2010年3月 9日

紀行「長崎教会群」(2010年1月、2008年5月)その3・終


 1月7日。長崎市内を走る路面電車の「浜口町」駅を降りてすぐの丘の上にある「長崎原爆資料館」を訪ねた。長崎市に来たのは5回目だが、資料館に来るのは恥ずかしながら初めて。
 らせん状の通路を降り、地下2階の展示場に入ると、急に照明が暗くなった。右側の天井に原爆投下1カ月後の写真が浮かびあがり、正面に被爆でほぼ崩壊した浦上天主堂側壁が浮かびあがった。10分ごとに照明を落とし、写真を投影する仕掛けになっているようだ。

 昨秋、このブログで「ナガサキ 消えたもう一つの『原爆ドーム』」という本について書いた際、残った天主堂が保存されずに取り壊わされたのを残念に思った。
それだけに、浮かび上がった側壁を見て「しっかり保存されているじゃないか」と勘違いしてしまったが・・・。実は、煉瓦やウレタン樹脂を使って実物大に模した"再現造形"と呼ばれるものだった。

展示説明画像:クリックすると大きな写真になります  近くの原爆落下中心地には、天主堂の側壁の一部が移築されていると聞いていた。この"再現造形"との位置関係が分からない。
帰宅してから資料館に電話、研究員の方から見落としていた展示説明画像 を次のようなメールで送ってもらった。再現された側壁の前にあるディスプレーに表示してあったのを、見落としていたのだ。

 先ほど、お電話いただきました、長崎原爆資料館の奥野と申します。

添付いたしました画像は、当館展示解説文の写真です。画像の右下にある写真に、当館の再現造型と移設した遺壁の位置関係を示しております。

当館の再現造型は、写真等からサイズを割り出しておりますので、原寸大に近いものとなっております。

よろしくお願いいたします。

長崎原爆資料館
被爆継承課
担当:奥野
tel:095-844-3913
fax:095-846-5170


 資料館でもらったパンフレットに、被爆建造物マップが載っていた。浦上教会関係では鐘楼ドームや当時の石垣が残っていることになっている。昨年5月、五島列島の帰りに浦上教会を訪ねた時にはうかつにも気付かなかった。

 資料館から教会までは歩いて10分もかからない。教会の臨む左側の川沿いに、確かに黒く焼け焦げた鐘楼の一部が保存されていた。直径5・5メートル、重さ30トンもあったものが、35メートルも吹き飛ばされたのだ。

 丘の上の教会に向かって、かなり急な坂を登っていくと、正面手前に被爆した聖ヨゼフやマリア像や天使像、獅子の頭などが残されており、千羽鶴などが絶えない。

 聖堂は1959年(昭和34年)に鉄筋コンクリート造りで再建されたが、1980年(同55年)に翌年の前・ローマ教皇、ヨハネ・パウロ2世が訪日されたのにあわせて、外壁に煉瓦を張り、内部も窓をすべてステンドグラスにし、天井も"リブ・ヴォートル風"に張り替えられた。交替で当番をしておられる信者の方によると「五島列島の教会のような、ちゃんとしたリブ・ヴォートル天井ではない」そうだが、司教座聖堂にふさわしい荘厳で堂々とした雰囲気だ。

 聖堂右の通路を入ってすぐのところにある「被爆マリア像小聖堂」を昨年に続いて訪ねた。
 入口には旧天主堂の被爆遺構をステンドグラスにしたものが組み込まれ、内部左側の壁面に張られた6枚の銅製銘板には、原爆で亡くなった信者の名前がびっしりと刻みこまれている。一緒に教会巡りをした一人・Yさんの祖父や叔父なども亡くなっており、名前を見つけようとしたが、暗くて分からなかった。約1万2000人の信徒のうち約8500もの人が犠牲になったのだ。

 被爆のマリア像は正面祭壇の中央に安置されている。
 被爆後の瓦礫のなかから、一人の神父が探し出して北海道に持ち帰ったが、長い年月の末に浦上教会に戻ってきた。
 木製で、右ほおが焼け焦げ、両目は焼けてくぼんでいるが、じっと上を見つめる頭部だけの像は胸に迫るものがある。
 このマリア像は4月にカトリック長崎大司教区が主催する平和巡礼団とともにスペイン内戦で無差別爆撃を受けたゲルニカ市などスペイン、イタリアの13都市を訪ねる。

 これだけ多くの多くの被爆遺産が残っておれば、被爆の歴史を継承していくのには十分だと考えるのか。広島の原爆ドーム が世界遺産になっているのを考えると、被爆天主堂を残さなかったのはやはり残念だったとみるのか・・・。戦後の歴史が刻んだ事実をこれからも見つめていくしかなさそうだ。

 教会横の敷地では、ちょうど司祭館の新築工事が進んでいた。

 浦上教会の坂を下り途中で右折した住宅地のなかに、故永井隆博士が亡くなるまで住んだ「如己堂」と市立永井隆記念館がある。

 永井博士は、戦後発の大ベストセラーとなった「長崎の鐘」で有名だが、現在でも博士を巡る論争が続いているのは「長崎の鐘」に書かれ、廃墟の浦上教会での原爆合同葬でも博士が述べた「神の恩寵によって、浦上に原爆が投下された」という言葉を巡ってだった。

 同じカトリック信者で作家の井上ひさしは、著書「ベストセラーの戦後史 1」 で「これが本当なら、長崎市以外で命を落とした人びとは・・犬死ということになる」と批判、「この著者の思想をGHQは『これは利用できる』と踏んだにちがいない」と述べている。

 この論争は、永井博士生誕100年の2008年にも、新聞などで再燃している。
 白血病で病床にいる博士を昭和天皇やヘレン・ケラー、ローマ教皇特使が見舞い、吉田茂首相が表彰状を贈るなど"浦上の聖者"が"日本聖者"になっていった経緯は、いささか普通でないようにも見える。やはり戦後歴史の一つとして見つめ続けられていくのだろう。  1昨年の5月と昨年1月には、このほか国宝の大浦天主堂日本二十六聖人殉教地、聖トマス西と十五殉教者に捧げられた「中町教会」、長崎港を見下ろす丘の上に建つ神の島教会、それに聖コルベ記念館サント・ドミンゴ教会跡資料館を訪ねた。

その前にある長崎歴史文化博物館では、開催されていた「バチカンの名宝とキリシタン文化展」を鑑賞する幸運にも恵まれた。

様々な思いを心に刻み込まれた3年間の「長崎教会群巡り」だった。

浦上教会下の川辺に保存されている鐘楼跡:クリックすると大きな写真になります黒こげになった聖ヨゼフ像などが残されている浦上教会正面:クリックすると大きな写真になります浦上の人たちが博士に贈った「如己堂」:クリックすると大きな写真になります国宝の大浦天主堂:クリックすると大きな写真になります
浦上教会下の川辺に保存されている鐘楼跡黒こげになった聖ヨゼフ像などが残されている浦上教会正面浦上の人たちが博士に贈った「如己堂」。たった2畳1間。前の道路を通る観光バスも、ガイドの説明を聞いただけで素通りしていく国宝の大浦天主堂。聖灯が消え、入口で入場料を取る天主堂からは、聖堂の荘厳さは消えている。正面反対側に新しい大浦教会がある。
日本二十六聖人殉教地:クリックすると大きな写真になります中町教会:クリックすると大きな写真になります神の島教会聖コルベ記念館の内部:クリックすると大きな写真になります
日本二十六聖人殉教地。ちょうど、フイリッピンからの巡礼団が記念撮影中中町教会。原爆で崩壊したが、その外壁と尖塔をそのまま生かして再建された急な階段を登って、行きつく神の島教会。俳優の故・上原謙が、この風景を見て、結婚式を挙げたとか聖コルベ記念館の内部。日本で殿堂後、帰国してアウシュビッツ収容所で他の囚人に代わって餓死刑を受け、後に聖人に列せられた。壁画は、それを描いたもの


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2010年2月22日

紀行日記「長崎教会群」(2010年1月、2008年5月)、その2


 1月6日の午後。長崎駅前のバスターミナルで、隠れキリシタンのふる里、旧外海(そとみ)町(現在は長崎市)行きのバスを待った。

 1昨年の5月に、同じように外海方面行きのバス停を訪ねた若い主婦に「遠いですよ・・・」と言われたのを思い出した。前日よりぐっと冷え込み、寒風がこたえる。やっと来た長崎バスで桜の里バスターミナルまで約1時間、さいかい交通バスに乗り換え、約30分で大野のバス停に着いた。
世界遺産に暫定登録されている「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」のリストにも挙げられている国指定の重要文化財「大野教会」は、長崎市の中心からはかなり遠い。1昨年行きそびれたので、2年越しの再挑戦である。

