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2010年3月 9日

紀行「長崎教会群」(2010年1月、2008年5月)その3・終


 1月7日。長崎市内を走る路面電車の「浜口町」駅を降りてすぐの丘の上にある「長崎原爆資料館」を訪ねた。長崎市に来たのは5回目だが、資料館に来るのは恥ずかしながら初めて。
 らせん状の通路を降り、地下2階の展示場に入ると、急に照明が暗くなった。右側の天井に原爆投下1カ月後の写真が浮かびあがり、正面に被爆でほぼ崩壊した浦上天主堂側壁が浮かびあがった。10分ごとに照明を落とし、写真を投影する仕掛けになっているようだ。

 昨秋、このブログで「ナガサキ 消えたもう一つの『原爆ドーム』」という本について書いた際、残った天主堂が保存されずに取り壊わされたのを残念に思った。
それだけに、浮かび上がった側壁を見て「しっかり保存されているじゃないか」と勘違いしてしまったが・・・。実は、煉瓦やウレタン樹脂を使って実物大に模した"再現造形"と呼ばれるものだった。

展示説明画像:クリックすると大きな写真になります  近くの原爆落下中心地には、天主堂の側壁の一部が移築されていると聞いていた。この"再現造形"との位置関係が分からない。
帰宅してから資料館に電話、研究員の方から見落としていた展示説明画像 を次のようなメールで送ってもらった。再現された側壁の前にあるディスプレーに表示してあったのを、見落としていたのだ。

 先ほど、お電話いただきました、長崎原爆資料館の奥野と申します。

添付いたしました画像は、当館展示解説文の写真です。画像の右下にある写真に、当館の再現造型と移設した遺壁の位置関係を示しております。

当館の再現造型は、写真等からサイズを割り出しておりますので、原寸大に近いものとなっております。

よろしくお願いいたします。

長崎原爆資料館
被爆継承課
担当:奥野
tel:095-844-3913
fax:095-846-5170


 資料館でもらったパンフレットに、被爆建造物マップが載っていた。浦上教会関係では鐘楼ドームや当時の石垣が残っていることになっている。昨年5月、五島列島の帰りに浦上教会を訪ねた時にはうかつにも気付かなかった。

 資料館から教会までは歩いて10分もかからない。教会の臨む左側の川沿いに、確かに黒く焼け焦げた鐘楼の一部が保存されていた。直径5・5メートル、重さ30トンもあったものが、35メートルも吹き飛ばされたのだ。

 丘の上の教会に向かって、かなり急な坂を登っていくと、正面手前に被爆した聖ヨゼフやマリア像や天使像、獅子の頭などが残されており、千羽鶴などが絶えない。

 聖堂は1959年(昭和34年)に鉄筋コンクリート造りで再建されたが、1980年(同55年)に翌年の前・ローマ教皇、ヨハネ・パウロ2世が訪日されたのにあわせて、外壁に煉瓦を張り、内部も窓をすべてステンドグラスにし、天井も"リブ・ヴォートル風"に張り替えられた。交替で当番をしておられる信者の方によると「五島列島の教会のような、ちゃんとしたリブ・ヴォートル天井ではない」そうだが、司教座聖堂にふさわしい荘厳で堂々とした雰囲気だ。

 聖堂右の通路を入ってすぐのところにある「被爆マリア像小聖堂」を昨年に続いて訪ねた。
 入口には旧天主堂の被爆遺構をステンドグラスにしたものが組み込まれ、内部左側の壁面に張られた6枚の銅製銘板には、原爆で亡くなった信者の名前がびっしりと刻みこまれている。一緒に教会巡りをした一人・Yさんの祖父や叔父なども亡くなっており、名前を見つけようとしたが、暗くて分からなかった。約1万2000人の信徒のうち約8500もの人が犠牲になったのだ。

