知床紀行③(終)「見えてくるアイヌ民族への差別」
世界遺産登録を審査する国際自然保護連合(IUCN)は、2004年の7月に知床の登録を認めた際、今後の知床管理(自然保護)にアイヌ民族が参画を促し、アイヌ文化を生かしたエコツーリズムを開発すべきだと勧告している。
知床はアイヌ語で「シリエトク(大地の果て)」を意味するし、アイヌ民族の遺跡も多い。世界遺産・知床は、もともとアイヌ民族の地だったのだ。
まったくの無知だったが「そういうことなら」と、知床への旅の最終日に「アイヌ民族・聖地巡礼」というエコツアーに申し込んだ。あまり人気がないのか、参加したのは私と友人・Mの二人だけ。
アイヌ民族の母と日本人の父の間に生まれた自然ガイド・Hさんは、もともと旭川の「ペニユンクル(川上に住む人の意)」の出身で、面長な精悍な顔つき。知床など道東に住むアイヌ民族は彫りの深い丸顔の人が多く、アイヌ民族にも様々な種族があることを教えられた。
最初に行ったのは、小学校の跡地。小学校ができる前には、アイヌ民族の砦や住居、見張り台であり、祈りの場でもあったチャシ(城柵という意味)の遺跡があったそうだが、現在は跡形もない。
対岸には、ウトロ港のわきにあるオロンコ岩が見下ろせる。ここ住むオホーツク海を渡ってきたなぞの部族・オロッコ族とは、長年闘争が続いていた。ある時、アイヌ民族は、木と草で作ったクジラの上に魚を乗せて浜に置いた。オオセグロカモメなどの海鳥が群がったのを見て、オロッコ族はクジラの肉を取りに岩を降りてきた。そこを一網打尽。オロッコ族は滅んだ・・・。
国道334号線沿いの樹木に囲まれた暗いくぼ地に、白い土嚢を積み上げてあるところがあった。アイヌの儀礼として有名なイヨマンテ(熊の霊送り)の遺跡だという。(写真①)
数年前に北海道大学の発掘隊が、土器や矢じり、熊の骨などを採取した。しかし、ここは地元漁民の私有地。川に遡上したシャケなどを採るアイヌ民族への漁民の反発は昔から強く、遺跡もこれ以上の保存ができないでいる、という。
うっそうと樹木が茂る山に入った。その前に,Hさんは山の神に祈りをささげる。両手をすり合わせ、山の空気を感じて手を広げる。「武器はなにも持っていません。指も5本ともそろっています」と、入山の許しを得る祈りだ。
道もない、けっこう険しい山腹をつたや木の根をつかみながら登ること約30分。細い道のある平地に出た。「あれ!これ、やじりにしては大きいなあ」。Hさんが、黒い三角形をした小石を拾い、渡してくれた。長さ約5センチ、底辺が約4センチ、先端が1センチ強。小さな削り跡もある黒曜石。13,14世紀のアイヌ文化期のものだというが、小道でHさんが拾ったタイミングが、ちょっと出来すぎという感じ。ツアー参加者へのサービスかな?。
オホーツク海が見下ろせる台地に出た。回りに、2メートルほどの溝のようなものがあるのが特色のチャシ遺跡の一つだった。(写真②)
Hさんが、オホーツク海の荒波を見下ろす崖際で、アイヌ伝統の楽器・トンコリを弾いてくれた。赤エゾマツで自作したもので、曲もオリジナル。「あなたのこころにそっとふれさせて」「わたしのこころをあなたにさしあげます」・・・。文字を持たないアイヌの言葉が、低い弦の音とともに風に乗っていった。(写真③)
アイヌ民族は、無駄に木々を傷つけない。しかし、帰り道で「ちょっと、折れているところがあるから」と、キハダという木の表皮を小刀で削り、内側の小さな黄色い樹皮をくれた。Hさんは、お腹が痛くなるとこの樹皮を食べさせられ、キズにも効くという。友人・Mが山を這い登る時に手に軽いケガをして血が出ていたので、この樹皮でこすってみると、翌日にはすっかり治っていたのには、びっくり!
広辞苑を引くと「黄肌」という生薬だった。自然と共生するアイヌ民族の知恵の一旦にふれることができた。
オシンコシン(エゾマツのはえている川)の滝(写真④)の近くにあるオンネペツ川(大きなかわ)に、カラフトマスを見に行った。前日から、漁は解禁されていたが、カラフトマスは、河口でグルグル泳ぎ回っていた。海水から真水の川に入るのにちゅうちょ?しているらしく、数日後には産卵のために一斉に遡上するらしい。沖合いに、マス漁の漁船が波に揺れている。コンブのふくよかな匂いがあふれる豊かなオホーツクの海だった。
しかし、アイヌ民族は、昔のようにマスやシャケを自由に採ることができない。「アイヌ民族を先住民族として認める決議」が昨年の国会で採択されたが、知床管理計画にどうアイヌ民族を参加させるかについての、具体的な動きはまだない。それどころか、先日は就任したばかりの中山国土交通相が「日本は非常に内向きな単一民族」などと発言して、反発を買うおそまつさだ。
しいたげられた民族が、この日本に存在することを忘れるわけにはいかない。
参考にしたい本
- 「もうひとつの日本への旅」(川田順造著、中央公論新社)「1万2千年前にくらいから・・・縄文文化を生んだ人たちがいて・・・それがアイヌと、現在の私たちのかなりの部分との共通の先祖であったことは、ほぼ疑いない・・・」
- 「学問の暴力」(植木哲也著、春風社)幕末にイギリス人がアイヌの墓から人骨を盗掘した事件や北海道大学の研究者が研究目的でアイヌ人骨を墓から掘り出し、現在でも大学は1千体以上のアイヌ人骨を保管しているという、驚くような事実を明らかにしている。
この本を新聞で書評した米本昌平氏は「学問の名の下に、アイヌの人たちの伝統や尊厳を踏みにじる所業を許したのは、最近までわれわれの心に塗り込められていた、知的権威に対するあがめ立てと、差別感覚であったことは、再認識しておく必要がある」と、書いている。
もうひとつの日本への旅―モノとワザの原点を探る
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川田 順造
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