2012年5月12日

アウシュヴィツ紀行・下「神の沈黙」(同)



 「日本の方に親しみにある方を紹介しましょう」
 中谷さんが示したガラスケースの中の囚人名簿に コルベ神父(囚人番号16670)の名前があった。

 同神父は、長崎に修道院を作ったりして活躍した人で、私もその足跡を訪ねたことがある。その後、故郷のポーランドに帰ったが、ナチス・ドイツに捕えられた。収容者仲間の身代わりをかって出て餓死刑を言い渡されたものの、2週間生き続けた末にフエノール注射で殺された。神父に助けられたポーランド人は90歳を越えるまで長生きした、という。

 11号館の地下には、コルベ神父が殺された18号地下牢が残っている。ここでの写真撮影は禁止だったが、亡くなった前の教皇、 ヨハネ・パウロ2世が灯して祈ったロウソクが残されている。1982年にコルベ神父は聖人に列せられた。その後、現教皇、 ベネディクト16世も、同じろうそくに火を灯した。

 ローマ教皇は、ヒトラーと コンコルダート(政教条約)を結び、反ユダヤの立場を取った。その一方で、多くのカトリック、プロテスタントの聖職者がユダヤ人救出に動いたことは、イスラエル人学者、モルデカイ・パルディールの書いた「キリスト教とホロコースト」という膨大な本に詳しい。
キリスト教とホロコースト―教会はいかに加担し、いかに闘ったか
モルデカイ パルディール
柏書房
売り上げランキング: 584277


 「なぜホロコーストを防げなかったか」。それは、戦後のカトリック教会の大きな課題だった。両教皇が率先してアウシュヴィッツを訪ねたのは、そのためでもあった。

 ベネディクト16世は、2006年5月28日にアウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所を訪れ、こう演説した。

 「この恐怖の地で、ことばは失われます。最後には呆然と沈黙することしかできません。この沈黙は神への心からの叫びです。主よ、なぜ黙っておられたのですか。なぜこのようなことをお許しになることができたのですか」

 神が沈黙を破るのは、イエス・キリストがこの世の終わりに来る最後の審判の日を待つしかいないのだろう。沈黙を守っておられても「神はいつもそばにおられる」という教義を信じながら・・・。

 アウシュヴィッツ第1収容所での2時間のツアーを終え、3キロ離れた第2収容所・ビルケナウに向かう。

 レンガ造りの「死の門」をくぐると、長い列車の引き込み線が延びている。 スピルバーグ監督の映画 「シンドラーのリスト」でおなじみの風景だ。

 140ヘクタールもある広大な敷地が広がる。3本に分かれた引き込み線の降車場に止まった貨物列車から引き出されたユダヤ人男女を選別するのは、軍服姿の医師だ。約25%は労働力と生体実験用の人間として選ばれ、残りはガス室に直行させられて、チクロンBで窒息死。20分後には、ユダヤ民の特命労働隊員(ゾンダーコマンド)によって焼却炉で焼かれた。間に合わなくなると野原で焼くこともあった。

 第1収容所にあり生体実験の建物は未公開だが、他の建物には、女性の不妊実験や双生児を遺伝学の材料に使った写真が掲示されている。「ここまで冷徹になれるのか・・・」。同行した内科医のYさんがつぶやくように絶句した。

 ここは、単なる強制収容所跡でも、ホロコーストを忘れないための負の世界遺産・博物館でもない。

 150万人ものユダヤ人たちが沈黙のなかに眠っている『広大な墓地』なのだと、気がついた。

 多い時には1日に7000人ものユダヤの人たちが送りこまれたビルケナウの4つのガス室は、連合軍に追われて撤収するナチス軍によって、証拠隠滅のために爆破された。しかし、破壊し切れないまま、レンガとコンクリートの残骸が黒く風化したまま残されている。

 中谷さんによると、ユダヤ人自身が自民族の持つ死への考えから、この身ぶるいのするような遺物の撤去を望まなかったという。

 北端に建てられた22カ国語で書かれた石盤が並ぶ慰霊碑の前や引き込線最終点に保存されている窓のない木製列車の連結部。そこに、そっと置かれている小石や小さな缶、ガラス製のろうそく立ての1つ、1つ。それらが、訪れた遺族の思いを込めた"墓碑"でもあるのだ。

 周辺の草地には、黄色いタンポポや白い花をつけた名前も分からない雑草。男性用収容所跡に1本だけ残されて白い花のリンゴの木などが死者を悼む"献花"だとしても、ここに眠っている人々の数からすると、余りに少ない。

 第1収容所の廊下に並んでいた縞模様服の犠牲者の顔を浮かべながら、沈黙のうちにただ頭を下げ、その死を想うしかない。

 2000年から2011年にかけて、ここを訪れる人は、若者を中心に3倍に増えた。  学校のボランティア・プログラムなどで、夏休みに草刈りのボランティアに来るドイツも高校生も増えた。いやいややってきた表情が終わる頃に変わってくるという。

 ドイツ政府がアンケート調査したところ、ドイツの小学生の90%が「ホロコーストを知っている」と答えた。「しかし、残りの10%が知らないことの方が問題」と、中谷さんは指摘する。眼の前の史実を親があえて教えないのか・・・。

 「ガス室での虐殺なんてなかった」と主張する 歴史修正主義の主張さえも、いまだに絶えない。

 「若い人たちには、ここを見ただけで終わってほしくない」。中谷さんは、ポツリと語った。

 日本から遠く離れた、この地を訪れるだけでも、すごいことだ。ただ、ここで感じた思いを日本に帰っても「心のなかで、自分に問いかけてほしい」

 世界中で民族間の争いは尽きないし、日本にも様々な差別が拡大している。人口減少化が進むなかで、来日する東南アジアの人々なども増えてくる。大きな変化のなかで「あなたは、どういう行動が取れるのか?」

 30度を越えた日もあるここ数日の猛暑。すっかり日焼けしたという中谷さんは、鋭い眼を眼鏡越しに光らせ、吐くように、うめくように繰り返した。

 最後に、中谷剛さんの著書「アウシュヴィッツ博物館案内」(凱風社、近く新刊を発刊予定)にも書かれていた、故・ヴァイツゼッカー大統領のドイツ終戦40周年記念演説の1節を引用して、今回のアウシュヴィッツ訪問の体験を心に留める糧(かて)にしたい。

 「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻まない者は、またそうした危険に陥りやすいのです」

関連写真集
コルベ神父の名前がある名簿。収容者が奇跡的に持ち出した 野焼される遺体。収容者が手製のカメラでひそかに撮影 抵抗する英雄が処刑された「死の壁」。献花が絶えない 2重の鉄条網。220ボルトの電流が流れる網に身を投げる自殺者も
コルベ神父の名前がある名簿;クリックすると大きな写真になります 野焼される遺体;クリックすると大きな写真になります 抵抗する英雄が処刑された「死の壁」;クリックすると大きな写真になります 2重の鉄条網;クリックすると大きな写真になります
第1収容所に再現されたガス室の模型 レンガ造りの「死の門」から伸びる引き込み線 咲き乱れるタンポポの向こうは、ビルケナウ女子収容棟 ドイツ軍によって破壊されたガス室
第1収容所に再現されたガス室の模型;クリックすると大きな写真になります レンガ造りの「死の門」から伸びる引き込み線;クリックすると大きな写真になります ビルケナウ女子収容棟;クリックすると大きな写真になります ドイツ軍によって破壊されたガス室;クリックすると大きな写真になります
引き込み線の上に、追悼のロウソク缶が並ぶ 慰霊碑の前にも、小石などの墓碑 ビルケナウ収容所内のベッド。1つに2人が収容させられた 隔壁もないトイレの穴。カポにせかされ、1つの穴を争うように用をたした
引き込み線の上に、追悼のロウソク缶が並ぶ;クリックすると大きな写真になります 慰霊碑の前にも、小石などの墓碑;クリックすると大きな写真になります ビルケナウ収容所内のベッド;クリックすると大きな写真になります 隔壁もないトイレの穴;クリックすると大きな写真になります


2012年5月11日

アウシュヴィッツ紀行・上「ホロコースト」(2011年5月2日)


 友人Mらと長年語らっていたアウシュヴィッツ訪問が、この連休やっと現実となり、コペンハーゲン、フランクフルト経由でポーランドに入った。

 世界遺産の古都・クラクフからオシフイエンチム(旧ドイツ軍は、ここをアウシュヴィッツと改名した)までの2時間近くは、両側に深い新緑の森が広がる気持ちのよい道だった。途中の村の家の庭先には、道路に向けて木の十字架や陶製の聖マリアの像が建ててあり、カトリック教徒が90%というこの国の敬虔な雰囲気を演出してくれる。

 アウシュヴィッツ強制収容所跡(現在は、負の世界遺産として登録されているアウシュヴィッツ=ビルケナウ国立博物館)前の広場は、ベンチで休憩する若者などであふれ、ピクニックのような雰囲気だ。

 午後2時前、午前のガイドを終えた日本人唯一の公式ガイド、中谷剛さんがかけつけてくれる。25歳の時にこの地を訪れ、もうガイド生活20年の経験を持つ。

 中谷さんには、新聞社時代の同僚でアウシュヴィツの研究を続けておられるK・武庫川女子大教授に紹介してもらい、前日のクラコフの街の観光から、車の手配まですっかりお世話になった。

 午後のガイドツアーに参加するのは、我々4人のほかに6人の日本人。ほとんどが、2、30代の若者だ。

 4人でガイド料243ズローチ(約6500円)と、離れて歩いても中谷さんの声が聞こえるようにと、1人10ズローチでイアホーンを借りる。まず、最大2万人が収容されていたアウシュヴィッツ第1収容所。事前に読んだ本で見た「ARBET MACHT FREI(労働は自由への道)」と書かれた鉄の門をくぐる。

