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2018年8月31日

読書日記「ふしぎなイギリス」(笠原敏彦著、講談社現代新書、2015年刊)



ふしぎなイギリス (講談社現代新書)
笠原 敏彦
講談社
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 今月初め、消化器の不調で緊急入院するというアクシデントに見舞われてしまった。ほぼ1年がかりで準備してきたイギリス旅行を断念、機中で読むことにしていたこの本を病院のベッドで読むことになった。

 著者、笠原敏彦は元毎日新聞ロンドン特派員。あとがきで「新聞記者の書くフローの情報を系統立てたストック情報にどう転化するか」に苦労したと書いている。

 本は最初に、2011年4月のウイリアム王子とキャサリン妃の成婚にふれている。そのパレードは、ダイアナ元妃の葬送ルートのほぼ逆コースであり、王子はダイアナ元妃の婚約指輪をキャサリン妃に贈るなど、王子は「ダイアナ元妃を自分たちの結婚プロセスに一部に組み込んでいた」という。
 なぜ、そんな必要があったのか。

   ダイアナ元妃が1997年、パリで交通事故死した際、バッキンガム宮殿の前は花束で埋まり国民は悲しみで「集団ヒステリー」に陥った。対照的に冷淡なエリザベス女王の対応に国民の怒りが爆発、王室支持率は急落した。

 それを救ったのが、時の首相トニー・ブレアだった、らしい。ブレア首相は女王やチャールズ皇太子との確執が伝えられていたが、渋る女王に休暇先からロンドンに戻り、宮殿に半旗を掲げるように促した。女王は「王室の存続は国民の支持にかかっているというイギリス立憲君主制の明快な原理」に改めて気づき「国民に寄り添う王室」をアピールするようになった。
 王室は、ダイアナ危機を克服し、国民の7割以上から支持を得るようになった。

 ウイリアム王子とキャサリン妃のロイヤル・カップルは、イギリスの「将来への希望」を象徴すると受け止められている、という。
 昨年のヘンリー王子とメーガン妃の成婚での国民の熱狂も「イギリスの将来への希望」の一環として捉えられるのだろう。

 イギリスの正式国名は「グレートブリテン及び北アイルランド連合王国」。2014年9月のスコットランド独立を問う住民投票が行われた。独立は反対55%でかろうじて否決されたが「一連の騒動はその連合王国という国家の枠組みの矛盾を浮き彫りにした」

 連合王国は、イングランドとスコットランド、ウエールズ、北アイルランドという4つの「Nation」で構成される。「Nation」は「言語や文化、歴史を共有し、民族、社会的同質性を持つ共同体という意味だ」と著者はいう。
 主権を持った「独立国家」を示す「State」という言葉があり、日本のように1つのネーションがそのまま独立国家になっている場合は「ネーション・ステート(国民国家)」といえるが、イギリスは厳密な意味で国民国家とは言い難い、という見方だ。

 いささか分かりにくい。
 ネット検索すると、「countryとnationとstateの違い」という項目が見つかった。「イギリスやカナダなんかは、国の中に複数のnationがあり、日本の場合は、country = nation ( = state)です」と書かれている。

 もう一つわかりにくいのは、日本人がこの国を「イギリス」と呼んでいることだ。連合王国の通称は「Unaited Kingdom(UK)」または「Great Britain」「Britain」。イギリスという名称は、連合王国の1地域にすぎない「イングランドの外来語」が定着したもの、らしい。

イギリスの歴史は、この本と並行して読んだ「イギリス史10講」(近藤和彦著、岩波新書、2013年刊) に詳しい。東大教授の著者の本は、いささか難解。4つの地域が長い歴史のなかで交錯していく様は分かりにくいが、それが連合王国の複雑さを示しているのかもしれない。

 「イギリス史10講」にも、こんな記述がある。
 「イギリスには、『単一民族国家』や「一にして不可分の共和国」といったものとは異なる政治社会が成り立ち、今日、さらに多様性の促進が唱えられている」

 連合王国イギリスは、同じ島国というのに、どっぷり単一民族?の国土につかってきた日本人には「ふしぎな」国であり続けるのかもしれない、とも思った。

2018年7月26日

読書日記「潜伏キリシタンは何を信じていたか」(宮崎賢太郎著、株式会社KADOKAWA、2018年2月刊)、「かくれキリシタンの起源」(中園成生著、弦書房、同年3月刊)、「消された信仰」(広野真嗣著、小学館、同6月刊)

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 長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」が、今月やっと世界遺産に登録されることが、ユネスコから認められた。

 文化庁の資料によると「『潜伏キリシタン』が密かにキリスト教への信仰を継続し,・・・既存の社会・宗教と共生しつつ,独特の文化的伝統を育んだ」こと が、世界遺産として認められた理由だという。

 登録を待っていたように、「潜伏キリシタン」についての著書が次々と発刊された。

 「潜伏キリシタンは何を信じていたか」の著者、宮崎賢太郎は、潜伏キリシタンを祖先に持ち、カトリック系の長崎純心大学の教授などをつとめたクリスチャンだが、これまでキリスト教会で常識とされてきたことに反論を試みる。

 
「(領主によって)強制的に集団改宗させられた大多数の民衆層のキリシタンたちは、(指導する司祭などが不在だったから)キリスト教についてほとんど何も知らなかった」「潜伏キリシタンたちが守り通してきたのはキリスト教信仰ではなく、いかなるものかよく知らないが、キリシタンという名の先祖が大切にしてきたものであった」「長崎県生月(いきつき)島などにごくわずか存在するカクレキリシタンには、隠れているという意識はまったくなく、その信仰の中身もキリスト教と呼ばれるようなものではなく、先祖崇拝的傾向の強いきわめて日本的な民族宗教である」


 さらに著者は、幕末の開国後の1865年(慶応元年)3月17日。長崎・浦上の潜伏キリシタンが、長崎市の大浦天主堂を訪ねてプチジャン神父に信仰を告白した「信徒発見」も、プチジャン神父が自作自演したフィクションであると推理する。

 
 (かくれキリシタンが告白した)「我らの胸あなたの胸とおなじ」という言葉は、逆にプチジャン神父のほうから・・・告白した言葉ではなかったか。信徒たちが「サンタマリアの御像はどこ」と尋ねたのでなく、プチジャンのほうから、「あなた方が慕っているサンタマリアの御像はこちら」と案内したのではないか。「あなた方がずっと大切にしてきたマリア観音は、本当はこのサンタマリアの御像なのです。御子ゼズス様を腕に抱いていらっしゃるでしょう」と。


 信徒発見のニュースは、たちまち世界中に伝えられた。日本のカトリック教会はこの日を祝日と定め、発見から150周年にあたる今年は、各司教区では様々な祈りのイベントを展開している。

 それをフィクションと片付けられても、カトリック信者の片割れとしては、にわかに納得しにくい。しかし、250年もの司祭不在の禁教期に、キリシタンの間でなにかが起きていたとしても不思議ではない。フイールドワークを踏まえて、それを分析・研究したのが「かくれキリシタンの起源」だ。

 著者、中園成生は、捕鯨の基地としても有名な生月町の生月島町博物館・島の館学芸員として長年、かくれキリシタンの研究に取り組んできた人。

 実は、3年も前の2015年2月に著者の最新研究成果を紹介する講演を聴講しており、このブログでも記録している。この著書の骨子にもなるブログの一部を再録してみる。

   
 3日目の2月22日は、平戸市生月(いきつき)町博物館島の館学芸員の中園成生さんが、平戸島の北西にある生月島で、現在でも隠れキリシタンの信仰を守っている人々についての、最新研究成果を紹介してくれた。・・・
 中園さんによると、隠れキリシタン信仰について「キリスト教禁教時代に宣教師が不在になって教義が分からなり土着信仰との習合が進んだという『禁教期変容説』(前述の宮崎賢太郎は、この説をとる)」が従来の考えだった。
 しかし現在では「隠れキリシタン信者は、隠れキリシタン信仰と並行して、仏教、神道や民間信仰を別個に行う『信仰並存説』」が、主流になっている。
 事実生月島の「カクレキリシタン」は、葬式をする場合、現在でも仏教などの儀式を終えた後、守ってきた隠れキリシタンの儀式を改めてする、という。


 この講演の時には、長崎県は世界遺産への登録を「長崎教会群とキリスト教関連遺産」と題して申請していた。しかし、ユネスコの諮問機関であるイコモスから「禁教時に焦点を当てるべきだ」という注文がついて、登録申請をいったん取り下げ、潜伏キリシタンの遺産に焦点を当て直してやっと今回の登録決定にこぎつけた。