 被爆のマリア像は正面祭壇の中央に安置されている。
 被爆後の瓦礫のなかから、一人の神父が探し出して北海道に持ち帰ったが、長い年月の末に浦上教会に戻ってきた。
 木製で、右ほおが焼け焦げ、両目は焼けてくぼんでいるが、じっと上を見つめる頭部だけの像は胸に迫るものがある。
 このマリア像は4月にカトリック長崎大司教区が主催する平和巡礼団とともにスペイン内戦で無差別爆撃を受けたゲルニカ市などスペイン、イタリアの13都市を訪ねる。

 これだけ多くの多くの被爆遺産が残っておれば、被爆の歴史を継承していくのには十分だと考えるのか。広島の原爆ドーム が世界遺産になっているのを考えると、被爆天主堂を残さなかったのはやはり残念だったとみるのか・・・。戦後の歴史が刻んだ事実をこれからも見つめていくしかなさそうだ。

 教会横の敷地では、ちょうど司祭館の新築工事が進んでいた。

 浦上教会の坂を下り途中で右折した住宅地のなかに、故永井隆博士が亡くなるまで住んだ「如己堂」と市立永井隆記念館がある。

 永井博士は、戦後発の大ベストセラーとなった「長崎の鐘」で有名だが、現在でも博士を巡る論争が続いているのは「長崎の鐘」に書かれ、廃墟の浦上教会での原爆合同葬でも博士が述べた「神の恩寵によって、浦上に原爆が投下された」という言葉を巡ってだった。

 同じカトリック信者で作家の井上ひさしは、著書「ベストセラーの戦後史 1」 で「これが本当なら、長崎市以外で命を落とした人びとは・・犬死ということになる」と批判、「この著者の思想をGHQは『これは利用できる』と踏んだにちがいない」と述べている。

 この論争は、永井博士生誕100年の2008年にも、新聞などで再燃している。
 白血病で病床にいる博士を昭和天皇やヘレン・ケラー、ローマ教皇特使が見舞い、吉田茂首相が表彰状を贈るなど"浦上の聖者"が"日本聖者"になっていった経緯は、いささか普通でないようにも見える。やはり戦後歴史の一つとして見つめ続けられていくのだろう。  1昨年の5月と昨年1月には、このほか国宝の大浦天主堂日本二十六聖人殉教地、聖トマス西と十五殉教者に捧げられた「中町教会」、長崎港を見下ろす丘の上に建つ神の島教会、それに聖コルベ記念館サント・ドミンゴ教会跡資料館を訪ねた。

その前にある長崎歴史文化博物館では、開催されていた「バチカンの名宝とキリシタン文化展」を鑑賞する幸運にも恵まれた。

様々な思いを心に刻み込まれた3年間の「長崎教会群巡り」だった。

example2
浦上教会下の川辺に保存されている鐘楼跡:クリックすると大きな写真になります黒こげになった聖ヨゼフ像などが残されている浦上教会正面:クリックすると大きな写真になります浦上の人たちが博士に贈った「如己堂」:クリックすると大きな写真になります国宝の大浦天主堂:クリックすると大きな写真になります
浦上教会下の川辺に保存されている鐘楼跡黒こげになった聖ヨゼフ像などが残されている浦上教会正面浦上の人たちが博士に贈った「如己堂」。たった2畳1間。前の道路を通る観光バスも、ガイドの説明を聞いただけで素通りしていく国宝の大浦天主堂。聖灯が消え、入口で入場料を取る天主堂からは、聖堂の荘厳さは消えている。正面反対側に新しい大浦教会がある。
日本二十六聖人殉教地:クリックすると大きな写真になります中町教会:クリックすると大きな写真になります神の島教会聖コルベ記念館の内部:クリックすると大きな写真になります
日本二十六聖人殉教地。ちょうど、フイリッピンからの巡礼団が記念撮影中中町教会。原爆で崩壊したが、その外壁と尖塔をそのまま生かして再建された急な階段を登って、行きつく神の島教会。俳優の故・上原謙が、この風景を見て、結婚式を挙げたとか聖コルベ記念館の内部。日本で殿堂後、帰国してアウシュビッツ収容所で他の囚人に代わって餓死刑を受け、後に聖人に列せられた。壁画は、それを描いたもの