 早くも水仙の花が所々に咲いている狭い農道を10数分登った山あいに、なんとも素朴な石造りの教会が建っていた。
 この教会は、外海地区の主任司祭として大きな足跡を残したフランス人マルク・マリ・ド・ロ神父 が、隣の出津教会に来られなくなったお年寄りのために明治26年に建設した小規模な巡回教会。地元で産出される玄武岩を砂と石灰、水を混ぜた赤土で積み上げた「ド・ロ壁」という独特の工法で建てられている。
 木の雨戸の上に赤煉瓦で縁取りされた半円形をした木組みの窓があり、和瓦の屋根の頂上と軒先の白い漆喰梁に描かれた小さな赤い十字架があざやかだ。

 正面の防風壁に守られている玄関から中をのぞくと、柱が一つもなく、簡素な造りの机が並んでいるだけ。がっしりとした「ド・ロ壁」が角力灘からの強風を防いでくれるのだろう。振り向くと、青く広がる角力灘(すもうなだ)越しに、この外海から迫害をのがれてキリシタンたちが移住していった五島列島が臨める。

 2006年には大修理が行われたという。周りの風土にすっかり溶け込んだ教会を後世に伝えたいという地元信徒たちの思いが伝わってくる。

 1昨年の5月には、同じバスのルートで大野教会の手前の出津教会をまず訪ねた。

 明治12年に赴任したド・ロ神父が明治15年、最初に建設した教会。明治24年に祭壇部、同42年に玄関部が増築されており、バス停から坂を下った窪地にあるが、煉瓦造りの建物を白い漆喰で包み、2つの尖塔と、正面左に別棟の鐘楼を持つ堂々とした、たたずまいだ。それでいて屋根までが非常に低い。外海の強風を考慮した設計だという。

 教会では、老夫婦のご主人の洗礼式が終わったところだった。翌日には、すでにカトリック信者である奥さんとの結婚式が改めて行われる、という。この地域にはいまだにおられる隠れキリシタンの"改宗"ではなかったのか、と今になって思う。

 ド・ロ神父は、貧しさにあえいでいたこの地区の人たちを助けるために、パンやそうめん(スパゲツティ)の作り方を教え、孤児院まで作った。夫を亡くした女性たちの生活を守るために神父が設計した鰯網工場跡は「ド・ロ神父記念館」になっている。入口を入ったところでシスターの橋口ロハセさんがオルガンで聖歌「いつくしみふかき」を弾いておられた。ド・ロ神父がフランスから取り寄せたものを、8年前に修理したのだ。

 国の重要文化財「旧出津救助院」は、2012までかかる大修理中で、工事用の壁に囲まれていた。授産場と「ド・ロ壁」に囲まれたそうめん工場が再現されるという。

 1時間に1本しかない長崎駅行きのバスで30分ほどの「道の駅 夕陽が丘そとめ」で降りる。長崎屈指といわれる夕陽を待っているライダーたちであふれていた。

 2,3分、海のほうに歩くと「遠藤周作文学館」 がある。まず遅めの昼食をと、付属のレストランで「ド・ロ様そうめん」を食べた。落花生油が練り込んであるとかで、もっちりしていてなかなかの味だった。

 文学館は、遠藤周作が愛用した書斎コーナーが再現されており、遺品や生原稿などで遠藤文学のすべてを閲覧できる。2方が天井までのガラス張りになっている「聴涛の間」からは、碧く広がる角力灘(すもうなだ)が見渡せる。壁に書家・近藤攝南が書いた額がかかっていた。
      
       物語は終わり 今は黄昏
       私は川原に腰をおろし
       膝をかかえ 黙々と
       流れる水を 永遠の
       生命のように凝視している


 遠藤周作作「男の一生」の1節だ。
 近藤攝南さんは昨春亡くなられたが、新聞社に勤めていたころに何度かお顔を拝見したことがある。遠藤周作は、近藤さんを父親のように慕っていたという。

 外海は、遠藤周作の代表作「沈黙」の舞台でもある。この本で「トモギ村」と書かれているのは、この後訪ねる黒崎の地がモデルらしい。

 出津教会の近く、文学館を臨む丘の上に「沈黙の碑」があった。
       
      人間が
      こんなに
      哀しいのに
      主よ
      海があまりに
      碧いのです
             遠藤周作


 1時間後のバスで20分ほど戻ったところが、黒崎のバス停。すぐわきの急な階段を登ったところに煉瓦造りの「黒崎教会」があった。

 やはりド・ロ神父の指導で明治30年から信徒が総がかりで敷地を整備、煉瓦を1つ、1つ積み上げて23年もかけて完成させた。内部はリブ・ヴォートル天井を持つ、ゴシック調の重厚な雰囲気。教会横の鐘楼は、この地区に多く住む隠れキリシタンの"教会復帰"を願って建てられたという。

 教会から15分ほど登ったところに、日本には3社しかないというキリシタン神社「枯松神社」 があり、毎年秋の祭りには、キリシタンの祈り「オラショ」が奉納される。日本にキリスト教が伝わって約470年、江戸時代に始まったキリシタン弾圧から約210年。その歴史を刻んできた神社である。

 世界遺産に暫定登録されている「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」に、なぜこの神社は入らないのだろうか。弾圧時代のキリシタンはキリスト信者でなかった、というのだろうか・・・。 ふと、そんな疑問がわいてきた。

「ド・ロ壁」で囲まれた大野教会:クリックすると大きな写真になります波静かな角力灘(すもうなだ)。:クリックすると大きな写真になります堂々としたたたずまいの出津教会:クリックすると大きな写真になります「ド・ロ神父記念館」でオルガンを弾くシスター:クリックすると大きな写真になります
「ド・ロ壁」で囲まれた大野教会波静かな角力灘(すもうなだ)。見えているのは、五島列島ではない。堂々としたたたずまいの出津教会"「ド・ロ神父記念館」でオルガンを弾くシスター。90歳前後らしい
「遠藤周作文学館」を臨む丘にある「沈黙の碑」:クリックすると大きな写真になります黒崎教会の内部。リブ・ヴォートル天井が広がりを見せている:クリックすると大きな写真になります煉瓦造りの黒崎教会:クリックすると大きな写真になります
「遠藤周作文学館」を臨む丘にある「沈黙の碑」黒崎教会の内部。リブ・ヴォートル天井が広がりを見せている煉瓦造りの黒崎教会

2010年2月15日

紀行日記「長崎教会群」(2010年1月、2008年5月)、その1


 1昨年から友人Mらと始めた「長崎教会群」巡りは、この正月で3年目。
 「遠藤周作と歩く『長崎巡礼』」(遠藤周作 芸術新潮編集部編)という本にひかれ、1昨年5月に長崎・旧外海町や島原、平戸、などの教会群を歩き、昨年正月には五島列島の教会を巡ったから、これで世界遺産に暫定登録されている「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」のほとんどを訪ねる幸運に恵まれた。

 昨年1月の五島列島への紀行は、このブログ゙で3回に分けて書いたので、今回は1昨年の分も合わせて記録してみたい。

 3が日明け、4日早朝の全日空便で福岡に入り、一度は行ってみたいと思っていた大宰府の九州国立博物館で、アジアとの交流に焦点を絞った独自の常設展示を満喫した。ここと、前原市の「伊都国歴史博物館」、佐賀の「国営吉野ケ里歴史公園」を巡る「トライアングル構想」に挑戦する計画もしたのだが、勉強不足のうえ時間もなく、またの機会に。

翌日、朝の「特急みどり」で佐世保へ。タクシーに飛び乗り、相浦桟橋、午前11:00発の黒島行きフェリーになんとか間に合った。空気は冷たいが、波は静かな50分の航行。「隠れキリシタン」の島と知られるこの島の名前は「クルス」(ポルトガル語で十字架)がなまってつけられた、という説もあるそうだ。
港には、カトリック信者の観光ガイド゙「鶴崎商店」のご主人が迎えに来てくれていた。鶴崎さんの軽トラックに乗せてもらい20分弱で、島の中央部の丘にある国指定の重要文化財「黒島天主堂」に着いた。

