2009年2月アーカイブ: Masablog

2009年2月24日

読書日記「火を熾す」(ジャック・ロンドン著、柴田元幸訳、スイッチ・パブリッシング刊)


火を熾す (柴田元幸翻訳叢書) (柴田元幸翻訳叢書―ジャック・ロンドン)
ジャック・ロンドン
スイッチ・パブリッシング
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おすすめ度の平均: 5.0
5 バイタリティー溢れる強靭な主人公の魅力でぐいぐい読ませる重厚な作品集です。
5 なぜ、いまジャック・ロンドンなのか。
 
 作者、ジャック・ロンドンは、なんと19世紀のアメリカの作家。
 貧困家庭に生まれ、多くの職業を体験し、世界を放浪しながら20冊の長編小説、200本に及ぶ短編小説を残している。

 翻訳の名手、柴田元幸が、そのなかから9本を選んで新訳したのが、この本である。

 訳者は「あとがき」でこう書いている。
 「ロンドンの文章は剛球投手の投げる球のような勢いがあり、誠実で、率直で、ほかの作家ではなかなか得られないノー・ナンセンスな力強さに貫かれている」

 「翻訳にあたっても、いつも以上に透明性めざし、この作家の身上である勢いを削がないように努めたつもりである」


 9篇ともすごい剛球小説だが、昔からの〝焚き火大好き人間〟なだけに,最初に引きずり込まれたのは表題になっている「火を熾す」の焚火シーンだった。

 男が1匹の犬だけを連れて極寒のアラスカの原野を歩いている。零下50度(摂氏零下約45,6度)から零下75度(同59・4度=訳注から)まで冷え込んでくる。

 途中で弁当を食べようとするが、手袋を脱いだ手はたちまち麻痺し、氷の口輪に邪魔をされてパンを一口も齧れない。
 「火を熾しにかかった。下生えの、よく乾いた枝が前の春に増水で流されてたまっているところから薪を集めた。小さな炎からはじめて、慎重に作業を進め、やがて勢いよく燃える火が出来上がった」
 寒さを克服した男は、無事食べ終え、パイプで一服する余裕さえあった。

 再度、歩き始めて不運に見舞われる。固い氷の下の湧き水に足を突っ込み、濡らしてしまう。
 今度も「火はちゃんと燃え、パチパチと音を立て、炎を大きく躍らせるごとに生命を約束している」
 しかし、エゾマツの下で火を熾したのが間違いだった。頭上の大枝には、かなりの重さの雪が積もっていた。
 その雪が
「なだれのように大きくなって、いきなり何の前触れもなく男と火の上に落ちてきて、火は消えてしまった!さっきまで燃えていたところには、真新しい乱れた雪の外套があるばかりだった」


 別の場所で再度、火を熾そうとするが、足が凍り、両手が麻痺してくる。手袋をはめた両手で挟んだ硫黄マッチの束に火をつけたが、雪の上に落してしまう。小枝にへばりついた腐った木のかけらや緑色の苔を歯で食いちぎり、火を育てようとするが「苔の大きなかけらが小さな炎の上にもろに落ちた。・・・火は消えた。

 歩きだしたが倒れてしまう。
「威厳をもって死を迎えるという観念を頭に抱いた。・・・俺は馬鹿な真似をやった、首を切り落とされた鶏みたいに駆け回って。・・・最初のかすかな眠気が訪れた」


 この短編を、村上春樹が短編集「神の子どもたちはみな踊る」(新潮文庫)のなかの「アイロンのある風景」で取り上げていることを、新聞の書評とネットサーフインで知った。さっそくアマゾンに450円(アマゾンポイント10円引き、送料無料)で注文、翌日届いた。

 主人公の順子は、高校1年の時に宿題の読者感想文で、この短編を読み「この旅人はほんとうは死を求めている」と、この物語の核心に気がつく。

 「あやしい探検隊焚火発見伝」「あやしい探検隊焚火酔虎伝」といった焚き火シリーズを書いている椎名誠などが作っている国際焚火学会という遊び心いっぱいの集団がある。

その国際焚火学会編の「焚火の時間」(コスモヒルズ刊)、「焚火パーティへようこそ」(講談社+α文庫)でも、ジャック・ロンドンのこの短編が取り上げられている。
「厳寒のアラスカやシベリアを舞台にした,J・ロンドンやH・A・バイコフの小説には、たくさんの焚火が登場する。これらの小説では、過酷で原始性の強い自然環境を描いているので『たき火は命と同じ』という価値を持って表現されている」