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2010年2月22日

紀行日記「長崎教会群」(2010年1月、2008年5月)、その2


 1月6日の午後。長崎駅前のバスターミナルで、隠れキリシタンのふる里、旧外海(そとみ)町(現在は長崎市)行きのバスを待った。

 1昨年の5月に、同じように外海方面行きのバス停を訪ねた若い主婦に「遠いですよ・・・」と言われたのを思い出した。前日よりぐっと冷え込み、寒風がこたえる。やっと来た長崎バスで桜の里バスターミナルまで約1時間、さいかい交通バスに乗り換え、約30分で大野のバス停に着いた。
世界遺産に暫定登録されている「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」のリストにも挙げられている国指定の重要文化財「大野教会」は、長崎市の中心からはかなり遠い。1昨年行きそびれたので、2年越しの再挑戦である。

 早くも水仙の花が所々に咲いている狭い農道を10数分登った山あいに、なんとも素朴な石造りの教会が建っていた。
 この教会は、外海地区の主任司祭として大きな足跡を残したフランス人マルク・マリ・ド・ロ神父 が、隣の出津教会に来られなくなったお年寄りのために明治26年に建設した小規模な巡回教会。地元で産出される玄武岩を砂と石灰、水を混ぜた赤土で積み上げた「ド・ロ壁」という独特の工法で建てられている。
 木の雨戸の上に赤煉瓦で縁取りされた半円形をした木組みの窓があり、和瓦の屋根の頂上と軒先の白い漆喰梁に描かれた小さな赤い十字架があざやかだ。

 正面の防風壁に守られている玄関から中をのぞくと、柱が一つもなく、簡素な造りの机が並んでいるだけ。がっしりとした「ド・ロ壁」が角力灘からの強風を防いでくれるのだろう。振り向くと、青く広がる角力灘(すもうなだ)越しに、この外海から迫害をのがれてキリシタンたちが移住していった五島列島が臨める。

 2006年には大修理が行われたという。周りの風土にすっかり溶け込んだ教会を後世に伝えたいという地元信徒たちの思いが伝わってくる。

 1昨年の5月には、同じバスのルートで大野教会の手前の出津教会をまず訪ねた。

 明治12年に赴任したド・ロ神父が明治15年、最初に建設した教会。明治24年に祭壇部、同42年に玄関部が増築されており、バス停から坂を下った窪地にあるが、煉瓦造りの建物を白い漆喰で包み、2つの尖塔と、正面左に別棟の鐘楼を持つ堂々とした、たたずまいだ。それでいて屋根までが非常に低い。外海の強風を考慮した設計だという。

 教会では、老夫婦のご主人の洗礼式が終わったところだった。翌日には、すでにカトリック信者である奥さんとの結婚式が改めて行われる、という。この地域にはいまだにおられる隠れキリシタンの"改宗"ではなかったのか、と今になって思う。

 ド・ロ神父は、貧しさにあえいでいたこの地区の人たちを助けるために、パンやそうめん(スパゲツティ)の作り方を教え、孤児院まで作った。夫を亡くした女性たちの生活を守るために神父が設計した鰯網工場跡は「ド・ロ神父記念館」になっている。入口を入ったところでシスターの橋口ロハセさんがオルガンで聖歌「いつくしみふかき」を弾いておられた。ド・ロ神父がフランスから取り寄せたものを、8年前に修理したのだ。

 国の重要文化財「旧出津救助院」は、2012までかかる大修理中で、工事用の壁に囲まれていた。授産場と「ド・ロ壁」に囲まれたそうめん工場が再現されるという。

 1時間に1本しかない長崎駅行きのバスで30分ほどの「道の駅 夕陽が丘そとめ」で降りる。長崎屈指といわれる夕陽を待っているライダーたちであふれていた。

 2,3分、海のほうに歩くと「遠藤周作文学館」 がある。まず遅めの昼食をと、付属のレストランで「ド・ロ様そうめん」を食べた。落花生油が練り込んであるとかで、もっちりしていてなかなかの味だった。