 実は、この門の標識は一時盗まれ、3つに折れて帰ってきた。現在のものは、レプリカなのだが「B」の字が反対に溶接され、小さい部分が下になっている。制作者のささやかな抗議の現れらしい。

 「自由への道」というのはあまりに皮肉な命名だった。収容者は毎朝、同じユダヤ人による「囚人楽団」による演奏と、ドイツ軍親衛隊員(SS)が選んだ囚人頭(カポ)の振う棒とムチでこの門を追い出された。収容所建設のための森林伐採や近くに建設された化学工場などの作業に毎日11時間以上も働かされ、栄養失調で力を失って死去した仲間を背に帰って来る「死への道」でしかなかった。

 収容所内の建設作業も過酷なものだった。重い建設資材をかつぎながら、与えられた木靴で走るように運ばないと、カポのムチが飛んだ。倒れて、道路整備用の石製のローラーに引き殺される人もいた。そのローラーが道路わきに残されていた。

 ドイツ軍が直接手を下さない「奴隷制がしかれていた」と、中谷さんは解説する。

門を入ると、赤レンガの収容所群とポプラ並木が続いている。このポプラ並木が植えて60年が過ぎて大きくなりすぎ、枝が折れて見学者などに当たってはいけないので、最近、建設当初の大きさのものに植え替えられたばかりだ。

4号館と5号館にある収容者の遺品に圧倒される。

 SS衛生兵がガス室の天井から投下した殺害のためにチクロンB(なんとシラミなどの殺虫剤!)の空き缶のほか、死後に刈り取られた約1800キロもの女性の髪、歯ブラシや衣服用のブラシの、家庭用食器(チーズ用なのか小さなおろし金まで)、眼鏡、靴、義足、そして、本人に還すことを偽るために白い塗料で住所などが書かれたかばんの山、山、山・・・。

髪の毛は繊維会社に送られて生地などに加工され、死者の金歯は抜かれて延べ棒として出荷された。それの数量をドイツ人らしい正確さで記録された資料も残されている。

 大きなヨーロッパ地図が掲げられ、ナチス・ドイツが支配した広大な地域からユダヤ人が連行されてきたことを示していた。

 アウシュヴィッツに行くことを決めてから、様々な本や資料にあたったが、なぜユダヤ人がナチスだけでなく、ヨーロッパの長い歴史のなかで排斥されてきたのかが、どうしても釈然としなかった。

 そんな時に、新約聖書の1節に遭遇した。

 ユダヤ教の祭司長たちは、イエスを殺そうと、総督ピラトに身柄を渡した。
 「皆は、『(イエスを)十字架につけろ』と言った・・・。民はこぞって答えた。『その血の責任は、我々と子孫にある』(マタイ27章19-25節、新共同訳)

 「こう叫んだのは、その場にいる人々だけだった。しかし、その後、キリスト教世界の人々は、ユダヤ人のことを『神殺しの民、ユダヤ』と呼ぶようになった」。著名な聖書学者であるW神父の解説である。

 こういった考えがヨーロッパのキリスト教世界に広がり 十字軍の遠征途中で、多くのユダヤ人が虐殺されたことは、 塩野七生 「十字軍物語」などにくわしい。

そのほかにも、ヨーロッパ各地でユダヤ人は何度も虐殺に会い、 ディアスポラ(民族離散)を続けてきたことは、いくつもの歴史事実が証明している。

 ヨーロッパ社会にまん延していった、この反ユダヤ主義を、ヒトラーも巧みに利用した。

ポーランドの総督区総督だった ハンス・フランクの獄中回想記「絞首台を眼の前にして」によると、 ヒトラーは1938年のある日、もの思いにふけりながらこう語ったという。

 「福音書の中でユダヤ人たちはピラトに向かって叫んでいる。『その血の責任はわれわれとわれわれの子孫にある』と。余は、おそらく、この呪いを執行しなければならないだろう」

 ナチスの「民族浄化」の対象になったのは、ユダヤ人だけでなく、ポーランド人、ロシア人などのスラブ民族、ジプシーと呼ばれたロマ・シンティの人たちも含まれていた、事実も忘れてはいけない。中谷さんは、何度も強調した。

 そして、ナチスによる ホロコーストだけではなく、クロワチアのセルビア人虐殺、ルワンダ虐殺などの ジェノサイド 大量虐殺も同じように現実の史実であることも、私たちに迫ってくる。

「カティンの森事件」が、いまだにポーランド市民の心に深い傷を残している。

第2次大戦中に、ソ連・カティンの森で22000人ものポーランド将校などが虐殺されて埋められた。当初ソ連は、ナチス・ドイツのしわざと主張したが、ソ連の行為であることがわかった。

ポーランドの首都ワルシャワやクラクフの街にあるこの事件の慰霊碑を見ながら、ホロコーストという言葉の意味の広がりを考えた。

関連写真
若者でにぎわう第1収容所前広場 収容所の航空図。Aが第1、Dは第2収容所 説明する日本人公式ガイドの中谷剛さん 生き残った収容者が描いた労働に行く人々と楽団
若者でにぎわう第1収容所前広場;クリックすると大きな写真になります 収容所の航空図;クリックすると大きな写真になります 説明する日本人公式ガイドの中谷剛さん;クリックすると大きな写真になります 生き残った収容者が描いた労働に行く人々と楽団;クリックすると大きな写真になります
「労働は自由への道」と書かれた門 ポプラの並木が植え替えられた第1収容所 ガス室に投入されたチクロBの空き缶 処刑された女性から刈り取られた髪の毛
「労働は自由への道」と書かれた門;クリックすると大きな写真になります ポプラの並木が植え替えられた第1収容所;クリックすると大きな写真になります ガス室に投入されたチクロBの空き缶;クリックすると大きな写真になります 処刑された女性から刈り取られた髪の毛;クリックすると大きな写真になります
食器類の山 義足の山 眼鏡の山 かかとが取られた靴
食器類の山;クリックすると大きな写真になります 義足の山;クリックすると大きな写真になります 眼鏡の山;クリックすると大きな写真になります かかとが取られた靴;クリックすると大きな写真になります
洗顔する収容者。右の太って棒を振うのがカポ 建物の廊下に並ぶ亡くなった収容者たち 収容者を引き殺したこともある石製のローラー 塀に囲まれた収容所長・ヘスの自宅。妻は庭仕事が趣味だった
洗顔する収容者。;クリックすると大きな写真になります 建物の廊下に並ぶ亡くなった収容者たち;クリックすると大きな写真になります 収容者を引き殺したこともある石製のローラー;クリックすると大きな写真になります 塀に囲まれた収容所長・ヘスの自宅;クリックすると大きな写真になります
ヘスが絞首刑になった処刑台 首都ワルシャワの街中にある「カティンの森事件』慰霊碑 クラクフの教会前広場にそっと置かれた「カティンの森事件」の追悼十字架
ヘスが絞首刑になった処刑台;クリックすると大きな写真になります 首都ワルシャワの街中にある「カティンの森事件』慰霊碑;クリックすると大きな写真になります 「カティンの森事件」の追悼十字架;クリックすると大きな写真になります


2011年12月20日

読書日記「ジョセフ・クーデルカ プラハ侵攻1968」(ジョセフ・クーデルカ著、阿部憲一訳、平凡社刊)。そして「プラハ紀行」(2011年5月)



ジョセフ・クーデルカ プラハ侵攻 1968
ジョセフ・クーデルカ
平凡社
売り上げランキング: 404856


 1968年8月、共産党政権下のチェコスロバキアで起きた民主化運動 「プラハの春」をあっけなく踏みつぶしたソ連のチェコ侵攻。首都・プラハの市民たちは、武器も持たずに素手と言葉で戦車に立ち向かっていった。それをつぶさに記録した30歳のカメラマンがいた。
 フィルムは秘かにアメリカに持ち出され、匿名のまま発表され、 ロバート・キャパ賞を受賞した。匿名作者が ジョセフ・クーデルカとして名乗ることができたのは、父親が死んだ1984年のことだった。

 その写真集の日本語版が、今年の春に出版された。B4変形判295ページ、なんと重さが2キロもあるアルバムをめくるたびに、衝撃のシーンが胸に迫ってくる。

チェコ橋;クリックすると大きな写真になります
ホテルから見たチェコ橋。正面奥がレトナー公園。左手にプラハ城が広がる
 ソ連軍率いる ワルシャワ条約機構軍の戦車と装甲車はあっという間に国境を越え、 ブルタバ川に架かるチェコ橋を封鎖してしまう。橋の北にあるレトナー公園の丘から市民たちが乗り出すように戦車群を見降ろしている写真がある。

今年の春にプラハを訪れた際、近くのホテルに泊まり、橋詰にある天使の石塔を見上げながら何度か行き来しただけに、40数年前にそんな歴史を刻んでいた橋だったのかと戦車に占拠された橋の姿が目に焼き付いて離れなかった。

老人や子供は、あっけに取られて戦車群を見ているしかない。サラリーマン風の男性もしかりだ。左手を額につけ、顔をしかめて嘆きながら街を歩く中年女性のカット写真も、アルバムの冒頭にあった。

旧市庁舎の天文時計;クリックすると大きな写真になりますヤン・フス像;クリックすると大きな写真になります
旧市庁舎の天文時計。毎正時に時計の上のしかけ人形が動き出すアダムとイヴを象徴する2つの塔が特徴のティーン教会。右手前が、ヤン・フス像
 何度か出かけた 旧市街広場は、旧市庁舎のからくり人形や天文時計、2本の塔が目立つゴシック様式のティーン教会を訪ねる観光客でごった返していた。

