2011年1月アーカイブ: Masablog

2011年1月31日

読書日記「清冽 詩人茨木のり子の肖像」(後藤正治著、中央公論新社)

清冽―詩人茨木のり子の肖像
後藤 正治
中央公論新社
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「奇跡の画家」を書かれた後藤正治さんが、昨年秋にまたもや本を出された。後藤さんは「奇跡の画家」の冒頭で「いささか物書き稼業に倦むことがあって、・・・」と神戸夙川学院大学の教授になられたいきさつを自虐気味に書かれていた。

 倦むどころか、その後学長に就任され、その激務の合い間を縫ってこの新著に挑戦されたらしい。あとがきで「『婦人公論』誌上で2008年に連載したものが骨格になっている」と記されており「奇跡の画家」を書かれたころから執筆しておられたのだろう。

 詩人の故・茨木のり子さんのことは、1昨年2月に茨木さんの詩集「歳月」について書いたブログでもふれた。

 あの時は「数篇の詩を書き写すことしかできない」と書いたが、今回も読んだ後の印象を心のなかで整理できず、茨木さんの詩をただブログ画面にのせることしかできなかった。

 1977年に書かれた「自分の感受性くらい」、1999年の「倚りかからず」、そして1958年の詩集に収録され教科書にも載った「わたしが一番きれいだったとき」の3篇を読むと、茨木さんの人生の研ぎ澄まされた"清冽"さが浮かびあがってくる。
今回は、それらを書き写すさず、3篇が載っているブログを引用することにした。

 後藤さんは「詩集『倚りかからず』」によって彼女の読者になった」と書いている。茨木さん73歳と、晩年の作品である。
 これが、朝日新聞の「天声人語」(1999年10月16日付け)で取り上げられ、詩集は15万部ものベストセラーになった。

 「天声人語」子は書く。
 決して叫ぶことなどなく、とても静かに、読む人の心をつかみ、えぐる。6Bか4Bの鉛筆で、茨木さんは詩を書く。柔らかな鉛筆から、とびきり硬質の結晶が生まれる。


 後藤さんが「いかにも茨木のり子らしい」という、生前に書き残された「別れの手紙」がある。
 茨木さんの甥の妻が空欄の文字を補い、住所録などから選んで二百数十通、死後しばらくたって発送された。

 
 《このたび 私 二〇〇六年二月十七日 くも膜下出血にてこの世におさらばすることにしました。
これは生前に書き置くものです。
私の意志で、葬儀、お別れ会は何もいたしません。
・・・ 「あの人も逝ったか」と一瞬、たったの一瞬思い出していただければそれで十分でございます。
あなたさまから頂いた長年にわたるあたたかなおつきあいは、見えざる宝石のように、私の胸にしまわれ、光芒を放ち、私の人生をどれほど豊かにしてくださいましたことか・・・。
深い感謝を捧げつつ、お別れの言葉に代えさせて頂きます。
ありがとうございました。

 生と死に、びしっと向かい合った言葉がここにある。

 もう1つ「汲む―Y・Yに― 」という詩を、あるブログから引用する。
 「Y・Y」とは、新劇女優の山本安英のことである。

 「あらゆる仕事・すべてのいい仕事の核には・震える弱いアンテナが隠されている」


「この詩句がとても残った」と、後藤さんは書く。

私の人生。「隠された震える弱いアンテナ」の存在を感じたことがあっただろうか。

▽最近読んだその他の本
  • 「もぎりよ今夜も有難う」(片桐はいり著、キネマ旬報社刊)
     映画「かもめ食堂」などで好演している異色女優の著者が、映画館のもぎり(チケット切り)嬢をしていた体験を中心に映画への思いを綴るエッセイ集。
    映画館が呼吸するのを見たことがある。・・・  (「男はつらいよ」)の本編が始まり、・・・ひと息入れていると、劇場からあの音が聞こえてくる。
     どーん。ずーん。どよよよ。
     地響きのようなくぐもった音。・・・黒山のお客さんの笑い声である。・・・人いきれで沸騰した場内に笑いが起こるたび、扉がぱふん、ぱふんと開いては閉じる。まるで生き物のようだ。