 文学館は、遠藤周作が愛用した書斎コーナーが再現されており、遺品や生原稿などで遠藤文学のすべてを閲覧できる。2方が天井までのガラス張りになっている「聴涛の間」からは、碧く広がる角力灘(すもうなだ)が見渡せる。壁に書家・近藤攝南が書いた額がかかっていた。
      
       物語は終わり 今は黄昏
       私は川原に腰をおろし
       膝をかかえ 黙々と
       流れる水を 永遠の
       生命のように凝視している


 遠藤周作作「男の一生」の1節だ。
 近藤攝南さんは昨春亡くなられたが、新聞社に勤めていたころに何度かお顔を拝見したことがある。遠藤周作は、近藤さんを父親のように慕っていたという。

 外海は、遠藤周作の代表作「沈黙」の舞台でもある。この本で「トモギ村」と書かれているのは、この後訪ねる黒崎の地がモデルらしい。

 出津教会の近く、文学館を臨む丘の上に「沈黙の碑」があった。
       
      人間が
      こんなに
      哀しいのに
      主よ
      海があまりに
      碧いのです
             遠藤周作


 1時間後のバスで20分ほど戻ったところが、黒崎のバス停。すぐわきの急な階段を登ったところに煉瓦造りの「黒崎教会」があった。

 やはりド・ロ神父の指導で明治30年から信徒が総がかりで敷地を整備、煉瓦を1つ、1つ積み上げて23年もかけて完成させた。内部はリブ・ヴォートル天井を持つ、ゴシック調の重厚な雰囲気。教会横の鐘楼は、この地区に多く住む隠れキリシタンの"教会復帰"を願って建てられたという。

 教会から15分ほど登ったところに、日本には3社しかないというキリシタン神社「枯松神社」 があり、毎年秋の祭りには、キリシタンの祈り「オラショ」が奉納される。日本にキリスト教が伝わって約470年、江戸時代に始まったキリシタン弾圧から約210年。その歴史を刻んできた神社である。

 世界遺産に暫定登録されている「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」に、なぜこの神社は入らないのだろうか。弾圧時代のキリシタンはキリスト信者でなかった、というのだろうか・・・。 ふと、そんな疑問がわいてきた。

「ド・ロ壁」で囲まれた大野教会:クリックすると大きな写真になります波静かな角力灘(すもうなだ)。:クリックすると大きな写真になります堂々としたたたずまいの出津教会:クリックすると大きな写真になります「ド・ロ神父記念館」でオルガンを弾くシスター:クリックすると大きな写真になります
「ド・ロ壁」で囲まれた大野教会波静かな角力灘(すもうなだ)。見えているのは、五島列島ではない。堂々としたたたずまいの出津教会"「ド・ロ神父記念館」でオルガンを弾くシスター。90歳前後らしい
「遠藤周作文学館」を臨む丘にある「沈黙の碑」:クリックすると大きな写真になります黒崎教会の内部。リブ・ヴォートル天井が広がりを見せている:クリックすると大きな写真になります煉瓦造りの黒崎教会:クリックすると大きな写真になります
「遠藤周作文学館」を臨む丘にある「沈黙の碑」黒崎教会の内部。リブ・ヴォートル天井が広がりを見せている煉瓦造りの黒崎教会

2010年2月15日

紀行日記「長崎教会群」(2010年1月、2008年5月)、その1


 1昨年から友人Mらと始めた「長崎教会群」巡りは、この正月で3年目。
 「遠藤周作と歩く『長崎巡礼』」(遠藤周作 芸術新潮編集部編)という本にひかれ、1昨年5月に長崎・旧外海町や島原、平戸、などの教会群を歩き、昨年正月には五島列島の教会を巡ったから、これで世界遺産に暫定登録されている「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」のほとんどを訪ねる幸運に恵まれた。

 昨年1月の五島列島への紀行は、このブログ゙で3回に分けて書いたので、今回は1昨年の分も合わせて記録してみたい。

 3が日明け、4日早朝の全日空便で福岡に入り、一度は行ってみたいと思っていた大宰府の九州国立博物館で、アジアとの交流に焦点を絞った独自の常設展示を満喫した。ここと、前原市の「伊都国歴史博物館」、佐賀の「国営吉野ケ里歴史公園」を巡る「トライアングル構想」に挑戦する計画もしたのだが、勉強不足のうえ時間もなく、またの機会に。

