し、困難にある人たちに寄り添い、いつまでも孤独な魂とともにあることを願っている。


2010年1月31日

読書日記「奇跡の画家」(後藤正治著、講談社刊)「絵の家のほとりから 石井一男画集」(石井一男著、ギャラリー島田刊)



奇蹟の画家
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後藤 正治
講談社
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4 絵はその存在自身で全てであり。観て感ずるものがあれば...その絵とあなたは共鳴したのだ!それで十分ではないか?
3 ルオーの絵?
3 本人が多くを語らない以上「絵」の力を伝えるにはこの構成しかないのはわかるのだが


図書館の予約の関係で、絵画関係の本が続いてしまった。

 ノンフィクション作家の後藤正治さんが、神戸・ポートアイランドにある神戸夙川学院大学の先生になったのを新聞で何度か見て、なぜ?と思っていたが新著「奇跡の画家」の冒頭でこんなことを書いておられる。

 「(大学の誘いに)イエスの返事をしたのは・・・いささかもの書き稼業に倦むことがあって、・・・」

 物書きらしい、自虐的な表現なのだろうが、この大学で教えることになって神戸のことを少しでも知りたいと思ったことが、この本が誕生するきっかけになる。取材の行き届いた後藤さんのいつもの平易な文章を、一気に読んだ。
 後藤さんは、神戸・元町の老舗書店、海文堂の元社長で、現在は、ギャラリー島田を営む島田誠さんを紹介され、島田さんを通して無名の画家、石井一男さんを知る。

 島田さんと石井さんの出会い、石井さんの作品については、ギャラリー島田のホームページやブログ それに「石井一男の小さな美術館」という丁寧なWEBページにくわしい。

 絵の素人がとやかく言うのも失礼な話だが、本の写真やWEBページで見た最初は「奇跡の画家」というのは、ちょっと大げさすぎないかなという感じ。"奇跡"という驚きよりは、なにか静逸な奥深さ、孤独感。昨年の秋、京都・大原の三千院を訪ねた際に出会った苔むした野仏のように、知らぬ間にやすまる思いに引き込まれるような・・・。

 石井さんの取材を始めて3年、石井さんに質問しても、いつも「ウーン」と答えてくれない。しかたなく、後藤さんは石井さんの作品に出合った人の取材を続けていく。

 定年退職して間もない夫を癌で亡くした妻は、二階に上がる階段の途中の狭い空間に置いた石井の女神像を「何か気分がすぐれないとき・・・じっと絵の前にたたずんでいた夫の姿を」覚えている。


 毎日新聞朝刊のコラム「余禄」(2005年5月2日)には、こんな記事が載った。
 「その部屋にはたくさんの女神がほほえんでいた。・・・イコン(聖像画)のような、見る人の心に深く錐(すい)を下ろす作品だ」


 神戸市立本山第一小学校教諭の中西宮子は、知らない間に石井作品のコレクターになっていた。
 「中西が、石井作品から受け取ったものは、人・石井一男の感触や雰囲気を含めた全体的なものだ。おごらず高ぶらず、謙虚で物静かななかにひっそりとあるなにか確かなもの――。その知覚はふと、自身に知らず知らずの間に付着するアカを洗い流し、浄化してくれるようにも感じた」


 ギャラリー島田で、石井一男展が開かれているのを知り、出かけてみた。

 山手幹線からハンター坂を登って数分。カトリック神戸中央教会の斜め前にあるガラス張りのドアを押して作品を見た最初の印象は「なんだか、明るいなあ・・・」。黒いモノトーンの作品もあるのだが、グワッシュで描かれた初期の作品より、明るい清涼感が漂う。アクリルで描いた作品が多くなったせいだろうか。

 奥で、白髪を短く刈って、背中を少し曲げた男性が、のぞき込むように女性客と話していた。キャンバス地のシャツに、厚いゴム底の黒靴。すぐに石井さんだと分かった。
 「最初はなぜ、グワッシュを使われたのですか?」「油と違って、すぐに乾くので次が塗れますから」「油絵具より安いのですか」「少しね・・・」。失礼な質問だったなあと、後で恥ずかしくなった。

 地下の企画展会場には島田さんもおられた。細身の体に、チェックのシャツを着こなし、この仕事にかけていることを全身ににじませておられる67歳。

 「最初に絵を見た時?うまい,へたを越えたただものではない、という感じを持ちました。心に届くなにか。野道で風雪の野仏に会ったような、心に通じるものが響いてきました」

 「最近の作品がかわってきたのは、石井さんの世界が広がってきたということではないですか。孤独に生きた最初の画集の題は『絵の家』 。それが第2の画集で『絵の家のほとりから』になり、周りに広がってきたのです。女神が心とあそび、二人の女神になり、声が聞こえ、青空に鳥が飛び、花を描き、母子がいる」

 2番目の画集の巻頭語で、石井さんはこう書いている。

  
きょうも一日、さほどのものも描けていない。
そして夜・・・、銭湯へ。
ああ、ごくらく、ごくらく。
十時ごろ、落語のテープを聴いて眠りにはいる。
きょうも終わる。
そうして、あしたがくる。
感謝。


 そこには、昔と少しも変わらない石井さんがいる。
 作品の売り上げを寄付に回したいという石井さんに「将来、なにがあるかは分からないから」と一部に留めるよう、島田さんは説得を続けている、という。