「文明に毒されたあまたの放漫さからときとして謙虚さを取り戻すべく、人間は森、露地、海、川、山、庭、あらゆる場所で焚火をするということである」


 焚火に凝りに凝っていた若い頃がなつかしい。山行の帰りの河川敷、借り農園、千葉・稲毛の人工海岸、西宮・香櫓園浜、ニュージランド南島の海岸・・・。ジャック・ロンドンの描く世界とはほど遠い小さな、小さな冒険?だったが。

神の子どもたちはみな踊る (新潮文庫)
村上 春樹
新潮社
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4 柔らかい世界観
4 信頼できる「震災との距離感」
5 阪神淡路大地震の闇と心の闇が通じ合う孤独を抱えた人々の魂の再生の物語
5 死とむかいあう
5 "やみくろ"と戦うかえるくん

あやしい探検隊焚火発見伝 (小学館文庫)
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4 空腹時は読んではいけない。
3 日本は美味なものが多いね

あやしい探検隊 焚火酔虎伝 (角川文庫)
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5 焚火の魅力
3 気分だけでも

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2009年2月18日

「五島列島教会めぐり③終 新上五島町」(2009・1・6)


 奈留島から新上五島町の郷ノ首港に着いた時は、南国の冬の日もすっかり暮れていた。

写真①写真② 翌朝午前8:30に宿を出て、奈摩湾を望む丘に建つ国の重文である「青砂ケ浦天主堂」(写真①)へ。早朝というのに、数台のトラックで来た10数人の作業員。痛みが激しいため、8月までシートで覆い、外壁、内部の修復工事を今日から始めるという。ギリギリ、鉄川与作による煉瓦造り教会第2作の外観を目にすることができた。
 天主堂の前にある説明板に「日本人が作った初期の煉瓦造り教会だが、本格的な教会建築の基本である重層屋根構造の外観、内部空間が形成された初めての例」とある。
 正面は、重層の断面をそのまま3分割し、薔薇窓や縦長アーチ窓に飾られ、白い石造りのアーチで飾られた重層さに見とれてしまう。
 内部(写真②)は3廊式で、やはりリブ・ヴォートルのアーチが白いしっくいの天井を支える。この教会が多くの司祭、シスターを輩出しているのは、この荘厳な美しさのためなのか。

写真③  奈摩湾の対岸の狭い丘に建つ「冷水教会」(写真③)は、白い木造建築の上に、青い6角形の塔をのせた簡素なスタイル。塩害を防ぐため、最近の修復で初めて新建材の壁が使われ、ステンドグラスは化成品、窓のサッシもアルミに替わったということだが、違和感はまったくない。少ない信徒でここまで管理してきた苦労を思う。

 途中に寄った塩の製造工房で「江袋教会」が、昨年2月漏電による火災で焼失した、と聞いた。カトリック信者でもあるこの工房の経営者などによって、再建のための募金活動と復元作業が続けられている、という。夕方、長崎に向かう高速船のチケット売り場にも募金協力を求めるチラシが張ってあった。キリシタン時代からの歴史が、地元に根付いている。

写真④写真⑤写真⑥ 世界初の洋上石油基地を望む「跡次教会」(写真④)、街の中心にある「青方教会」を経て、小さな入り江に建つ「中ノ浦教会」(写真⑤)へ。水辺に映る木造建築の美しさが女性観光客に人気ということだったが、残念ながら引き潮で、その風景は見られなかった。
 内部(写真⑥)は、回りの縁より天井面を高くした「折り上げ天井」で、祭壇部はリブ・ヴォートル天井。側壁上部の椿のデザインが鮮やかだ。「五島崩し」で、厳しい弾圧を経験した信徒たちが「五島で一番美しい聖堂を作りたい」と願った思いが伝わってくる。

写真⑦写真⑧写真⑨  信徒が20世帯ほどしかない村落に建つ民家風の「大浦教会」(写真⑦)、若松瀬戸の入江に赤い屋根を映す「桐教会」(写真⑧)、貝殻でできた海岸を望む「高井旅教会」を見て、山のすそ野をぐるりと回ったところに「福見教会」(写真⑨)の煉瓦壁があった。

 歩いてもいける距離に教会が建っているのが、ちょっと不思議に思える。大村藩・外海などから移住してきた後、信仰が認められた際に元の部落ごとに教会を建てたためらしい。明治の後期には、山をぐるりと回れる道などなかったのだ。