 しかし1968年夏には、その広場の中央に据えられた宗教改革の先駆者、 ヤン・フス像の周りも戦車で占拠された。その前を、1人の少年が恐怖心を押し隠すように前かがみになりながら乳母車を押している写真が印象的だ。

 しかし、市民らは静かに立ち上がる。

 戦車の上で休憩するソ連兵を 幾重にも取り囲み、通じない言葉で抗議の爆弾を投げつける。戦車のソ連兵に向かって、片手を伸ばし絶叫する 若者、戦車にナチスを表す「卍」マークを張り付ける勇気ある 女性

 火炎砲の攻撃を受けたラジオ局を棒と国旗で守ろうとする 2人の若者、敵の戦車によじ登って抗議の旗を振りかざす 青年・・・。衝撃のショットが続く。

 この写真集には、プラハ侵攻後の様々な資料が、日本語に翻訳されて掲載されている。

 プラハ侵攻が始まった8月21日に ドウプチェク第一書記が率いるチェコスロヴァキア共産党プラハ市委員会がラジオで流した宣言には、こうある。
 「偶発的な挑発は決して行わないでください。現在、武力による防御はもはや不可能です・・・」

 替わりに市民らは「見事なアイデアを思いつく」

「何十万という無名の、素性の知られていない人々が街路や広場の名前が書かれた標識を破壊し、番地の標識すら消してしまった。・・・招かれざる客にとって、プラハは死んだ町と化したのだ。ここで生まれなかった者、ここに住んでいない者は、100万人の匿名都市を目のあたりにする。占領軍がここで見出すのは、多種多様な抗議文だけだろう」

「イワン、家に帰れ、ナターシャが待ってるぞ」
「ソ連兵よ、家に帰って、どうしてチェコスロヴァキアにいたのと子どもに尋ねられたら、何と答える?」
「顔を上に向けろーーー手は上げるな!」

 あのヤン・フス像の黒い壁面には、なぜか英語で「GO HOME」そして「卍=☆」のマークが、何度消されても描かれた・・・。

ヴァーツラフ広場;クリックすると大きな写真になりますヴァーツラフ広場脇の建物群;クリックすると大きな写真になります
ヴァーツラフ広場のヤン・パラハ慰霊プレート。奥が聖ヴァーツラフ騎馬像。その奥が、国立博物館ヴァーツラフ広場脇の建物群。黄色いホテルの壁面に銃痕が残っている、というkとだったが・・・。
 プラハに来て2日目の朝。プラハのシャンゼリーゼといわれる ヴァーツラフ広場に行った時は、どしゃぶりの雨だった。北西から南東に伸びる通りの南端。 聖ヴァーツラフの騎馬像の前に ヤン・パラフの慰霊プレートがあった。

 1969年1月。前年夏の「プラハの春」挫折に抗議して、学生ヤン・パラフはこの場所で焼身自殺した。小さな像を刻んだプレートの周りは、40数年後というのに小さな花輪やロウソクであふれていた。

 広場の両側は、ブランド品の店やホテルが並んでいる。一部の建物には侵攻の際、ソ連兵が威嚇射撃した銃弾の跡が残っている、という。カメラで追ってみたが、どしゃ降りの雨の暗さで確認できなかった。

 ジョセフ・クーデルカの写真集で、特に衝撃的な写真の2枚が印象に残っている。  1枚は、ヴァーツラフ広場を埋め尽くしている抗議の人たちの座り込みの写真だ。私が訪ねた時にはなかった市電の線路と石畳が伸びている。周りには、両側はソ連軍などの戦車と装甲車が砲準を向け、一発触発だったらしい。

 もう1枚は、人っ子一人いないヴァーツラフ広場を見下ろす窓に差し出された 左腕らしい写真。腕時計は午後6時を指している。写真集の資料には、こうある。  「(座りこんでいる人々に向かって)警察の拡声器が響いた。父親のような声だった。『さあ、馬鹿なことをしないで、解散するんだ。占領軍にいい口実を与えるじゃない。彼らの目的は何かわかっているだろう・・・』。・・・しぶしぶと群衆は三々五々解散を始めた。30分後には、広場に静寂がもどった」
 人っ子1人いない広場の情景は、8月22、23日の2度にわたって見られた。

 ブタペスト経由でプラハを訪ねた機中で小説 「プラハの春 上・下」(春江一也著、集英社文庫)を読んだ。「プラハの春」の挫折を題材にしてベストセラーとなった。軸は、プラハ駐在の日本人外交官と2人の女性とのロマンスだが、焼身自殺したヤン・パラフも主要な役割で登場し、プラハ侵攻の様子や外交交渉にも多くのページが割かれている。

 しかし、ジョセフ・クーデルカの写真集とそこに転載された文献とは、事実が少し異なる。写真と事実を積み重ねたドキュメンタリーの威力を痛感した。

 「プラハの春」から21年後、1989年の無血革命 「ビロード革命」で、共産主義国・チェコスロヴァキアは民主化された。その立役者となったハヴェル前大統領が、今月18日に死去した、という。

 チェコスロヴァキアからチェコ共和国となった首都・プラハは、その前に訪ねてハンガリーのブタペストに比べても民主化の果実を満喫しているように見えた。
 黒っぽい地味な服装が多かったが街を歩く人々の表情は明るく、ビアホールは夕方から地元の人たちで超満員。チェコ・フイルハーモニーの演奏を聴いた音楽公会堂 「ルドルフイヌム」は、正装の観客であふれていた。
 「建築の森」の別名がある通り、ロマネスク、ゴシック、アールヌーヴォからキュービスム様式の建物まで楽しめた旅だった。

2011年9月11日

紀行「ザ・ノグチ・ミュージアム(米国・ロングアイランド市、2011・8・18)


 この 美術館(ホームページに日本語解説)は、米国人を母、日本人を父にもつ彫刻家、 イサム・ノグチが、自ら財団を作って所蔵作品を集め、1985年に開設した。
 以前このブログに書いた 「イサムノグチ 宿命の越境者」(ドウス昌代著)や映画 「レオニー」(松井久子監督)にふれて以来、ここにはぜひ行きたいと思い続けてきた。

 当初は、ニューヨークに着いた2日目の14日(日)に、日曜だけマンハッタンから出る有料シャトルバスに乗るつもりだった。
 ところが、あいにく2カ月分の雨量が1日で降ったという大雨。ホテルに近い セント・パトリック教会 ニューヨーク近代美術館(MoMA)に行くだけで時間がなくなってしまった。

 やはり小降りにはなったが、雨がやまない16日(火)。地図では黄色で表示されている 地下鉄「N、Q線」に乗った。

以前は、ニューヨークの地下鉄と言えば、構内、車内での落書きや凶悪犯罪行為が続き評判が悪かった。20数年前にニューヨークに仕事で来た時も、1人で乗る勇気がなく、デトロイトからわざわざ出張名目で来てくれた大学時代の友人・Nに連れられて、こわごわ体験乗車したことを思い出す。

 マンハッタン・レキシントン通りの駅から4つ目。イーストリバーを越え、地上に出てすぐの駅名がなんと「ブロードウエー」。確かに、駅と直角に同じ名前の通りが走っていたが、あのニューヨークのミュージカルで有名な 「ブロードウエー」とは、まったく別の通り。「ブロードウエー(広い道)」は"目抜き通り"の意味らしく、米国各地にあるようだ。

   やっと雨が上がったこの通りを20分近く歩き、突き当たりを右折して2ブロック。自動車工場や倉庫に囲まれて、工場を改装したとは思えない一部レンガ造りの瀟洒な建物が、目指す美術館だった。できた当初、地元の人は「日本人の建てた別荘」ぐらいにしか思っていなかったらしい。

 小さな入口が、なぜか開かない?・・・。ぐるりと回って、事務所の鉄製ドアーをたたくと、出てきた小柄な女性が「今日は、サンクスギビング(休日)」と。月曜日が休館日だというのは確認して出かけたのだが、連休とは・・・。ブロードウエーをむっつり戻る。雨はすっかり上がり、暑い日差しが戻ってきた。「ああ、かき氷が食べたい」。入ったスーパーストアーで売られていたシャボテンの葉が気になった。

地上に出た地下鉄[N・Q線」;クリックすると大きな写真になりますブロードウエー駅;クリックすると大きな写真になります中庭にある石柱;クリックすると大きな写真になります石のくぐり戸;クリックすると大きな写真になります
地上に出た地下鉄[N・Q線」ブロードウエー駅中庭にある石柱(イサム・ノグチ美術館で)石のくぐり戸、リラックス!
目玉の石と松の木;クリックすると大きな写真になります水が流れる黒いつくばい?;クリックすると大きな写真になりますサボテンを売る駅前スーパー;クリックすると大きな写真になります
目玉の石と松の木(イサム・ノグチ美術館で)水が流れる黒いつくばい?(イサム・ノグチ美術館で)サボテンを売る駅前スーパー
 あきらめるつもりだったが、実質最終日の18日。「やはり、もう一度」と同行Mに肩を押され、再度「ブロードウエー駅」に降りた。

 入場料は、シルバー割引で5ドル。入ったとたんに「しだいに《石に取りつかれて》いった」(ドウス昌代)というイサム・ワールドが飛び込んで来る。

 大理石、玄武岩、花崗岩・・・。石だけではない。ステンレスや鋳鉄、角材、青銅、アルミ板など様々な材料を使った彫刻がゆったりと間隔を取って置かれている。自然光を取り入れた2階建て、延べ2500平方メートルの館内には、10室のギャラリーに分かれている。塑造や、ゆるやかなタッチで描かれた裸婦や猫の墨絵もある。