 この間に、「隠れキリシタン」についての学問研究も進み「潜伏キリシタン」「カクレキリシタン」といった区別もされるようになった。

 「消された信仰」は、生月島のかくれキリシタンの取材を通じて、世界遺産登録への隠された事実も明らかにしている。

 著者の広野真嗣は、新聞記者を経て、この本で題24回小学館ノンフィクション大賞を受賞したジャーナリストで、自称「信仰の薄いキリスト教徒」。

 著書の冒頭で「なぜ生月島は世界資産から外されたのか」という問いかけをしている。

 
 著者によると、世界遺産登録申請に関連して2014年に長崎県が作成したパンフレットでは「平戸地方(生月島を含む)の潜伏キリシタンの子孫の多くは禁教政策が撤廃されてからも、先祖から伝わる独自の信仰習俗を継承していきました。その伝統は、いわゆる〈かくれキリシタン〉によって今なお大切に守られている」となっていたのが、再申請後の2017年のパンフレットでは「〈かくれキリシタン〉はほぼ消滅している」と変わった。
 著者が取材した、さきの中園学芸員はその理由について「これまでやってきたキリシタン史の説明との整合がとれなくなるからです」と答えた。
 中園学芸員は「彼ら(長崎県)は、(宮崎教授が主張する)〈禁教期変容論〉の影響を受けています。江戸時代の〈潜伏キリシタン〉と、現在に続く〈かくれキリシタン〉は違うもので、変容してきた、というスタンスをとっているんです」「でも、禁教期のいつから何が変容したのかという説明はできないのです。イコモスから突っ込まれたら説明が不能な厄介な問題になる。だからこそ、生月島のかくれキリシタンの存在を"消そうとしている"。その存在は、はっきりしているのに」と話した。


 当初、長崎県などが「長崎教会群とキリスト教関連遺産」の世界遺産登録を目指したのは、教会群などによって、長崎の観光振興を図りたいのも狙いだった。
 しかし、イコモスの指摘で「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」と変わっていく過程で、その内容があいまいになり、250年間、信仰を守り続け、「オラショ」などの文化遺産を持つ生月島のかくれキリシタンが切り捨てられ、当初あった遺産としての生月島は消えてしまった。

 かって、長崎の教会群や生月島などを3年にわたって訪ね、このブログで何回も取り上げてきた。それだけに、今回に世界遺産登録になにか冷めたものを感じてしまう。

※その他の参考文献
  • 「かくれキリシタン 長崎・五島・平戸・天草をめぐる旅」(後藤真樹著、新潮社刊)
  •  「祈りの記憶 長崎と天草地方の潜伏キリシタンの世界」(松尾潤著、批評社刊)


2018年6月 8日

読書日記「完本 春の城」(石牟礼道子著、藤原書店、2017年刊)


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 名著「苦海浄土」著者が10数年をかけて「島原の乱」を取材した旧題「アニマの島」(1999年刊)が、取材紀行やインタビュー、解説などを入れた完全版としてよみがえった。900ページを超える大作である。

 島原の乱は、江戸時代初期に起きた、過去最大の一揆だ。歴史的に「藩の圧政に苦しんだ百姓、浪人が起こした」一揆という見方と「迫害に耐えかねたキリシタンが起こした」という説があるが、著者が描くのは飢饉と圧政に苦しみながらも信仰を守ろうとするキリシタンが主役である。

 益田四郎時貞(天草四郎)が15歳の元服を迎えた日。四郎は、父甚兵衛らにある覚悟を打ち明けた。

 
「イエズス様の踏まれし道を踏まねばなりませぬ。・・・わたくしには、山野や町を灼きつくす炎が見えまする。その劫火をくぐらねば、真実の信心の国に到ることはできぬのではござりますまいか」
 二人の大人は、今何を聞いたかといった表情で黙りこんだ。ややあって、甚兵衛が遠慮がちに問うた。
 「そなた、その劫火とやらにわが身を焼くつもりか」
 少年は固くまなこを閉じ、一筋の涙が頼を伝った。


   父に言われて、ある村を訪ねた時、人々の心を統べる気持ちだったのだろうか。四郎は、留学先の長崎で学んだ奇跡(魔術)を行った。

 
静まり返っている一団の中で四郎はひざまずき、人には聞きとれぬほどな祈りの言葉を口のうちに唱えながらゆっくり立ち上ると、大切そうに皿を抱えている女童の前に立った。それから胸の十字架を外すと掌に持った。瞬きもせぬさまざまの眸がその手の動きに集中した。指の間から光が放射した。長く細いがこの世のものではないように雅びやかに動いて、十字架は女童の額にしばらく当てられ、静かに皿の上におろされた。
 子糠雨を降らせていた雲間がその時晴れ、陽がさした。その瞬間、幼女の両手に抱えられた白い皿の上に、あざやかな朱(あけ)の一点が浮き出てみんなの目を射た。


 
よく見ると早咲きの柘榴の花が一輪、ふるえを帯びながら載っていた。女童が持っていたのは、一家心中を図った家の男の子・次郎吉が使っていた皿だった。・・・。

 四郎は幼児の耳にそっと囁いた。「次郎やんの魂ぞ、アニマ(霊魂)ぞ。落とすなや」。さらに、6人の子らの掌に一輪ずつ花を載せた。


 四郎の唱えるオラショに和しながら、人々はかって覚えたことのない陶酔に引き込まれた。人々はいつしか四郎に向かって手を合わせていた。

 長雨と日照りが交互に起き、これまでにない凶作が人々を苦しめ続けた。

「わしは一揆する決心にござり申す」
 甚兵衛はひたと二人の目(まなこ)に見入った。伝兵衛父子は喰い入るように甚兵衛を見返している。
 「領主どもをこの天草の地から追い払い、切支丹の国を樹てる所存でござる。デウスの御旗のもと神の軍勢をあらわして、領主どもの米蔵を破り、主の栄光をこの地にもたらす。・・・長い間の切支丹の盟約が試される時が来たと存ずる。わしも切支丹のはしくれ、万民のために十字架に登られし御主の、世にたぐいなき勇猛心を鑑として、全身くまなくおのれを晒し、仁王立ちする覚悟にござり申す」


   
伝兵衛はすりよって甚兵衛の手をつかんだ。
 「甚兵衛どの、獄門、はりつけは覚悟の上じゃ。生くるも死ぬるも一緒ぞ」・・・
 甚兵衛の脳裏を一瞬、来し方のさまざまがよぎった。・・・
 今にしてやっと得心がいった気がする。武士であるとは義に生きるということであったのだ。・・・たとえ行く手に槍ぶすまが待っていようとも、御主キリシト様のごとく、同胞の危難に赴くのが義の道である。


 原城に籠城した四郎の軍勢に、幕府の征討軍が猛攻撃をかけた。

 
十字を切ろうとしている四郎の肩をその時弾丸が撃ち抜いた。おなみがかけ寄り、蒼白になって傷口を縛りにかかった。・・・それは炎上する春の城に浮かんだ一幅の聖母子像であった。・・・。
 闇に沈んでいく城内では、炎上する建物の中に入って次々と自決を遂げる女たちの姿が照らし出された。天も地も静まりかえるような情景であった。


 この大作を書こうと思ったきっかけについて、著者は連載した地元紙などのインタビューに、こう答えている。

 
根っこに水俣病にかかわった時の体験があります。昭和四十六年、チッソ本社に座り込んだ時、ふと原城にたてこもった人たちも同じような状況ではないかと感じました。
 機動隊に囲まれることもあったし、チッソ幹部に水銀を飲めと言おうという話しも出ていた。もし相手に飲ませるなら自分も飲まなければという思いもあって命がけだったけど、怖くはなかった。今振り返ると、シーンと静まり返った気持ちに支配されていたような気がします。それで原城の人たちも同じ気持ちでなかったかと。(一九九八年一月三日、熊本日日新聞)


 「自分も飲もう」と死を覚悟した気持ちが、絶対に勝ち目のない一揆を起こさざるをえなかった人々の思いに重なったのだろうか。

 「島原の乱」の主戦場となった原城跡は、近く世界遺産と認定されることが決まった 長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の1つだが、その城跡には「島原の乱」の遺産が眠っている。

 このブログにも書いたが、「みんな彗星を見ていた 私的キリシタン探訪記」(星野博美著、)という本のなかで、著者は、3万人をこえる「島原の乱」の犠牲者が、発掘もされずに眠っている現状を厳しく糾弾している。

 それは、水俣病に続いて島原の乱の犠牲者を鎮魂しようとした石牟礼道子と同じ視線のような気がする。

2018年5月11日

 読書日記「注文をまちがえる料理店のつくりかた」(小国士郎著、写真:森嶋夕貴、方丈社刊)


注文をまちがえる料理店のつくりかた
小国士朗
方丈社 (2017-12-17)
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 西宮北口図書館の新刊本棚に並べられているのを見つけ、思わず借りてしまった。

     著者は、NHKのディレクター。大手広告代理店に出向中にある認知症介護施設に取材に行った時に、認知症の入居者がつくる昼食が「ハンバーグのはずだったのに、餃子が出てきた!」。「これ、間違いですよね?」という言葉を飲み込んで思いついたのが、この料理店だった。

 「料理の注文を取るホールスタッフが、みんな"認知症"の状態にある料理店をつくる」。このアイデアに、広告代理店の同僚など多くの人が「それは、おもしろい」と飛びつき、著者がプロジェクトの発起人になった。カメラは、写真家としての実績を積んでいる 森嶋夕貴さんが担当してくれた。

 ホールスタッフは、介護施設の統括マネジャ、和田行男さんが人選、資金は クラウドファンティング会社の 「Readyfor」が、目標800万円を上回る1291万円を24日間で集めてくれた。

 ITやデザイン、外食サービス会社の協力で、ホールスタッフに倍するボランティアのスタッフがたちまち集まった。
 昨年6月、レストランを運営する RANDYがテストキッチンに使っていた東京・六本木の店舗を貸してくれることになった。プロジェクトのイメージどおりの店だった。2日間のプレオープン、3か月後の本格営業3日間だけ、看板を換えることもOKしてもらえた。「注文をまちがえる料理店」の「る」だけが縦書きになっているのは,「"認知症"状態にあるホールスタッフがサービスをする店であることを示している。

