読書日記「獅子頭(シーズトオ)」(楊逸(ヤン イー)著、朝日新聞出版)、「おいしい中国 『酸甜苦辣』の大陸」(同、文藝春秋)
半年ほど前だったろうか。通っている中国語教室の教科書に 「紅焼獅子頭(ホンシャオシーズトオ)」という中国料理が載っていた。
そんなことがきっかけで、表題の「獅子頭(シーズトオ)」を図書館で借りてみたくなった。この 作家をこのブログで書くのは 「時が滲む朝」以来。朝日新聞の連載だそうだが、いささか荒っぽい筋立てが気になって・・・。
根っからの食いしん坊。小説の展開より「獅子頭」をはじめとする中国料理の記述に眼がいってしまった。
貧村出身の主人公、二順(アール シュン)は、入団した雑技団から選ばれて上海公演に参加、有名なレストランでの打ち上げパーティに出る。
次は巨大な肉団子の入った土鍋が運ばれた。
狐色のソースをたっぷりとかけられ、獅子の長いたてがみを見たてた細い千切りの生姜は、まんべんなく丸っこい肉団子を覆っている。箸でつっつくと、肉汁がジワッと中から滲み出て、思わず涎も垂れてしまいそうになる。
狐色のソースをたっぷりとかけられ、獅子の長いたてがみを見たてた細い千切りの生姜は、まんべんなく丸っこい肉団子を覆っている。箸でつっつくと、肉汁がジワッと中から滲み出て、思わず涎も垂れてしまいそうになる。
中国の検索エンジン 「百度(バイドウ)」で見ると、「獅子頭」は、 淮河と 長江(揚子江) の下流一帯のこと。昔は、 呉越と呼ばれた土地。著者によると「東北料理の暴走する塩味と四川料理の命がけの辛さ」とは異なる食文化を伝承してきた。
雑技団を辞め、料理店に修業に入った二順に、店主はこう言ってきかす。
淮揚地方は海に近く、湖沼が点在する平野地帯で、湿潤で暖かい気候にも恵まれているし、一年中作物が取れるし、淡水の水産物も海産物も豊富だから、料理は食材の鮮度を大事にできるんだ。食材の味を最大限に生かすためにも、あっさりとした味付けになる。また少し甘みを加えることで、ふわふわとした柔らかい食感にうまみを増し、食事によく飲まれる淡くほろ苦い緑茶にもよく合っているんだ。
1949年
毛(マオ)主席が天安門で、新中国成立を宣言した後の開国宴も、淮揚料理だったんだ。
二順は、醤油で煮込んで赤い色をしている「紅焼獅子頭」だけでなく、塩を少し入れるだけで蒸した 「清蒸(チンチェン)獅子頭」にも挑戦していく。
味付けした挽肉に、更に生姜汁をかけ、上に卵の黄身を落とした。雲紗(店主の娘で、二順の恋人)の細い手が菜箸で素早く掻き混ぜていく。
二順は火にかけた鍋に、水を入れ、温度を測ってから真水につけていた蟹を入れた。塩を加えた後、じっと見つめ、蟹がきれいな赤に変わった瞬間に、ぱっと火を止め、隣のアミのかかった大鍋に、蟹もお湯も掛け流した。
二順は火にかけた鍋に、水を入れ、温度を測ってから真水につけていた蟹を入れた。塩を加えた後、じっと見つめ、蟹がきれいな赤に変わった瞬間に、ぱっと火を止め、隣のアミのかかった大鍋に、蟹もお湯も掛け流した。
だが、店主の評価は厳しい。
(挽肉の)新鮮さは大事だけど、でも高けりゃいいってわけじゃないよ。料理に合うか合わないかを考えないと。肉の赤身が多すぎたな。脂身が少ないから、食べると肉汁も少ないし、滑らかな食感を出せなかったんだ。
「獅子頭」は、この店の名物料理になり、二順は日本の有名中華料理店に派遣されることになる。
ここで開発したのが上海蟹を使った冬のスペシャルメニュー 「蟹粉(シイエフェン)紅焼獅子頭」。
シルバーのラインで縁取った白い楕円形の皿に、湯通ししたチンゲン菜の葉を敷き、その上に野球ボール大の獅子頭を一つ載せ、黒酢風味の利いた甘口のあんをたっぷりとかけた後、赤い上海蟹の肉を混ぜた蟹味噌を一つまみして整え、獅子頭の上に添える。
この本の「あとがき」によると「食いしん坊とはいえ、料理に全くの素人」の作者は、横浜中華街の著名中華レストラン 聘珍樓に「取材させていただき、獅子頭を作ったことのない料理長は、わざわざ上海からレシピを取り寄せて、作ってくださった」とある。
先日、たまたま聘珍樓の大阪店である方にご馳走になる機会があった。「獅子頭はありますか」と、注文を聞きに来た従業員に試しに尋ねてみたが「厨房に聞いてみます」と言ったきり、忙しかったせいか回答はなかった。「淮揚・獅子頭」はいまだに幻の料理のままである。