 フランス人マルマン神父の設計と指導で明治35年に完成したレンガ゙造りのロマネクス様式で、国宝の大浦天主堂(長崎市)と並ぶ3層構造の先駆的な建築物。使われたレンガ゙はほとんど外から持ち込まれたが、一部は島の人たちが自ら焼いたもの。黒っぽいのがそれだという。昨年訪ねた五島列島・福江島の「楠原教会」と同じイギリス積みで積まれているのが分かる。大きなレンガと小さなレンガを交互に重ねて、強度を増すやり方だ。

 内部は、間伐材を組み合わせた16本の柱が並び林のような雰囲気。五島列島でおなじみのリブ・ヴォールト天井と呼ばれるアーチ状のはりが走っている。天井板は「くし目挽き」と呼ばれ、島民が細かく木目を手描きしただという。内陣には、有田焼の青いタイルが張られ、聖人像は中国・上海製、フランスから運んだ鐘と、信仰の自由を得た島民たちの意気込みが伝わってくる。

 しかし、島の過疎化は進んでおり、昭和30年に2500人だった人口は約600人に減り、小学生が24人、中学生は19人しかいない。多くの農地は荒れ放題でのびてきた竹に占拠されようとしている。五島列島の福江島で見たのと同じ風景だ。残された遺産を生かして、生活基盤を再構築する方法はないのかと思う。

 鶴崎商店で作ってもらった、タイのさしみやアラ炊き、島特産の豆腐という盛沢山な昼食と熱燗で体を温め、午後2:30のフェリーに飛び乗った。お土産に、長崎名産の「かんころ餅」をもらった。まだ温かい。サツマイモの素朴な味だった。

佐世保駅前発のバスの出発まで1時間しかない。相浦桟橋に1台だけ待っていたタクシーで、浅子教会へ急ぐ。山道を抜けて20数分。西海国立公園九十九島を望む入り江に面して三角形の尖塔が目立つ小さな木造の教会が建っていた。

 正面のアルミサッシのドアは閉まっている。裏に回って、神父さんが出入りする内陣側のドアが開いていたので、入らせてもらった。外壁と同じ空色で塗られた柱と天井が素朴な造り。しかし、柱頭飾りはイオニア風、天井へと続く柱の上部には十字架を思わせる四つ葉のクローバーの彫刻があるなど、工夫をこらした意匠だ。

 この教会は、クリスマスのイルミネーションで有名らしい。教会だけでなく、周りの信徒の家も毎年、違うイルミネーションを競い、教会の前の広場に屋台が並び、観光客でにぎわう。隠れキリシタン子孫の熱気が伝わってきそうだ。

 佐世保駅前にそびえるゴシック構造の三浦町教会は時間がなく、1昨年に続いて見そこなった。

 1昨年の5月にも佐世保に入ったが、そのまま民活鉄道の松浦鉄道で日本最西端の駅「たびる平戸口駅」からバスで平戸の島に入ってしまったからだ。

 平戸最古の宝亀教会は、木造瓦葺だが、正面は白い漆喰で縁取られた煉瓦造り。そのコントラストがおもしろかったし、教会の側壁にそった回廊もユニークだった。
寺院に囲まれて尖塔がのぞく聖フランシスコ・ザビエル記念教会 は時間がなく、写真だけ撮った。教会が建った後、キリシタン優遇方針を換えた平戸藩主が、教会を隠すように寺院を建てさせたという。捕鯨や隠れキリシタンの歴史を展示する平戸市生月島博物館「島の館」 も、宿から見た西海の夕日と並んで豊潤な旅の立役者になってくれた。

本土・田平に戻って訪ねた国重文指定「田平教会」は、五島列島での旅でおなじみの鉄川与助の最後の作品。内部のリブ・ヴォールト天井、コリント風の柱頭飾りは与助の自信にあふれているように見える。すべて新約聖書からテーマが選ばれたステンドグラスは、なんとも現代的なデザイン。聞けば、1998年、イタリア・ミラノの工房製だという。なんと、100年近くをかけて、この教会は新しくなり続けてきたのだ。

ロマネクス様式の黒島教会:クリックすると大きな写真になりますイギリス積みの煉瓦。黒いのが地元製:クリックすると大きな写真になります三角形正面が特色の浅子教会:クリックすると大きな写真になります 日本最西端の駅「たびる平戸口駅」の看板
ロマネクス様式の黒島教会イギリス積みの煉瓦。黒いのが地元製三角形正面が特色の浅子教会日本最西端の駅「たびる平戸口駅」の看板
白い漆喰のコントラストが目立つ宝亀教会:クリックすると大きな写真になります意匠をこらせた宝亀教会の内部:クリックすると大きな写真になります寺院に囲まれた聖フランシスコ・ザビエル教会:クリックすると大きな写真になります完成されたたたずまいの国重文・田平教会:クリックすると大きな写真になります
白い漆喰のコントラストが目立つ宝亀教会意匠をこらせた宝亀教会の内部寺院に囲まれた聖フランシスコ・ザビエル教会完成されたたたずまいの国重文・田平教会


遠藤周作と歩く「長崎巡礼」 (とんぼの本)
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5 やはり遠藤周作の沈黙の世界である
4 迫害されたキリスト教徒

2009年11月 2日

紀行「没後10年(於・軽井沢高原文庫) &読書日記「背教者ユリアヌス 上、中、下」

紀行「没後10年 辻 邦生展 豊饒なロマンの世界」(於・軽井沢高原文庫、2009・1011)  
読書日記「背教者ユリアヌス 上、中、下」(辻 邦生著、中公文庫)



背教者ユリアヌス (上) (中公文庫)
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5 序章から魅了されること間違いなし
5 ひたむきに生きる糧となる小説
5 堂々たる諧謔
5 文学と芸術と美学の融合
5 芸術としての文学


「辻 邦生展」のパンフレット:クリックすると大きな写真になります 軽井沢・塩沢湖畔で、辻 邦生の「没後10年展」をやっているという記事をみつけ、どうしても行きたくなった。

 小さな森に囲まれた高原文庫の2階には、作品の原稿や創作ノート、写真、手紙のほか、書斎の一部が再現されており、熱心なファンがじっとのぞきこんで動かない。作品の一部を抜粋したパネルもある。「モンマルトル日記」(集英社文庫)の一節に引き込まれた。

 今は、はっきりいって、傑作の森のために精魂をかたむける以外にどんな生きようもない。あらゆることをこの中に埋没しよう。欲望も名声も傲慢も不遜も甘えも弱気も何もなく、・・・。小説について考えぬき、いまは、生の広い意味の快適さのための物語芸術を、その「面白さ・たのしさ」と「甘美な詩」を湛えた容器として、差し出す以外は、いったいどんな生があるのか。


 パリ滞在中に大作「背教者ユリアヌス」の連載を始めた著者は、同時に「天草の雅歌」第二部と「嵯峨野明月記」第二部の連載も始めた、という。

 高原文庫1階のコーナーで「言葉の箱 小説を書くということ」(中公文庫)を買った。辻 邦生はこう書いている。

 「ピアニストがピアノを弾くように」といつも言うんですけれども、・・・いちばん大事なことは、やはり胸のなかに書くことがいっぱいあることです。・・・そのために絶えず書く。・・・たった一回きりの人生をひたすら生きている。これは書く喜びで生きているのだから、だれにも文句は言わせない。


 生きる喜び、死ぬことの意味を考え続けた辻 邦生の気迫に圧倒される。こんな小説家の作品を読めることを幸せに思う。

  同じ辻 邦生ファンである友人Mに「没後10年展に行こうと思う」とメールしたら「最近『背教者ユリアヌス』を読み返した。帰ってきたら、議論したい」という返信があった。
  あわてて、本棚の色あせた文庫本3冊を抜き出した。昭和49年の発行。活字が小さい!老眼鏡を強いのに換えた。

 ユリアヌスは、ローマ帝国の皇帝として生きた「フラウイス・クラウディウス・ユリアヌス」という実在の人物である。かってローマ帝国を支えた古代ギリシャの信仰の復活を願い、キリスト教への優遇を改めたため、後の世の人から「背教者」と呼ばれるようになった皇帝の波乱の生涯を、辻 邦生はとうとうとした一大叙事文学に仕立てあげた。