 それぞれの制作意図は分からなくても「ああ、この造形いいな」と思えるものがいくつもあり、なんだかほっとできる不思議な空間だ。

 1階からも2階からも自然に入り込める庭園が、また良い。松や竹、ニレのような大木を配置した石庭風の敷地に、大きな目玉をのぞき込みたくなる石柱や真ん中のくぼみから静かにあふれ出た水が壁面を流れ落ちる大きめのつくばいのような黒大理石。  イサム・ノグチは、日本に滞在していた時、昭和初期の作庭家、 重森三玲が造った庭を熱心に見て回った、という。

 その影響を確かに受けていることは感じるが、同時にアメリカの風土が持つカラリとした明るさもある。春には、コブシや枝垂れ桜も咲くらしい。

 この美術館の正式名は「イサム・ノグチ庭園美術館」。日本の四国・高松にあり、どうしても行ってみたいと思っている 「イサム・ノグチ庭園美術館」と同じ名前なのである。

 やっと朝から快晴になった17日(水)には、ニューヨークに来れば逃せない メトロポリタン美術館を訪ねた。それも、ニューヨークにいる娘が親しくさせていただいている方が、この美術館の友の会?メンバーで、我々をゲストとして無料入館させもらえるという。

 約束の午後1時前。美術館向かいの高級マンションらしい建物前の植え込みに座って娘を待つ。なんと、そのマンションの高層階が招待していただいたEさん一家の住まいだった。セントラルパークが一望できるお宅でお茶をごちそうになり、ご主人のご厚意という分厚い美術館ガイドまでいただいた。案内していただいた美術館入り口で、胸に付けるアルミ製の青いバッジを受け取る。お世話になりました、Eさんご一家。

 前回来た時にわけも分からずウロウロして、すっかり疲れたことを思い出し、見るのは2階の「ヨーロッパ絵画」に限った。

 ルノアールのゆったりした名品の数々。モネの「睡蓮」、ゴッホの名作が、これでもか、これでもかと押し寄せる。スーラ、ピカソ、マネ、ミレー、クールベ、ドガ、セザンヌ・・・。ウイーンでたっぷり見たクリムトも数作。
 「そうだ、フェルメールを見ていなかった」。ギャラリーを何度も行き来し、案内の人にたずねてやっと「水差しをもつ若い女」「若い女の肖像」「信仰の寓意」に出会えた。

 一休みしようと、屋上庭園カフエに出たが、暑い!周辺の摩天楼をカメラに収めただけで逃げだし、また2階をウロウロ。膨大な作品群に圧倒され、疲れはて、1階にある巨大なエジプト「デンドウ―ルの神殿」の奥にあるカフエにどっと座り込んだ。

 鉄鋼王のコレクションを集めた 「フリック・コレクション」も2度目だが、フェルメールの作品が3つもあるのは初めて知った。
ルノアール「シャンバンティエ夫人と子供たち」;クリックすると大きな写真になりますゴッホ「ひまわり」;クリックすると大きな写真になりますクリムトの作品;クリックすると大きな写真になりますミレー「干し草の山」;クリックすると大きな写真になります
ルノアール「シャンバンティエ夫人と子供たち」(メトロポリタン美術館で)ゴッホ「ひまわり」を初めて見た!(メトロポリタン美術館で)おなじみクリムトの作品(メトロポリタン美術館で)ミレー「干し草の山」(メトロポリタン美術館で)
フエルメール「若い女の肖像」レンブランド「自画像」(メトロポリタン美術館で)屋上庭園から見える摩天楼;クリックすると大きな写真になりますエジプト「デンドウール」の神殿;クリックすると大きな写真になります
フエルメール「若い女の肖像」(メトロポリタン美術館で)レンブランド「自画像」(メトロポリタン美術館で)屋上庭園から見える摩天楼(メトロポリタン美術館で)エジプト「デンドウール」の神殿(メトロポリタン美術館で)


 近代美術館(MoMA)では「ここでしか見られない」ことで評判のセザンヌ・「水浴する人」、ピカソの「アヴィニヨンの娘たち」だけでなく、アメリカ近代・現代を代表するポロックの「ワン;ナンバー31」、リキテンスタイン・「ボールを持つ少女」、ウオーホル作「ゴールド・マリリン・モンロー」にも初めて出会えた。いやー、満足、満足!
ピカソ「アヴィニヨンの娘たち」;クリックすると大きな写真になりますセザンヌ「水浴する人」;クリックすると大きな写真になりますウオーホル「ゴールド・マリリン・モンロー」;クリックすると大きな写真になりますリキテンスタイン「ボールを持つ少女」;クリックすると大きな写真になりますポロック「ワン;ナンバー31」;クリックすると大きな写真になります
ピカソ「アヴィニヨンの娘たち」(MoMAで)セザンヌ「水浴する人」(MoMAで)ウオーホル「ゴールド・マリリン・モンロー」(MoMAで)リキテンスタイン「ボールを持つ少女」(MoMAで)ポロック「ワン;ナンバー31」(MoMAで)


 19世紀の終わり、アメリカの世界的規模の美術館がないことを憂えた実業家たちの会合で、メトロポリタン美術館の開設を決めた時、建物はおろか、1点の絵画さえ所有していなかった、という。
 建国してたった200余りで世界トップクラスの所蔵を誇る美術館を持つ。アメリカという国のすごさを思う。

 9・11、10年を迎えた。訪ねた「グラウンド・ゼロ」では、記念公園の整備と新しい高層ビルが建設中だった。 br />
 テロとの抗争、ドルの価値低下、経済の低迷。アメリカが悩んでいる・・・。それだけ、各美術館に遺された作品群が輝きを増しているようにも思えた。

2011年8月31日

読書日記「陰翳礼讃」(谷崎潤一郎著、中公文庫)


陰翳礼讃 (中公文庫)
陰翳礼讃 (中公文庫)
posted with amazlet at 11.08.31
谷崎 潤一郎
中央公論社
売り上げランキング: 509


 8月下旬にニューヨークを次々に襲った百数十年ぶりの地震と、ウオール街近くまで洪水が迫った  ハリケーン「アイリーン」を 予知していたわけではないのだが・・・。
その直前に娘のいるマンハッタン島に出かけた。酷暑を覚悟して行ったのに、朝の気温が華氏70度(摂氏20度)前後と、すっかり初秋の気配だった。

 3度目のニューヨークだが、ミュージカル劇場がひしめく タイムズスクウエア周辺を別にすると、いつもながら夜の街並みの暗さが気になる。

 街だけではない。ホテルの部屋の枕元のライトでは本も読めない。レストランの照明も天井にわずかに付いているだけで薄暗い。部屋全体を明るくする日本のやり方に慣れていると、間接照明はなんとなく落ち着かない

タイムズ・スクエアー;クリックすると大きな写真になりますステーキハウス;クリックすると大きな写真になりますスターバクス・コーヒー店;クリックすると大きな写真になりますオイスターバー;クリックすると大きな写真になります
ミュージカルが引けた直後の不夜城、タイムズ・スクエアー昼なお暗きステーキの名店「ウオルガンフ ステーキハウス」スターバクス・コーヒー店も、この暗さ(ロックフェラーセンターで)懐かしのオイスターバーでは、夏でも牡蠣は食べられました。20年前もこんなに暗かっただろうか(セントラルステーション地下で)
 機中で読んだ「陰翳礼讃」に、こんな記述があった。

 
先年、武林夢想庵(滞欧生活の長い知人の小説家)が巴里から帰ってきての話しに、欧州の都市に比べると東京や大阪の夜は格段に明るい。巴里などでではシャンゼリゼエの真ん中でもランプをともす家があるのに・・・。


 
夢想庵の話は、今から四、五年も前、まだネオンサインなど流行り出さない頃であったから、今度彼が帰って来たらいよいよ明るくなっているのにさぞかし吃驚(びっくり)するであろう。


 
これは 「改造」山本社長に聞いた話しだが、かつて社長が アインシュタイン博士を上方へ案内する途中汽車で石山のあたりを通ると、窓外の景色を眺めていた博士が、「あヽ、個処に大層不経済なものがある」と云うので訳を聞くと、そこらの電信柱か何かに白昼電燈のともっているのを指したと云う。


 著者・谷崎は、こう結論づける。

 
何にしても今日の室内の照明は、書を読むとか、字を書くとか、針を運ぶとか云うことは最早問題ではなく、専ら四隅の蔭を消すことに費やされるようになったが、その考は少なくとも日本家屋の美の観念とは両立しない。


 そして伝統的な日本家屋を構成する「陰翳」の美に「礼讃」を惜しまない。

「ほのじろい紙の反射が、床の間の濃い闇を追い払う力が足らず、却って闇に弾ね返されながら、明暗の区別のつかぬ昏迷の世界を現じる」障子。「もやもやとした薄暗がりの光線で包んで。何処から清浄になり、何処から不浄になるとも、けじめを朦朧とぼかして置いた方がよい」厠(かわや、トイレ)。
「外の光が届かなくなった暗がりの中にある金襖や金屏風が、幾間を隔てた遠く遠く庭の明かりの穂先を捉えて、ぽうっと夢のように照り返している」様子や、お膳に並ぶ漆器が「暗い奥深い底の方に、容器の色と殆ど違わない液体が音もなく澱んでいる」のを眺めことにまで、「陰翳」の美を見つけるのである。


 この6月に出た、言語学者で慶応大学名誉教授の 鈴木孝夫氏の 「しあわせ節電」(文藝春秋刊)という本を読んだ。

 鈴木氏は言う。
 
高速道路を照らし続けるオレンジのカドニウムライト、二十四時間営業のコンビニエンスストア、深夜まで放送を続けるテレビ・・・私たちの身近には、いつのまにか不要不急電気製品が大量にあふれかえっていました。


