津和野紀行・上 「乙女峠」(2010・7・18-19)
夏の初めに、一度は出かけたいと思っていた島根県・津和野を訪ねた。
目的は2つ。1つは、キリシタン殉教の地、乙女峠のマリア聖堂に詣でること。もう1つは、これもいつかぜひと思っていた安野光雅美術館に行くことだった。
津和野に着いたら、ちょうど[SL山口号」が出ていくところだった |
汗だくになって旧武家屋敷跡・殿街通りを歩く。いささかメタボっぽい錦鯉が泳ぐ掘割沿いにある教会は、昭和6年の再建で木造モルタル塗りのようだが、一見石造りに見える。正面にイエズス会の紋章である[IHS」ロゴが彫り込んであり、現在の司祭もイエズス会の所属。日本に帰化した米国の元看護兵だという。聖堂内は津和野の街に似つかわしい畳敷き。その表に格子柄のステンドグラスが映しこまれている。
暑い!途中、喫茶店に飛び込んで何十年ぶりかの氷あずきでひと息つき、日本峠100 選の1つであるという乙女峠への急な坂道を登る。
浦上4番崩れと呼ばれるキリシタン弾圧が、江戸の終わりから日本の近代を切り拓いた明治の初めまで続いたことは、歴史的な驚きだ。
明治元年。維新政府は長崎・浦上のキリスト教徒3300人強を改宗させるために各藩に預けた。なかでも指導的立場にあった153人が津和野藩に預けられ、この坂を登った峠にあった廃寺・光琳寺で棄教を迫られた。
当時、津和野では神道の研究が盛んで、説得によって改宗させられるという自信を持っていた。しかし、信徒たちの信仰心は厚く、改宗はいくら責めても拒否された。
そこで拷問が始まった。火責め、氷責め、たった3尺の格子牢に裸で押し込まれ雪の野外に放置された若者もいた。殉教者は、36人にのぼった。外国の強い抗議で、政府のキリシタン禁止令はやっと撤廃され、リーダーとして生き抜いた高木仙右衛門らは、長崎に帰ることができた。
第二次大戦後、津和野教会のパウロ・ネーベル司祭(岡崎神父)は、峠にマリア聖堂を建て、まわりを殉教の地にふさわしい場所として整備した。
夏の暑さを感じさせない森閑とした緑に囲まれた小さな聖堂だった。内部には、拷問に耐え抜いた信徒の様子を描いた8枚のステンドグラスがある。
ネーベル神父がはじめた5月3日の乙女峠まつりには、毎年数千人の巡礼者が訪れるという 。
津和野教会の内部。ステンドグラス越しの明かりが畳に映える | 津和野教会の外観。正面に[IHS」のロゴ | 乙女峠・マリア聖堂は、緑のなかに清涼と | 旧藩校沿いの掘割と鯉たち |
津和野に向かう車中で読んだ本の中に、気になる箇所があった。
高木仙右衛門の家系図のなかに「高木慶子,」という名前がある。「援助修道会修道女」と書かれていた。あの方ではないのか・・・。
帰宅して知人に聞いたら、やはりそうだった。高木仙右衛門の曾孫にあたるシスター・高木慶子は、前の聖トマス大学教授で、現在は上智大学教授・グリーフケア研究所長。 ミッションへの限りない熱情に圧倒される、キリッとすじのとおったシスターである。継承されてきたであろうDNAのすごさを思った。
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