2011年12月アーカイブ: Masablog

2011年12月26日

読書日記「獅子頭(シーズトオ)」(楊逸(ヤン イー)著、朝日新聞出版)、「おいしい中国 『酸甜苦辣』の大陸」(同、文藝春秋)



獅子頭(シーズトォ)
楊逸(ヤンイー)
朝日新聞出版
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おいしい中国―「酸甜苦辣」の大陸
楊 逸
文藝春秋
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 半年ほど前だったろうか。通っている中国語教室の教科書に 「紅焼獅子頭(ホンシャオシーズトオ)」という中国料理が載っていた。

 そんなことがきっかけで、表題の「獅子頭(シーズトオ)」を図書館で借りてみたくなった。この 作家をこのブログで書くのは 「時が滲む朝」以来。朝日新聞の連載だそうだが、いささか荒っぽい筋立てが気になって・・・。

 根っからの食いしん坊。小説の展開より「獅子頭」をはじめとする中国料理の記述に眼がいってしまった。

 貧村出身の主人公、二順(アール シュン)は、入団した雑技団から選ばれて上海公演に参加、有名なレストランでの打ち上げパーティに出る。

 
次は巨大な肉団子の入った土鍋が運ばれた。
 狐色のソースをたっぷりとかけられ、獅子の長いたてがみを見たてた細い千切りの生姜は、まんべんなく丸っこい肉団子を覆っている。箸でつっつくと、肉汁がジワッと中から滲み出て、思わず涎も垂れてしまいそうになる。


  中国の検索エンジン 「百度(バイドウ)」で見ると、「獅子頭」は、 淮河 長江(揚子江) の下流一帯のこと。昔は、 呉越と呼ばれた土地。著者によると「東北料理の暴走する塩味と四川料理の命がけの辛さ」とは異なる食文化を伝承してきた。

 雑技団を辞め、料理店に修業に入った二順に、店主はこう言ってきかす。

 
淮揚地方は海に近く、湖沼が点在する平野地帯で、湿潤で暖かい気候にも恵まれているし、一年中作物が取れるし、淡水の水産物も海産物も豊富だから、料理は食材の鮮度を大事にできるんだ。食材の味を最大限に生かすためにも、あっさりとした味付けになる。また少し甘みを加えることで、ふわふわとした柔らかい食感にうまみを増し、食事によく飲まれる淡くほろ苦い緑茶にもよく合っているんだ。


 
1949年 毛(マオ)主席が天安門で、新中国成立を宣言した後の開国宴も、淮揚料理だったんだ。


 二順は、醤油で煮込んで赤い色をしている「紅焼獅子頭」だけでなく、塩を少し入れるだけで蒸した 「清蒸(チンチェン)獅子頭」にも挑戦していく。

 
味付けした挽肉に、更に生姜汁をかけ、上に卵の黄身を落とした。雲紗(店主の娘で、二順の恋人)の細い手が菜箸で素早く掻き混ぜていく。
 二順は火にかけた鍋に、水を入れ、温度を測ってから真水につけていた蟹を入れた。塩を加えた後、じっと見つめ、蟹がきれいな赤に変わった瞬間に、ぱっと火を止め、隣のアミのかかった大鍋に、蟹もお湯も掛け流した。


 だが、店主の評価は厳しい。
 
(挽肉の)新鮮さは大事だけど、でも高けりゃいいってわけじゃないよ。料理に合うか合わないかを考えないと。肉の赤身が多すぎたな。脂身が少ないから、食べると肉汁も少ないし、滑らかな食感を出せなかったんだ。


 「獅子頭」は、この店の名物料理になり、二順は日本の有名中華料理店に派遣されることになる。

 ここで開発したのが上海蟹を使った冬のスペシャルメニュー 「蟹粉(シイエフェン)紅焼獅子頭」

 
シルバーのラインで縁取った白い楕円形の皿に、湯通ししたチンゲン菜の葉を敷き、その上に野球ボール大の獅子頭を一つ載せ、黒酢風味の利いた甘口のあんをたっぷりとかけた後、赤い上海蟹の肉を混ぜた蟹味噌を一つまみして整え、獅子頭の上に添える。


 この本の「あとがき」によると「食いしん坊とはいえ、料理に全くの素人」の作者は、横浜中華街の著名中華レストラン 聘珍樓に「取材させていただき、獅子頭を作ったことのない料理長は、わざわざ上海からレシピを取り寄せて、作ってくださった」とある。