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 "認知症"状態のホールスタッフのために特注したエプロンには「間違えて、ごめんねと、ペロリと舌を出す「てへぺろ」のマークがついている。

 店の名前には、認知症スタッフから「間違えることを象徴させるなんて、馬鹿にしているのか」といった怒りの声もでた。途中で「関わりたくない」と帰ってしまった人もいたらしい。

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   メニューは3種類。RANDYが「タンドリーチキンバーガー」、ラーメンの 一風堂の「汁なし担々麺」。汁がないのは「運ぶときに火傷をしないように」という配慮からだ。ジャスミンライスが添えてあるが、認知症スタッフが「お皿に余ったソースをからめて食べてください」と説明できるようになったのは最終日だった。
 それとオムライス。 グリル満点星特製の小海老とホタテ、8種類の野菜が入ったピラフをふわとろの卵でつつんだ。

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 前菜のサラダには、ホールスタッフが大型のミルでコショウをかける。重いミルを扱うのを、お客さんやスタッフが一生懸命応援した。

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 デザートは、羊羹の 虎屋特製の「へぺろ焼」。やわらかいこし餡をしっとり感のある生地で包み「てへぺろ」のロゴを職人がひとつずつ押した。

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   コーヒーは、 カフェ・カンパニー、清涼飲料はサントリーが提供した。

 しめて、料金は1000円。認知症スタッフが疲れないようにと、1コマ90分の総入れ替えにした。1コマのお客さんは」24人、1日4コマ。3日かんで計288人のお客さんを迎えた。2日目は台風がきたが、外は雨を避けて待つ客で満員だった。
 当日券はすぐに売り切れたが、台風の中大阪から夜行バスでかけつけた女性にはキャンセルした翌日の席を確保できた。

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 プレオープンの時には60%だった間違い発生率が、スタッフの努力もあって半減した。

 しかし、事件もあった。さきほどまでホールスタッフとして頑張っていたシズさんが、急に「嫌だ、嫌だ」とエプロンを脱いでしまった。
 休憩時間に控室に行ったら、普段見慣れない人たちがいて急に不安になったのだ。大雨のなか、街を歩き出すシズさんに、サポートスタッフがぴったりと寄り添って歩いた。

 デザートが終わると、若年認知症の三川康子さんのピアノとチェロを弾く夫の一夫さんの演奏が始まる。康子さんは、音大を出て長年音楽の先生をしていたが、この病気になって仕事が続けられなくなった。
 3日目のこと。最初の1章節で康子さんの引く音が少し引っかかった。終わって拍手に包まれても、康子さんは席を立とうとしない。3回、4回・・・。「だめだ・・・」と一夫さんの顔を向いてつぶやいた康子さん。5回目にひっかかりそうになりながら、完璧に弾き終えた。
 「ブラボ!!!」。歓声と割れるような拍手が続いた。

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 プロジェクトを終えて、スタッフ全員は和田さんがリードする「一本締め」で充実感を味わった。

 ITスタッフが発信した情報はSNSで世界を駆け巡り「注文をまちがえる料理店」をやりたいたい、という注文が殺到している、という。

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2018年4月25日

読書日記「六輔 五・七・五」(永六輔著、岩波書店)


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 ここ数年、ホトトギスの同人が主宰する俳句の会に月1回、出席していた。  「客観写生」を主唱する伝統俳句を継承するこの会に出て、自然の移ろいを五・七・五に表現するという思わぬ喜びを知った。ただ、季題を中心とした作句のルールは、いささかきゅうくつでもあった。  そこで見つけたのが、この本。軽妙洒脱で知られる 故・永六輔の俳句で、失礼ながら「息抜きを試みよう」と思った。  この著作は、作者の死後、所属していた 東京やなぎ句会話の特集句会の記録などをもとに、家族が選んだ2000句あまりを詠まれた年代順に収めている。そのうち、気になった句を季節ごとに勝手に抜き出してみた。いささか"川柳"っぽい句が多くなったが・・・。

第一章「昭和四十四年?昭和五十五年」

※春
 タンポポ咲いたサーカスが来た
 低すぎて腹をすりむく燕かな
 見上げても見あげても囀る姿なく
 蛇口ひねったままの水しぶきのさくらんぼ
 春の雨濡れて渇いて一人旅
 濡れ手ぬぐい下げて春めく風の中
※夏
 夕焼に一瞬朱い波しぶき
 バトンに続いて神輿照れながら
 吹きぬける風が汗ふく初夏のシャツ
 おぼろ月手をつないでみる老夫婦
 闇の中でひまわりひそと語りあう
※秋
 長袖を通せばかすかな秋立ちぬ
※冬
 波の音湯豆腐の音風の音
 老いてなおビングのホワイトクリスマス
 水たまりひからびて落葉風に浮く
 寒鯉はねて氷と空気を割った
 行く年や書かなかった日記貼一冊


第二章「昭和五十六年?平成四年」

※春
 ぶらんこや地球自転のきしむ音
 庭のない淋しさ抱いて植木市
 酔覚めて又あらためて花疲れ
 寝返りをうてば土筆は目の高さ
 九本のチンポコのどか夏めく湯
 伸びるのがわかる気のする若葉
 春眠や覚めても覚めても夢の中
 煮転がす慈姑の音の軽やかさ
 新緑や濃淡濃淡濃淡淡
※夏
 純白の瀑布緑をぼかしおり
 葉の表葉の裏見せて青嵐
※秋
 仲たがいしてそのままの秋深し
 夏と秋の縫目を飛ぶや赤とんぼ
 たぎる湯に新そば生命をはらみけり
 ずっしりと水の重さの梨をむく
※冬
 野沢菜の歯にひんやりと信濃なり
 浅漬やしかと虫歯のありどころ
 露出あわせれば針先の如き木の芽
 腰痛の農夫牛蒡を引ききれず


第三章「平成五年?平成十五年」

※夏
 とまらない背中のかゆみ薄暑かな
 「あのあたり富士見える筈」梅雨の宿
※秋
 湯上りの汗のひき方冬隣り
 姿なく枝揺れておりホ?ホケキョ
 翅ごときこすって何でこの音色
※冬
 生きてきた通りに生きて春一番
 金縷梅を「まず咲く」と読むひとありき


第四章「平成十六年?平成二十七年」

※春
 囀りの途切れて深き森戻る
 淫美なり裸になった柏餅
※秋
 渡り鳥お前等行くのか帰るのか


2018年2月22日

読書日記「ジーノの家 イタリア10景」(内田洋子著、文春文庫)「対岸のヴェネツイア」(同、集英社刊)


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対岸のヴェネツィア
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内田 洋子
集英社
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 著者は、イタリア在住のジャーナリスト。長年、日本にイタリアのニュースを届ける仕事を続けてきた。

内田洋子.JPG

 著書「ジーノの家」のあとがきに、こんなことを書いている。
 
イタリアで暮らすうちに、常識や規則でひとくくりにできない、各人各様の生活術を見る。
 行き詰まると、散歩に出かける。公営プールへ行く。中央駅のホームに座ってみる。書店へ行く。海へ行く。山に登る。市場を回る。行く先々で、隣り合う人の様子をそっと見る。じつと観る。ときどき、バールで漏れ聴こえる話をそれとなく聞く。たくさんの声や素振りはイタリアをかたどるモザイクである。
 名も無い人たちの日常は、どこに紹介されることもない。無数のふつうの生活に、イタリアの真の魅力がある。瓢々と暮らす、ふつうのイタリアの人たちがいる。引き出しの奥を覗いては、もっとコレクションを増やしたい、と思う。


 そして、名も無き人を取材するために、イタリア各地で引っ越しを続ける。

 ミラノのバールで、パトロールでコンビを組む男女の警察官と知り合った。
 ミラノには〈黒いミラノ〉と呼ばれる無法地帯があるらしい。2人がついこの間まで、その地区の担当だったと聞き「よほど私は〈しめた〉という顔つきをしたらしい」
 「物好きねえ」と呟いた中年婦人警官のアイデアで、借りた警察犬を暗黒地区の保健所に予防接種に連れて行くという設定になった。

 賑やかな運河地区から徒歩15分の距離というのに、昼下がりの街に人影はない。広場の背後の古びた高層公団住宅のベランダにある錆びついた物置の扉がきしんだ音をたてている。「広場のシャッターの閉まったゴミの山が悪臭とともにむっくりと動き「金をくれないか」と言った。ゴミは、イタリア男だった。

 地区の情報交差点だからと、2人に奨められたバールに飛び込む。店長に出身を聞くと、 カラブリアの出身という。シチリアのマフイア、ナポリのカモッラと並ぶ犯罪組織の拠点だ。

 
一瞬息をのむ私を確認した後、店長は言った。「もし何か困ったことがあったら、頼りになる友人を紹介しますよ」。視線はこちらだが、焦点は空を泳ぎ、その奥は白々と冷えきっている。
 店を出る。早足。小走り。全力疾走。・・・早く帰ろう。犬よ、走れ。
 気ばかり急いて。しかし足はもつれ、なかなか先へは進まなかった。・・・しばらくの間、エスプレッソを飲むたびに、あの日見たミラノの閉ざされた世界の寒々しい様子が目の前に現れて、胃が縮むのだった。