 そして「ほんの少し前の日本人の生活に戻るため、進歩を少し止め」「部屋の電気は暗いものと考えて、今すぐできる節電・節約を」と呼びかける。

 
いま否応なしに要請され始めた節電の日々は、目に見える所で、肌に感じる形で、何が幸福かを問いかけてきます。節電という生き方の中に「しあわせ」のあたたかい灯が、感じられてくるのです。久しく失っていた美しい星空が、再び都会の空に戻ってきたのです。


 最近、寝る前に居間の電気を消し、合成樹脂製の疑似障子窓から漏れる暗やみの明るさを楽しむことにした。政府や電力会社の押しつけがましい節電要請とは無縁な「陰翳礼讃」である。

しあわせ節電
しあわせ節電
posted with amazlet at 11.08.31
鈴木 孝夫
文藝春秋
売り上げランキング: 83425

2010年6月23日

「デンマーク紀行」(20104・29-5.5)・下

 デンマークから帰ってから、同行した友人Mが知り合いの骨董屋の亭主から、こんなことを聞いてきた。「あそこは"世界一美しい美術館"と言われているんです」

 ルイジアナ現代美術館。デンマーク語とは思えないこの美術館の名前は、オーナーの妻の名から取られたものらしい。クロンボー城のあるヘルシオンの3つ手前のフムレベック駅から歩いて15分ほどの住宅地のなかにある。
 ツタに囲まれた瀟洒な邸宅のドアーを押すと世界が一変する。ガラス張りの明るいロビーが広がり、大きなガラスと木の柱と天井でできた渡り廊下が直角に曲がり、曲線を描いて伸びていく。その向こうには、大木と芝生の庭園、スエーデンを臨むオアスン海峡の碧い海。
  渡り廊下の曲り角に、そして池を臨む吹き抜けのガラス窓の脇に、ジャコメッティの作品がさりげなく置かれている。この彫刻家の作品は今年2月、ロンドンでのオークションで94億円もの高値で落札されたばかりだ。
 美術館のホームページでは、広い展示場の真ん中に展示されている巨大な金色の親指像が、行った日はなぜか、人でごった返すカフエの片隅にデンと据えられていた。

 渡り廊下が結ぶ建物は、庭と碧い海に溶け込むように建っている。大きな建物は地下に潜っている。5期にわたる拡張工事で一番大切にされたのは、周囲の環境との調和だった、という。
 「デンマーク デザインの国」(島崎 信著、学芸出版社)という本には、この美術館について「池と踏み石や、庭木の配置なども、日本の建物と庭・・・から大きな影響を受けたと設計者自身が述べている」と書かれている。
 そう言えば、渡り廊下から柳と笹の木越しに見えた庭の一隅。濃い緑のツタに埋もれた石柱の向こうにあった石像は、なにか"お地蔵さん"に似ていたような。

 午前中の雨もやっと止んだ。庭園にあるヘンリー・ムーアアレクサンダー・カルダーイサム・ノグチの作品群をなんども巡回、大木を仰ぐ。入り江に降りる階段に座ってほおづえを突く。北海の時間が悠々と過ぎてゆく・・・。

 帰りはバスに乗ろうと思って、つい大勢の人が待っていたのにつられてヘルシオンの街まで戻ってしまった。
 おかげで約20分。デンマークのリビエラといわれる美しい海岸線を満喫。茅葺の屋根を載せたコテッジがいくつもあった。

 朝の9時半すぎにアメリエンボー宮殿に着いたら、今は宝物展示室になっているクリスチャン8世王宮殿の前にもう観光客の長い列ができていた。
 隣の宮殿にはデンマーク国旗が翻っていたから、現・女王が在宮しておられるということらしい。その隣の宮殿は国賓のレセプションルームとして使われ、もう1つは宮内庁。4つの宮殿が広場を囲んでいる。どこかの国とは大違いの簡素ぶりだ。
 宮殿の周りを熊の毛皮帽をかぶった衛兵が巡回している。衛兵の赤い待機小屋をよく見ると、ハート型ののぞき穴があいている。これも、デンマーク・デザイン?

   時間つぶしに近くのチャーチル公園を歩き、有名デザイナーのものらしいオフイス・チェアのショウルームをのぞき、デンマーク工芸博物館で午前11時の開館を待つ。デザイン専攻らしい3人の若者も自転車でやってきた。元は王立の病院だったらしい。

 入って左側すぐのところが日本や中国の日用品展示コーナーで、寿司屋のノレンやヒノキの風呂まで並んでいる。デンマークのモダン様式デザインを創設したアルネ・ヤコブセンが生涯作り続けた簡素なチェアのコーナーや歩行者天国・ストロイエに本店のあるロイヤル・コペンハーゲンの作品群、細く長い木箱に保存されている精緻な刺繍コレクションの前で、デザイン好きの友人は動こうとしない。

 アルネ・ヤコブセンといえば、コペンハーゲン滞在中に泊ったSASロイヤルホテル も、この人が1960年に設計し"デザイン・ホテル"と呼ばれる。20階建て、ガラス張りの高層ビルは市内のどこからも探せて、旅行者には便利だが、当時の市民は驚いたことだろう。
 建物だけでなく、家具、照明、テキスタイル、ナイフやスプーンまでデザインしている。一階カフェにある皮張りの「セブンチェア」や筒型の「AJランプ」、最上階のレストランにある、体を包み込むような「スワンチェア」、ロビーの「エッグチェア」。いまだに作り続けられている逸品である。

 「質素でも実り多い生活、自立のための福祉、木への愛着・・・」
先の本の著者、島崎 新・武蔵野美術大学名誉教授は、デンマークのデザイン力を支えるものとして、こんなことを挙げている。

そんな現場にふれられる機会が来る日を夢みつつ・・・。

デンマーク紀行写真集 3
ルイジアナ現代美術館;クリックすると大きな写真になります中国人作家の作品;クリックすると大きな写真になります廊下から見る石庭;クリックすると大きな写真になります彫刻と海、空、庭園のコラボレーション;クリックすると大きな写真になります
池を臨むロビーのそこかしこに、ジャコメッティの作品が(ルイジアナ現代美術館で)屋内展示場で展示されている中国人作家の作品ガラス張りの廊下から見る石庭彫刻と海、空、庭園のコラボレーション
ヘンリー・ムーアと北海;クリックすると大きな写真になりますアメリエンボー宮殿;クリックすると大きな写真になります衛兵と赤い待機所。;クリックすると大きな写真になります公園のチャーチル像;クリックすると大きな写真になります
ヘンリー・ムーアと北海女王在宮。デンマーク国旗がはためく(アメリエンボー宮殿で)衛兵と赤い待機所。小さくハートののぞき穴が公園のチャーチル像。ナチス・ドイツに占領されたデンマークの解放に努力したという。下を向いているのは、落とした葉巻を探しているためとか
家具のショールーム;クリックすると大きな写真になります日本の日用品のコレクションコーナー;クリックすると大きな写真になりますロイヤル・コペンハーゲンの作品;クリックすると大きな写真になりますオートバイと木製いす;クリックすると大きな写真になります
この付近には、家具のショールームが多い日本の日用品のコレクションコーナー精緻なロイヤル・コペンハーゲンの作品オートバイと木製いす。モダン様式の歩み
博物館の中庭;クリックすると大きな写真になりますSASロイヤルホテルで;クリックすると大きな写真になります「セブンチェア」;クリックすると大きな写真になりますカフェ柱の「AJランプ」;クリックすると大きな写真になります
菩提樹の並木が続く博物館の中庭最上階レストランにあるヤコブセンの写真と「スワンチェア」(SASロイヤルホテルで)1階カフェに並ぶ「セブンチェア」カフェ柱の「AJランプ」
テーブルの支柱;クリックすると大きな写真になります
ふと足元を見ると・・・。テーブルの支柱にこんなデザインが。


book
デンマーク デザインの国―豊かな暮らしを創る人と造形
島崎 信
学芸出版社
売り上げランキング: 336620
おすすめ度の平均: 4.5
4 心地よい・生活に密着したデザインを一考する上で、必須かも
5 多くの名作家具デザイナーを生み出した国を訪れる

2010年6月 8日

「デンマーク紀行」(2010・4・29-5.5)・中


 デンマークへの旅程を組んでいて、テーマを2つに絞ってみようと思った。
 1つは、列車を使って、この国にある世界遺産建築や古都を訪ねること。もう1つは「デザイン王国」と言われるこの国のすばらしさに少しでもふれられる機会があったらと・・・。

 コペンハーゲンに着いて3日目の朝、ホテルの目の前にある中央駅に向かった。

 デンマーク国内なら3日間乗り放題という「ユーレイル パス」(1万1千円)を日本で買っておいたが、まず窓口の駅員さんにパスポート番号や有効期限(1か月)を書き込んでもらい、2か所にスタンプとサインをもらわなければならない。列車に乗る日は自分で書き込むのだが、月日を書く欄が有効期限の欄と違っていたため書き間違い、駅員さんに訂正させられた。勝手に訂正すると不正行為とみなされて罰金がかかると聞いていた。検札のたびにちょっとヒヤヒヤしたが、幸い問題にされなかった。

 駅には改札口のたぐいやアナウンスは一切ないから、電光掲示板で確かめなければならない。人口の少ない国の省力化ぶりには感心させられる。
7番ホームに降り、スウエーデン国境の町、ヘルシンオア行きの普通列車(Re)を待つ。9時59分の出発数分前というのに中年の夫婦1組が待っているだけでガランとしている。おかしいなあと、階段棟の向こうをのぞくと、列車はすでに到着しており、スエーデンから来たらしい大きな荷物を抱えた若者たちがどっと降りてくるところだった。危うくセーフ。
 1両目の車両がすいていたので座ってだべっていたら「ここはサイレントカーよ」と老婦人に注意され、あわてて2両目に移った。最後尾には、自転車を持ち込める車両も連結されていた。