翌日、朝の「特急みどり」で佐世保へ。タクシーに飛び乗り、相浦桟橋、午前11:00発の黒島行きフェリーになんとか間に合った。空気は冷たいが、波は静かな50分の航行。「隠れキリシタン」の島と知られるこの島の名前は「クルス」(ポルトガル語で十字架)がなまってつけられた、という説もあるそうだ。
港には、カトリック信者の観光ガイド゙「鶴崎商店」のご主人が迎えに来てくれていた。鶴崎さんの軽トラックに乗せてもらい20分弱で、島の中央部の丘にある国指定の重要文化財「黒島天主堂」に着いた。

 フランス人マルマン神父の設計と指導で明治35年に完成したレンガ゙造りのロマネクス様式で、国宝の大浦天主堂(長崎市)と並ぶ3層構造の先駆的な建築物。使われたレンガ゙はほとんど外から持ち込まれたが、一部は島の人たちが自ら焼いたもの。黒っぽいのがそれだという。昨年訪ねた五島列島・福江島の「楠原教会」と同じイギリス積みで積まれているのが分かる。大きなレンガと小さなレンガを交互に重ねて、強度を増すやり方だ。

 内部は、間伐材を組み合わせた16本の柱が並び林のような雰囲気。五島列島でおなじみのリブ・ヴォールト天井と呼ばれるアーチ状のはりが走っている。天井板は「くし目挽き」と呼ばれ、島民が細かく木目を手描きしただという。内陣には、有田焼の青いタイルが張られ、聖人像は中国・上海製、フランスから運んだ鐘と、信仰の自由を得た島民たちの意気込みが伝わってくる。

 しかし、島の過疎化は進んでおり、昭和30年に2500人だった人口は約600人に減り、小学生が24人、中学生は19人しかいない。多くの農地は荒れ放題でのびてきた竹に占拠されようとしている。五島列島の福江島で見たのと同じ風景だ。残された遺産を生かして、生活基盤を再構築する方法はないのかと思う。

 鶴崎商店で作ってもらった、タイのさしみやアラ炊き、島特産の豆腐という盛沢山な昼食と熱燗で体を温め、午後2:30のフェリーに飛び乗った。お土産に、長崎名産の「かんころ餅」をもらった。まだ温かい。サツマイモの素朴な味だった。

佐世保駅前発のバスの出発まで1時間しかない。相浦桟橋に1台だけ待っていたタクシーで、浅子教会へ急ぐ。山道を抜けて20数分。西海国立公園九十九島を望む入り江に面して三角形の尖塔が目立つ小さな木造の教会が建っていた。

 正面のアルミサッシのドアは閉まっている。裏に回って、神父さんが出入りする内陣側のドアが開いていたので、入らせてもらった。外壁と同じ空色で塗られた柱と天井が素朴な造り。しかし、柱頭飾りはイオニア風、天井へと続く柱の上部には十字架を思わせる四つ葉のクローバーの彫刻があるなど、工夫をこらした意匠だ。

 この教会は、クリスマスのイルミネーションで有名らしい。教会だけでなく、周りの信徒の家も毎年、違うイルミネーションを競い、教会の前の広場に屋台が並び、観光客でにぎわう。隠れキリシタン子孫の熱気が伝わってきそうだ。

 佐世保駅前にそびえるゴシック構造の三浦町教会は時間がなく、1昨年に続いて見そこなった。

 1昨年の5月にも佐世保に入ったが、そのまま民活鉄道の松浦鉄道で日本最西端の駅「たびる平戸口駅」からバスで平戸の島に入ってしまったからだ。

 平戸最古の宝亀教会は、木造瓦葺だが、正面は白い漆喰で縁取られた煉瓦造り。そのコントラストがおもしろかったし、教会の側壁にそった回廊もユニークだった。
寺院に囲まれて尖塔がのぞく聖フランシスコ・ザビエル記念教会 は時間がなく、写真だけ撮った。教会が建った後、キリシタン優遇方針を換えた平戸藩主が、教会を隠すように寺院を建てさせたという。捕鯨や隠れキリシタンの歴史を展示する平戸市生月島博物館「島の館」 も、宿から見た西海の夕日と並んで豊潤な旅の立役者になってくれた。