 先日、たまたま聘珍樓の大阪店である方にご馳走になる機会があった。「獅子頭はありますか」と、注文を聞きに来た従業員に試しに尋ねてみたが「厨房に聞いてみます」と言ったきり、忙しかったせいか回答はなかった。「淮揚・獅子頭」はいまだに幻の料理のままである。

 「おいしい中国」は、「『酸(スワン=すっぱい)甜(ティエン=あまい)苦(クウ=にがい)辣(ラア=からい)』の大陸」という副題からも中国料理の文化史かなと思ったが、著者の貧しくても豊かだった幼少時代からの食生活回顧録だった。

 中国最北、ハルビン(中国名・哈尔滨=ハアアルピン)市に育った著者の家では、11月から春にかけては家の外にある野菜貯蔵の穴蔵が天然の冷凍庫だった。一番の好物は冷凍ナシだったが「氷糖葫芦(ビンタンフウルウ=串でつなげた酸っぱいサンザシをキャラメルで固めたもの)」が、冬限定のおやつだった。

 
外は氷のようにパリッとしたキャラメルが甘く、中は酸っぱいサンザシと融合した食感といい、味といい、たまらなかった。


 中国のお正月、 春節の丸ひと月の間、とにかく「粗糧(ツーリャン)=白い色をしていない雑穀類」を食べないよう、そして働かないようにするのが中国のならわしであるため、1月に入ると 餃子(ジャオズ)など大量の用意しなければならない。

 
(餃子や 饅頭(マントオ)など糧食の他、肉、魚も我が家の食卓を賑わせた。
  「红扒肘子(ホンタウチョウズ」(豚の骨付き脛肉の醤油イメージのもの)、 「香菇焖肉(シャンタウメンロウ)」、 「溜肉段(リュウロウトュアン)」 「干炸刀魚(ガンツア―タオイイ)」 「红烧鯉魚ホンシャオリイイイ」 「清蒸黄花魚」などのメインデイシュが日替わりで食べられる。とりわけ魚は、発音が「余」と同じであるため、中国の縁起料理になっている。


 貧しいながらも、みんなが楽しん生活も長くは続かなかった。 文化大革命期の1970年、教師をしていた両親は、ハルビンよりさらに北の辺鄙な農村に 下放されることになり、一家は引越しを余儀なくされた。

 与えられた家は、ドアも窓も吹きさらしの露天同然の廃屋だった。「傍らに座った母の、微かに震える背中から、おえつが響いてくる」。電気、ガス、水道もなく、照明用のろうそくも定量供給制だった。
 田んぼで働くかたわら、家の周囲に野菜畑を作り、家畜を飼った。稲作は出来ず、トウモロコシが主食。夏は、キュウリとトマトを菜園から取ってきてかじった。

豚の食べ方はハルビンと変わらなかったが、豚を解体した時に出る血に少量の塩を加えて蒸す「血豆腐(シイエトウフ)」はさっぱりした味。冬は、ナス、インゲン豆、大根を干した「干菜(ガンツアイ)」と白菜の漬物 「酸菜(スワンツアイ)」でしのいだ。千切り酸菜を豚骨スープに入れ、太めの春雨と一緒に煮込めば、東北の名物料理 「酸炖粉条(スワンツアイトウンフェンティアオ)」が出来上がる。

「日本に来る直前までの、生まれてから二十二年間は、貧しい食生活だったが、こうして文字に書き出したことによって、かっては味わったことのない郷愁が、じわじわとにじみ出てきた」。著者は、最後のページでこう書いている。東京新聞夕刊の連載コラムだった。

 (追記)本棚にあった 「中国食紀行」(加藤千洋著、小学館)という本をパラついていたら「毛沢東が愛した農民の味」という1章があった。

 毛沢東は、開国宴に淮揚料理を選んだが、 湖南省の農民の子だっただけに、 湖南料理が好物だったらしい。なかでも、特に好んだ料理を「毛家菜(マオジャアツアイ)と呼ぶらしい。
 北京には、毛沢東の専属コックとして仕えた人が最高顧問の「天華毛家菜大酒楼(テイエンフウアマオジャアツアイダアジオウロウ」というレストランがあり、入り口の金色に輝く毛像が鎮座している、という。