 海峡沿いに北へ走り、約50分でヘルシンオアに着いた。やはり改札口はない。目の前の港にスエーデンから着いたらしい大型フエリーが停まっている。スエーデンの町、ヘルシンボリまでオーレンス海峡をはさんで5キロしかない、という。

 街の中心街を抜け、シーメンスの煉瓦工場脇を右に回って15分ほど。シェクスピアの戯曲「ハムレット」の舞台になった世界遺産、クロンボー城が見えてくる。デンマーク王子・ハムレット(アムレット)は、ここで亡父の霊に会う。

 15世紀に建造されて以来、なんどか修復を繰り返しているが、石畳の中庭を囲んでほぼ真四角な堂々とした古城のたたずまいに圧倒される。ルネッサンス様式だという。

 驚いたのは、延々と続く地下道だ。
 入ってすぐのところにデンマークの国民的英雄「ホルガー・ダンスク」の石膏像がでんと据えられている。眠っている姿だが、デンマークが危機にひんすると目を覚まして戦うという伝説がある。第2次世界大戦でナチスドイツに占領された時、この英雄の名前を採ったレジスタンスグループが活躍したらしい。 アンデルセン童話には、この伝説をもとにした「デンマーク人ホルガー」という作品がある。
 灯りがほとんどなく真っ暗な洞窟を手探りで歩く地下道はなんと地下牢の跡だという。早く地上に出たいとあせる気持ちになるが、暗闇はいつまでもつきない・・・。中世の亡霊に今にも出会いそうな"恐怖"さえ感じてしまう。

 翌日に訪ねたもう1つの世界遺産、ロスキレ大聖堂は、やはり普通列車(Re)で25分ほど西にあるデンマーク最初の首都、ロスキレの駅から歩行者天国を歩いて15分ほど。
 12世紀に創建されたが、増改築を繰り返してロマネスクゴシック様式が混在する煉瓦造り。見る角度、場所で印象が違い、全体のイメージがつかみにくい。様々な歴史を刻みながら、現在はプロテスタント、ルター派に属するデンマーク国教会の教会。デンマーク王室の菩提寺であり、20人の王と17人の女王が葬られている、という。

 ちょうど日曜日にあたり、この時期は観光客シャットアウトということだったが、1時間ほど待って午前10時30分からの聖餐式に特別に参加させてもらった。
 入ってみて、その長大さにびっくりする。一番奥から3分の1ほどのところに祭壇があり、説経台は入口から3分の1ほどの右側。時代を経ながら大きな聖堂になっていったことが分かる。
 不思議なことに、窓にステンドグラスが一切なく、金網が組み込まれている。もう1つ不思議なのは、天井にくみ上がっていく煉瓦の柱が白の漆喰で塗り固められていることだ。
 ほかにも、内部だけでなく外壁の煉瓦も白く塗られている教会も見た。ある時期から、こうなったらしい。カトリックからプロテスタントに替わった歴史の産物かもしれない。
 天井から下がっているのが古色然としたシャンデリアではなく、近代的なデザインの灯りであるのが"デザイン王国"らしい。

 聖餐式も、聖職者が会衆に背を向けて司式し、信徒が内陣に入ってパンとブドウ酒を拝領するなど、カトリックのミサとはかなり違う。
 デンマーク国民の80%以上が国教会の信徒ということだが、教会に行く人は少ないらしい。列席していたほとんどは白髪の人たち。聖餐式の前に何組かの子どもを連れた夫婦に会ったが、教会を素通りして広場の蚤の市に向かって行った。

 ロスキレから急行列車のインターシティ(IC)に乗り換え、アンデルセンの街・オーデンセに途中下車。さらにICを乗り継ぎ、途中で私鉄のArrive Tog(AT)に乗り換えて、ユトランド半島の西海岸にあるリーベに向かう。コペンハーゲンから直行しても約2時間半かかる長旅となった。
 1等車は完全予約制だが、2等車は任意予約。空いた席に座ってもよいが、予約を取っている人が来たら譲らなくてはならない。幸い我々は、予約の人とぶつからなかった。  駅に到着する数分前に駅の電光表示と短いアナウンスがあるだけ。駅にも、その駅の名前しか書いてないから、不慣れな外国人はちょっと不安だ。
 駅も道路に沿って駅舎があるだけ。道路と同じ平面のプラットホームにタクシーやバス乗り場が並んでいる。日本ではとてもまねができそうにない徹底した簡素化ぶりだ。

 リーベの街は、「旅の絵本」で知られる画家の安野光雅が「デンマークで一番美しい街」とある本で語っていたので、どうしても行きたくなった。
 ネット上で見つけた「『旅の絵本』を遊ぼう」というWEBページは圧巻だ。このなかの「リーベ1」にある「大聖堂から見たパノラマ」が見あきない。

 バイキング時代からのデンマークで一番古い街。中世からの色とりどりの煉瓦の建物の街並みがそのまま残っている。手を伸ばすと軒先に触れる低さ。傾いた家と石畳が曲線を描く。ここはこびとの国だろうか。その周りを自然がいっぱいのリーベ河がゆったりと流れている。なんとも心がなごむ街である。

日曜の休日だというのに自作の創作ガラスの店に招き入れてくれたおばさん。古くて低い天井のレストランで満席の客を笑顔でさばく女主人。300年前のものだという古い陶器を一心に売ろうとする骨董店の亭主・・・。出会った人たちの心情にも、またいやされた。

デンマーク紀行写真集 2
ヘルシンオア行き普通列車;クリックすると大きな写真になります雨にけむるクロンボー城;クリックすると大きな写真になります城の中庭。「ホルガー・ダンスク」の像;クリックすると大きな写真になります
ヘルシンオア行き普通列車、発車5分まえ。列車は来ない!(コペンハーゲン中央駅7番ホーム)雨にけむるクロンボー城城の中庭。毎年夏に、ここでハムレット劇が披露される「ホルガー・ダンスク」の像。眠っているようで、薄目をあけてにらんでいるようにも
延々と続く地下牢;クリックすると大きな写真になりますロスキレ大聖堂;クリックすると大きな写真になります同じロスキレ教会;クリックすると大きな写真になりますヴァイキング時代の船?;クリックすると大きな写真になります
延々と続く地下牢。フラッシュで明るく見えるが、実際は真っ暗ロスキレ大聖堂。これはゴシック様式?同じロスキレ教会。ロマネスク?ロスキレの海岸にあったヴァイキング時代の船?
自然豊かなリーベ河;クリックすると大きな写真になりますリーベの街並み;クリックすると大きな写真になります傾いた煉瓦の建物;クリックすると大きな写真になります
自然豊かなリーベ河色とりどりのリーベの街並み傾いた煉瓦の建物もしっかり保存されている

2010年5月25日

「デンマーク紀行」(2010・4・29-5・5)、上


 アイスランドの火山爆発再燃を気にしながら出かけたデンマーク。火山の影響か、冷たい雨の日が続く。憂うつになりかけた気分に"ニセ警官"が輪をかけた。

 コペンハーゲンに着いて2日目の朝。たまたま移動祝祭日の「大祈祷祭」に当たり人影もない官庁街に入り込んだ。レンガ造りの建物や青銅の騎士像にカメラを向けていて同行の友人たちに遅れてしまった。
どこから現れたのか、ジャンパー姿の青年に「チボリ公園はどこ?」と尋ねられた。持っている地図を広げて親しげに話しかけてくる。「日本人?私はギリシャから」

気づいたら屈強な2人の男が目の前に立っていた。「壁に手をつけ!麻薬捜査だ」。金バッチのついた警察手帳らしいものを見せ、旅券、日本円は?と、ウエストポーチに手を突っ込んでくる。
ポケットの財布に入っていたデンマーク・クローネの札束をパラパラとめくって返してきたが、妙に厚さがうすい。「NO!」と、男が握っていた右手を開けさせ、たたんだ札束を取り返した。
そこへ戻ってきた友人の1人が「警察に電話したぞ」と大声を出してくれた。男たちは、あわてて行ってしまった。あのギリシャ男?も一緒に・・・。

安全に気配りしなかった自分が悪い。だが、前日までのこの街への好印象は暗転した。

捨てた煙草の吸殻や紙くずが散らかる中心街。まばらな街路樹もみすぼらしい。休日の歩行者天国・ストロイエ通りの店先では、汚れたザックを抱えた老人が朝から眠りこけている。街のどこからでも見える4本の煙突が、もくもくと白煙をはき出している。「これが福祉の国、エコの国デンマークなのか」

 街を歩くと、ベールをかぶったイスラム系の女性や黒人、アジア系の人たちが異常に目につく。
 着いた日に市庁舎広場前でホンダ車に乗ったベール姿の女性に笑いかけられたが、ストロイエを歩くと黒っぽいベールの年取った女性にたびたび行き交った。タクシーや自転車王国の象徴・輪タクの運転手はたいてい黒人。
「スモーブロー」(デンマーク名物のオープンサンドウイッチ)のテークアウト店やコンビニ「セブン・イレブン」(日本資本のチェーン店、国内に126店)の店員は、アジア系か黒人が多い。

 この国の人口は、たったの550万人ほど。高度成長時代には、人手不足を解消するためトルコ、イラク、レバノン、ボスニア、パキスタンなどから移民が流入、一時は難民の受け入れにも積極的だった。人口に占める移民の比率は9・5%にもなっている。しかし最近は、移民の人たちの失業率の高さと教育水準の低さが、福祉国家のあい路になっているらしい。市庁舎前広場のベンチに座って動かない黒い人たちが、街の印象を暗くしているようにも思える。もちろん移民に慣れていない黄色人種の偏見でしかないが。

