2011年3月アーカイブ: Masablog

2011年3月26日

読書日記「ある小さなスズメの記録 」(クレア・キップス著、梨木果歩訳、文藝春秋刊)



 未曾有の惨事を引き起こした東日本大震災。テレビから眼が離せない。被災の惨状に戦りつし、犠牲者、被災者を思って胸を熱くする。

 たまたま、図書館から借りている本も多かったのだが、どれを開いても内容が頭のなかに入って来ない。心がザワザワと落ち着かない。
 そんな時、関西に一時避難してきた知人を迎え行ったJR新大阪駅の書店で買ったのが、この本。書評などで内容は知っていたから「これなら読めるかも」と・・・。被災地の方々に思いを寄せながら、ページを繰った。

 副題に「人を慰め、愛し、叱った、誇り高きクラレンスの生涯」とある。
 ドイツの空爆が絶えない第二次世界大戦中のロンドン郊外。ピアニストのキップス夫人は、玄関前で「明らかに瀕死の状態にある、丸裸で目も見えていない、おそらく数時間前に生まれたばかりなのだろう」オスのスズメを見つける。
 それから12年間にわたる2人(1人と1羽)の交遊が始まる。クラレンスは、自分の目が開くようになった時、初めて見たキップス夫人を「何の疑いもなしに・・・自分の保護者として自然に受け入れた」

 (羽毛が生えそろったころには)彼は私の枕の上に置いた古い毛皮の手袋の中で眠り、夜明けにチュンチュン騒いで私の髪の毛を引っ張って起こしては、朝食をせがむのだった。


 彼は幾度となく、私の頭で「砂浴びをやっているつもり」を楽しんでは、一方の耳からもう一つの耳へ全速力で移り、さらに巻き毛でぶらぶら揺れたりしてふさぎ散らした。


 ある時、キップス夫人に「直感が閃いた」。空襲で防空壕に押し込められている子どもたちを慰めるために「クラレンスに芸を教えよう」
 夫人とのヘアピンを使った綱引き。トランプノカードをくわえて10回から12回、落とさないでぐるぐる回し続ける。

 最も人気のあった演目は「防空壕」。夫人は麻の実を入れた左手を右手で丸く蓋う。「サイレンだ!」という声を聞くと・・・。
 彼はすぐさまこのにわかづくりの防空壕へ駆け込んで。数分の間じっとしているが、しばらくすると、警報解除のサイレンはまだ鳴らないの?と言わんばかりに。頭だけちょんと突き出して辺りを窺うのだった。


    肩に止まらせてピアノの練習をしているうちに、彼は音楽家としてもデビューする。
 それはさえずりから始まり、小さなターンを経て、メロディを形づくろうと試み、高い音色を出し、そして――驚異中の驚異!――小さなトリルに至ったのだ。


 窓辺に来る小さなアオガラから求愛されたり「『私(キップス夫人)』に愛を仕掛け」たりする「青春時代」もあったが、その彼にも"老病死"がやってくる。

 11歳を過ぎた頃から、彼の足は弱り始め、夜中に止まり木から落ちたり、時々ヒステリーの発作を起こしたりした。
 ある朝彼は水浴びからふらふらと出てきて籠の床に横向きに倒れた。・・・まだ息はしていたものの、くちばしを開けたまま気を失っている・・・。


 卒中だった。部分的な麻痺も引き起こした。体のバランスがうまくとれず、しょっちゅう、ひっくり返って、夫人に起こしてもらわなければならなくなった。リハビリが必要になった。
 が、彼はこの難題を、自分一人の力で解決したのだ。
 いったん蛙のようにぴょんとジャンプすることを学ぶと、それから間もなく、ひっくり返った状態から即座に空中に跳ね上がり、完璧な宙返りをして、正しい状態に着地できるまでに熟達した――


 私のスズメは・・・一九五二年、八月二十三日に死んだ。耳はまだしっかりしていたが、目の方はほとんど見えなくなっていた。・・・私の温かい手の中に静かに体を横たえ、数時間、じっとしていた。それからふいに頭を上げると、昔から慣れ親しんだ格好で私を呼び、そして動かなくなった。


 この本は60年も前に欧米で大ベストセラーになった。日本でも、2回ほど翻訳本が出ている。その幻の名作を、キップス夫人がスズメと暮らした場所から車で十数分の場所に暮らしたことがあり、「渡りの足跡」という本を著すなど鳥の生態にも詳しい梨木果歩が、ていねいな日本語でよみがえらせた。

 訳者は、あとがきにこう書いている。
 キップス夫人の文章は格調高く、感情表現を極力抑制し、スズメの行動を客観的に推測するのに必要な情報を冷静に著述しようとする意志が見られた。だからこそ、そこから隠しようもなく滲んでくる、クラレンスと共に過ごした日々への愛惜が胸を打つ。こういう文章を訳す喜びを幾度となく思った。いつまでも手元に置いて訳し続けていたかった気がする。