そこの店長におすすめの料理を聞いたら、たちまち 紅焼肉(ホンシャオロウ=豚肉のしょうゆ煮込み)、 油炸臭豆腐(ヨウツア―チョウトウフ=発酵させた豆腐をあげたもの)、 炒肚糸(チャオトウスー=豚の胃袋の千切り炒め)、 東安鶏(トンアンチー=鶏肉とネギの煮込み)などをあげた


2011年12月20日

読書日記「ジョセフ・クーデルカ プラハ侵攻1968」(ジョセフ・クーデルカ著、阿部憲一訳、平凡社刊)。そして「プラハ紀行」(2011年5月)



ジョセフ・クーデルカ プラハ侵攻 1968
ジョセフ・クーデルカ
平凡社
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 1968年8月、共産党政権下のチェコスロバキアで起きた民主化運動 「プラハの春」をあっけなく踏みつぶしたソ連のチェコ侵攻。首都・プラハの市民たちは、武器も持たずに素手と言葉で戦車に立ち向かっていった。それをつぶさに記録した30歳のカメラマンがいた。
 フィルムは秘かにアメリカに持ち出され、匿名のまま発表され、 ロバート・キャパ賞を受賞した。匿名作者が ジョセフ・クーデルカとして名乗ることができたのは、父親が死んだ1984年のことだった。

 その写真集の日本語版が、今年の春に出版された。B4変形判295ページ、なんと重さが2キロもあるアルバムをめくるたびに、衝撃のシーンが胸に迫ってくる。

チェコ橋;クリックすると大きな写真になります
ホテルから見たチェコ橋。正面奥がレトナー公園。左手にプラハ城が広がる
 ソ連軍率いる ワルシャワ条約機構軍の戦車と装甲車はあっという間に国境を越え、 ブルタバ川に架かるチェコ橋を封鎖してしまう。橋の北にあるレトナー公園の丘から市民たちが乗り出すように戦車群を見降ろしている写真がある。

今年の春にプラハを訪れた際、近くのホテルに泊まり、橋詰にある天使の石塔を見上げながら何度か行き来しただけに、40数年前にそんな歴史を刻んでいた橋だったのかと戦車に占拠された橋の姿が目に焼き付いて離れなかった。

老人や子供は、あっけに取られて戦車群を見ているしかない。サラリーマン風の男性もしかりだ。左手を額につけ、顔をしかめて嘆きながら街を歩く中年女性のカット写真も、アルバムの冒頭にあった。

旧市庁舎の天文時計;クリックすると大きな写真になりますヤン・フス像;クリックすると大きな写真になります
旧市庁舎の天文時計。毎正時に時計の上のしかけ人形が動き出すアダムとイヴを象徴する2つの塔が特徴のティーン教会。右手前が、ヤン・フス像
 何度か出かけた 旧市街広場は、旧市庁舎のからくり人形や天文時計、2本の塔が目立つゴシック様式のティーン教会を訪ねる観光客でごった返していた。

 しかし1968年夏には、その広場の中央に据えられた宗教改革の先駆者、 ヤン・フス像の周りも戦車で占拠された。その前を、1人の少年が恐怖心を押し隠すように前かがみになりながら乳母車を押している写真が印象的だ。

 しかし、市民らは静かに立ち上がる。

 戦車の上で休憩するソ連兵を 幾重にも取り囲み、通じない言葉で抗議の爆弾を投げつける。戦車のソ連兵に向かって、片手を伸ばし絶叫する 若者、戦車にナチスを表す「卍」マークを張り付ける勇気ある 女性

 火炎砲の攻撃を受けたラジオ局を棒と国旗で守ろうとする 2人の若者、敵の戦車によじ登って抗議の旗を振りかざす 青年・・・。衝撃のショットが続く。

 この写真集には、プラハ侵攻後の様々な資料が、日本語に翻訳されて掲載されている。

 プラハ侵攻が始まった8月21日に ドウプチェク第一書記が率いるチェコスロヴァキア共産党プラハ市委員会がラジオで流した宣言には、こうある。
 「偶発的な挑発は決して行わないでください。現在、武力による防御はもはや不可能です・・・」