 この小説で一番好きなのは、出だしと最後の数節だ。

 出だしは、こう始まる。
 濃い霧が海から匍いあがっていた。
 もちろん海も見えなければ、陸も見えなかった。ただ夜明け前の風に送られて、足早に動いている白い団塊が、どことはっきり定めがたい空間を、ひたすら流れつづけている感じがあるだけだった。


夫人の辻 佐保子さんは、著書「『たえず書く人』辻邦生と暮らして」のなかで「雲間や渦巻く霧に見え隠れしながら市街がしだいに現れ出る忘れ難い光景は(旅の途中で霧のたちこめるイスタンブールの空港に着陸したという)偶然の賜物が無ければ誕生しなかったことだろう」と書いている。

 しかし、霧の軽井沢ともいわれる霧の多い土地に建てられた別荘の窓から著者がいつも見ていた風景が、コンスタンティノーブル(現在のイスタンブル)の城さいから見る記述に重なっていった、ということはないのだろうか。
塩沢湖畔の軽井沢高原文庫:クリックすると大きな写真になります  辻佐保子著「辻 邦生のために」(新潮社)には、磯崎新が設計し、辻 邦生が住んだ別荘について、こんな記述がある。
 コンコルドと呼んでいた三つの階段が合流する中間のスペースを経て、・・・。一定のモデュールによる立方体の結合からなる主要な構造の他にも、寝室の先端には三角形が、南のテラスには大きな雨戸を移動させるための円弧の台が加わって、この魔術的な空間は、私たちの身体感覚を日々豊かに養ってくれた。


 ユリアヌスがプラトンを愛し、ギリシャの神々に引かれていく記述に迫力があるのは、著者・辻 邦生が「啓示」と呼ぶ体験をギリシャでしたせいかもしれない。
 アテネの町に入ったときに、パルテノンの神殿がアクロポリスの丘の上に建っていて、それを下から見た瞬間に、Revelation(啓示)の光、ある不思議な光が神殿からぼくの胸を貫いていった。(言葉の箱から)


 反対に「ユリアヌスが本当は背教者ではなかった」と思えるような記述を著者はいくつかしている。
 「彼(ユリアヌス)が(キリスト教の)洗礼に踏み切ったのは、・・・ぼろをまとい、裸足で町々を歩き回って喜捨を集める人々、教会の前に集まる貧者や病者に対し、温かい汁をつくり、パンを分けてやる修道僧たちの姿を、日々、・・・眺めていたからである。


 辻 邦生がユリアヌスを通して描きたかったのは、権力と結びついて「露骨に勢力の拡張を図る」キリスト教関係者への嫌悪感であったことが、文中のそこかしこでうかがえる。

 作品「背教者ユリアヌス」は、砂嵐のなかを進むユリアヌスの葬列の描写で終わる。
 三六三年七月、ローマ軍団は皇帝ユリアヌスの遺骸を皇帝旗に包み、香料と腐敗止めを詰めて、メソポタミアの砂漠を北に向かって歩きつづけた。激し風が東から西に砂を巻き上げて吹き、終日、空の奥で音が鳴りつづけた。
  ・・・・
 すでに夕映えは消えていた。・・・砂はまるで生物のように動いて、兵隊たちの踏んでいった足跡の乱れを、濃くなる闇のなかで、消しつづけていた。


   参照:このブログでこれまで書いた著者関連の記事。
「西行花伝」(2008年4月24日)
辻 佐保子著「『たえず書く人』辻邦生と暮らして」(2008年8月9日)

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5 邦生と佐保子の物語
4 辻邦生との生の日々を夫人が語る


2009年10月19日

読書日記「ナガサキ 消えたもう一つの『原爆ドーム』」(高瀬毅著、平凡社)、そして「信州・無言館」



ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」
高瀬 毅
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5 ナガサキの「苦悩」は、長崎だけのものではない
5 ミステリーを読むように一気に読めます
5 日本人として知っておくべき事実
5 アメリカはどうしても...


 数か月前だっただろうか。ふと手にした週刊誌のグラビア欄に、戦後すぐに撮られたらしい長崎・浦上天主堂の廃墟の写真が載っていた。

 今年の初めに浦上天主堂を訪ねたが、正面に首が取れたり、黒こげになった聖人像やレンガ壁の一部が残されている。教会内には焼けただれた「マリア像」も保管されており、爆心地から500メートルしか離れていなかった教会が壊滅状態になったことが分かる。しかし、廃墟になった天主堂は、現在の敷地内には残っていない。

再建された浦上天主堂:クリックすると大きな写真になります  長崎原爆資料館ホームページ廃墟となった天主堂の写真が載っているが、週刊誌には同じアングルの廃墟の前で縄跳びをして遊ぶ少女たちや、よじ登ってハンマーで廃墟を打ち砕く人たちの姿が掲載されていた。

 なぜ、被爆した天主堂は消えてしまったのか。その疑問に挑戦したのが、この本である。

 著者は、長崎生まれの元放送記者。長崎の放送局が制作したテレビ番組を見て「天主堂の廃墟が残っていたら、・・・原爆について考える大きなきっかけを与えるものになったに違いない」「広島に原爆ドームがあるのに、どうして長崎に浦上天主堂の廃墟は残っていないのか」という問いを膨らませていく。そして、地元取材だけでなく、アメリカの国立公文書館などで調査を続ける。

 この本を一挙に読んだ感じでは、著者はこの疑問への明確な答えは得られなかったようだ。しかし、いくつかの事実に突き当たる。

 1つは、当時の田川長崎市長が、当初は天主堂の保存を公言し、市長の諮問機関も保存の答申をしていたのに「心がわり」し、市議会で「浦上天主堂の残骸が、・・・原爆の悲惨を物語る資料として適切にあらず」と答弁、廃墟の取り壊しに賛成に転じたこと。

 もう1つは、教会を司る当時の山口司教が廃墟の保存を望まなかったらしいという事実だ。

 この2つの事実の裏には、原爆の遺産保存を望まないアメリカの周到なソフト戦略があると、著者は見る。

 田川市長がまだ天主堂廃墟の保存に前向きだった1955年(昭和30年)、アメリカ・セントポール市から突然、長崎市に姉妹都市提携の話しが持ち込まれた。日本では初めての唐突な"縁組"申し込みだった。
 翌年、田川市長は渡米、セントポール市だけでなく、シカゴ、ニューヨーク、ワシントン、ニューオルリンズ、サンフランシスコ、ハワイまで回り、国務省関係者などの歓迎を受ける。「米国から帰国した田川市長は、渡米前とは明らかに態度がかわっていく」
 1958年の臨時議会で、市長はこう答弁する。「浦上天主堂の残骸が原爆の悲惨を物語る資料として・・・適切にあらず・・・」

 同じころ、カトリック教会長崎司教区の代表である山口司教も、教会再建の資金集めのために10か月にわたって米国各地を訪問している。
 著者は、現地の新聞紙上での山口司教の発言や教会関係者への取材から、廃墟を撤去することが、アメリカ側の資金提供の条件であったらしいことを浮かび上がらせていく。

 教会が浦上という土地に教会を再建したいと願ったもう一つの理由にも、著者は言及している。浦上四番崩れに見られるように「何代にもわたった弾圧に耐え抜いた浦上の信徒にとって(原爆という)現在の『絵踏み』が行われた忌まわしい場所の上に天主堂を建てることは、部外者にはうかがいしれない重みがあるのかもしれなかった」

 西日本新聞にこんな記事が載っている。「五八年春、廃墟の天主堂は姿を消した。逆に広島はその二年後、急性白血病で亡くなった被爆少女の手記をきっかけに原爆ドームの保存運動がスタートする」(2003/08/03朝刊)。

  無言館:クリックすると大きな写真になります 先週、信州に"小さな秋"を見つけに出かけ、ある「鎮魂ドーム」を訪ねる機会があった。上田市にある「無言館」だ。

「無言館」の内部:クリックすると大きな写真になります  この美術館は、先の大戦で戦死した画学生を慰霊するため、近くで「信濃デッサン館」を開設している窪島誠一郎氏 が、東京芸術大学の野見山暁治・名誉教授と協力して集めた戦没画学生の遺作を展示している。

 コンクリート打ちっぱなしの建物のドアを押すと、薄暗いなかに画学生が残した作品が次々に浮かび上がってくる。「生きたい」「生きたかった」という叫びが聞こえてくるような、異常に静かな空間だ。