本土・田平に戻って訪ねた国重文指定「田平教会」は、五島列島での旅でおなじみの鉄川与助の最後の作品。内部のリブ・ヴォールト天井、コリント風の柱頭飾りは与助の自信にあふれているように見える。すべて新約聖書からテーマが選ばれたステンドグラスは、なんとも現代的なデザイン。聞けば、1998年、イタリア・ミラノの工房製だという。なんと、100年近くをかけて、この教会は新しくなり続けてきたのだ。

ロマネクス様式の黒島教会:クリックすると大きな写真になりますイギリス積みの煉瓦。黒いのが地元製:クリックすると大きな写真になります三角形正面が特色の浅子教会:クリックすると大きな写真になります 日本最西端の駅「たびる平戸口駅」の看板
ロマネクス様式の黒島教会イギリス積みの煉瓦。黒いのが地元製三角形正面が特色の浅子教会日本最西端の駅「たびる平戸口駅」の看板
白い漆喰のコントラストが目立つ宝亀教会:クリックすると大きな写真になります意匠をこらせた宝亀教会の内部:クリックすると大きな写真になります寺院に囲まれた聖フランシスコ・ザビエル教会:クリックすると大きな写真になります完成されたたたずまいの国重文・田平教会:クリックすると大きな写真になります
白い漆喰のコントラストが目立つ宝亀教会意匠をこらせた宝亀教会の内部寺院に囲まれた聖フランシスコ・ザビエル教会完成されたたたずまいの国重文・田平教会


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5 やはり遠藤周作の沈黙の世界である
4 迫害されたキリスト教徒

2009年10月19日

読書日記「ナガサキ 消えたもう一つの『原爆ドーム』」(高瀬毅著、平凡社)、そして「信州・無言館」



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5 ナガサキの「苦悩」は、長崎だけのものではない
5 ミステリーを読むように一気に読めます
5 日本人として知っておくべき事実
5 アメリカはどうしても...


 数か月前だっただろうか。ふと手にした週刊誌のグラビア欄に、戦後すぐに撮られたらしい長崎・浦上天主堂の廃墟の写真が載っていた。

 今年の初めに浦上天主堂を訪ねたが、正面に首が取れたり、黒こげになった聖人像やレンガ壁の一部が残されている。教会内には焼けただれた「マリア像」も保管されており、爆心地から500メートルしか離れていなかった教会が壊滅状態になったことが分かる。しかし、廃墟になった天主堂は、現在の敷地内には残っていない。

再建された浦上天主堂:クリックすると大きな写真になります  長崎原爆資料館ホームページ廃墟となった天主堂の写真が載っているが、週刊誌には同じアングルの廃墟の前で縄跳びをして遊ぶ少女たちや、よじ登ってハンマーで廃墟を打ち砕く人たちの姿が掲載されていた。

 なぜ、被爆した天主堂は消えてしまったのか。その疑問に挑戦したのが、この本である。

 著者は、長崎生まれの元放送記者。長崎の放送局が制作したテレビ番組を見て「天主堂の廃墟が残っていたら、・・・原爆について考える大きなきっかけを与えるものになったに違いない」「広島に原爆ドームがあるのに、どうして長崎に浦上天主堂の廃墟は残っていないのか」という問いを膨らませていく。そして、地元取材だけでなく、アメリカの国立公文書館などで調査を続ける。

 この本を一挙に読んだ感じでは、著者はこの疑問への明確な答えは得られなかったようだ。しかし、いくつかの事実に突き当たる。

 1つは、当時の田川長崎市長が、当初は天主堂の保存を公言し、市長の諮問機関も保存の答申をしていたのに「心がわり」し、市議会で「浦上天主堂の残骸が、・・・原爆の悲惨を物語る資料として適切にあらず」と答弁、廃墟の取り壊しに賛成に転じたこと。