 1年を通して曇りの日が多く、半年は冬の寒さが残るミラノから引っ越そうと、南国・ インペリアの海を一望できる赤い屋根と白壁の小さな家「ジーノの家」を借りた。シチリア、ナポリにも移り住み、ついには定年退職者が海から引き揚げた古式帆船に6年も住んでしまう。

 この本は、ベストセラーになった 「『考える人』は本を読む」 河野通和著、角川新書)で取り上げられていた。

 河野通和は「ジーノの家」の項の巻末で、こんなコメントがつけている。

 「2011年、本作で日本エッセイスト・クラブ賞、講談社エッセイ賞をダブル受賞。近年私の出会った中でも、著者はもっとも噛(か)み応えのある書き手の一人です。行動力、観察力、記憶力、構成力、文章力......すぐれた特長はいくらでも挙げられますが、イタリアかぶれとは対極の彼女が、イタリア人のありふれた暮らしになぜ引き寄せられてしまうのか ――そのプロセスと謎が、読む者の心を騒がせます」


 「対岸のヴェネツイア」は、内田洋子の最新作。今度はヴェネツィアに引っ越すと伝えると、ミラノの人々エッと驚いた。

 
たいていの人は一瞬押し黙った。ミラノからは近いけれど、遠い町。住めることならぜひ、と誰もが夢見る一方、実際に引っ越す人はたしかに稀かもしれない。うらやましいわ、でもなぜ引っ越したの、家はどのあたり、住み心地はどう、酷い湿気でしょう、冠水は大丈夫なの・・・。


 著者が選んだのは、なんと水草の浮島に建つヴェネツイアと運河を挟んだ対岸にある離島、 ジュデッカ島だった。
 そこから水上バスでせっせと"水の都"に通い、名も無い人に会い続けた。

 
「〈マンマ(母)〉を十個、お願いね!」
 逞しい腕を上げて岸壁に係留している小舟の舟主に、中年女性が注文する。アーティチョークの〈尻〉こと萼(がく)は、そのどっしりした外観からか〈マンマ〉と呼ばれている。

マンマ.jpg

「ざく切りにしてパセリ、ニンニクといっしょに炒める。・・・これ食うと、ああヴェネツィア、という気がするもんよ」
 ほんとほんと、郷土料理の肝心要、そのとりよぇ、と岸壁側の主婦たちは頷いている。


 ただ「心配なことがある」と、内田洋子は, WEB版週刊誌「考える人」(新潮社)で警告している。観光客が殺到しすぎて、ヴェネツィアの都市機能がマヒしようとしているのだ。

 
「裏の路地の隅は、公衆トイレよ」
 「酔っ払ってリアルト橋から下着で運河に飛び込んで泳いだ若者がいたし」
 「サンマルコ広場の回廊にテントを張ろうとした外国人観光客もいたな」

リアルト橋         サンマルコ広場
リアルト橋.jpg  サンマルコ広場.jpg


   「昨日、リアルト橋手前で羊にリードを付けて引いていた男の人を見たよ」
  夏になると、ビーチサンダルにショートパンツ、上半身は裸もしくはビキニ姿も増える。
 老舗は格と歴史を失うまい、と価格をさらに引き上げる。より多く払える客が品格ある客、ではないのに。
 ・・・
 「2017年2月1日までに、過剰な観光客のせいで住民の日常生活が脅かされている現状を打開するための策が講じられないようなら、世界遺産認定を取り消し、『危機にさらされている世界遺産』として登録する」
 昨年7月、ついにユネスコがヴェネツィア市に対して警告を公示した。
 ・・・
 さてどうなる、ヴェネツィア。


2017年11月 2日

 読書日記「バベットの晩餐会」(イサク・ディーネケン著、ちくま文庫)、映画鑑賞記「同」(ガブリエル・アクセル監督、1987年アカデミー賞外国語映画賞受賞)


バベットの晩餐会 (ちくま文庫)
イサク ディーネセン
筑摩書房
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 表題の本はなんどか読んだし、映画も見たが、思いもよらないきっかけで、再読し、DVDまで買うことになった。

 10月中旬の日曜日に久しぶりにカトリック芦屋教会に行ったところ、オプスディの 酒井俊弘神父が説教で1冊の本を紹介された。

   教皇フランシスコが昨年3月に「家庭における愛」について公布した「使徒的勧告 愛のよろこび」。そのなかに、映画「バベットの晩餐会」についての記載があるという。教皇が、公的文書で映画のことを取り上げるのは、稀有の事らしい。

 
人生のもっとも強烈な喜びは、他者を幸せにしようとするときに、天を先取りして訪れるものです。映画『バベットの晩餐会』 の幸せな場面を思い出してみるのがよいでしょう。寛大な料理人バベットは感謝の抱擁を受け、「あなたはどんなにか天使たちを喜ばせるでしょう」と称賛されます。楽しむ姿が見たいからと、他の人を喜ばせようとすることで生まれる喜びは、甘美で慰めに満ちています。こうした喜びは、兄弟愛がもたらす実りであり、自分ばかりを見る人のうぬぼれた喜びではなく、愛をもつて、愛する人の幸せを喜ぶ人の喜びです。相手に注がれる喜びが、その人の中で豊かに実るのです。


 人から無償の愛、幸せ、喜びを受けた者は、他の人にも喜んでもらいたい、と思う。そのようにして「愛の連鎖は、つながっていく」。酒井神父は、説教でそう話された。

 浅学非才の身。酒井神父の解説を聞いても、教皇の言葉をすんなりとは理解できない。その真意を探るためにも「バベットの晩餐会」のあらすじをたどってみることにする。

 ノルウエーのフイヨルドの囲まれた田舎町に、国内でもその名を知られたプロテスタント牧師と美しい姉妹が住んでいた。その宗派は「この世の快楽を悪とみなして断っていた」。

 中年を過ぎたても姉妹は、亡き父の教えを守るために結婚もせずに信者につくしてきたが、地区の信者は年ごとに減り、老人になって、こらえ性がなくなり、怒りっぽくもなっていた。信者同士の喧嘩、口論も絶えず、姉妹を悲しませていた。

 12月15日の牧師生誕100年記念祭が迫っていた。姉妹は、この機会にささやかな夕食会をして、信者たちの平安を取り戻せないものかと、日々悩んでいた。

 姉妹の小さな黄色い部屋にはバベットという家政婦が住んでいた。

 バベットは、パリの有名レストラン「カフェ・アングレ」の料理長だったが、1871年のパリ・コミューン(パリ市民による自治政権)で夫と息子を殺され、パリから命からがら逃げてきて、姉妹に救われたのだ。

 バベットはそれ以来14年間、パリで王侯貴族に提供していたメニューを封印して、毎日タラの干物と古いパンのスープを姉妹と地区の貧しい老人ために作り続けた。

 ある日、バベットは姉妹に驚くようなことを話した。
 「パリの友人に頼んで買っていた富くじ、1万フランが当たりました」。現在価格で1900万円もの価値らしい。

 「生誕100年の祝宴に本物のフランス料理を作らせてください。支払いも私にさせてください」

 「それはだめよ。バベット」と、姉妹はバベットの貴重な金を食べ物や飲み物、それもみんなのために使うことなど、どうしても考えられない」。「だめバベット、それは絶対にだめよ」

 バベットは一歩前に踏み出した。「その動作には、盛り上がる波さながらの威圧するようなものがあった」

 
お嬢さま、自分はいったいこの十四年のあいだに、なにかお願いをしたことがあったでしょうか。ございません。どうしてだとお思いでしょうか、ご主人さま、あなたがたは毎日お祈りをしていらっしゃいます。あなたがたには想像することがおできになるでしょうか。お祈りをしようにもなにひとつ願いごとがないということが、人間の心にとってどんな意味を持っているかということを。いったいこのバベットになにがお祈りできたというのでしょうか。なにひとつないのです。ところが今夜は、自分にはお願いしたいことがあるのです。敬虔で心優しいご主人さま、あなたがたは今夜、こうはお思いにならないでしょうか。十四年のあいだ、善なる神があなたがたのお祈りをお聞きとどけてくださったのと同じ喜びをもって、この願いを聞きとどけてやりたいものだとは。


   たしかに14年で初めての願いごとだった。ふたりは、思案のあげく、こう納得した。1万フランを手に入れた人間には「たった一度のディナーなどどうということもあるまい」と。

 2週間の休暇を得て、バベットが仕入れて来たものは、高価そうなワインやとてつもなく大きなウミガメ、生きたウズラ・・・。

 それらを見た姉のマチーヌは「父の家を魔女の饗宴に明け渡しているように感じた」。バベットが、年老いた信者たちを毒殺する準備をしている夢を見た。マチーヌは「今になってやっと、自分たちが恐ろしい力を持つ危険なことに関わりあっていたことが分かった」と、信者たちに打ち明けた。

 年老いた信者たちは、生まれた時から知っている可愛い姉妹のために、当日の夜は食べ物や飲み物と名のつくもののことはいっさい口にしないで黙っていようと誓い合った。

 晩餐会が始まると、不思議なことにみんなの口が軽くなった。柔和で威厳のあった牧師の思い出を話し合った。

 食事の話しはしなかったが、注がれたものがレモネードと思って飲んだ老女は、思わず舌なめずりをした。シャンパン「ヴーヴ・グリコ」の1860年ものだった。

 悪口をたたきあっていた2人の老姉妹は、手を取り合って牧師の家に出かけた娘時代のことを楽しそうに話していた。商売でペテンをかけた相手の老人に笑いながら謝っている男は、目に涙をにじませていた。若い時に添い遂げられなかった白髪の船長と後家の老女は、気がつくと部屋の隅で長いくちづけをしていた。