 この旅に行く前に「福見教会」の写真を見て、四角の煉瓦の箱はなんだろうかと思っていたが、玄関部だった。住民の98%がカトリックという地区で、トイレなどの手入れが行き届いているのが分かる。
 教会の前の説明板には「高い梁張りの船底天井などエキゾチックな雰囲気が漂っており、内部の左右には、ステンドグラスが張り詰めてある」と解説している。「われらの教会」という住民の意気込みが伝わってくる。

写真⑩ 島の中央部に戻って昼食後、カトリック教徒であるタクシーの運転手、Kさんが所属する赤い屋根の「丸尾教会」(写真⑩)へ。道路の上がカトリック、海に近い平地は仏教徒という住み分けと〟葛藤〝が今でも続いている。

写真⑪ ここは、鉄川与助の地元。与助の大きな墓があり、近くに与助が煉瓦造りの門(写真⑪)を建てた菩提寺(正光山元海寺)があった。教会建築の第一人者となった与助は、最後まで熱心な仏教徒だったという。その後、後継者は長崎に移って工務店を興した。翌日、長崎に渡り「浦上教会」を訪ねた際「原爆で崩壊した教会を再建したのは、鉄川工務店」という説明板があった。

写真⑫  世界遺産暫定指定の「大曾教会」(写真⑫)は、急な坂を登った丘の上で手を広げたキリスト像とともに、巻き上げ漁船基地・青方港を見下ろしている。
 煉瓦造りの重層屋根構造。8角形の銀色をしたドームと十字架を頂いた鐘楼が突出している。行き来する遠くの漁船からも見えたことだろう。
 教会が建つ丘は、ウバメガシの林で覆われている。明治の時代に、巻き上げ漁法の指導に来た和歌山の船員が植えたという。備長炭の原料である。

写真⑬写真⑭写真⑮ 日本有数の遠浅の砂浜が広がる蛤浜(写真⑬)を通り、頭ケ島大橋でむすばれた小島にある「頭ケ島教会」(写真⑭)にたどり着いた。島で産出する石材(砂岩)を積み上げた天主堂で、国の重要文化財に指定されている。20戸ほどの信徒が全財産を投げ出し、労働奉仕で10年近くをかけて完成させたロマネスク様式の天主堂だ。労働奉仕で収入の道を断たれ、何度も工事は中断したのに、司祭館まで石造りにしてしまった信徒たちのパッションは今でも燃え上っているようだ。
 内部(写真⑮)がまたすごい。外観の重厚さと様変わりに、天井や壁画に椿などの装飾が施され、華やかさに満ちている。表の説明板によると「2重の持ち送りによって折り上げられたハンマー・ビーム架構」。わが国の教会建築史上でも、例のない構造らしい。

写真⑯  海辺に、教会と同じ砂岩で造ったキリシタン墓地(写真⑯)があり、ひっそりと十字架を並べていた。5月には、墓標の間を赤いマツバギクがカーペットを敷きつめたように咲き乱れるという。

写真⑰ 高速フェリーに〝負けて″閉鎖されてしまった上五島空港を経て、「鯛ノ浦教会」へ。今は図書館になっている「旧教会」(写真⑰)の下に新教会がある。旧聖堂は木造瓦葺きだが、戦後になって正面に煉瓦の鐘楼が増築された。長崎・浦上教会の被爆煉瓦が使われている。

写真⑱  鯛ノ浦港から、夕方の便で長崎に渡り、翌日はサント・ドミンゴ教会跡(写真⑱)など、いくつかの教会や史跡を訪ねた。

 昨年5月には「遠藤周作と歩く『長崎巡礼』」(遠藤周作 芸術新潮編集部編)という本にひかれ、長崎・旧外海町や島原、平戸、などの教会群を歩いた。これで世界遺産に暫定登録されている「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」のほとんどを訪ねる幸運に恵まれた。

 長崎へのキリスト教伝来から、長い弾圧を経て獲得した信仰のあかしとしての教会群。世界に例を見ないという布教の歴史にふれて、3年後と言われる正式な世界遺産への登録を願う気持ちは高まる。

 しかし同時に、遺産を守るためにはあまりに厳しい過疎と旧住民とのいまだにとけない葛藤にも出会った。
 この遺産群を生かすために、今なにをしなければならないのか・・・。そんな思いが心のなかで渦巻く旅だった。

2009年2月11日

「五島列島・教会めぐり② 久賀島、奈留島」(2009・1・5)


 五島列島2日目。福江港を午前9:10に出る遊覧船「シーガル号」で久賀(ひさか)島に向かう。五島列島で最初に隠れキリシタンが信仰を宣言、厳しい拷問を受けたという歴史を背負った島だ。それが五島列島全体に広がり「五島崩し」と呼ばれるキリシタン弾圧につながったことは、この紀行①でもふれた。