 替わりに市民らは「見事なアイデアを思いつく」

「何十万という無名の、素性の知られていない人々が街路や広場の名前が書かれた標識を破壊し、番地の標識すら消してしまった。・・・招かれざる客にとって、プラハは死んだ町と化したのだ。ここで生まれなかった者、ここに住んでいない者は、100万人の匿名都市を目のあたりにする。占領軍がここで見出すのは、多種多様な抗議文だけだろう」

「イワン、家に帰れ、ナターシャが待ってるぞ」
「ソ連兵よ、家に帰って、どうしてチェコスロヴァキアにいたのと子どもに尋ねられたら、何と答える?」
「顔を上に向けろーーー手は上げるな!」

 あのヤン・フス像の黒い壁面には、なぜか英語で「GO HOME」そして「卍=☆」のマークが、何度消されても描かれた・・・。

ヴァーツラフ広場;クリックすると大きな写真になりますヴァーツラフ広場脇の建物群;クリックすると大きな写真になります
ヴァーツラフ広場のヤン・パラハ慰霊プレート。奥が聖ヴァーツラフ騎馬像。その奥が、国立博物館ヴァーツラフ広場脇の建物群。黄色いホテルの壁面に銃痕が残っている、というkとだったが・・・。
 プラハに来て2日目の朝。プラハのシャンゼリーゼといわれる ヴァーツラフ広場に行った時は、どしゃぶりの雨だった。北西から南東に伸びる通りの南端。 聖ヴァーツラフの騎馬像の前に ヤン・パラフの慰霊プレートがあった。

 1969年1月。前年夏の「プラハの春」挫折に抗議して、学生ヤン・パラフはこの場所で焼身自殺した。小さな像を刻んだプレートの周りは、40数年後というのに小さな花輪やロウソクであふれていた。

 広場の両側は、ブランド品の店やホテルが並んでいる。一部の建物には侵攻の際、ソ連兵が威嚇射撃した銃弾の跡が残っている、という。カメラで追ってみたが、どしゃ降りの雨の暗さで確認できなかった。

 ジョセフ・クーデルカの写真集で、特に衝撃的な写真の2枚が印象に残っている。  1枚は、ヴァーツラフ広場を埋め尽くしている抗議の人たちの座り込みの写真だ。私が訪ねた時にはなかった市電の線路と石畳が伸びている。周りには、両側はソ連軍などの戦車と装甲車が砲準を向け、一発触発だったらしい。

 もう1枚は、人っ子一人いないヴァーツラフ広場を見下ろす窓に差し出された 左腕らしい写真。腕時計は午後6時を指している。写真集の資料には、こうある。  「(座りこんでいる人々に向かって)警察の拡声器が響いた。父親のような声だった。『さあ、馬鹿なことをしないで、解散するんだ。占領軍にいい口実を与えるじゃない。彼らの目的は何かわかっているだろう・・・』。・・・しぶしぶと群衆は三々五々解散を始めた。30分後には、広場に静寂がもどった」
 人っ子1人いない広場の情景は、8月22、23日の2度にわたって見られた。

 ブタペスト経由でプラハを訪ねた機中で小説 「プラハの春 上・下」(春江一也著、集英社文庫)を読んだ。「プラハの春」の挫折を題材にしてベストセラーとなった。軸は、プラハ駐在の日本人外交官と2人の女性とのロマンスだが、焼身自殺したヤン・パラフも主要な役割で登場し、プラハ侵攻の様子や外交交渉にも多くのページが割かれている。

 しかし、ジョセフ・クーデルカの写真集とそこに転載された文献とは、事実が少し異なる。写真と事実を積み重ねたドキュメンタリーの威力を痛感した。

 「プラハの春」から21年後、1989年の無血革命 「ビロード革命」で、共産主義国・チェコスロヴァキアは民主化された。その立役者となったハヴェル前大統領が、今月18日に死去した、という。

 チェコスロヴァキアからチェコ共和国となった首都・プラハは、その前に訪ねてハンガリーのブタペストに比べても民主化の果実を満喫しているように見えた。
 黒っぽい地味な服装が多かったが街を歩く人々の表情は明るく、ビアホールは夕方から地元の人たちで超満員。チェコ・フイルハーモニーの演奏を聴いた音楽公会堂 「ルドルフイヌム」は、正装の観客であふれていた。
 「建築の森」の別名がある通り、ロマネスク、ゴシック、アールヌーヴォからキュービスム様式の建物まで楽しめた旅だった。



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