      
    もぎりよ今夜も有難う
    片桐はいり
    キネマ旬報社
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  • 「ドキュメント宇宙飛行士選抜試験」(大鐘良一、小原健右著、光文社新書)
     2008年2月、JAXA(宇宙開発研究開発機構)が10年ぶりに宇宙飛行士の募集をした。963人という過去最高の応募者のなかから絞られた最終試験のすべてを取材したNHKの番組スタッフによるドキュメンタリー。
     国際宇宙ステーションを再現した24時間監視の「閉鎖環境施設」の中で10人は過酷で意地の悪い設問に挑戦、チームワーク、リーダーシップ、危機対応能力を試される。
    日本では、宇宙飛行士の育成に億単位の税金がかかるため、・・・審査項目が仰々しいほど多岐になる。
     アメリカでは、宇宙飛行をする前に飛行士を"辞める"人間もいる。・・・最も重要なのは「本人やその家族が、宇宙飛行士としての人生を全うする「覚悟」が本当にあるかどうかなのである。

      
    ドキュメント 宇宙飛行士選抜試験 (光文社新書)
    大鐘 良一 小原 健右
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  • 「杉浦日向子と笑いの様式」(田中優子、佐高信編著、七つ森書館刊)
     2005年に他界した漫画家で江戸風俗研究家の杉浦日向子への追悼の思いを、江戸文化を専攻する法政大学教授の田中優子が語りつくすユニークな本。  杉浦日向子が荒俣宏と離婚する時の"黒幕"が、佐高信だったとは・・・。
     杉浦日向子と佐高信が、文庫本の"一押し"について対談している一篇も興味深い。

    杉浦日向子と笑いの様式
    田中 優子 佐高 信
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2011年1月25日

ご迷惑をおかけしました。


 昨日(1月24日)から今日にかけて、当方のサイトへアクセスができなくなっていました。ご訪問いただいた方に、ご迷惑をおかけしました。お詫び申し上げます。

 原因は、当方のドメイン名( n-shuhei.net ) の有効期限が切れたのをうっかりして見落としておりました。ただちに、更新手続きをとり、ただいま復活しました。申し訳ございませんでした。


2011年1月17日

読書日記「イサム・ノグチ 宿命の越境者 上・下」(ドウス昌代著、講談社文庫)



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 このブログにも書いたが、昨年末に見た映画「レオニー」が、年が明けても尾を引いている。

 映画を見終えてすぐ、1階下の書店で表記の文庫本2冊を買った。日系2世のアメリカ人彫刻家、イサム・ノグチの詳細なドキュメンタリー伝記だ。読み終えて、この人最後の作品となったモエレ沼公園 をどうしても見たくなった。先週末、神戸空港からANA便に乗り、大雪の札幌に向かった。

 札幌郊外にあるこの公園は、海に近いだけ市街地より雪が多いらしい。JR札幌駅下の地下鉄で3駅、そこから約30分バスに揺られ、降りたバス停から方向も分からなくなるほど降る雪の中を約20分。やっと、この公園のシンボルである「ガラスのピラミッド」(愛称・HIDAMARI)に飛び込んでひと息ついた。

 事前に問い合わせたとおり、イサム・ノグチが長年温めていた構想がやっと実現した「プレイマウンテン(遊び山)」も、公式の地図にもちゃんと載っている札幌一低い人工の山「モエレ山」(標高62メートル)も雪ですっぽりおおわれていた。

 そのモエレ山で、子どもたちが喜々としてソリ遊びをし、カラマツの森の周りをスキーで歩いている人がいる。広い公園の雪の下には、ノグチが「閑(レジャー)を大切にする」というコンセプトでデザインした遊具や、サンゴに囲まれた池、噴水からの水が流れる運河が春まで眠っている・・・。

 ノグチ自身が「HIDAMARI」2階のギャラリーに置かれた映像施設で語っていた「地球そのものを彫刻する」という世界観をしっかりと実感できた雪見行だった。

 イサムは、日本人詩人・野口米次郎とアメリカ人の教師でありジャーナリストのレオニー・ギルモアの間で1904年にニューヨークで生まれた。2歳の時に母とともに来日するが、米次郎にはすでに日本人の妻がいた。イサムは生涯、私生児として生きた。