写真①写真②写真③ ガイド役は、遊覧船会社の三男坊で、カトリック信者でもある気のやさしそうなK青年。遣唐使船も風待ちに立ち寄ったという田の浦漁港に着くと、マイクロバスに乗り換えて漁港を見下ろす丘の上にある「浜脇教会」(写真①)へ。

 3層の白いコンクリートの上に、金色の十字架を抱いた薄緑の木製の塔。全体に、小ぶりな感じの簡素な建物だ。1881(明治41)に建立された最初の天主堂が潮風にさらされて痛みが激しくなり1931(昭和6年)に再築。旧聖堂は解体されて五輪地区に移された。
 内部は、8分割の見事なリブ・ヴォートル天井のアーチが続く(写真②)。ステンドグラス(写真③)は、この島に昔から野生していた椿の花をデザインしている。

 島には、天然記念物の椿原生林もあり、椿油の生産量が戦後日本一を記録したこともあるそうだ。道路沿いにも野生の椿が多く、2月に入れば咲き誇る花が見事らしい。早生の米がうまいことでも知られ、案内役のK青年は「水がよいのでしょう」という。しかし、行き交う車は少なく、人にも出会わない・・・。過疎が、福江島以上に進んでいる。

 島の中央部にある「牢屋の窄(さこ)」へ。窄(さこ)は「奥まったところ」という意味らしく、キリシタン弾圧の牢屋跡がある。
 K青年が「ここが、この島で一番大切なところですから」と、犠牲者の石碑が並ぶ前で、真剣な表情になって説明を始めた。

 1868(明治元年)、長崎・浦上で始まったキリシタン迫害は、翌年にはこの島にもおよび、6坪ほどの牢屋に信徒200人が8カ月の間押しこまれ、連日悲惨な拷問が行われて42人の殉教者が出た。
写真④ 最初の死者は、79歳のパウロ助市。圧迫死だった。牢内にはトイレもなく、13歳のドミニカたせは、わいたうじ虫に下腹をかまれて死んだ。牢内は立すいの余地もなく全員が立ったまますごしたが、全員が周辺に体を重ね合わせて中央部にわずかなすき間を作り、一人ずつが少しだけ睡眠をとることができた。
 昭和59年に、殉教を記念する聖堂(写真④)が建てられた。悲惨な殉教を忘れないため、聖堂中央部には6坪分の広さを示す灰色のじゅうたんが敷いてある。

 五島列島に隠れキリシタンが移り住んだのは、五島藩主から長崎県外海(現・長崎市)をおさめる大村藩主に開墾地拡大のための要員派遣の要請があったためだった。。
 キリシタン迫害の危険を感じていた彼らは、次々と五島列島に渡ってきた。1000人の要請に対し、やって来たのは3000人を越えた。

 「五島へ五島へと皆行きたがる 五島は優しや土地までも」とあこがれの地にやって来た人々に与えられたのは、やせた山間部や狭い砂浜だった。移住後、彼らは「五島は極楽 来てみりゃ地獄」と歌うようになった。。

 島の中心部から狭い山道を約30分、椿の林のなかで車を捨て、歩いてたどりついた五輪地区は、そんな狭い砂浜だった。かっては50世帯を越える信者が住んでいたこの地区も、今は数世帯8人が漁業を営んでいるだけ。

写真⑦写真⑥写真⑤ この浜辺に、国の重要文化財である旧五輪教会と隣接して現在の五輪教会が並んで建っている(写真⑤)。
 旧五輪教会(写真⑥)は、最初にふれたように浜脇地区から移築されたもの。窓が教会建築特有のポインテッド・アーチ(尖頭)型をしている以外は、まったくの和風建築。なかに入っても、窓に引き戸がつき、ステンドグラスはフイルムを挟んだ素朴な造りだが、リブ・ヴォートル天井の木目が浮かびだした美しさ(写真⑦)に見とれてしまう。

 五輪地区出身のカトリック教徒を父に持つ歌手・五輪真弓は、昭和61年に初めてここを訪れ、名曲「時の流れにー鳥になれ」を生み出したという。
  鳥になれ、おおらかな翼をひろげて。雲になれ、旅人のように自由になれ