「おいしい中国」は、「『酸(スワン=すっぱい)甜(ティエン=あまい)苦(クウ=にがい)辣(ラア=からい)』の大陸」という副題からも中国料理の文化史かなと思ったが、著者の貧しくても豊かだった幼少時代からの食生活回顧録だった。
中国最北、ハルビン(中国名・哈尔滨=ハアアルピン)市に育った著者の家では、11月から春にかけては家の外にある野菜貯蔵の穴蔵が天然の冷凍庫だった。一番の好物は冷凍ナシだったが「氷糖葫芦(ビンタンフウルウ=串でつなげた酸っぱいサンザシをキャラメルで固めたもの)」が、冬限定のおやつだった。
外は氷のようにパリッとしたキャラメルが甘く、中は酸っぱいサンザシと融合した食感といい、味といい、たまらなかった。
中国のお正月、 春節の丸ひと月の間、とにかく「粗糧(ツーリャン)=白い色をしていない雑穀類」を食べないよう、そして働かないようにするのが中国のならわしであるため、1月に入ると 餃子(ジャオズ)など大量の用意しなければならない。
(餃子や
饅頭(マントオ)など糧食の他、肉、魚も我が家の食卓を賑わせた。
「红扒肘子(ホンタウチョウズ」(豚の骨付き脛肉の醤油イメージのもの)、 「香菇焖肉(シャンタウメンロウ)」、 「溜肉段(リュウロウトュアン)」に 「干炸刀魚(ガンツア―タオイイ)」 「红烧鯉魚ホンシャオリイイイ」、 「清蒸黄花魚」などのメインデイシュが日替わりで食べられる。とりわけ魚は、発音が「余」と同じであるため、中国の縁起料理になっている。
「红扒肘子(ホンタウチョウズ」(豚の骨付き脛肉の醤油イメージのもの)、 「香菇焖肉(シャンタウメンロウ)」、 「溜肉段(リュウロウトュアン)」に 「干炸刀魚(ガンツア―タオイイ)」 「红烧鯉魚ホンシャオリイイイ」、 「清蒸黄花魚」などのメインデイシュが日替わりで食べられる。とりわけ魚は、発音が「余」と同じであるため、中国の縁起料理になっている。
貧しいながらも、みんなが楽しん生活も長くは続かなかった。 文化大革命期の1970年、教師をしていた両親は、ハルビンよりさらに北の辺鄙な農村に 下放されることになり、一家は引越しを余儀なくされた。
与えられた家は、ドアも窓も吹きさらしの露天同然の廃屋だった。「傍らに座った母の、微かに震える背中から、おえつが響いてくる」。電気、ガス、水道もなく、照明用のろうそくも定量供給制だった。
田んぼで働くかたわら、家の周囲に野菜畑を作り、家畜を飼った。稲作は出来ず、トウモロコシが主食。夏は、キュウリとトマトを菜園から取ってきてかじった。
豚の食べ方はハルビンと変わらなかったが、豚を解体した時に出る血に少量の塩を加えて蒸す「血豆腐(シイエトウフ)」はさっぱりした味。冬は、ナス、インゲン豆、大根を干した「干菜(ガンツアイ)」と白菜の漬物 「酸菜(スワンツアイ)」でしのいだ。千切り酸菜を豚骨スープに入れ、太めの春雨と一緒に煮込めば、東北の名物料理 「酸炖粉条(スワンツアイトウンフェンティアオ)」が出来上がる。
「日本に来る直前までの、生まれてから二十二年間は、貧しい食生活だったが、こうして文字に書き出したことによって、かっては味わったことのない郷愁が、じわじわとにじみ出てきた」。著者は、最後のページでこう書いている。東京新聞夕刊の連載コラムだった。
(追記)本棚にあった 「中国食紀行」(加藤千洋著、小学館)という本をパラついていたら「毛沢東が愛した農民の味」という1章があった。
毛沢東は、開国宴に淮揚料理を選んだが、 湖南省の農民の子だっただけに、 湖南料理が好物だったらしい。なかでも、特に好んだ料理を「毛家菜(マオジャアツアイ)と呼ぶらしい。
北京には、毛沢東の専属コックとして仕えた人が最高顧問の「天華毛家菜大酒楼(テイエンフウアマオジャアツアイダアジオウロウ」というレストランがあり、入り口の金色に輝く毛像が鎮座している、という。
そこの店長におすすめの料理を聞いたら、たちまち
紅焼肉(ホンシャオロウ=豚肉のしょうゆ煮込み)、
油炸臭豆腐(ヨウツア―チョウトウフ=発酵させた豆腐をあげたもの)、
炒肚糸(チャオトウスー=豚の胃袋の千切り炒め)、
東安鶏(トンアンチー=鶏肉とネギの煮込み)などをあげた
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