 《「バカ」「ガイジン」と毎日、罵られた。アイノコなのが、ただの外人よりよくないとされた。なぜだかよくわからずに、でも自分だけが他の子供たちの世界に属せないのを意識させられた》


 《結局、ぼくのような生まれには、帰属問題がつねについてまわる。それが問題とならないのは芸術の世界しかない。・・・芸術家には自分しかない。一人だけで何かを作りあげていく、孤独な世界だ。孤独の絶望からこそ、芸術は生まれる》


 19歳の時、母親に勧められて医学校を辞め、グリニッチ・ヴィレッジの近くにある美術学校に入る。校長は「初対面で、イサムのけた外れな天分を直感した。ミケランジェロの再来だと思った」

 イサムは雑誌インタビューで「創造の源泉となった力は?」と聞かれて《怒り》と答えている。
 《絶望と闘争ともいえる怒りだ。闘争こそ創造を刺激する源だ》


 彫刻家をめざしたとき、イサムを奮い立たせた怒りの根源には、父親米次郎の姿がある。自分に日本の国籍をあたえなかった父親への行き場にない愛憎が、イサムの野心に火を放つ。無断でノグチ姓を選ぶことで、自分の権利としての「日本人」を主張した。父親の姓を名乗ることで、イサムは自分の内部ではげしく燃える炎を、逆に生きるエネルギーに置き換えようとした。


 イサム・ノグチの作品を生みだす、もう一つのエネルギーは、その豊潤かつ怒涛のような女性遍歴だったのかもしれない。

 著者は、イサムが愛した女性たちをくわしく記述している。画家、舞踏家、女優、美術評論家、作家、インド・ネール首相の姪ナヤンタラ・・・。メキシコの画家、フリーダ・カローラと密会しているのを夫のリベラに見つかり「屋根越しに逃げるイサムをリベラがピストルを手に追いかけた」。そして、女優山口淑子との結婚と離婚。

 イサムが京都にくれば顔をあわせた佐野藤右衛門は、イサムの作品の「色気」に感心して、あるとき「あんないい色、どこから出すんや」と尋ねた。「このおなごから」とイサムは真顔でそのとき一緒にいた若い女性を指さした。


 数多くの彫刻、庭園設計で評価を高めていったイサムは、しだいに《石に取りつかれて》いく。

 石の本性は重さにある。重力と闘うのは「離れ業」である。・・・最も深遠な価値は各材料本来の性質のなかにこそ見出されるべきだ。いかにして、これを壊すことなく変貌せしめるか!》


倉敷・大原美術館の庭園にあるイサム作品;クリックすると大きな写真になります
昨年末に訪ねた倉敷・大原美術館の庭園にあるイサム作品、「山つくり」とあった
 現在、アメリカ美術界でイサム・ノグチという日本名をもつ彫刻家について語られるとき、「ノグチの本領」として評価されるのは、晩年の約二十年間に制作した石彫である。「彫刻に自然を取り入れた」とも評されるユニークな石の彫刻は、すべて牟礼の仕事場で制作されたものである。


 石工からスタートしてイサムに育てられた彫刻家、和泉正敏との出会いである。

 高松市牟礼にある「イサムノグチ庭園美術館」、ニューヨーク・ロングアイランド市の「the Noguchi museum」・・・。「イサム・ノグチへの旅」を続けたい思いがつのる。

▽参考にしたWEBページ 「ISAMU NOGUCHI PRIVATE TOUR」

ガラスのピラミッド;クリックすると大きな写真になりますモエレ山;クリックすると大きな写真になりますイサム作の黒御影の滑り台;クリックすると大きな写真になります北海道神社;クリックすると大きな写真になります
モエラ沼公園のシンボル「ガラスのピラミッド」は、半分雪に埋もれていたピラミッドから見たモエレ山。午後から雪もやみ、雪遊びの人々が増えた札幌・大通り公園にあるイサム作の黒御影の滑り台。雪まつりの準備で、立ち入り禁止だった最終日に訪ねた北海道神社。第二鳥居の前にあるフレンチの「モリエール」でランチを堪能、前日夜は南3条の「oggi」でイタリアンを。同行3人がプレゼントしてくれた思いもよらない古希記念の"口福"




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