検索結果: Masablog

Masablogで“稲葉真弓”タグの付いているブログ記事

2012年8月 8日

読書日記「くらしのこよみ 七十二の季節と旬をたのしむ歳時記」(うつくしいくらしかた研究所・編集、株式会社電通、株式会社平凡社・制作 )





 もともと「くらしのこよみ」は、スマートフォン用の 無料アプリとして開発された。

 以前にNHKラジオ朝の番組 「ラジオ・ビタミン」で旧暦を楽しむ暮らし方の特集を時々聞くことがあり、おもしろいなあと思っていた。

このアプリは、旧暦のならわしである季節を立春、夏至、秋分、大雪などに分ける 二十四節気と、それをさらに七十二候に分類し、その期間の季節の解説、旬のさかな、やさい、催しなどを巻物のようにスクロールしながら楽しむことができる。

 さっそく、私が使っているアンドロイド版のスマホにアップロードしたが、とにかくデジタル写真がすばらしい。このブログを書いている八月六日の大暑・第三十六候「大雨時行(たいう ときどきに ふる)」には「季節のたのしみ」という項目に「冷たいものは控え、温かい食べ物を」といったアドバイスまであって「そうか、今日の昼は温かいにゆうめんにしようか」と思ったりする。

 ただ、この無料アプリは七十二候、つまり五日ごとに更新されて、前後の「候」を見ることができない。

 そこで、七十二候のソフトが完成した時点で、1年分をまとめて出版(税別2980円)したのがこの本。同時に、アプリのほうでも iPhoneについては、3-72候分を170-2200円で販売している。予定通りの商業主義に乗せられたきらいがないでもないが、すぐさまAMAZONで買ってしまった。

スマホの画面イメージ【くらしのこよみ】
スクロールの右端から左へ移動してください。
 八月七日からは二十四節気で 「立秋」入り。日本間にすだれがかかる青いトーンの写真続いて、七十二候の第三十七候「涼風至(すずかぜ いたる)」が説明されている。

 
立秋を過ぎ、お盆を迎える時期になると、熱風の中にふと秋の気配を感じることがあります。まぶしいほど輝いていた太陽も心なしか日射しを和らげ、日が落ちると草むらから虫たちの涼しげな音色が聞こえてきます。真夏日や熱帯夜が続き、暑さは今がたけなわですが、季節は少しずつ、しかし確実に進んでいます。


 原発再開のための「計画停電」という電力会社の"脅し"にもめげず、例年にない猛暑を耐え抜いてきた70歳の老人に、そっと冷風を運んでくれるような文章である。

   そして季節は「寒蝉鳴(ひぐらし なく)」(第三十八候)「蒙霧升降(ふかき きり まとう)」(第三十九)候と進み、二十四節気の 「処暑」に入ると、もう八月もあと数日となる。

 そんな季節のうつろいのページを繰り、コスモスの名所を挙げた記述に旅への思いをつのらせてみたりする。  以前、このブログで稲葉真弓の 「半島へ」という本にふれたことがある。その時には書かなかったが、著者が、同じ半島(志摩半島)で生活する自然染め作家に二十四節気を織り込んだカレンダーを楽しむ暮らしを教えてもらう記述が出てくる。

「いつどんな植物が顔を出すか。この暦だとわかりやすい。春分のころを見てみると、ヨモギやセリ、ツタシって書いてある。あ、そろそろだ、とこの暦を見て野に出て春のものを染めるわけやね。春分が過ぎれば、桜の時期。花見の準備もするが、若い枝の皮をそいで煮だして染めるのに最適。穀雨って言葉もいいでしょう?字の通り、穀物を育てる雨がやってくる。芭種が来たら、藍や茜の種をまく。已種の巴は忙とも書くらしい。草取りもあるし、やたら忙しい時期ですわ。そんなわけでね、僕らの一年は十二カ月ではなく、二十四節気。この暦は僕らの仕事の水先案内人です」


