「五島列島教会めぐり③終 新上五島町」(2009・1・6)
奈留島から新上五島町の郷ノ首港に着いた時は、南国の冬の日もすっかり暮れていた。
翌朝午前8:30に宿を出て、奈摩湾を望む丘に建つ国の重文である「青砂ケ浦天主堂」(写真①)へ。早朝というのに、数台のトラックで来た10数人の作業員。痛みが激しいため、8月までシートで覆い、外壁、内部の修復工事を今日から始めるという。ギリギリ、鉄川与作による煉瓦造り教会第2作の外観を目にすることができた。
天主堂の前にある説明板に「日本人が作った初期の煉瓦造り教会だが、本格的な教会建築の基本である重層屋根構造の外観、内部空間が形成された初めての例」とある。
正面は、重層の断面をそのまま3分割し、薔薇窓や縦長アーチ窓に飾られ、白い石造りのアーチで飾られた重層さに見とれてしまう。
内部(写真②)は3廊式で、やはりリブ・ヴォートルのアーチが白いしっくいの天井を支える。この教会が多くの司祭、シスターを輩出しているのは、この荘厳な美しさのためなのか。
奈摩湾の対岸の狭い丘に建つ「冷水教会」(写真③)は、白い木造建築の上に、青い6角形の塔をのせた簡素なスタイル。塩害を防ぐため、最近の修復で初めて新建材の壁が使われ、ステンドグラスは化成品、窓のサッシもアルミに替わったということだが、違和感はまったくない。少ない信徒でここまで管理してきた苦労を思う。
途中に寄った塩の製造工房で「江袋教会」が、昨年2月漏電による火災で焼失した、と聞いた。カトリック信者でもあるこの工房の経営者などによって、再建のための募金活動と復元作業が続けられている、という。夕方、長崎に向かう高速船のチケット売り場にも募金協力を求めるチラシが張ってあった。キリシタン時代からの歴史が、地元に根付いている。
世界初の洋上石油基地を望む「跡次教会」(写真④)、街の中心にある「青方教会」を経て、小さな入り江に建つ「中ノ浦教会」(写真⑤)へ。水辺に映る木造建築の美しさが女性観光客に人気ということだったが、残念ながら引き潮で、その風景は見られなかった。
内部(写真⑥)は、回りの縁より天井面を高くした「折り上げ天井」で、祭壇部はリブ・ヴォートル天井。側壁上部の椿のデザインが鮮やかだ。「五島崩し」で、厳しい弾圧を経験した信徒たちが「五島で一番美しい聖堂を作りたい」と願った思いが伝わってくる。
信徒が20世帯ほどしかない村落に建つ民家風の「大浦教会」(写真⑦)、若松瀬戸の入江に赤い屋根を映す「桐教会」(写真⑧)、貝殻でできた海岸を望む「高井旅教会」を見て、山のすそ野をぐるりと回ったところに「福見教会」(写真⑨)の煉瓦壁があった。
歩いてもいける距離に教会が建っているのが、ちょっと不思議に思える。大村藩・外海などから移住してきた後、信仰が認められた際に元の部落ごとに教会を建てたためらしい。明治の後期には、山をぐるりと回れる道などなかったのだ。
この旅に行く前に「福見教会」の写真を見て、四角の煉瓦の箱はなんだろうかと思っていたが、玄関部だった。住民の98%がカトリックという地区で、トイレなどの手入れが行き届いているのが分かる。
教会の前の説明板には「高い梁張りの船底天井などエキゾチックな雰囲気が漂っており、内部の左右には、ステンドグラスが張り詰めてある」と解説している。「われらの教会」という住民の意気込みが伝わってくる。
島の中央部に戻って昼食後、カトリック教徒であるタクシーの運転手、Kさんが所属する赤い屋根の「丸尾教会」(写真⑩)へ。道路の上がカトリック、海に近い平地は仏教徒という住み分けと〟葛藤〝が今でも続いている。
ここは、鉄川与助の地元。与助の大きな墓があり、近くに与助が煉瓦造りの門(写真⑪)を建てた菩提寺(正光山元海寺)があった。教会建築の第一人者となった与助は、最後まで熱心な仏教徒だったという。その後、後継者は長崎に移って工務店を興した。翌日、長崎に渡り「浦上教会」を訪ねた際「原爆で崩壊した教会を再建したのは、鉄川工務店」という説明板があった。
世界遺産暫定指定の「大曾教会」(写真⑫)は、急な坂を登った丘の上で手を広げたキリスト像とともに、巻き上げ漁船基地・青方港を見下ろしている。
煉瓦造りの重層屋根構造。8角形の銀色をしたドームと十字架を頂いた鐘楼が突出している。行き来する遠くの漁船からも見えたことだろう。
教会が建つ丘は、ウバメガシの林で覆われている。明治の時代に、巻き上げ漁法の指導に来た和歌山の船員が植えたという。備長炭の原料である。
日本有数の遠浅の砂浜が広がる蛤浜(写真⑬)を通り、頭ケ島大橋でむすばれた小島にある「頭ケ島教会」(写真⑭)にたどり着いた。島で産出する石材(砂岩)を積み上げた天主堂で、国の重要文化財に指定されている。20戸ほどの信徒が全財産を投げ出し、労働奉仕で10年近くをかけて完成させたロマネスク様式の天主堂だ。労働奉仕で収入の道を断たれ、何度も工事は中断したのに、司祭館まで石造りにしてしまった信徒たちのパッションは今でも燃え上っているようだ。
内部(写真⑮)がまたすごい。外観の重厚さと様変わりに、天井や壁画に椿などの装飾が施され、華やかさに満ちている。表の説明板によると「2重の持ち送りによって折り上げられたハンマー・ビーム架構」。わが国の教会建築史上でも、例のない構造らしい。
海辺に、教会と同じ砂岩で造ったキリシタン墓地(写真⑯)があり、ひっそりと十字架を並べていた。5月には、墓標の間を赤いマツバギクがカーペットを敷きつめたように咲き乱れるという。
高速フェリーに〝負けて″閉鎖されてしまった上五島空港を経て、「鯛ノ浦教会」へ。今は図書館になっている「旧教会」(写真⑰)の下に新教会がある。旧聖堂は木造瓦葺きだが、戦後になって正面に煉瓦の鐘楼が増築された。長崎・浦上教会の被爆煉瓦が使われている。
鯛ノ浦港から、夕方の便で長崎に渡り、翌日はサント・ドミンゴ教会跡(写真⑱)など、いくつかの教会や史跡を訪ねた。
昨年5月には「遠藤周作と歩く『長崎巡礼』」(遠藤周作 芸術新潮編集部編)という本にひかれ、長崎・旧外海町や島原、平戸、などの教会群を歩いた。これで世界遺産に暫定登録されている「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」のほとんどを訪ねる幸運に恵まれた。
長崎へのキリスト教伝来から、長い弾圧を経て獲得した信仰のあかしとしての教会群。世界に例を見ないという布教の歴史にふれて、3年後と言われる正式な世界遺産への登録を願う気持ちは高まる。
しかし同時に、遺産を守るためにはあまりに厳しい過疎と旧住民とのいまだにとけない葛藤にも出会った。
この遺産群を生かすために、今なにをしなければならないのか・・・。そんな思いが心のなかで渦巻く旅だった。
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