 家族や恋人、自宅近くの風景画が多い。横に短い文章が添えられている。没年、22歳、27歳、33歳・・・、フイリッピン・ルソン島、中支、沖縄・・・。あまりに若く、あまりに遠い無念の死だ。

 「無言館」にある絵の一枚 「あと5分、あと十分、この絵を描きつづけたい。・・・生きて帰ってきたら必ずこの絵の続きを描くから・・・安典はモデルをつとめてくれた恋人にそういいのこして戦地に発った」

「無言館」にある絵のもう一枚
「『ばあやん、わしもいつかは戦争にゆかねばならん。そしたら、こうしてばあやんの絵も描けなくなる』」
「きよしがつぶやくようにいうと『なつ』はうっすらと涙をうかべただけで何もいわなかった」  

無言館第2展示館:クリックすると大きな写真になります「第2展示館』の前にあるモニュメント:クリックすると大きな写真になります 平成8年に開館した「無言館」の近くに、最近「第2展示館」も完成した。

 「屏風絵 茄子」(小野春男)という日本画に引かれた。
 「先生の絵の茜色は亡き息子さんの鎮魂の色ですか」「父竹喬(文化勲章を受章した日本画家・故小野竹喬)はなにも答えなかった」

 ※参照:「生誕120年 小野竹喬展」

2009年10月 3日

北京紀行「書店巡り、そして国慶節前夜」


 北京の街をのぞいてきた。

  実質2日半という短い日程だったので、北京に6つある世界遺産のいくつかを見られれば、というぐらいの気楽な気持ちで出かけたが、なかなか・・・の旅でした。

 ホテルでチェックインをすませた午後2時半。さっそく近くの地下鉄・建国門駅から1号線で2駅目の王府井駅で降り(地下鉄は一律2元=約26円)、出版社の「商務印書館」を目指した。北京最大の繁華街・王府井大街を北に向かって歩く。

 路の一部は歩行者天国となっている。日曜日とあって大変なにぎわい。おのぼりさんのように、左右をキョロキョロ見ながら10数分。あった、あった、路の向かい側に。現地の人のまねをして、自動車やバスを避けながら路を横切った。この出版社の1階に小売部があるのだ。
 この出版社が出している「现在汉语实词搭配词典」という中国語の辞書を買うのも、今回の目的の1つ。週に1回通っている神戸の中国語教室の先生に勧められた本で、動詞や形容詞などの正確な配列を調べられる。

 私の実力ではちょっと手に余るのだが、たった30元(約400円)の小型の辞書なので、教室の同級生である中国語の使い手たちへのみやげになるかとも考えた。
 ところが出版元というのに、店員の答えは「没有(ありません)」。しかたなく「日语常用词搭配词典」(日本常用語配列辞典)というのを46元(約605円)で衝動買いした。この本、なんとほこりだらけ。レジの横にほこりを取る台みたいなものでぬぐい、袋のも入れないで渡された。店頭に並べられた写真集をパラパラめくってみたが、やはり黄砂らしい砂ぼこりが指先につく。ホテルの窓から見たどんよりした空の犯人はこれか、と気付いた。

 バス(1元=約13円)で地下鉄・王府井駅に戻り、西へ3つ目の西単駅で降りる。この駅の真上に中国語教室の先生に教えてもらった北京最大の書店、北京図書大厦がある。その広さ、混みよう、日本の「ジュンク堂」も顔負けだ。買い物客はスーパーにあるような台車付きのワゴンに本をいっぱい詰め込んでレジに並んでいる。
 辞書コーナーは、8階建てのビルの3階。店員も多く、担当も細かく分かれているようだ。やって来たちょっとやくざっぽいお兄ちゃんに頼むと、書棚をひとわたり眼で追って「没有」。たった一言を残して、さっさと消えてしまった。いささか、あ然!

 ホテルのフロントに相談することにした。翌日、フロントにいた「高」という名札を付けた若い女性に事情を話すと、さっそく中国最大の検索エンジン「百度」で調べてくれた。確かにこの本は写真付きで載っている。その下に書店のリストが記載されている。なんと高さんは、2日にわたって18の書店に電話してくれたが、いずれも「没有」。

 「インタネットで購入してみてもいいですか」と、高さん。「ぜひお願いします。できれば5冊ほしいのですが・・・」。
 日本に帰る朝、上司であるフロントの男性の携帯電話に非番らしい高さんからメールが入った。「出版元から今、連絡がありました。この本は現在、廃番だそうです」。

 「お世話をかけました、ありがとう高さん」。名刺の裏につたない中国語で感謝の言葉を書き、上司の男性に託した。

 10月1日の建国60周年を祝う国慶節パレードも終わったが、北京を訪ねた9月末の街は、厳しい警戒ムードと国慶節の準備を急ぐ華やいだ雰囲気が交錯していた。

 繁華街の王府井大街でさえ、パトカーなどの警察車が何台も止まり、武装警察官が機関銃めいた銃を持って警戒、警察犬を連れた警官が常時、パトロールしている。中国の公安組織がよく理解できないが制服も様々で、人民軍兵士も警戒に参加しているらしい。

 一方、世界一広いといわれる天安門広場には、国慶節のパレード用なのだろう、幅50メートル、高さ8メートルという長大なLEDスクリーンがデンと据えられ、広場の両側には、赤と金色で彩った巨大な柱が計56本、並べられている。柱には、漢民族と55の少数民族を示すイラストが描かれている。  建国50周年の時と比較にならない異常な警戒体制は、最近頻発したチベットや新疆ウイグル自治区で起こった騒動を意識したものだろうし、56本の柱は、他民族国家・中国の民族間融和を改めて狙ったものらしい。

 10月1日。国慶節の式典をインターネットの生中継で見ていたら、チベット自治区のパレードカーには「調和のとれたチベット」、新疆ウイグル自治区の車には「天山(山脈)からの祝意」と書かれていた。

 世界遺産・天壇公園でも、国慶節の準備のために北京市の花といわれる月季花(チャイナローズ、庚申バラともいう)の花壇が整備され、世界遺産・故宮(紫禁城)を一望できる景山公園の階段のてすりを取りかえる作業も急ピッチ。胡同見物の人力車が集まる什刹海公園の道路わきには北京の木、アカシアの白い花から甘酸っぱい匂いが流れていた。
 そして、世界遺産の万里の長城の広大な景観や故宮の折り重なるように連なる瑠璃瓦に感じ取れる中国の長大な歴史・・・。

  そんな景観を楽しむ観光客に交じりながら、この国の広さと複雑さに少しふれられた気がした。

王府井の歩行者天国:クリックすると大きな写真になります王府井小吃街の串焼き屋さん:クリックすると大きな写真になります北京最大の書店、西単・北京図書大厦ビル:クリックすると大きな写真になります同書店の広大な売り場:クリックすると大きな写真になります
王府井の歩行者天国。
若者たちのカジュアル姿は、意外に地味な感じ
王府井小吃街の串焼き屋さん。
生きたサソリ、カイコの幼虫、ムカデのから揚げ、あります。
北京最大の書店、西単・北京図書大厦ビル同書店の広大な売り場。一番奥には、天井までのカギ付きガラス書棚が並び、屈強な男性が客の求めで、本を取り出してくれる
防弾チョッキと銃で警戒する武装警察隊員クリックすると大きな写真になりますクリックすると大きな写真になりますクリックすると大きな写真になります
防弾チョッキと銃で警戒する武装警察隊員。
見て見ぬふりで通り過ぎる人、カメラを向ける人・・・(王府井大街で)
国慶節のために用意された各民族のイラストが入った柱の列(天安門広場で)天安門広場にデンと据えられた大型LEDスクリーン。かなり鮮明な画面だ天壇公園を彩るペキンローズの花壇
クリックすると大きな写真になりますクリックすると大きな写真になりますクリックすると大きな写真になりますクリックすると大きな写真になります
景山公園から一望できる故宮。夕日の瑠璃瓦が輝く北京の木、アカシアの花が匂う下で、胡同見物の客を待つ人力車(什刹湖公園で)延々と山なみを縫う万里の長城北京の古典芸術、京劇。
観客の半分を占める米国人観光客がしきりにカメラを向けていた(演目は白蛇伝、湖広会館で)
13_P1050836.JPGクリックすると大きな写真になりますクリックすると大きな写真になりますクリックすると大きな写真になります
広大な骨董品市場・潘家園旧貨市場。陶磁器、玉、メノウ・・・なんでもあります羊肉しゃぶしゃぶの名店・東来順王府井店。炭火でたく火鍋に入れた具をゴマだれで食べる庶民の味、炸酱麵の老舗・老北京炸酱麵大王北京ダックが焼けるのを待つコックさんたち(北京大董烤鸭・南新倉店で)