 宴が終わって感謝する姉妹に、バベットはもうだれもいないパリにはかえらないし、1万フランは、この晩餐会で使い切った、と話した。

 「わたしはすぐれた芸術家なのです」「わたしが最高の料理を出したとき、あのかたがた(カフェ・アングルの顧客)をこの上なく幸せにすることができたのです」「芸術家が次善のもので喝采を受けるのは、恐ろしいことなのです」

 それをきいた妹のフイリッパは、そっといった。

 
「でもこれで終わりじゃないのよ、バベット。わたしにははっきりと分かるの、これで終わりじゃないって。天国でも、あなたは神さまのおぼしめしどうりの偉大な芸術家になるのだわ。ああ」頬に涙を流しながら。フイリッパはさらにこういった。「ほんとうに、きっとあなたは天使たちをうっとりさせることよ」


※追記:ネットに載っていた晩餐会のメニューと料理の写真

始まった晩餐会
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フルーツを盛り合わせるバベット
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1. ウミガメのコンソメスープ
 アペリティフ:シェリー・アモンティリャード
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2. ブリニのデミドフ風(キャビアとサワークリームの載ったパンケーキ)
 シャンパン:ヴーヴ・グリコの1860年物
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3. ウズラとフォアグラのパイ詰め石棺風 黒トリュフのソース
 赤ワイン:クロ・ヴージョの1845年物
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4. 季節の野菜サラダ

5. チーズの盛り合わせ(カンタル・フルダンベール、フルーオーベルジュ)

6. クグロフ型のサヴァラン ラム酒風味(焼き菓子)
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7. フルーツの盛り合わせ(マスカット、モモ、イチジクなど)

8. コーヒー

9. ディジェスティフ:フィーヌ・シャンパーニュ(コニャック)

2017年9月16日

読書日記「日本の色辞典」(吉岡幸雄著、紫紅社刊)


日本の色辞典 紫紅社刊
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 京都の染色工房を主宰する吉岡幸雄が出演したNHKのBSドキュメンタリー番組「失われた色を求めて」の再放送を何度か見た。

 日本に古くから伝わる植物染織の復活に生涯をかける工房や原料を育てる農家の人々の苦労が伝わってくる。

 そんな時に友人Mが貸してくれたのが、この本。カラ―写真紙を使ったズッシリ重い約300ページの本に、古代からの色彩豊かな衣装、色の染め方や聞いたこともない名前の色見本が詰まっている。

◇赤系の色

 太陽によって一日がアケル。そのアケルという言葉が「アカ」になった。

 
 土のなかから弁柄などの金属化合物の赤を発見し、の根、紅花の花びら、蘇芳の木の芯材、そして虫からも赤色を取り出そうとしたのは、まさに、陽、火、血が人間にとっての新鮮な色で会ったからにほかならならない。


 ▽茜色(あかねいろ)

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    額田王が「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」と、万葉集に詠った色。

 茜は、アカネ科の蔓草だが、その赤い根を乾燥させて朱色を出す手法は古くから用いられてきた。しかし、手間がかかり、色が濁って難しいため、その技法は中世の終わりにすたれてしまった。

 著者の工房では、茜の草を試験的に栽培し始めた奈良県の農家の協力で、その製法の再現に挑戦している。しかし、茜の根を煮出した汁から黄色を取り去るために米酢を加えることをやっと発見するなど、古代の色を再現する苦労が続いている。

 ▽深緋(こきあけ、ふかひ)

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    古代色の読み方は難しい。深緋は、茜色をさらに濃く染め上げたもの。

 工房では、平安時代に編さんされた格式(律令の施工細則)である 「延喜式」の比率どおりに茜と紫根を用い、椿の木灰の上澄み液で発色させた。

 ▽曙色(あけぼののいろ)・東雲色(しののめいろ)

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      清少納言が「春は、あけぼの」と詠った「山の端から太陽が昇る前、そのわずかな光が反射して空が白み始める」色である。著者は「多くは茜色がやや淡く霞がかかった感じ」とみている。
 色見本では「茜との黄色を重ねた」

 ▽紅(くれない・べに)

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     紅花が出す赤色である。エジプト原産で、4,5世紀に日本に渡来した、という。

 この紅花から「紅」を染め出すのは、至難の業らしい。
 「自然の色を染める」(吉岡幸雄・福田伝士監修、紫紅社刊)などによると、花びらを水の中で揉み、ざるに取ってきつく絞る作業を繰り返して、花に含まれる黄色を取り去る。この後、藁灰(アルカリ性)を加えて、1-3回、色素を抽出。絹、木綿などの布を入れ、食酢を加えて色を定着させる。さらに布を水洗いして、鳥梅 と呼ばれる未熟な梅の果実を、薫製(くんせい)にしたものの水溶液に漬け、そのクエン酸の力で色素を定着させて乾燥する。
 鳥梅をつくっているのは、奈良県月ヶ瀬村の現在では中西さんという80歳強の梅栽培家だけらしい。「紅」の将来は、どうなるのか。

 このほか辞典では、盛りの桃の花をさす「桃染(ももぞめ・つきぞめ)は、紅花を淡く染めてあらわした、とある。

 「桜色」については、光源氏が、政敵右大臣の宴に招かれた時に「桜の襲(かさね)の 直衣(のうし)で出かけたことが書かれている。

 表が透明な生絹(すずし)、裏は蘇芳か紅花で染められた赤で、光が透過して淡い桜色に見えたのである。その姿は「なまめきたる」美しさであったという。

◇紫系の色

 紫という色を得るのに、中国、日本等東洋の国々では古くから紫草の根(紫根)を染料として用いてきた。

 
 ・・・染液のなかをゆっくりと泳ぐように動いている布の、だんだんと紫色が入っていくさまを見ていると、ほかの色を染めているときとはちがった、妖艶というか、神秘的というのか、眼が、色に吸いつけられて、そのなかに自分が入りこんでいくような気がしてくるのである。


 平安時代。紫は、高貴な人々だけに許された、 禁色(きんじき)であった。

 ▽深紫(こきむらさき)

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   紫根によって、何度も何度も繰り返し染めた黒味が閣下ったような深い紫色。

 紫根は麻の袋の入れ、湯の中でひたすら揉み込んで、色素を取り出す。その抽出液に湯を加え、絹布などで染め、清水で洗う。
 椿の生木を燃やした灰に熱湯を注いで、2,3日置いた上澄み液を越して布を入れる。椿の木灰に含まれたアルミニウム塩が紫の色素を定着させる。

◇青系の色

   青色は、古くから硝子、陶器などに使われてきたが、衣服は藍草で染められてきた。

 中国・戦国時代紀元前403~前221)に書かれた 「荀子」には「青は藍より出でて藍より青し」と記されている。「出藍の誉れ」という諺でも知られる。青という色は藍の葉で染めるが、染め上がった色はその素材より美しい青になることをあらわし、・・・すでに青という色を、藍という染料から得る技術が完成していたことを物語る。

 日本では、奈良時代には愛の染色技法はすでに完璧に完成していたとみえ、正倉院宝物のなかにもいくつかの遺品を見ることができる。

 
 (木綿の栽培が盛んになった)江戸時代に入ると、木綿や麻など植物性の繊維にもよく染まる藍染はより盛んになり、村々に紺屋ができた。 型染 筒描など庶民から将軍大名にいたるまで、藍で染めた青は広く愛される色であった。
 明治のはじめ、日本にやってきた外国人は、そうした状況を目のあたりにして、その藍の色を「ジャパン・ブルー」と読んで称賛したのである。


 ▽藍(あい)

あい.jpg

    日本では、藍を染めるのに タデを使うが、「建染」という手法が確立している。藍が還元発酵して染色可能な状態になったことを「藍が建つ」という。

 木灰に熱湯を注いで二,三日置き、その上澄み液を濾して灰汁を用意しておく。藍甕に ?(すくも)と灰汁を入れて掻き混ぜ、二〇度前後の温度を保ちながら十日くらい置く。その間日に二回掻き混ぜる。十日くらいたったところでふすまを加える。すると、ふすまが栄養剤となって発酵が促され、二、三日すると藍が建ち始め(ふすまを加えてあとは一日に一回掻き混ぜる)、染められるようになるのである。

 ▽縹色・花田色(はなだいろ)

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    藍色より薄く、浅葱色より濃い色をさす。「花田」は当て字。

 ▽浅葱色(あさぎいろ)

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    蓼藍で染めた薄い藍色。色見本は蓼藍の新鮮な葉をそのまま使う 生葉染

 田舎出の侍が羽裏に浅葱色の木綿を用いたので「不粋、野暮な人を当時『浅葱裏』と揶揄した」という。

 ▽亀覗(かめのぞき)

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    もっとも薄い藍染。布を少し漬けて引き上げる。つまり、藍甕のなかをちょっと覗いただけ、という遊び心いっぱいの命名。

◇緑系の色

   著者によると「緑色は、身近にいつもありながら、たやすく再現することができない色といえる」らしい。

 自然のなかにある「緑」を身近な生活のなかにおきたいとと思っても、草木が持つ葉緑素という色素は脆弱で、水に遇うと流れてしまう。しかも、時が経つと汚れたような茶色に変色してしまう。