2011年3月13日

 読書日記「舟越保武 石と随想」(舟越保武著、求龍堂刊)、「石の音、石の影」(同、筑摩書房刊)


 もう故人である、 この彫刻家のことは、NHKの番組で紹介された 画文集で初めて知った。

 佐藤忠良 と、東京美大の同級生で、文化功労章を受けた戦後日本を代表する作家だったらしい。

 どうしても見たくなりAMAZONに申し込んだ。版元で在庫切れだったらしく、1か月近く待たされた。
 白い堅紙で装丁した大型本で、作品の写真も文章も聖謐さにあふれている。いつものように気に行った箇所に線を引く気にとてもならない。
 先日来、思い立って3000冊近くの蔵書を整理、本棚の一部も寄付した。しかし、この本だけは本棚にしまっておいて、時々そっと開きたくなりそうだ。

 2度ほど訪ね、このブログにも書いた 「長崎26殉教者記念像」が、この彫刻家の代表作の1つであるのを浅学にして知らなかった。もっと、しっかりと像の1つ1つを見ておくべきだった。

 著者は、この像を「探しまわって、どうしても見つからない夢」をなんども見たという。
 私はあの夢を見るのが怖い。
 一度でいいから、夢の中でも二十六聖人像の現実のままを見たい。・・・
 昨年の秋、長崎に行って、・・・長い時間、眼がいたくなるまで二十六体の彫像をにらむように見据えてきた。


 ヴァチカン美術館に買い上げられた 「原の城」も代表作の1つ。
 この像の粘土の原型を東京芸大の研究室で完成させた時、作者は不思議な体験をしている。
 (隣室で謡曲の練習している学生たちの声に)しばらく耳をかたむけていると眼の前の粘土の武士の彫像がゆっくりよろよろと歩き出すように見えた。謡曲の声につれて私のつくった粘土の武士が静かに歩き出すのを私は呆然と眺めていた。


 著者は長男の死をきっかけに受洗したカトリック信者。西坂の地で殉教した 日本二十六聖人島原の乱原城 に散ったキリシタンへの思いが、自分の彫像と重なりあう深層体験だったのだろうか。

 この彫刻家は、聖謐な女性像をいくつも残している。それが、神戸の街にあると知って、見に出かけた。
 神戸市役所1号館の1階喫茶室にある頭像「LOLA」(1980年)は、こげ茶の金属で仕上げられ、清々しくほほえんでいた。セビリアで知り合ったレオン家の2女であるという。
 市役所のすぐ南、フラワーロード沿いにある「シオン」(1979年)は、小柄なブロンズの全身像。雨に打たれてできたらしい白い涙を流している。
 市役所の「LOLA」のすぐ近くには、生涯の友人だった佐藤忠良作の「若い女・シャツ」が逆光のなかに立っていた。
「LOLA」;クリックすると大きな写真になります「若い女・シャツ」;クリックすると大きな写真になります「シオン」;クリックすると大きな写真になります
「LOLA」の頭像「若い女・シャツ」のブロンズ像「シオン」の像


 著者は、いくつかの随筆集も残しており、日本エッセイクラブ賞も受けている文章の練達でもあるらしい。

 「石の音、石の影」は、1985年に発行された、たぶん著者最初の随筆集。

 本は、それまで挑戦する彫刻家がほとんどいなかった石彫に挑戦するエピソードから始まる。
 うす赤い色のその大理石を見たとき、私の身体の中を熱いものが走るように思った。・・・
 (近くに住む墓石屋の親方から、2本の鑿(のみ)を借り)・・・
 力まかせに石をたたくものだから、槌が鑿から外れて、いやというほど手の甲をひっぱたいた。河がやぶけて血が出る。痛みをこらえて、生まれてはじめて石を彫るという感動の方が大きかった。カーン、カーンと四方にひびく石の音が快かった。

 著者の石彫第一作の頭像は、こうして誕生した。

 石彫は、粘土で作る塑造と違って「付け足すことが出来ない。・・・削り減らして、或る形に到達する作業」になる。
 不定形の荒石を前にして、この石の中に自分の求める顔が、すでに埋もれて入っているのだと自分に思い込ませて、仕事にかかるのだが、石の中にある顔を見失うまいとする心の緊張があった。・・・
 たしかに見えていた筈のその顔が、私の前に現れるのを恥じらって、なかなか現れてこない。作業はいつも捗らなかった。


 自己嫌悪に陥って、完成したばかりの大理石頭像を衝動的にハンマーで毀したことがあった。
 粉々に砕けた床一面が白一色の石片で埋まった中の、一片のかけらに私の眼がとまった。五センチほどに欠けた石片は、眼の部分であった。・・・恨めしい眼でも悲しい眼でもなく、やさしい眼のままで私の方を見ていた。


     舟越保武という彫刻家は知らなかったが、その作品にどこかで出会った"幻想"が消えない。そうだ、 天童荒太「永遠の仔」表紙を飾っているあの作品群・・・

作者は 舟越 桂。舟越保武の次男だった。なにか、DNAの森を遡って清冽な泉に突き当たったような思いがした



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