読書日記「日本語が亡びるとき」(水村美苗著、筑摩書房著)
日本語が亡びるとき―英語の世紀の中で
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水村 美苗
筑摩書房
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おすすめ度の平均:
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ともに読み、ともに語りましょう
私も愛読している梅田望夫のブログで「すべての日本人が読むべき本」と激賞されて話題になった本。ほとんどの新聞各紙も書評で取り上げていた。
買ったものの、すんなり読める文章ではなく、長い間、居間のワゴンに積読されたままになっていた。そこへ今回の新型インフルエンザ騒ぎで、芦屋の図書館は臨時休館、神戸の中国語教室も休みになり・・・。ひまを持て余して再び手がのびた。
浅学菲才の身、著者のことは知らなかったが、長く米国で過ごしプリンストン大学などで日本近代文学を教える一方で、夏目漱石の絶筆を書き継ぐ旧仮名遣いの小説「續明暗」で芸術選奨文部大臣新人賞を受けた人という。
そういう経歴から生まれた本であることが分かると、表題から内容もなんとなく想像できそうだが、なかなか・・・。とびっきり過激な警告・告発書である。
最初はちょっと分かりにくかったが、著者は書き言葉を、ひとつの国・地域で使われる「現地語」、それが翻訳という作業を通じて国民国家の言葉となった「国語」、そして二重言語者が使う「普遍語」の3つに分けている。「普遍語」は、聖書のラテン語、ギリシャ哲学の古典ギリシャ語、論語などの漢語といった聖典の言葉として普及したという。
そして「現地語」である日本語が「国語」になり、それを使った日本近代文学が誕生する経緯にふれている。
福沢諭吉、西周・・・数えきれない二重言語者による翻訳を通じて、日本の言葉は、世界と同時性をもって、世界と同じことを考えられる言葉・・・すなわち<国語>へと変身していった。
<国語>へと変身していったことによって、日本近代文学―――とりわけ、小説を書ける言葉へと転身していったのである。
<国民国家>が成立するときには、まるで魔法のように、その歴史的な過程を一身に象徴する国民作家が現れる。
日本では、漱石がそうである。
<国語>へと変身していったことによって、日本近代文学―――とりわけ、小説を書ける言葉へと転身していったのである。
<国民国家>が成立するときには、まるで魔法のように、その歴史的な過程を一身に象徴する国民作家が現れる。
日本では、漱石がそうである。
そして、百科事典「ブリタニカ」の「日本文学」という項目を引用している。
その質と量において、日本文学は世界のもっとも主要な文学の一つである。その発展のしかたこそ大いに違ったが、歴史の長さ、豊かさ、量の多さにおいて、英文学に匹敵する。現存する作品は、七世紀から現在に至る文学の伝統によって成り立ち、この間、文学作品が書かれなかった「暗黒の時代」は一度もない。・・・
執筆者は、ドナルド・キーンである。
筆者は、こう述べる。
たしかなのは―――、たとえ世界の人には知られていなかったとしても、世界の文学をたくさん読んできた私たち日本人が、日本文学には、世界の傑作に劣らぬ傑作がいくつもあることを知っているということである。
そのような日本近代文学が存在しえたこと自体、奇跡だといえる。
そのような日本近代文学が存在しえたこと自体、奇跡だといえる。
しかし現在、言葉の世界で有史以来の異変が2つ起こっており、日本語、日本近代文学も危機にさらされている、という。
一つは、世界中で使われている言語が。すごい勢いで消滅しようとしていることである。
ユネスコの言語調査によると、世界で話されている約6700の言語の半分が、今世紀末までに消滅するという。
二つ目の異変は、今まで存在しなかった、すべての言葉のさらに上にある、世界全域で流通する言葉が生まれたということである。
それが今<普遍語>となりつつある英語にほかならない。
近年、伝達手段の発達によって地球はいよいよ小さくなり、それにつれて英語という今回の<普遍語>は、その小さくなった地球全体を覆う大規模なものになりつつあった。そこへ、ほかならぬ、インターネットという技術が最後の仕上げをするように追いうちをかけたのである。
それが今<普遍語>となりつつある英語にほかならない。
近年、伝達手段の発達によって地球はいよいよ小さくなり、それにつれて英語という今回の<普遍語>は、その小さくなった地球全体を覆う大規模なものになりつつあった。そこへ、ほかならぬ、インターネットという技術が最後の仕上げをするように追いうちをかけたのである。
「英語の世紀に入った」と、筆者は断言する。
日本の学者たちが、今、英語でそのまま書くようになりつつある。自然科学はいうまでもなく、人文科学も、意味ある研究をしている研究者ほど、少しずつそうなりつつある。
日本の大学院、それも優秀な学生を集める大学院ほど、英語で学問しようという風に動いている。特殊な分野をのぞいては、日本語は<学問の言葉>にはあらざるものに転じつつあるのである。
日本の大学院、それも優秀な学生を集める大学院ほど、英語で学問しようという風に動いている。特殊な分野をのぞいては、日本語は<学問の言葉>にはあらざるものに転じつつあるのである。
そして、もし漱石が今生まれたとして、大人になった4半世紀後、日本語で文学は書かないだろうと仮想する。
優れた文学が近代文学で生まれるのを可能にした歴史的条件―――それが、今、目に見えて崩れつつある。学問にたずさわる二重言語者が、<普遍語>で書き、<読まれるべき言語>の連鎖に入る可能性がでてしまったからである。
そして筆者は、日本語教育をたて直し、英語教育は「国民の一部がバイリンガルになるのを目指す」内容に限定すべきだと提案する。
しかし、これは、今の日本社会を覆う風潮から見ると、あまりに非現実的かもしれない。
やがて「日本語は亡びる」しかない・・・。読み終わって、そんな確信と失望感にうちひしがれる。