 もう1つは、教会を司る当時の山口司教が廃墟の保存を望まなかったらしいという事実だ。

 この2つの事実の裏には、原爆の遺産保存を望まないアメリカの周到なソフト戦略があると、著者は見る。

 田川市長がまだ天主堂廃墟の保存に前向きだった1955年(昭和30年)、アメリカ・セントポール市から突然、長崎市に姉妹都市提携の話しが持ち込まれた。日本では初めての唐突な"縁組"申し込みだった。
 翌年、田川市長は渡米、セントポール市だけでなく、シカゴ、ニューヨーク、ワシントン、ニューオルリンズ、サンフランシスコ、ハワイまで回り、国務省関係者などの歓迎を受ける。「米国から帰国した田川市長は、渡米前とは明らかに態度がかわっていく」
 1958年の臨時議会で、市長はこう答弁する。「浦上天主堂の残骸が原爆の悲惨を物語る資料として・・・適切にあらず・・・」

 同じころ、カトリック教会長崎司教区の代表である山口司教も、教会再建の資金集めのために10か月にわたって米国各地を訪問している。
 著者は、現地の新聞紙上での山口司教の発言や教会関係者への取材から、廃墟を撤去することが、アメリカ側の資金提供の条件であったらしいことを浮かび上がらせていく。

 教会が浦上という土地に教会を再建したいと願ったもう一つの理由にも、著者は言及している。浦上四番崩れに見られるように「何代にもわたった弾圧に耐え抜いた浦上の信徒にとって(原爆という)現在の『絵踏み』が行われた忌まわしい場所の上に天主堂を建てることは、部外者にはうかがいしれない重みがあるのかもしれなかった」

 西日本新聞にこんな記事が載っている。「五八年春、廃墟の天主堂は姿を消した。逆に広島はその二年後、急性白血病で亡くなった被爆少女の手記をきっかけに原爆ドームの保存運動がスタートする」(2003/08/03朝刊)。

  無言館:クリックすると大きな写真になります 先週、信州に"小さな秋"を見つけに出かけ、ある「鎮魂ドーム」を訪ねる機会があった。上田市にある「無言館」だ。

「無言館」の内部:クリックすると大きな写真になります  この美術館は、先の大戦で戦死した画学生を慰霊するため、近くで「信濃デッサン館」を開設している窪島誠一郎氏 が、東京芸術大学の野見山暁治・名誉教授と協力して集めた戦没画学生の遺作を展示している。

 コンクリート打ちっぱなしの建物のドアを押すと、薄暗いなかに画学生が残した作品が次々に浮かび上がってくる。「生きたい」「生きたかった」という叫びが聞こえてくるような、異常に静かな空間だ。

 家族や恋人、自宅近くの風景画が多い。横に短い文章が添えられている。没年、22歳、27歳、33歳・・・、フイリッピン・ルソン島、中支、沖縄・・・。あまりに若く、あまりに遠い無念の死だ。

 「無言館」にある絵の一枚 「あと5分、あと十分、この絵を描きつづけたい。・・・生きて帰ってきたら必ずこの絵の続きを描くから・・・安典はモデルをつとめてくれた恋人にそういいのこして戦地に発った」

「無言館」にある絵のもう一枚
「『ばあやん、わしもいつかは戦争にゆかねばならん。そしたら、こうしてばあやんの絵も描けなくなる』」
「きよしがつぶやくようにいうと『なつ』はうっすらと涙をうかべただけで何もいわなかった」  

無言館第2展示館:クリックすると大きな写真になります「第2展示館』の前にあるモニュメント:クリックすると大きな写真になります 平成8年に開館した「無言館」の近くに、最近「第2展示館」も完成した。

 「屏風絵 茄子」(小野春男)という日本画に引かれた。
 「先生の絵の茜色は亡き息子さんの鎮魂の色ですか」「父竹喬(文化勲章を受章した日本画家・故小野竹喬)はなにも答えなかった」

 ※参照:「生誕120年 小野竹喬展」