 
「よく五感を研ぎ澄ますって言いますよね。このごろ思うんです。人間は五感どころか、二十四の感覚を身につけているんやないかってね。・・・たとえば、このあたりには桐や粟の木が多いが、半月もすると花のにおいの違いがわかる。同じ花なのに喚寛が違ってくるんです。あ、今日はにおいが濃いな、あ、花が腐り始めているなんてことがわかるのは、もっと微妙な感覚が入り交じっているせいやないかと思うんやけど。温度とか、その日の感情、生理感覚なんかで受け取るにおいが変ってくる。なんや不思議だなぁと思っているうち、ものの本で人間の感覚は十二あるという説を見つけてね。でもねぇ、二十四節気を基準に暮らしてると、どうもそれも少ないような気がする。半月ごとに二十四感覚、人の体も動いているんやないかな」


 感覚をとぎすまして、季節の変化を体で受けとめていく・・・。そんな生活をうらやましく感じる

 著者は、二十四節気を強調した暦を使っているらしい。「暦には、小さな文字でその季節の特徴、しなければならないことが書いてある」

   
立夏。花木の花後の努定。球根や苗の植えつけ。一年草の種まき。挿し芽。ソラマメ、アスパラガス、ワケギなどの収穫。ナス、トマ㌧ピーマンの植えつけ。Etcー

 小満。鹿児島でアジサイ開花。ウツギ、サツキ、シロツメクサ開花。アサガオ、ヨルガオ、ケイトウなど一年草の種まき。キキョウ、タチアオイなど宿根草の種まき。サヤエンドウ、イチゴの収穫。etcー


 こんなカレンダーを手に入れたくてNET検索してみたが、どうもこれだというものがヒットしない。なんとか手に入れたいのだが・・・。

 もう1冊「日本の七十二候を楽しむー旧暦のある暮らし」(白井明大/文、有賀一広/絵、東邦出版刊)を図書館で2度にわたって借りた。
日本の七十二候を楽しむ ―旧暦のある暮らし―
白井 明大
東邦出版
売り上げランキング: 1397


 「くらしのこよみ」のデジタル写真に負けているかなと思ったが、詩人の言葉とちらばめられている色彩豊かなスケッチがなんとも味わい深い。

 絵手紙を描くのが好きという知人に薦めてみようと思う。

     

2011年11月28日

読書日記「半島へ」(稲葉真弓著、講談社刊)


半島へ
半島へ
posted with amazlet at 11.11.28
稲葉 真弓
講談社
売り上げランキング: 131572


 今年の 谷崎潤一郎賞受賞作。この作家のことは知らなかったが、書評者として現在一番尊敬している池澤夏樹が「読んでいる間ずっといい気持ちが持続する小説」と選評していたので読む気になった。
 ところが、肝心の本が手に入らない。図書館は貸出中。計5件の書店がいずれも在庫なし。AMAZONも「5-7日待ち」。つまり、流通在庫はゼロということらしい。結局、今月の9日に芦屋ルナ・ホールで開かれた著者の受賞記念講演会場で買うことになった。

 東京に住む主人公は、志摩半島に別荘を買い、1年に数カ月過ごす生活をしている。
 
折り畳みのデッキチェアーに体を投げ出し、ぼうっと空を見ていると、波動のようなものが体内をかすめていく。地球の自転の震えだろうか。体と一瞬にしてつながるような未知の感覚に襲われる。同時に人間が流れることなく地につながれていることが、なぜか奇跡のように思えてくる。夜風の動き、葉擦れのかすかな音が五感の境界を溶かしていくのか、体が人間の生理学、ヒトの時間をどんどん離れ、得体のしれぬものに変化していくようだ。ああ、こんなふうに、体は肉体を離れていくのか。これが無になるという感覚なのか。どこか遠い場所で放たれた、見知らぬ人の体に乗り移ったようである。


 私小説風のフィクションということだが、現実にあったことを書いているのは「6割ぐらい」と、著者はインタビューに答えている。離婚を経験し、熟年にさしかかった女流作家が、半島での生活で老いの静かさを実感していく。