写真⑧写真⑨写真⑩ 昼過ぎに福江港に戻り、定期船に乗り換えて奈留島に着いたのは、午後2時すぎ。「奈留教会」(写真⑧)を訪ねた後、タクシーで、世界遺産に暫定登録されている「江上教会」(写真⑨)に向かった。
 最盛期は60人を超えていた信徒も、現在では2人だけ。2軒目のお宅で、やっと教会のカギを借りることができた。
 廃校になり黄色い雑草で校庭が埋もれている小学校の隣の丘の上。木漏れ日になかに、木造ロマネスク様式の教会が立っていた。鉄川与助の作で、左右対称のシンプルな外観とクリーム色に塗られた外観、正面に書かれた「天主堂」の文字に、なにかなつかしい荘厳さを感じる。
 木目塗りの彫刻がほどかされた木の柱がアーチ状に天井に広がっていく造形(写真⑩)も見あきない。

 奈留島では、もう一つ「南越教会」を訪ねたかったが「個人の敷地を通らないでと言われているので・・・」と、タクシーの運転手さんに断られてしまった。福江島・堂崎教会では、「観光の車が多い」という付近の住民の反発で離れたところに駐車場ができ、上五島では、タクシーの運転手さんから「小学校のころ、カトリックの家の子はよくいじめられた」と聞いた。

 隠れキリシタンとその子孫は、100年以上たっても、まだ新参者らしい。

2009年2月 1日

読書日記「歳月」(茨木のり子著、花神社)

歳月
歳月
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茨木 のり子
花神社
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おすすめ度の平均: 5.0
5 温度の高い言葉
5 かつて若かった私達も
5 亡き夫への鎮魂譜

 なにかの書評で、この詩集のことを読んで気になっていたが、うまく見つけられずにいた。宮崎 駿監督が推奨していた、茨木のり子「詩のこころを読む」はこのブログにもちょっと書いたが、同じブログに書いた「詩と死をむすぶもの」 で、谷川俊太郎が絶賛しているのを見つけ、図書館に飛んでいった。

 谷川俊太郎はこの本のなかで、共著者の徳永進医師に、こう問いかけている。
 「茨木のり子さんの最新詩集『歳月』を読みましたか?夫の三浦さんが一九七五年五月に亡くなってから、三十一年にわたって茨木さんは四〇篇近い詩を書き溜め、それらを生前は筐底深く秘めていて出版されなかった、それが本になったんです。茨木さんの人間としての、女性としての最良の部分が言葉になったという印象です。詩とそれを書いた詩人とのあいだに、邪なものは何ひとつ存在しない。詩と詩人の幸せで誠実な一致。詩を基本的にフイクション、少々シニカルに言うと美辞麗句、巧言令色などと考えているぼくにとってはいい薬です」


 読み始めて、一篇ごとに、最近はあまり感じなくなった戦りつが何回も走った。
 この詩集を書評めいて書く力は、私にはない。著作権にふれるのだろうが、数篇をただここに書き写すことしかできない。

    一人のひと
ひとりの男(ひと)を通して
たくさんの異性に逢いました
男のやさしさも こわさも
弱々しさも 強さも
だめさ加減や ずるさも
育ててくれた厳しい先生も
かわいい幼児も
美しさも
信じられないポカでさえ
見せることもなく全部見せて下さいました
二十五年間
見ることもなく全部見てきました
なんと豊かなことだったでしょう
たくさんの男(ひと)を知りながら
ついに一人の異性にさえ逢えない女(ひと)も多いのに

    
ふわりとした重み
からだのあちらこちらに
刻されるあなたのしるし
ゆっくりと
新婚の日々より焦らずに
おだやかに
執拗に
わたしの全身を浸してくる

この世ならぬ充足感
のびのびとからだをひらいて
受け入れて
じぶんの声にふと目覚める

隣のベッドはからっぽなのに
あなたの気配はあまねく満ちて
音楽のようなものさえ鳴りいだす
余韻
夢ともうつつともしれず
からだに残ったものは
哀しいまでの清らかさ

やおら身を起し
数えれば 四十九日が明日という夜
あなたらしい挨拶でした
無言で
どうして受けとめずにいられましょう
愛されていることを
これが別れなのか
始まりなのかも
わからずに

   歳月
真実を見きわめるのに
二十五年という歳月は短かったでしょうか
九十歳のあなたを想定してみる
八十歳のわたしを想定してみる
どちらかがぼけて
どちらかが疲れはて
あるいは二人ともそうなって
わけもわからず憎みあっている姿が
ちらっとよぎる
あるいはまた
ふんわりとした翁と媼になって
もう行きましょう と
互いに首を絞めようとして
その力さえなく尻餅なんかついている姿
けれど
歳月だけではないでしょう
たった一日っきりの
稲妻のような真実を
抱きしめて生き抜いている人もいますもの




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