 聖徳太子が亡くなった622年につくられた日本最古の刺繍が奈良・中宮寺に伝来しており、美しい緑の色糸が随所に使われている。藍色に 苅安 黄蘗(きはだ)という黄色系の染料をかけて染められたものだ。

 ▽萌黄色(もえぎいろ)

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   新緑の萌え出る草木の緑、冴えた黄緑色をいう。工房の色見本は、蓼藍の生葉染めのあとに黄蘗を掛け合わせた。

 ▽柳色(やなぎいろ)

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    古い文献によると、柳色の布は、萌黄色の経糸と白の緯糸で織り上げた。

 ▽常盤色(ときわいろ)

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    松や杉など年中緑色をたたえる常緑樹は「常盤木」と呼ばれている。その常盤木の葉のように、やや茶色を含んだ深い緑の色。

 色見本は、苅安に蓼藍を重ねて深みをだした。

 ▽麹塵(きくじん)青白橡(あおしろつるばみ) 山鳩色(やまばといろ)

きくじん.jpg

    麹塵は、麹黴の色。橡は団栗の古称、青白橡は、夏の終わりから秋のはじまりにかけての青い団栗の実のこと。

 まったく別個の色名に思われるが、平安時代に 源高明が記した宮中の年中行事作法書 「西宮記」に、この2つの色は同じものとあるという。山鳩色も同じ色という説もある。

 「延喜式」にある、その染色法が、また難しい。椿などの生木を燃やしてつくったアルミニウム塩を含む灰汁(あく)を発色剤に苅安や紫草の根から抽出した色素を組み合わせる。著者の工房でも、失敗を重ねて。ようやく染めることができた。

 (後記)

 1項目を読むたびに、著者の工房の苦労を味わい、貴重な古代文献の名を知り、平安朝の 「襲(かさね)の色目」に自然を感じる・・・。
 なんとも興味のつきない本だ。しかし、黄、茶、黒白、金銀の項を残してブログに記すのはこのあたりで止め、座右で楽しむことにしたい。

 なお、各項にある色見本は、ネットにあった、東京カラーズ株式会社の 「色名辞典」からコピーさせてもらった。著者の工房で染めた自然素材の色調とは、当然異なっていると思う。

  ※巻末に、著書にある代表的な色名表を載せ、備忘録にした。

【赤】
 代赭色 (たいしゃいろ) / 茜色 (あかねいろ) / 緋 (あけ) / 紅絹色 (もみいろ) / 韓紅 (からくれない) / 今様色 (いまよういろ) / 桜鼠 (さくらねずみ) / 一斤染 (いっこんぞめ) / 朱華 (はねず) / 赤香色 (あかこういろ) / 赤朽葉 (あかくちば) / 蘇芳色 (すおういろ) / 黄櫨染 (こうろぜん) / 臙脂色 (えんじいろ) / 猩々緋 (しょうじょうひ) など 104色

【紫】
 深紫 (こきむらさき) / 帝王紫 (ていおうむらさき) / 京紫 (きょうむらさき) / 紫鈍 (むらさきにび) / 藤色 (ふじいろ) / 江戸紫 (えどむらさき) / 減紫 (けしむらさき) / 杜若色 (かきつばたいろ) / 楝色 (おうちいろ) / 葡萄色 (えびいろ) / 紫苑色 (しおんいろ) / 二藍 (ふたあい) / 似紫 (にせむらさき) / 茄子紺 (なすこん) / 脂燭色 (しそくいろ) など 46色

【青】
 藍 (あい) / 紺 (こん) / 縹色 (はなだいろ) / 浅葱色 (あさぎいろ) / 甕覗 (かめのぞき) / 褐色 (かちいろ) / 鉄紺色 (てっこんいろ) / 納戸色 (なんどいろ) / 青鈍 (あおにび) / 露草色 (つゆくさいろ) / 空色 (そらいろ) / 群青色 (ぐんじょういろ) / 瑠璃色 (るりいろ) など 60色

【緑】
 柳色 (やなぎいろ) / 裏葉色 (うらはいろ) / 木賊色 (とくさいろ) / 蓬色 (よもぎいろ) / 萌黄色 (もえぎいろ) / 鶸色 (ひわいろ) / 千歳緑 (ちとせみどり) / 若菜色 (わかないろ) / 苗色 (なえいろ) / 麹塵 (きくじん) / 苔色 (こけいろ) / 海松色 (みるいろ) / 秘色 (ひそく) / 虫襖 (むしあお) など 57色

【黄】
 刈安色 (かりやすいろ) / 鬱金色 (うこんいろ) / 山吹色 (やまぶきいろ) / 柑子色 (こうじいろ) / 朽葉色 (くちばいろ) / 黄橡 (きつるばみ) / 波白色 (はじいろ) / 菜の花色 (なのはないろ) / 承和色 (そがいろ) / 芥子色 (からしいろ) / 黄土色 (おうどいろ) / 雌黄 (しおう) など 36色

【茶】
 唐茶 (からちゃ) / 団栗色 (どんぐりいろ) / 榛摺 (はりずり) / 阿仙茶 (あせんしゃ) / 檜皮色 (ひわだいろ) / 肉桂色 (にっけいいろ) / 柿渋色 (かきしぶいろ) / 栗色 (くりいろ) / 白茶 (しらちゃ) / 生壁色 (なまかべいろ) / 木蘭色 (もくらんいろ) / 苦色 (にがいろ) / 団十郎茶 (だんじゅうろうちゃ) / 土器茶 (かわらけちゃ) / 媚茶 (こびちゃ) / 鳶色 (とびいろ) / 雀茶 (すずめちゃ) / 煤竹色 (すすたけいろ) など 107色

【黒・白】
 鈍色 (にびいろ) / 橡色 (つるばみいろ) / 檳榔樹黒 (びんろうじゅぐろ) / 憲法黒 (けんぽうぐろ) / 空五倍子色 (うつぶしいろ) / ?色 (ろういろ) / 利休鼠 (りきゅうねずみ) / 深川鼠 (ふかがわねずみ) / 白土 (はくど) / 胡粉 (ごふん) / 雲母 (きら) / 氷色 (こおりいろ) など 53色

【金・銀】
 金色 (きんいろ) / 白金 (はっきん) / 銀色 (ぎんいろ)



   

2017年8月 9日

読書日記「あの頃 単行本未収録エッセイ集」(武田百合子著、武田花編、中央公論新社刊)「富士日記 上・中・下」(武田百合子著、中公文庫)


あの頃 - 単行本未収録エッセイ集
武田 百合子
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 「一番好きな作家は?」と聞かれたら、すかさず武田百合子と答えるだろう。

 夫の作家、武田泰淳の死後、書きはじめた数冊の著書が、大変な評判になった。「富士日記」は、富士山ろくに建てた「武田山荘」に週の半分を過ごした日々を坦々と綴っているだけなのに、なぜか引き込まれる。もう10回以上は読んだろうか。

 例えば、こんな文章。

 「夜はまったく晴れて、星がぽたぽた垂れてきそうだ」
 「外川家具店に鏡と棚が一緒になったのを見ないで注文・・・。ヒューマニズムみたいな感じの棚が届いた」
  「朝 ごはん、味噌汁、塩鮭、卵。昼 カツ丼、トースト。夜 ごはん、コンビーフ、チクワとキャベツ煮付、コーンスープ」
 「山の雪道の運転は、体の中の細胞がぱあっとひらいてしまって、シャワーを浴びているように、楽しい」
 「昏れがた、松の芽がいっせいに空に向かってのびているのが、くっきりと目にたつ。花札の絵のようだ。心がざわざわする。私の金銭欲と物欲と性欲」

 百合子が67歳で死んだ時、残されていた日記、メモ、手帳などは遺言ですべて焼却された、という。しかし、雑誌などに書かれた単行本未収録のエッセイが、歿後24年後に本になった。もう読めないと思っていた武田百合子の文章に思いもよらず再会できることになった。

 年代グループ別に編集されているから、最初は、夫・武田泰淳の思い出が多い。

 
 歌の上手な人ではなかったが、たまに歌うこともあった。酔うと寝転んで「どこまでも続くぬかるみぞ」 という軍歌を、よく歌った。体力があったころのことだ。読経の修練をしたことのある、力の入った、張り上げない、低い声で、くり返し、ていねいに歌っていた。「懐かしのメロディー」 などで、どんな歌手が歌うこの歌よりも、武田の歌う『討匪行』は、本当の兵隊ー将校ではなく一兵卒、が歌っているようだった。革臭く、泥臭く、汗臭く、ゲートル臭く、精液臭く、兵隊の苦しさや哀しみがこもっていた。聴いていると部屋の中まで、果てもなく暗く、雨が降りつづいているような気がした。


 
 ・・・初七日、二七日、三七日と、そのことを順々に確かめてゆきながらも、家の中を見まわすと机や座布団やハンコほあるのに、持主だけ虚空へかき消えてしまったことが、何ともわりきれなくて、当分の間はキョトンとした心持だった。・・・そんなときは、お風呂にそそくさと入った。丸まってお湯に浸かり、ケッと泣いた。