 落書きの多さには驚いた。ホテルから見下ろせるコペンハーゲン中央駅や古都・リーベ の駅舎、世界遺産の聖堂があるかっての首都・ロスキレ駅前にある巨大な陶器のモニュメント・・・。見事に、カラースプレーで彩られている。

 アンデルセン童話の主人公である「人魚姫の像」は、たまたま上海万博に出かけていて会えなかったが、落書き以上の被害に何度も合っている。頭部や腕を切られたり、赤いペンキを塗られたり、イスラム女性のスカーフをかぶせられたり・・・。
 犯人は、怒れる若者たちだとか、移民の人たちのフラストレーションの現れだとか、色々な憶測が飛び交っているらしい。

 すばらしい笑顔の人たちにたくさん出会えた。おかげで、八つ当たり気味の悪印象も少しづつ薄らいでいった。

 ロスキレから乗った長距離列車「インターシティ」で、老夫婦と同席になった。「エッ、リーベに行くの?私、そこの出身」と、奥さんのベスさん。弟さんが、駅前で朝食付きの宿を経営している、という。「あの街に行くなんて、すばらしい選択ね」

 途中、アンデルセンが生まれたオーデンセ に途中下車した。リュックをロッカーに預けようとして10クローネ・コイン4枚を入れたが、カギが閉まらない。改札口で「インフォメーション」と書かれた黄色い腕章をしている私服の女性にたずねるとすぐに男性駅員を連れて来てくれて一件落着。アンデルセン博物館への道順を聞いたら、地図を取りに走ってくれた。
 博物館からの帰り、リーベまでの列車時刻を確かめに切符売場に行くと、なんとさきほどの女性が制服姿でニッコリ笑いかけてきた。人手不足のこの国では、駅員は何役もこなさなければならないらしい。

 リーベ駅前のヴァイキング博物館に寄ったら、昔のヴァイキングらしい衣装を着た一群がいた。「ヤーパンから?写真を撮ってくれるのかい」。別の町のヴァイキング博物館のボランティア・ガイドをしているが、着替える時間がなかったという。5人(+赤ちゃん)も集まってくれて、いい笑顔の写真が撮れた。

 朝の9時半。ロスキレの港近くの公園で「ようこそロスキレ」へと、両手を広げて笑いかけてきたスキンヘッドの男性。世界遺産の大聖堂前広場の蚤の市で、ニコニコ笑いながら1クローネもまけてくれなかった気品あふれる中年女性。コペンハーゲンのデンマーク料理店やリーベのレストランで応対してくれたホスピタリティあふれた女主人たち・・・。

 コペンハーゲンに戻って同じホテルに1泊、空港に向かった。ベルボーイなんて、最初からいないから、コンセルジェの男性が自らタクシーに荷物を載せてくれた。

「この国の5日間、どうでしたか」「いい旅でした」「また、お待ちしていますよ」

デンマーク紀行写真集1
チボリ公園;クリックすると大きな写真になりますホンダ車に乗ったイスラム系の女性たち;クリックすると大きな写真になります青銅の騎士像;クリックすると大きな写真になります「セブン・イレブン」;クリックすると大きな写真になります
ホテルの窓から見たチボリ公園、着いた日の夕方に出かけ、パントマイムやオーケストラ演奏など、白夜の初日を楽しんだが・・・ホンダ車に乗ったイスラム系の女性たち。官庁街にある青銅の騎士像。この付近で"ニセ警官"に襲われたコペンハーゲンの街のどこにもある「セブン・イレブン」。カップラーメンもある
ストロイエ;クリックすると大きな写真になります輪タクの修理に忙しいドライバーたち;クリックすると大きな写真になります「ニューハウン」;クリックすると大きな写真になります電力会社の煙突;クリックすると大きな写真になります
休日のストロイエ。閉まったシャッターの前で眠りこける老人輪タクの修理に忙しいドライバーたち運河に沿ってカラフルな木造家屋が並ぶ「ニューハウン」白煙を吐き出す電力会社の煙突。出ているのは水蒸気だそうだが
コペン中央駅に並ぶ自転車;クリックすると大きな写真になります見事に落書きされたモニュメント;クリックすると大きな写真になります落書き;クリックすると大きな写真になりますロスキレの蚤の市;クリックすると大きな写真になります
コペン中央駅に並ぶ自転車。専用道路が整備され、列車にも持ち込める見事に落書きされたモニュメント(ロスキレ駅前で)緑に包まれた駅舎にも落書き(リーベ駅で)ロスキレの蚤の市。左の女性がオーナー。リキュールグラス、きれいな絵皿が1個5クローネ(100円弱)
乳母車の親子;クリックすると大きな写真になりますヴァイキング博物館;クリックすると大きな写真になります田園地帯の風車;クリックすると大きな写真になります
乳母車の親子ヴァイキング博物館で会ったボランティアの人たち田園地帯の風車。エネルギー消費の20%を風力がまかなうという

2009年10月 3日

北京紀行「書店巡り、そして国慶節前夜」


 北京の街をのぞいてきた。

  実質2日半という短い日程だったので、北京に6つある世界遺産のいくつかを見られれば、というぐらいの気楽な気持ちで出かけたが、なかなか・・・の旅でした。

 ホテルでチェックインをすませた午後2時半。さっそく近くの地下鉄・建国門駅から1号線で2駅目の王府井駅で降り(地下鉄は一律2元=約26円)、出版社の「商務印書館」を目指した。北京最大の繁華街・王府井大街を北に向かって歩く。

 路の一部は歩行者天国となっている。日曜日とあって大変なにぎわい。おのぼりさんのように、左右をキョロキョロ見ながら10数分。あった、あった、路の向かい側に。現地の人のまねをして、自動車やバスを避けながら路を横切った。この出版社の1階に小売部があるのだ。
 この出版社が出している「现在汉语实词搭配词典」という中国語の辞書を買うのも、今回の目的の1つ。週に1回通っている神戸の中国語教室の先生に勧められた本で、動詞や形容詞などの正確な配列を調べられる。

 私の実力ではちょっと手に余るのだが、たった30元(約400円)の小型の辞書なので、教室の同級生である中国語の使い手たちへのみやげになるかとも考えた。
 ところが出版元というのに、店員の答えは「没有(ありません)」。しかたなく「日语常用词搭配词典」(日本常用語配列辞典)というのを46元(約605円)で衝動買いした。この本、なんとほこりだらけ。レジの横にほこりを取る台みたいなものでぬぐい、袋のも入れないで渡された。店頭に並べられた写真集をパラパラめくってみたが、やはり黄砂らしい砂ぼこりが指先につく。ホテルの窓から見たどんよりした空の犯人はこれか、と気付いた。

 バス(1元=約13円)で地下鉄・王府井駅に戻り、西へ3つ目の西単駅で降りる。この駅の真上に中国語教室の先生に教えてもらった北京最大の書店、北京図書大厦がある。その広さ、混みよう、日本の「ジュンク堂」も顔負けだ。買い物客はスーパーにあるような台車付きのワゴンに本をいっぱい詰め込んでレジに並んでいる。
 辞書コーナーは、8階建てのビルの3階。店員も多く、担当も細かく分かれているようだ。やって来たちょっとやくざっぽいお兄ちゃんに頼むと、書棚をひとわたり眼で追って「没有」。たった一言を残して、さっさと消えてしまった。いささか、あ然!

 ホテルのフロントに相談することにした。翌日、フロントにいた「高」という名札を付けた若い女性に事情を話すと、さっそく中国最大の検索エンジン「百度」で調べてくれた。確かにこの本は写真付きで載っている。その下に書店のリストが記載されている。なんと高さんは、2日にわたって18の書店に電話してくれたが、いずれも「没有」。

 「インタネットで購入してみてもいいですか」と、高さん。「ぜひお願いします。できれば5冊ほしいのですが・・・」。
 日本に帰る朝、上司であるフロントの男性の携帯電話に非番らしい高さんからメールが入った。「出版元から今、連絡がありました。この本は現在、廃番だそうです」。

 「お世話をかけました、ありがとう高さん」。名刺の裏につたない中国語で感謝の言葉を書き、上司の男性に託した。

 10月1日の建国60周年を祝う国慶節パレードも終わったが、北京を訪ねた9月末の街は、厳しい警戒ムードと国慶節の準備を急ぐ華やいだ雰囲気が交錯していた。

 繁華街の王府井大街でさえ、パトカーなどの警察車が何台も止まり、武装警察官が機関銃めいた銃を持って警戒、警察犬を連れた警官が常時、パトロールしている。中国の公安組織がよく理解できないが制服も様々で、人民軍兵士も警戒に参加しているらしい。

 一方、世界一広いといわれる天安門広場には、国慶節のパレード用なのだろう、幅50メートル、高さ8メートルという長大なLEDスクリーンがデンと据えられ、広場の両側には、赤と金色で彩った巨大な柱が計56本、並べられている。柱には、漢民族と55の少数民族を示すイラストが描かれている。  建国50周年の時と比較にならない異常な警戒体制は、最近頻発したチベットや新疆ウイグル自治区で起こった騒動を意識したものだろうし、56本の柱は、他民族国家・中国の民族間融和を改めて狙ったものらしい。

 10月1日。国慶節の式典をインターネットの生中継で見ていたら、チベット自治区のパレードカーには「調和のとれたチベット」、新疆ウイグル自治区の車には「天山(山脈)からの祝意」と書かれていた。