   
梅雨明けから続いた猛暑のなか、私は自分でも落ち込むほどにへばっていた。年齢による体力の衰えも関係していたが、盆の過ごし方がまるでわからないのだ。・・・家族の団欒姿は、私の日常からなによりもとおいものだった。
 だから私は。自分のなかに欠落しているものを痛いほど意識しながら、家族とともに過ごす半島の住民たちを見ないようにしていた。ムキになって草取りをし、花の終わったアジサイの剪定にやっきになり、崩れかけた花壇に土を運んだ。その不自然さ、ぎこちなさ、疲れが、他愛ない笑いとともにすっと溶けて行く。


 
藪椿の森を歩く。おびただしく落下する花を踏んで、先に行く気が失せてしまう。「この道は藪椿の墓地」だと思う。
 ひと足をついと踏み出せば、そのまま大地に吸い込まれ、体ごと帰れなくなりそうだった。・・・花の死骸の下にも、ひとには見えない強い道がある。季節の変わり目、終わりを迎えた花にしてみれば、ここは「最後の地」のようなものなのだろう。そう思った途端、熟れた蜜と思った花のにおいに、突如、腐臭が漂い出す。


周りに住んでいるのは、定年を迎えて第2の人生をこの土地で楽しもうとやって来た人たち。彼ら、彼女らと、半島にあふれるばかりの自然の恵みを満喫していく。

 
散歩から帰ると、玄関先に掘り立てのタケノコが積み上げてあった。倉田さんが届けてくれたのだろう。九本の太ったタケノコだった。
 ・・・
 「竹林んなかを通ると、眠気が覚めるね。体内の毒気を吸い取るなんかがあるのかもしれねぇよ」
 「毒気?竹のどこが毒気を吸うの?」
 ・・・「節かな。あんなかは真空だし、真空ってことは宇宙みたいなもんやないか。それにさ、タケノコは一日に何十センチも伸びるだろ。あのエネルギーが、こっちに乗り移るんかね。うまく言えねぇけど、竹林を通ると、この先、死にそうにないような気がするよ。・・・」


 近所の人が、間引いて明るくなった竹林で開いた酒宴に呼んでくれる。竹の切り口に立てた二百本ものロウソクがあちこちでゆらめく。酔った私はだんだん頭が朦朧としてくる。
 
ぐるりを見回すと、どのひとももう人間ではなくなっていた。全部が海のもの、山のもの。女たちが集まっていたところでは、たくさんのイソギンチャクがひらひら口を開いたり閉じたりしている。
 別の場所では大小の牡蠣が不格好に躍っている。ごつごつしてどれも陰影が深い。肩を組んで重なりあっているのは蟹だろうか。大きなハサミを振り回しながら、間断なくぶくぶく泡を吹いている。・・・
 覚えているのは、だれかが私を支えながら家まで送ってくれた曖昧な記憶だけ。・・・ふたりの女は野うさぎの顔をしていた。枯れ草のしみた毛皮のにおいがふっと鼻孔をよぎっていく。


 著者は、谷崎賞記念講演で「十六年通い続けた土地の力に一番影響を受け、書く力を得てきた」と語った。かって力を支えてきた土地は、長年住み慣れた東京・品川だったが「パワースポットは志摩半島に移りつつある」という。
 そして「今回の東北大震災の土地に住んでいた二万人の人々の膨大なかけがえのない日常が、フィクションの宝庫だと思えてきた」と、次の作品を予言した。

 
私はひとが「え、しばらく向こうに行くんですか。これまで通り、通えばいいじゃないですか?どういう心境の変化です?」と尋ねるたびにこう答えることにした。
 「地層がね、呼んだんですよ。むき出しなんだけど強そうで・・・」


 著者は、この本の冒頭近くで、志摩半島の地層を調べたことを書いている。ここの地層は「中生代白亜系からジュラ系の和泉層群、領石層群、鳥巣層群、四万十層群の四層からなっている」らしい。

地殻変動によって海から押し上げられた土地らしいこともわかった。そうか、ここは海底に眠っていた土地だったのか。・・・原始を抱えて地上にやってきたもの、地殻変動に耐えて長い年月生き延びたものが、私の足元を支えていたなんて。わ、すごい。掘れば貴重種の化石がざくざくと出てくるかもしれない。胸が躍った。