 1周忌が近づいたころの文章。

  
 道を歩いていると、夫や私より年長の夫婦らしい二人連れにゆきあう。私はしげしげと二人の全身を眺めまわす。通りすぎてから振り返って、また眺めまわす。羨ましいというのではない。ふしぎなめずらしい生きものをみているようなのだ。


 自分の文章について書いたか所がいくつかある。百合子は、天衣無縫に飛び出した言葉を綴っていたのか、とも思っていた。しかし「編者あとがき」によると、百合子は「雑誌などに書いた随筆を本にする際は、必ず細かく手を入れていた」という。推敲に推敲を重ねて、やっと絞り出した文章だったのだ。

 
 美しい景色、美しい心、美しい老後など「美しい」という言葉を簡単に使わないようにしたいと思っている。景色が美しいと思ったら。どういう風かくわしく書く。心がどういう風かくわしく書く。・・・「美しい」という言葉がキライなのではない。やたらと口走るのは何だか恥ずかしいからだ。


 そう考える人が、ただ「蝉が鳴いている」ことを書くと、こうなる。

  
 午前四時半、・・・裏の崖上の林の高い遠くで、かなかな蝉が一匹、息の続く限り鳴いて止む。そのあと、しんとしてしまう。・・・別のかなかな蝉が、離れたところの樹で鳴く。消えかけたその声にかぶせ繋いで、じい一つと気のないような鳴き方で、別の種類の蝉が鳴きはじめ、ひとしきりして止む。止むのを待って、離れたところの同じ種類の蝉が鳴き、ひとしきりして止む。三匹めが鳴きはじめると、一匹めと二匹めも重唱、だんだん調子が出てきて、馴れきって、空気みたいに鳴き出す。しやおんしゃおんと鳴く蝉も混り、もう林全体が蝉の声となる。


 何度も出てくる食べ物の一節。

 
 うな井は、並一人前八十円、沢庵が二切れついていて、お茶がおいしい。蓋をとるとマッチ箱大の蒲焼が二つのっている。耳のうしろをつたう汗を指で払いながら、ひらりと一口、蒲焼を喉に通し、たて続けに、たれのたっぷりしみた御飯をはお張る。酔ったようになる。くたびれた人が汗をふきながら一人入ってきて、もうろうと腰かけて「うな井、並」といった。


 夫が生きていた頃。一人娘と3人で花見に出かけたことがあった。葡萄酒ですっかり酔っぱらった百合子は、娘に絡み始める。

 
 あんたねえ。こんないいところにきて、そんなことじゃあ、この先、生きて行くのはむずかしいよ。嬉しいときは嬉しい顔しなくちゃあ、欲しいときは欲しいと言わなくちゃあ。いったいぜんたい、あんたはどんなこと思って生きているのかえ。どんな考えを持って生きてるのかえ。え、言ってごらん。
 無表情のまま、じいっと押し黙っていた娘は、やがて涙のたまってきた眼のふちを赤らめ、かばそい声を出して言うのだった。「思おうとしても思えないよお。考えても考えがないよお。だけど、あたしは生きていたいよお。ただ生きていたいよお」
 青い空の奥の奥で、かすかな爆音がしていた。見えないその飛行機が、金紙のチラシを撒きつづけているような気がしていた。頭上の桜は、ひとひらだって散ってこない。「ユリコのマケ」限蓋の裏の眼の玉をぐりぐりと動かし、限をつぶったままの夫が、おかしくてたまらぬ風にそう言うのだった。


 この娘がこの本の編者で、著書もいくつかある写真家の武田花さん。このブログでも登場させてもらったことがあるが、浮ついたファンレターめいた文章が、今になって恥ずかしくなる。 YOMIURI ONLAINに載っていた花さんが、お母さんそっくりなのにちょっとびっくりした。

2017年6月 2日

ローマ再訪「カラヴァッジョ紀行」(2017年4月29日?5月4日)

カラヴァッジョというイタリア・バロック絵画の巨匠の名前を知ったのは、11年も前。2006年9月に、旧約聖書研究の第一人者である和田幹男神父に引率されてイタリア巡礼に参加したのがきっかけだった。

 5日間滞在したローマで、訪ねる教会ごとに、カラヴァッジョの作品に接し、圧倒され、魅了された。

 その後、海外や日本の美術館でカラヴァッジョの絵画を見たり、関連の書籍や画集を集めたりしていたが、今年になって友人Mらとローマ再訪の話しが持ち上がり、 カラヴァッジョ熱がむくむくと再燃した。

 友人Mらの仕事の関係で、ゴールデンウイークの4日間という短いローマ滞在だったが、その半分をカラヴァッジョ詣でに割いた。

? サンタ・ゴスティーノ聖堂
 ナヴォーナ広場の近くにあるこの教会は、11年前にも訪ねている。真っ直ぐ、主祭壇の右にあるカラヴェッティ礼拝堂へ。

「ロレートの聖母」(1603?06年)は、13世紀に異教徒の手から逃れるために、ナザレからキリストの生家が、イタリア・アドリア海に面した聖地ロレートに飛来したという伝説に基づいて描かれた。

 午前9時過ぎで、信者の姿はほとんどなかったが、1人の老女が礼拝堂の左にある献金箱にコインを入れると灯がともり、聖母の顔と巡礼農夫の汚れた足の裏がぐっと目の前に迫ってきた。
 この作品が掲げられた当時、自分たちと同じ巡礼者のみすぼらしい姿に、軽蔑と称賛が渦巻き、大騒ぎになった、という。
 整った顔の妖艶な聖母は、カラヴァッジョが当時付き合っていた娼婦といわれる。カラヴァッジョは、モデルなしに絵画を描くことはなかった。

ロレートの聖母(カヴァレッティ礼拝堂、1603?06年頃)

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? サンタ・マリア・デル・ポポロ教会
 ここも2度目の教会。教会の前のポポロ広場は日中には観光客などがあふれるが、まだ閑散としている。入口で金乞いをする ロマ人らしい老婆が空き缶を差し出したが、そんな姿も11年前に比べると、めっきり少くなっていた。

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 入って左側にあるチェラージ礼拝堂の正面にあるのは、 アンニーバレ・カラッチの「聖母被昇天」図。カラヴァッジョの兄貴分であり、ライバルでもあった。カラッチが他の仕事で作業を中断したため、両側の聖画制作依頼が カラヴァッジョに回って来た。

チェラージ礼拝堂正面・アンニーバレ・カラッチ(1560?1609)作「聖母被昇天」
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 右側の「聖パウロの回心」(1601年)は、イタリアの美術史家 ロベルト・ロンギが「宗教美術史上もっとも革新的」と評した傑作。パリサイ人でキ リスト教弾圧の急先鋒だったサウロ(後のパウロ)は、天からの光に照らされて落馬、神の声を受け止めようと、大きく両手を広げる。馬丁や馬は、それにまったく気づいていない。「サウル、サウル、なぜ私を迫害するのか」(使徒業録9?4)という神の声で、サウロの頭のなかでは、回心という奇跡が生まれている。光と闇が生んだドラマである。

 左側の「聖ペトロの磔刑」(1601年)は「キリストと同じように十字架につけられ るのは恐れ多い」と、皇帝ネロによって殉死した際、自ら望んで逆十字架を選んだという シーン。処刑人たちは、光に背を向けて黙々と作業をしている。ただ1人、光を浴びる聖 ペトロは、苦悩の表情も見せず、達観した表情。静逸感が流れている。

同礼拝堂左・カラヴァッジョ「聖ペトロの磔刑」(1601年)、右・同「聖パウロの回心」

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? サン・ルイジ・ディ・フランチェージ教会
 やはり2度目の教会。午前9時過ぎに行ったが、自動小銃の兵士2人が警戒しているだけで、扉は占められている。ローマ市内の主な教会や観光地には、必ず兵士がおり、テロのソフトターゲットとなる警戒感が漂う。日本人観光客は、以前の3割に減ったという。

 午前11時過ぎに再び訪ねたが、懸念したとおり日曜日のミサの真っ最中。「聖マタ イ・3部作」があるアルコンタレッソ礼拝堂は、金網で閉鎖されていた。3部作のコピー写真が張られいるのは、観光客へのせめてものサービスだろう。11年前の感激を思い出しながら、ネットで作品を探した。

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 礼拝堂全体を見ると、正面上部の窓があることが分かる。そこから光が射しこみ、絵画に劇的な効果が生まれる。「パウロの回心」でも、初夏になると、高窓から射しこんだ光をパウロが両手で受けとめるように見えるという。カラヴァッジョの緻密な光の設計である。

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 左側「聖マタイの召命」(1600年)でも、キリストの指さした方向にある絵画の光と実際の光が相乗効果を生む。

「聖マタイの召命」(1600年)

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 「聖マタイの召命」で、未だにつきないのが「この絵の誰がマタイか」という論争だ。Wikipediaには、こう書かれている。

 「長らく中央の自らを指差す髭の男がマタイであると思われていた。しかし、画面左端で俯く若者がマタイではないか、という意見が1980年代から出始め、主にドイツで論争になった。未だにイタリアでは真ん中の髭の男がマタイであるとする認識が一般的だが、・・・左端の若者こそが聖マタイであると考えられる。画面中では、マタイはキリストに気づかないかのように見えるが、次の瞬間使命に目覚め立ち上がり、あっけに取られた仲間を背に颯爽と立ち去る」
 「パウロの回心」と同じように、召命への決断は、若者の頭の中ですでに決められているのだ。

