読書日記「ウアヴェリ地球を征服す(旧題:電獣ヴァヴェリ)=『天使と宇宙船』より」:フレドリック・ブラウン著、小西 宏訳、創元SF文庫
このSF小説は、内田樹・神戸女学院大学名誉教授のブログで知った。太陽系外の獅子座からやって来たらしい「電気を食べる生物」のために地球上から電気がなくなってしまう、という1967年の米国での話しである。
鉄道はディーゼルに替わり蒸気機関車の使用態勢が整い、電信と電気信号なしに運転されるようになった。馬は1頭残らず政府の監督下に置かれ、積極的な繁殖計画で、6,7年後には国内全部のガレージに馬が1頭ずつつながれる見通し。
工場はすべて24時間稼働で蒸気機関を生産、十分に蒸気機関が整ってから、石油ランプ、衣類、石炭・石油ストーブ、浴槽、ベッドの生産を始めた。また、家具、靴、ローソクなどを作る個人的な手工業も芽生えてきた。
ニューヨークでラジオのCM作家をしていたジョージは、コネティカット州の田舎町に引っ込み、小さな新聞社を経営している。その町にやってきた旧友からニューヨークの様子を聞く。
「人口は百万ほどに減ってしまって、そこで一応おちついている。人ごみもないし、万事、余裕しゃくしゃくだよ。空気はーーなにしろガソリンの臭気がないから・・・」
「乗り回せるだけの馬は、もうそろっているの?」
「ほぼね。でも、自転車が大流行だよ。丈夫な人間は、みな自転車で通勤している。健康にもいいんだ。もう二、三年もすれば、医者にかかる人間が減るだろうよ」
「乗り回せるだけの馬は、もうそろっているの?」
「ほぼね。でも、自転車が大流行だよ。丈夫な人間は、みな自転車で通勤している。健康にもいいんだ。もう二、三年もすれば、医者にかかる人間が減るだろうよ」
2人とも、なぜか強い酒を飲まなくなった。「おたがいに飲む必要がないから、飲まないってことだなーー」。夜のすごし方も変わった。
「なにをするって?読んだり、書いたり、訪問しあったたり、・・・。映画がなくなったので、猫も杓子も芝居熱につかれている・・・。音楽はいうまでもないよ。一億総楽士だよ」
今夜のコンサートに飛び込み参加することになった旧友のフルート、ジョージのクラリネット、妻のピアノの合奏が始まる。
内田名誉教授のブログは引用自由ということらしい。関西電力が求めた一律15%節電について、こう書いている。
私自身は電力浪費型のライフスタイルよいものだと思っていないので、節電が15%でも50%でも、最終的には100%になっても「それはそれでしかたがないわ」と思うことにしている。
だから、電力会社が「これからはできるだけ電気を使わないライフスタイルに国民的規模で切り替えてゆきましょう」というご提案をされるというのなら、それには一臂の力でも六臂の力でもお貸ししたいと思っているのである。
でも、この15%節電は「そういう話」ではない。
電力依存型の都市生活の型はそのままにしておいて、15%の節電で不便な思いを強いて、「とてもこんな不便には耐えられない。こんな思いをするくらいなら、原発のリスクを引き受ける方がまだましだ(それにリスクを負うのは都市住民じゃないし)」というエゴイスティックな世論を形成しようとしているのである。
だから、電力会社が「これからはできるだけ電気を使わないライフスタイルに国民的規模で切り替えてゆきましょう」というご提案をされるというのなら、それには一臂の力でも六臂の力でもお貸ししたいと思っているのである。
でも、この15%節電は「そういう話」ではない。
電力依存型の都市生活の型はそのままにしておいて、15%の節電で不便な思いを強いて、「とてもこんな不便には耐えられない。こんな思いをするくらいなら、原発のリスクを引き受ける方がまだましだ(それにリスクを負うのは都市住民じゃないし)」というエゴイスティックな世論を形成しようとしているのである。
電力に限らず、有限なエネルギー資源をできるだけていねいに使い延ばす工夫をすることは私たちの義務である。
そして、その工夫はそのまま社会の活性化と、人々の未来志向につながるようなものでなければならない。
70年代に、IBMの中央集権型コンピュータからアップルのパーソナル・コンピュータという概念への「コペルニクス的転回」があった。
同じように、電力についても、政官財一体となった中枢統御型の巨大パワープラントから、事業所や個人が「ありもの」の資源と手元の装置を使って、「自分が要るだけ、自分で発電する」というパーソナル・パワー・プラント(PPP)というコンセプトへの地動説的な発想の転換が必須ではないかと思うのである。
そして、その工夫はそのまま社会の活性化と、人々の未来志向につながるようなものでなければならない。
70年代に、IBMの中央集権型コンピュータからアップルのパーソナル・コンピュータという概念への「コペルニクス的転回」があった。
同じように、電力についても、政官財一体となった中枢統御型の巨大パワープラントから、事業所や個人が「ありもの」の資源と手元の装置を使って、「自分が要るだけ、自分で発電する」というパーソナル・パワー・プラント(PPP)というコンセプトへの地動説的な発想の転換が必須ではないかと思うのである。
脚本家の倉本聰が、自ら塾長を務める富良野自然塾の季刊誌(2011年夏号)で「ヒトに問う 東日本大震災に寄せて」という巻頭文を載せているのを新聞で知った。
「覚悟」という言葉を今考える。
我々はこの不幸な大事故後の人間生活のあり方について、大きな岐路に立たされている。
一つの道は、これまで通り、経済優先の便利にしてリッチな社会を望む道である。その場合これまでの夜の光量、スピード、奔放なエネルギーの使用を求めることになるから、現状では原発に頼らざるを得ない。その場合再び今回同様の、もしかしたらそれ以上の、想定外の事故に遭遇する可能性がある。
その時に対する「覚悟」があるのか。
我々はこの不幸な大事故後の人間生活のあり方について、大きな岐路に立たされている。
一つの道は、これまで通り、経済優先の便利にしてリッチな社会を望む道である。その場合これまでの夜の光量、スピード、奔放なエネルギーの使用を求めることになるから、現状では原発に頼らざるを得ない。その場合再び今回同様の、もしかしたらそれ以上の、想定外の事故に遭遇する可能性がある。
その時に対する「覚悟」があるのか。
今一つの道は今を反省し、現在享受している便利さを捨てて、多少過去へと戻る道である。この場合、今の経済は明らかに疲弊し、日本は世界での位置を下げる。そうしたことを認識した上で今ある便利さを、捨てさる「覚悟」があるのか。
以上二つの選択の道を宮津市の講演会で問うてみた。
その日の講演会場は八百の客席が満員。一階が一般市民。二階が全て高校生だった。まず一般市民にのみ問うてみた。
何と90%が、過去へ戻る道。
一寸驚いた。
次に高校生たちの問うてみた。一般市民は首をめぐらし、二階席を仰ぎ見た。
70%が、今の便利さをつづける道。30%が便利を捨てる道。静かなどよめきが会場に流れた。
全国民に僕はこの二者選択の答えを聞きたい。
その日の講演会場は八百の客席が満員。一階が一般市民。二階が全て高校生だった。まず一般市民にのみ問うてみた。
何と90%が、過去へ戻る道。
一寸驚いた。
次に高校生たちの問うてみた。一般市民は首をめぐらし、二階席を仰ぎ見た。
70%が、今の便利さをつづける道。30%が便利を捨てる道。静かなどよめきが会場に流れた。
全国民に僕はこの二者選択の答えを聞きたい。
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