 世界遺産・天壇公園でも、国慶節の準備のために北京市の花といわれる月季花(チャイナローズ、庚申バラともいう)の花壇が整備され、世界遺産・故宮(紫禁城)を一望できる景山公園の階段のてすりを取りかえる作業も急ピッチ。胡同見物の人力車が集まる什刹海公園の道路わきには北京の木、アカシアの白い花から甘酸っぱい匂いが流れていた。
 そして、世界遺産の万里の長城の広大な景観や故宮の折り重なるように連なる瑠璃瓦に感じ取れる中国の長大な歴史・・・。

  そんな景観を楽しむ観光客に交じりながら、この国の広さと複雑さに少しふれられた気がした。

王府井の歩行者天国:クリックすると大きな写真になります王府井小吃街の串焼き屋さん:クリックすると大きな写真になります北京最大の書店、西単・北京図書大厦ビル:クリックすると大きな写真になります同書店の広大な売り場:クリックすると大きな写真になります
王府井の歩行者天国。
若者たちのカジュアル姿は、意外に地味な感じ
王府井小吃街の串焼き屋さん。
生きたサソリ、カイコの幼虫、ムカデのから揚げ、あります。
北京最大の書店、西単・北京図書大厦ビル同書店の広大な売り場。一番奥には、天井までのカギ付きガラス書棚が並び、屈強な男性が客の求めで、本を取り出してくれる
防弾チョッキと銃で警戒する武装警察隊員クリックすると大きな写真になりますクリックすると大きな写真になりますクリックすると大きな写真になります
防弾チョッキと銃で警戒する武装警察隊員。
見て見ぬふりで通り過ぎる人、カメラを向ける人・・・(王府井大街で)
国慶節のために用意された各民族のイラストが入った柱の列(天安門広場で)天安門広場にデンと据えられた大型LEDスクリーン。かなり鮮明な画面だ天壇公園を彩るペキンローズの花壇
クリックすると大きな写真になりますクリックすると大きな写真になりますクリックすると大きな写真になりますクリックすると大きな写真になります
景山公園から一望できる故宮。夕日の瑠璃瓦が輝く北京の木、アカシアの花が匂う下で、胡同見物の客を待つ人力車(什刹湖公園で)延々と山なみを縫う万里の長城北京の古典芸術、京劇。
観客の半分を占める米国人観光客がしきりにカメラを向けていた(演目は白蛇伝、湖広会館で)
13_P1050836.JPGクリックすると大きな写真になりますクリックすると大きな写真になりますクリックすると大きな写真になります
広大な骨董品市場・潘家園旧貨市場。陶磁器、玉、メノウ・・・なんでもあります羊肉しゃぶしゃぶの名店・東来順王府井店。炭火でたく火鍋に入れた具をゴマだれで食べる庶民の味、炸酱麵の老舗・老北京炸酱麵大王北京ダックが焼けるのを待つコックさんたち(北京大董烤鸭・南新倉店で)


2009年9月17日

ウイーン紀行③終「世紀末ウイーン、そしてクリムト」


 「世紀末ウイーン」とは、いったいなんだったのだろうか?
ウイーンの街を歩きながら、そんな疑問が時差ぼけの頭の片隅を時々かすめた。

 650年近く続いたハプスブルグ家の宮廷文化が爛熟した終焉期を迎えようとしていた19世紀後半に、美術、建築、音楽、文学などだけでなく、心理学や経済の分野まで怒涛のようにウイーンの街を襲った文化の大波。
既存勢力からは多くの批判を浴びながら、華麗、かつ斬新、そしてちょっぴり快楽の匂いもする作品を次々と描き出した芸術家たち。

 ドイツ、ハンガリー、ポーランド、チェコ、クロアチアにイタリア、ユダヤ人・・・。10近い民族を抱えたハプスブル帝国のコスモポリタン的な雰囲気が「世紀末ウイーン」文化の生みの親だともいう。
「オーストリア啓蒙主義の成果」というよく分からない分析もある。
 ハプスブルグ宮廷文化が「歴史主義様式」と称して過去の模倣に終始するなか、それに飽き足らない新興市民層の支持を得たからとか、皇帝フランツ・ヨーゼフⅠ世の新ユダヤ政策などの改革が生んだあだ花という見方も・・・。

 理屈は二の次。「世紀末ウイーン」、とくにその主役ともいえるクリムトの世界に少しでもふれられた幸せをかみしめる。

 リングをもう一度回ってみるつもりだったのに、乗ったトラム(路面電車)が急に右に曲がった。路線の変更があったことは聞いていたが、案内所では「路線1かDに乗れ」と言ったのに・・・。
ベルヴェデーレ宮殿に行くのかな?」。同行の友人たちと回りをキョロキョロ見ていたら、向かいのメタボっぽいおじさんに「次だ、次。早く降りろ」と目としぐさでせかされた。

 ちょうどベルヴェデーレ宮殿上宮の庭園の前だった。バロック様式で建てられたハプスブルグ家の遺産が、世紀末から現代までの近代美術館「オーストリア絵画館」に変身している。バロックと近代のミスマッチが、なんとなく愉快だ。

 この美術館のハイライトは、クリムトの世界最大のコレクション。

 傑作「接吻」は、宮殿2階の1室の白い壁の中のガラスケースに保護され、なにか孤高を感じさせるような存在感で展示されていた。
 モデルは、クリムト自身と恋人のエミーリエ・フレーゲといわれる。クリムトの特色である金箔をふんだんに使い、男は四角、女は丸いデザインの華やかなデザインだが、幸せの絶頂にいるはずの女性の表情がなぜか遠くを見るように暗い。

 17世紀の画家、カラヴァッジョアルテミジア・ジェンティスレスキなども描いた旧約聖書「ユディト記」に出てくるユダヤ人女性ユディットをテーマにしている「ユディットⅠ」
 以前にこのブログでも書いたが、アルテミジア・ジェンティスレスキらは、自ら犠牲になって敵の将軍の首を描き切る凄惨さに肉薄した。しかし、クリムトは決意を秘めて将軍に迫ろうとする妖艶な表情を描き切っている。

 さらにオスカー・ココシュカエゴン・シーレの迫力ある作品の部屋が続く。

 クリムトが率いた芸術家グループ、ウイーン分離派会館「セセッション」には、どうしても行きたかった。
 数日前に生鮮市場のナッシュマルクトを案内してもらった時に前を通っているから、もう迷わない。カールスプラッツ駅から歩いて10分ほど。まっすぐに地下の展示場に飛び込み、ベートーヴェンの交響曲第9番をテーマにしたクリムトの連作壁画「ベートーヴェン・フリーズ」の前に立った。
 白い壁の上部3面、明かり取りの天井に張りつくように飾られたフレスコ絵は、高さ約2・5メートル、長さ約35メートル。絵巻物のように、見上げる観客に迫ってくる。

 1902年「分離派」の展覧会に出品されたが、当時のカタログには「一つ目の長い壁(向かって左側):幸福への憧れ・・・狭い壁(正面)敵対する力・・・二つ目の長い壁(右側):幸福への憧れは詩情のなかに慰撫を見出す」とある。とても理解できない・・・。

メモ帳に張ってきた「図説 クリムトとウイーン歴史散歩」(南川三治郎著、河出書房新社)の解説コピーを見ながら、ようやく頭上の世界に焦点が合ってきた。

 高みに雲のように浮かんでいる女性の長い列。・・・「幸福への憧れ」は裸の弱者の苦しみと、彼らの願いを受けて幸福のために戦う・・・戦士が描かれている。
正面の「敵対する力」が暗い影を投げかけている。悪の象徴としてのゴリラのような巨大な怪獣チュフォエウス、・・・三人の娘のゴルゴン、その背後や右側には病、死、狂気、淫欲、不節制(太った女)などが描かれ、さらにその右には独り懊悩する女が巨大な蛇とともに描かれる。・・・
(右の壁画では)憧れが「詩の中に静けさ」を見つける。竪琴を持った乙女たちは・・・芸術による人類の救済を示唆している。・・・クライマックスは天使の合唱で・・・裸で抱き合う男女の愛をもって全体は終わる。


猥雑、醜悪という声が巻き起こったこの作品。実は展覧会が終わると取り壊されることになっていた。解体寸前になってあるユダヤ人実業家に買い上げられたが、ナチスが没収。戦後、長い交渉の末にオーストリア政府が買い上げたという、いわくつきの名作だ。

ゲストルームに泊めていただいたパンの文化史研究者、舟田詠子さんに、クリムトの墓に連れていってもらった。舟田さんのアトリエ近く、シェーンブルン宮殿の南の端にあるヒーツイング墓地にある墓標は、クリムトの自筆のサインを彫りこんだものだった。「世紀末ウイーン」の時代を象徴するように繊細かつモダンな文字だ。

 「世紀末ウイーン」を代表する建築家、オットー・ワグナーが設計した旧郵便貯金局のガラス張りのホール。「装飾は悪だ」と直線的なデザインを駆使したロース・ハウスが市民の避難を浴びたアドルフ・ロース
 楽友会館やシェーブルン宮殿のオランジェリーで聞いたオーケストラがアンコールで必ず演奏されるのは、やはり世紀末に生まれた3拍子のウインナーワルツだった。そして、作家、アルトウル・シュニツラーの作品「輪舞」などで描かれる娼婦と兵隊、伯爵と女優たち・・・。

 「世紀末ウイーン」の世界が走馬灯のように頭のなかを駆け巡り、今でも離れようとしない。

下の地図は、Google のサービスを使用して作成しています。
地図の左上にあるスケールのつまみを上下すれば、地図を拡大・縮小できます。また、その上にあるコンソールを使えば、左右・上下に地図を動かすことができます。
右の欄の地名をクリックすると、その場所にマークが立ちます。また、その下のをクリックすると関連した写真を見ることができます。