2009年9月17日

ウイーン紀行③終「世紀末ウイーン、そしてクリムト」


 「世紀末ウイーン」とは、いったいなんだったのだろうか?
ウイーンの街を歩きながら、そんな疑問が時差ぼけの頭の片隅を時々かすめた。

 650年近く続いたハプスブルグ家の宮廷文化が爛熟した終焉期を迎えようとしていた19世紀後半に、美術、建築、音楽、文学などだけでなく、心理学や経済の分野まで怒涛のようにウイーンの街を襲った文化の大波。
既存勢力からは多くの批判を浴びながら、華麗、かつ斬新、そしてちょっぴり快楽の匂いもする作品を次々と描き出した芸術家たち。

 ドイツ、ハンガリー、ポーランド、チェコ、クロアチアにイタリア、ユダヤ人・・・。10近い民族を抱えたハプスブル帝国のコスモポリタン的な雰囲気が「世紀末ウイーン」文化の生みの親だともいう。
「オーストリア啓蒙主義の成果」というよく分からない分析もある。
 ハプスブルグ宮廷文化が「歴史主義様式」と称して過去の模倣に終始するなか、それに飽き足らない新興市民層の支持を得たからとか、皇帝フランツ・ヨーゼフⅠ世の新ユダヤ政策などの改革が生んだあだ花という見方も・・・。

 理屈は二の次。「世紀末ウイーン」、とくにその主役ともいえるクリムトの世界に少しでもふれられた幸せをかみしめる。

 リングをもう一度回ってみるつもりだったのに、乗ったトラム(路面電車)が急に右に曲がった。路線の変更があったことは聞いていたが、案内所では「路線1かDに乗れ」と言ったのに・・・。
ベルヴェデーレ宮殿に行くのかな?」。同行の友人たちと回りをキョロキョロ見ていたら、向かいのメタボっぽいおじさんに「次だ、次。早く降りろ」と目としぐさでせかされた。

 ちょうどベルヴェデーレ宮殿上宮の庭園の前だった。バロック様式で建てられたハプスブルグ家の遺産が、世紀末から現代までの近代美術館「オーストリア絵画館」に変身している。バロックと近代のミスマッチが、なんとなく愉快だ。

 この美術館のハイライトは、クリムトの世界最大のコレクション。

 傑作「接吻」は、宮殿2階の1室の白い壁の中のガラスケースに保護され、なにか孤高を感じさせるような存在感で展示されていた。
 モデルは、クリムト自身と恋人のエミーリエ・フレーゲといわれる。クリムトの特色である金箔をふんだんに使い、男は四角、女は丸いデザインの華やかなデザインだが、幸せの絶頂にいるはずの女性の表情がなぜか遠くを見るように暗い。

 17世紀の画家、カラヴァッジョアルテミジア・ジェンティスレスキなども描いた旧約聖書「ユディト記」に出てくるユダヤ人女性ユディットをテーマにしている「ユディットⅠ」
 以前にこのブログでも書いたが、アルテミジア・ジェンティスレスキらは、自ら犠牲になって敵の将軍の首を描き切る凄惨さに肉薄した。しかし、クリムトは決意を秘めて将軍に迫ろうとする妖艶な表情を描き切っている。

 さらにオスカー・ココシュカエゴン・シーレの迫力ある作品の部屋が続く。

 クリムトが率いた芸術家グループ、ウイーン分離派会館「セセッション」には、どうしても行きたかった。
 数日前に生鮮市場のナッシュマルクトを案内してもらった時に前を通っているから、もう迷わない。カールスプラッツ駅から歩いて10分ほど。まっすぐに地下の展示場に飛び込み、ベートーヴェンの交響曲第9番をテーマにしたクリムトの連作壁画「ベートーヴェン・フリーズ」の前に立った。
 白い壁の上部3面、明かり取りの天井に張りつくように飾られたフレスコ絵は、高さ約2・5メートル、長さ約35メートル。絵巻物のように、見上げる観客に迫ってくる。

 1902年「分離派」の展覧会に出品されたが、当時のカタログには「一つ目の長い壁(向かって左側):幸福への憧れ・・・狭い壁(正面)敵対する力・・・二つ目の長い壁(右側):幸福への憧れは詩情のなかに慰撫を見出す」とある。とても理解できない・・・。

メモ帳に張ってきた「図説 クリムトとウイーン歴史散歩」(南川三治郎著、河出書房新社)の解説コピーを見ながら、ようやく頭上の世界に焦点が合ってきた。

 高みに雲のように浮かんでいる女性の長い列。・・・「幸福への憧れ」は裸の弱者の苦しみと、彼らの願いを受けて幸福のために戦う・・・戦士が描かれている。
正面の「敵対する力」が暗い影を投げかけている。悪の象徴としてのゴリラのような巨大な怪獣チュフォエウス、・・・三人の娘のゴルゴン、その背後や右側には病、死、狂気、淫欲、不節制(太った女)などが描かれ、さらにその右には独り懊悩する女が巨大な蛇とともに描かれる。・・・
(右の壁画では)憧れが「詩の中に静けさ」を見つける。竪琴を持った乙女たちは・・・芸術による人類の救済を示唆している。・・・クライマックスは天使の合唱で・・・裸で抱き合う男女の愛をもって全体は終わる。


猥雑、醜悪という声が巻き起こったこの作品。実は展覧会が終わると取り壊されることになっていた。解体寸前になってあるユダヤ人実業家に買い上げられたが、ナチスが没収。戦後、長い交渉の末にオーストリア政府が買い上げたという、いわくつきの名作だ。

ゲストルームに泊めていただいたパンの文化史研究者、舟田詠子さんに、クリムトの墓に連れていってもらった。舟田さんのアトリエ近く、シェーンブルン宮殿の南の端にあるヒーツイング墓地にある墓標は、クリムトの自筆のサインを彫りこんだものだった。「世紀末ウイーン」の時代を象徴するように繊細かつモダンな文字だ。

 「世紀末ウイーン」を代表する建築家、オットー・ワグナーが設計した旧郵便貯金局のガラス張りのホール。「装飾は悪だ」と直線的なデザインを駆使したロース・ハウスが市民の避難を浴びたアドルフ・ロース
 楽友会館やシェーブルン宮殿のオランジェリーで聞いたオーケストラがアンコールで必ず演奏されるのは、やはり世紀末に生まれた3拍子のウインナーワルツだった。そして、作家、アルトウル・シュニツラーの作品「輪舞」などで描かれる娼婦と兵隊、伯爵と女優たち・・・。

 「世紀末ウイーン」の世界が走馬灯のように頭のなかを駆け巡り、今でも離れようとしない。

下の地図は、Google のサービスを使用して作成しています。
地図の左上にあるスケールのつまみを上下すれば、地図を拡大・縮小できます。また、その上にあるコンソールを使えば、左右・上下に地図を動かすことができます。
右の欄の地名をクリックすると、その場所にマークが立ちます。また、その下のをクリックすると関連した写真を見ることができます。


2009年9月 6日

ウイーン紀行②「ドウナ川、そしてクライン・ガルテン」



上の地図は、Google のサービスを使用して作成しています。
地図の左上にあるスケールのつまみを上下すれば、地図を拡大・縮小できます。また、その上にあるコンソールを使えば、左右・上下に地図を動かすことができます。
右の欄の地名をクリックすると、その場所にマークが立ちます。また、その下のをクリックすると関連した写真を見ることができます。


世界遺産「ウイーン歴史地区」の中心にある「リングシュトラーセ(環状道路)」の沿道には、様々な時代の建築様式の建造物が並び、まるで歴史博覧会のパビリオン群のようだ。

 市役所は中世の都市の自治を象徴するゴシック様式、国会議事堂は民主主義の原点・ギリシャにならって新古典様式、ウイーン大学は文藝復興にふさわしいルネサンス様式バロック様式がいかめしい旧陸軍省(政府合同庁舎)。この建造物群は、その建築様式の時代に建造されたものではない。皇帝フランツ・ヨーゼフⅠ世の命令で19世紀の半ばから城壁(市壁)を取り除いて次々と造られ、ちょっと、特異な都市景観を形づくっているのだ。