 しかし、翌日のツアーの案内を頼んだローマ在住27年の日本人ガイドは「髭の男以外に考えられません。ドイツ人がなんてことを言う!」と憤慨していたし、作家の 須賀敦子も著書「トリエステの坂道」で「マタイは、正面の男」という考えを崩していない。左端の若者は、ユダかカラヴァッジョ自身だというのだ。

 しかし最近、異説が出て来たらしい。日本のカラヴァッジョ研究の権威で、「マタイは左端の若者」説の急先鋒である 宮下規久朗・神戸大学大学院教授は、著書「闇の美術史」(岩波書店)で「『 テーブル左の三人はいずれもマタイでありうる』という本が、2011年にロンドンで発刊された」と書いている。
 また、気鋭のイタリア人美術史家ロレンツオ・ペリーコロらは「カラヴァッジョはもともとマタイを特定せずに描いたのではないか」という説さえ唱えだした。
 宮下教授も「右に立つキリストは幻であって、見える人にしか見えない。キリストの召命を受けた人がマタイであるならば、そこにいる誰もがマタイになり得る」という"幻視説"まで主張し始めた。
 誰がマタイなのか。この絵への興味はますます深まっていく。

 右側の「聖マタイの殉教」(1600年)は、教会で説教中に王の放った刺客にマタイが殺されるシーン。中央の若者は、刺客である説と刺客から刀を奪いマタイを助けようとしているという説がある。後ろで顔を覗かせているのは、画家の自画像。

「聖マタイの殉教」(1600年)

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 両翼のマタイ図を描いたカラヴァッジョは、1602年に正面の主祭壇画「聖マタイと天使」も依頼された。
 聖マタイが天使の指導で福音書を書くシーンだが、第1作は教会に受け取りを拒否された。聖人のむき出しの足が祭壇に突き出ているうえ、天使とじゃれあっているように見えたせいらしい。

「聖マタイと天使・第一作」          聖マタイと天使(1602年)
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? 国立コルシーニ宮美術館
 テレヴェレ川を渡り、ローマの下町・トラステベレにある小さな美術館。
 ただ1つあるカラヴァッジョの作品「洗礼者ヨハネ」(1605?06年)もさりげなく窓の間の壁面に展示してあった。
 カラヴァッジョは、洗礼者ヨハネを多く描いているが、いつも裸身に赤い布をまとった憂鬱そうな若者が描かれる。司祭だったただ1人の弟の面影が表れている、という見方もある。

「洗礼者ヨハネ」(1605?06年)
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? パラッツオ・バルベリーニ国立古代美術館

 「ユディットとホロフェルネス」(1599年頃)は、ユダヤ人寡婦ユディットが、信仰に支えられてアッシリアの敵陣に乗り込み、将軍ホロフェストの寝首を掻いたという旧約聖書外典「ユディット記」を題材にしている。これほど生々しい描写は、当時珍しかったらしい。

「ユディットとホロフェルネス」(1599年頃)
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 「瞑想の聖フランチェスカ」(1603/05?06年)は、 アッシジの聖フランチェスコが髑髏を持って瞑想しているところを描いた。殺人を犯して、ローマから逃れた直後に描かれた。画風の変化を感じる。

 「ナルキッソス」(1597年頃)
 ギリシャ神話に出てくる美少年がテーマ。水に映った自らの姿に惚れ込み、飛び込んで溺れ死んだ。池辺には水仙の花が咲いた。 ナルシシズムの語源である。

瞑想の聖フランチェスカ」(1603/05?06年)       「ナルキッソス」(1597年頃)
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? ドーリア・パンフイーリ美術館
 入口の上部にある「PALAZZO」というのは、?と同じで、イタリア語で「大邸宅」という意味。オレンジやレモンがたわわに実ったこじんまりとした中庭を見て建物に入ると、延々と続く建物内にいささか埃っぽい中世期の作品が所狭しと並んでいた。入口には「ここは、個人美術館ですのでローマパス(地下鉄などのフリー乗車券。使用日数に応じて美術館などが無料になる)は使えません。We apologize」と英語の張り紙があった。

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 廊下を進んだ半地下のような部屋にある「悔悛のマグダラのマリア」(1595年頃)の マグダラのマリアは、当時のローマの庶民の服装をしている。それまでの罪を悔いて涙を流す悔悛の聖女の足元には装身具が打ち捨てられたまま。聖女の心に射した回心の光のように、カラヴァッジョ独特の斜めの光が射しこんでいる。

悔悛のマグダラのマリア(1595年頃
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 隣にあった「エジプト逃避途上の休息」(1595年頃)は、ユダヤの王ヘロデがベツレヘムに生まれる新生児の全てを殺害するために放った兵士から逃れるため、エジプトへと旅立った聖母子と夫の聖ヨセフを描いている。
 長旅に疲れて寝入っている聖母子の横で、ヨセフが譜面を持ち、 マニエリスム技法の優美な肢体の天使がバイオリンを奏でている。背景に風景画が描かれ、ちょっとカラヴァッジョ作品と思えない雰囲気がある。

エジプト逃避途上の休息(1595年頃)
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? カピトリーノ美術館
 ローマの7つの丘の1つ、カピトリーノの丘に建つ美術館。広く、長く、ゆったりした石の階段を上がった正面右にある。館内の一部から、古代ローマの遺跡 フォロ・ロマーノが一望できる。

 「女占い師」(1598?99年頃)
 世間知らずの若者がロマの女占い師に手相を見てもらううちに指輪を抜き取られてしまう。パリ・ルーブル美術館に同じ構図の作品があるが、2人とも違うモデル。

女占い師(1594年)         同(1595年頃、ルーブル美術館)
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 《洗礼者ヨハネ(解放されたイサク)》(1601年)
 長年、洗礼者ヨハネを描いたものと見られていたが、ヨハネが持っているはずの十字架上の杖や洗礼用の椀が見当たらないため、父アブラハムによって神にささげられようとして助かったイサクであると考えられるようになった。

《洗礼者ヨハネ(解放されたイサク)》(1601年)
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? ヴァチカン絵画館
 「キリストの埋葬」(1602?04年頃)は、ヴァチカン絵画館にある唯一のカラヴァッジョ作品。長年、その完璧な構成が高く評価され、ルーベンス、セザンヌなど多くの画家に模写されてきた。
 教会を象徴する岩盤の上の人物たちは扇状に配置され、鑑賞者は墓の中から見上げる構成。ミサの時に祭壇に掲げられる聖体に重なるイリュージョンを作りあげている。
 もともと、オラトリオ会の総本山キエーザ・ヌオーヴァにあったが、ナポレオン軍に接収されてルーヴル美術館に展示された後、ヴァチカンに返された。

キリストの埋葬(1602?04年頃)
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? ボルゲーゼ美術館
 ローマの北、ピンチョの丘に広大なボルゲーゼ公園が広がる。17世紀初めに当時のローマ教皇の甥、シピーオネ・ボルゲーゼ枢機卿の夏の別荘が現在のボルゲーゼ美術館。
 基本的にはネット予約で11時、3時の入れ替え制。それも入館の30分前に美術館に来て、チケットを交換しなければならない。いささか面倒だが、カラヴァッジョ作品が6点もあり、見逃せない。

「果物籠を持つ少年」(1594年頃)
 ローマに出てきてすぐのカラヴァッジョは極貧状態。モデルをやとうこともできなかったが、果物の描写は見事。少年の後ろの陰影は、後のカラヴァッジョを特色づける3次元の空間を生み出している。

「果物籠を持つ少年」(1594年頃)
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「聖ヒエロニムス」(1605年頃)
 殺人を犯してローマを追われる少し前の作品。4,5世紀の学者聖人が聖書を一心にラテン語に訳している。画家が公証人を斬りつけた事件を調停したボルゲーゼ枢機卿に贈られた。

「聖ヒエロニムス」(1605年頃)
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 「蛇の聖母」(1605?06年頃)
 蛇は異端の象徴であり、これを聖母子が踏み、撃退するというカトリック改革期のテーマ。
 教皇庁馬丁組合の聖アンナ同信会の注文でサン・ピエトロ大聖堂内の礼拝堂に設置されたが、すぐに撤去されてボルゲーゼ枢機卿に買い取られた。守護聖人である聖アンナが、みすぼらしい老婆として描かれたことが原因らしい。

「蛇の聖母」(1605?06年頃)
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 《やめるバッカス(バッカスとしての自画像)》(1594年頃)
 カラヴァッジョ最初の自画像。肌が土気色だが、芸術家特有のメランコリー気質を表すという。

《病めるバッカス(バッカスとしての自画像)》(1594年頃)
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 「ダヴィデとゴリアテ」(1610年)
 カラヴァッジョは、最後の自画像をダヴィデの石投げ器で殺されるペルシャの巨人、ゴリアテに模した。そのうつろな眼差しは、呪われた自分の人生を悔いているのか。

「ダヴィデとゴリアテ」(1610年)
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 「力尽きた不完全な聖人《洗礼者ヨハネ》」(1610年頃)
 画家が、死ぬ最後に持っていた3点の作品の1つ、といわれる。洗礼者ヨハネが、いつも持っていた洗礼用の椀はなく、いつもいる子羊も角の生えた牡羊である。遺品は取り合いになり、この作品はボルゲーゼ枢機卿のもとに送られた。

「力尽きた不完全な聖人《洗礼者ヨハネ》」(1610年頃)
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