 この建造物を楽しむには、リングを回るトラム(路面電車)に乗るのが、手っとり早い。ウイーン大学の前をトラムがぐっと右に回ると、すぐに川にぶつかる。
「ドナウ川の向こうは、中心街と違って近代的な建物が多いですね」。ゲストルームをお借りしているパン文化史研究者、舟井詠子さんに、いささかトンチンカンだった問いかけをしたら「あれはドナウ川でなく、ドナウ運河」と。観光客も、よく間違えるらしい。さっそく、ほんもののドナウ川を見に連れて行ってもらった。

 夕方、街の中心・カールスプラッツ駅地下ターミナルで待ち合わせ、地下鉄U1に乗って10番目の駅・ドナウインゼル(ドナウ島)駅で途中下車する。2つの川の間に、中州(ドナウ島)があり、そこにかかっている橋の上に地下鉄の駅と歩道橋がある。

 川の1つは、洪水対策のために、20世紀後半に約10年をかけて掘られた全長20キロの放水路・ノイエドナウ(新ドナウ)川。島の森越しに見えるのが、ドナウ川本流。ドイツ南部の泉に始まって東欧10か国を流れ、世界遺産ドナウ・デルタ にそそぐ国際河川だ。教会の下に国際航路の大型船が停泊しているのが見える。

 長さ21キロもあるという中州、ドウナ島に降りてみる。広い公園があり、中国系らしい人たちが草地に座り込んでトランプを楽しんでいた。ここは、アジア、トルコ系の人たちのたまり場になっているらしい。
 この中州は長い間、川土を積み上げた荒地だったようだが、今では川辺に水草が繁り、生物が生きられるビオトープとして生き返っている。

 再び地下鉄に乗り、2つ目のアルテドナウ(旧ドナウ川)駅で降りる。IAEA(国際原子力機関)などが入っている国連都市(UNOシティ)のビル群を右に見ながら左折、大きな橋を渡り切って、アルテドナウの河畔に出た。

 アルテドナウは、19世紀末の治水工事でドナウ本流から切り離されて、ドナウ川の東端にできた約160ヘクタールの三日月型の湖。今ではウイーン市民の最大のレクリエーションの場になっている。
 もう午後の7時前というのに、ヨットがいくつも浮かび、艇庫からカヌーを運び出す人がおり、河畔で憩う水着姿の人、水に飛び込んで抜き手で泳ぐ人・・・。湖畔では、以前はヌーディストクラブだったという庭園でバーベキューを楽しむ風景が見られ、水辺のいくつものレストランも火曜日の夕方というのに大盛況だ。

 ぜひに、とお願いして、湖畔にある「クラインガルテン」をのぞかせてもらった。クラインガルテンはドイ語で「小さな庭」という意味。市民が公共団体から300平方メートル前後の小屋付き農園を借り、週末に野菜づくりを楽しむ。日本でも少しづつ普及しており、私も兵庫県下にあるクラインガルテンまがいの貸農園2か所ほどを借りたことがある。

 しかし、ウイーンのクラインガルテンは少し様子が違う。車の乗り入れを禁止した路地の両脇にある敷地に野菜畑は一つもなく、すべて整備された芝生と木々、季節の花であふれている。寝椅子でくつろいでいる老人や、アルテドナウで泳いできたのだろうか、バスタオルを身体に巻いたまま花の世話をしている女性の姿が垣間見える。ラウベと呼ばれる住宅も小屋と呼ぶのにはほど遠いりっぱなものばかりだ。なかには、敷地を買い取って地下室まで作った"別荘"もあるようだ。

 ネットサーフインをしてみると「調査した300区画のなかで、菜園らしいのは1区画しかなかった」という報告「州法の改正で、規制がなくなったことが生んだウイーンの特異性」というレポートもあった。ウイーンの市民が、クラインガルテンの快適性を追求して勝ち取った権利なのだろう。

   ヨハン・シュトラウスの「美しく青きドナウ」で歌われる歌詞は次のように始まる。(「横顔のウイーン」=河野純一著、音楽之友社刊より)
  いとも青きドナウよ
  谷や野を越えて
  静かに波うちながら流れていく
  わがウイーンはお前に挨拶する
  銀色の流れは国々を結びつけ
  喜ばしい心が美しい岸辺ではずんでいる


 アルテドナウ河畔やクラインガルテンで、ウイーンの人たちの気持ちがウインナーワルツに乗ってはずんでいるのが見えてくるようだ。

 川の水が「青きドナウ」から程遠いのが、ちょっぴり残念だが・・・。

2009年9月 2日

ウイーン紀行①「ウイーンの森」


 ウイーンの森への旅は、かって貴族の別荘だった館の庭にある小さな森から始まった。

オーストリアに640年にわたって君臨したハプスブルグ家の夏の離宮だった世界遺産・シェーンブルン宮殿のすぐ近く。ビーダーマイヤー時代最盛期の1825年に建てられたこの館に、アトリエを構えておられるパン文化史研究者、舟田詠子さんのゲストルームに泊まらせていただく幸運に恵まれたのだ。

 建物の玄関は石の壁と巨大な木の扉で守られているが、庭に面して大きなガラス窓のサンルームが広がり、外壁はカラマツのこけら板で覆われている。庭には、トウヒらしい巨木のほか、サクラ、レンギョウ、カリン、アンズ、モモ、洋ナシ、クルミなどの樹木が繁り、フジの大枝が伸び、壁をおおうツタの太い枝が時代を感じさせる。
奥の小山をぐるりと回って上ると、頂上のブドウ棚から「世紀末ウイーン」をリードしたウイーン分離派の建築家・ヨーゼフ・ホフマンが設計した館などが臨める。
 舟田さんのアトリエを含めたこれらの館は、ウイーンでも貴重な建築物として文化財の保護下にあるという。

 庭のテーブルに並べられた朝食の皿には、ウイーン名産のハム、ソーセージの逸品や野菜料理が盛られ、日曜日にはいくつも教会の鐘が次々と響いてくる。向いの作曲家の館からピアノの音まで聞こえてきて・・・。なんともはや「森の都」ウイーン文化の奥深さに圧倒されてしまった。

 
舟田さんのアトリエのある館:クリックすると大きな写真になります館の外壁:クリックすると大きな写真になります庭の小さな森:クリックすると大きな写真になりますウイーン分離派(アールデコ)時代の隣邸:クリックすると大きな写真になります
舟田さんのアトリエのある館。かって貴族は、この木のドアーを開けさせ、直接、馬車を乗りいれたという庭に面した外壁はこけら板とツタで覆われている庭の小さな森は奥深く、見あきないウイーン分離派(アールデコ)時代の隣邸


 さっそく、ウイーンの森の探訪に出かけた。シェーンブルン宮殿の周辺は、もう森の一部だという。
 宮殿の南西部にある公園は、歩く人も少ない広葉樹の森。ウイーンの森を管理するウイーン市森林局の事務所の横にある門をくぐって、宮殿南部の高台にある記念碑・グロリエッテへ。道を少しそれると、昼でも薄暗いブナなどの林が続く。
  森が急に切れて、細長い草原に出た。はるか下にウイーンの街並みが臨める。なんと、この草原は、ウイーンの街に森の冷気を送りこむ「風の道」なのだ。確か、皇居に風の道を通せば、東京都心のヒートアイランド現象はかなり緩和できるという話しを聞いたことがあったが、ウイーンの街は残された貴重な遺産を見事に生かしきっている。

シェーンブルン宮殿とウイーンの市街:クリックすると大きな写真になります宮殿内の森:クリックすると大きな写真になります「風の道」森の観察路の説明板:クリックすると大きな写真になります
グロリエッテから見たシェーンブルン宮殿とウイーンの市街人気も少ない宮殿内の森森を貫く「風の道」森の観察路の説明板


 マリア・テレジアの夫のフランツⅠ世が1792年、宮殿内に作った世界最古という動物園に入ってみた。
 パンダやペンギンは珍しくもないが、階段を上って森の木々や葉を下からでなく目の前で眺められる樹木観察路があるのが「森の都」の動物園らしい。
 所々に、樹木の葉や小鳥、小動物など森の住民を解説した掲示板まである。ブナ、シデ、シナノキ(菩提樹)、トネリコ、カエデなどの名前が書いてある。

 オーストリア連邦森林局(現在は民営化されてオーストリア連邦森林株式会社)の林業専門家であるアントン・リーダーが書いた「ウイーンの森―自然・文化、歴史―」(戸口日出夫訳、南窓者刊)によると、ウイーンの森の木々の75%がブナ、ナラなどの広葉樹、25%がクロマツ、トウヒといった針葉樹という。
 針葉樹が多いドイツの黒い森と違って、広葉樹がつくる明るい森がウイーンの人々の開放的でのんびりした気風を育てているのだろうか。

 著者と訳者によると、ブドウ畑や居住地を含めたウイーンの森の総面積はおよそ1250平方キロと、東京23区の2倍以上。
世界のいかなる大都市も、このような周辺部を持つものはなく、・・・その自然のなかで、ビーダーマイヤー時代には、シューベルトの「美しき水車小屋の娘」やベートーヴェン「田園」が生まれ、ウイーンの森と音楽の都が結びついた


 舟田さんに、さらに森の奥へと案内してもらった。
 夕方、中心街・リンク沿いにあるウイーン大学前のショッテントーア駅の地下ターミナルで待ち合わせてトラム(路面電車)38番でワインを飲ますホイリゲが並ぶグリンツイングへ。そこで白ワインを軽く飲み、バス38Aで海抜484メートルのカーレンベルクに着く。

 カーレンベルクのことをアントン・リーダー氏は「忘れがたい場所」の筆頭にあげて、こう書いている。
頂からウイーンを見下ろせば、その中心にはシュテファン大聖堂も見える。少し先にベルヴェテーレ宮殿も見える。きらきら光るドナウ(川)のわきに国連都市のビルがあり、その右にプラーター(公園)の大観覧車も小さく確認できる。・・・真下の麓には一面に葡萄畑が広がり、それが上方のブナ林のなかに吸い込まれてゆく。


 この丘にある小さな教会にも、ウイーン市指定の史跡であることを示す国旗を模した旗が掲げてある。
1683年、ポーランド王率いるキリスト教連合軍が、この教会でミサにあずかった後、一気に斜面を駆け降りて、ウイーン城を包囲していたトルコ軍を急襲、敗走させた、という。

 ウイーンの森が終わるレオポルヅベルクまで森のなかを歩く予定だったが、時間がなくなった。ブドウ畑の間を早足で降りる。「ブドウ畑を持つ首都はウイーンだけ」と、舟田さん。

予約した7時は少し過ぎたが、ワインセラーの庭にはウイーンの街を真下に臨む席が用意されていた。降りた分だけ、街が近く見える。
 ローストポークにチーズ味のパテ、オリーブがいっぱい入ったサラダと、白ワイン。街が少しずつ夕日から夜景に変わっていく。ウイーンの森で飲むワインの一口、一口が、深く静かに身体に回ってきて・・・。

ホイリゲの陽気なボーイさん:クリックすると大きな写真になります;">カーレンベルクの丘から見たウイーン市街:クリックすると大きな写真になります;">キリスト教連合軍が祈願した教会:クリックすると大きな写真になりますワインセラーの団らん:クリックすると大きな写真になります
ホイリゲの陽気なボーイさん。チップはずみすぎ?カーレンベルクの丘から見たウイーン市街。左にドナウ川が見えるキリスト教連合軍が祈願した教会。18世紀初めに再建された(壁にあるのが、史跡指定の旗)ウイーン市街の夜景を眼下に、森のなかの団らんは続く


ウィーンの森―自然・文化・歴史
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2009年3月12日

読書日記「旅する力 深夜特急ノート」(沢木耕太郎著、新潮社)


旅する力―深夜特急ノート
沢木 耕太郎
新潮社
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おすすめ度の平均: 4.5
5 終着駅への片道切符
5 裏深夜特急
4 彼を旅に向かわせたもの
2 これが最終便?
5 深夜特急の完結


 先日、昔勤めていた新聞社でお世話になった大先輩にバッタリお会いし、この本を薦められた。今でもある大手テレビ会社の会長をしておられる現役の経営者だが、時々お会いするたびに、話の途中でふとささやかれる。
  「中丸美繪の『杉村春子』(文芸春秋)、もう読んだかい」「井波律子の『酒池肉林』(講談社現代新書)、おもしろいよ」・・・。

 「旅する力」には、2つのテーマがある。1つは、ルポルタージュの方法。そして、旅のあり方についてである。

 昔、現役の記者だった頃、ニュージャーナリズムの旗手とうたわれた沢木耕太郎の著書をむさぼり読み、時には連載企画でその〝物まね〟を何度か試みたこともある。

 評論家の青地晨は、沢木の著書「人の砂漠」(新潮社)の書評のなかで、22歳の沢木のことを絶賛しながら、こう書いている、という。
 ルポルタージュは、頭の冴えやキラキラした才能だけではやれない。取材相手の心をひらかせる何かを持っていなければならない。もう一つの資質は、行動力である。・・・思いついたらすぐに飛び出し、自分の体でたしかめる行動力が要求される


 沢木は、ルポルタージュを書くためには「三種の神器」が必要、と書く。ひとつは金銭出納帳のようなノート。もうひとつはその反対のページに記されている心覚えの単語や断章。さらに、友人に出した膨大な数のエアログラム(航空書簡)。
 ノートによってどんなものを食べたり飲んだりしていたのか、それがいくらくらいだったかわかるだけでなく、その一行、一行が日々の行動をはっきり思い出させる

 どんなにささやかな旅であっても、その人が訪れた土地やそこに住む人との関わりをどのように受け止めたか、反応したかがこまやかに書かれているものは面白い。たぶん、紀行文も、生き生きとしたリアクションこそが必要なのだろう

 旅についての記述も、このような思考軸で貫かれている。

 インドのデリーからロンドンまで乗り合いバスでいく「深夜特急」の旅を著者が始めたのは、20代の前半。
 あの当時の私には、未経験という財産つきの若さがあった・・・。未経験、経験していないということは、新しいことに遭遇して興奮し、感動できるということ・・・

 かって、私は旅をすることは何かを得ると同時に何かを失うことでもあると言ったことがある。しかし、歳を取ってからの旅は、大事なものを失わないかわりに決定的なものを得ることもないように思えるのだ

 幸いなことに、私には・・・旅をしていく上での適正、あえて言えば『力』があったような気がする。ひとつは(なんでも現地のものを食べられる)『食べる力』。・・・(どんな酒をどれほど飲んでもあまり酔わない)『呑む力』・・・それ以上に大きかったのは、私が人と関わることを面倒がらないというところだったかもしれない。・・・それとまた、私は、旅先でよく人に訊ねるらしい


 「食べる」「呑む」力以上に「聞く」「訊く」力が大切と、著者は言う。それがあるのなら〝歳を取ってから〟の旅も、そう無駄ではないかもしれない。

 終章で、著者は繰り返すように書く。
 目的地に着くことよりも、そこに吹いている風を、流れている水を、降りそそいでいる光を、そして行き交う人をどう感受できたかということのほうがはるかに大切なのです


 すばらしい話が「あとがき」に載っている。

 著書「一号線を北上せよ」(講談社)のサイン会を名古屋でした時のこと。
 若い歯科医がサインを求めてきた。
「すると、あまり長い旅行はできませんね」
「そうなんです。・・・だからいまようやくローマに辿り着いたところなんです。・・・ローマに来るのに七年かかりました」。
この歯科医は、「深夜特急」のルートを、休みのたびに少しずつ歩いていたのだ。
「あと二、三年でロンドンに着きたいと思っているんです」

 「深夜特急(1)~(6)」(新潮文庫)というルポルタージュに揺り動かされて、自分の人生を変えるかもしれない旅に10年がかりで挑戦し続けている人がいる。すごい話しである。

杉村春子 女優として、女として (文春文庫)
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2 テーマはユニークだが
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5 沢木耕太郎の
4 素敵な「鼠」だ。
4 濃密なルポタージュ

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4 心揺さぶる『放浪』の書。旅好きには『禁断』の書。
4 第1章を読め!!!
5 旅の出発本
5 海外を恐れずに

深夜特急〈6〉南ヨーロッパ・ロンドン (新潮文庫)
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5 わかっていることは、わからないということだけ。
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5 長旅の終わり
5 旅は自由なものであると教えてくれる旅行記
4 深夜特急は終わっても、心の旅に終わりは無い。