2013年3月アーカイブ: Masablog

2013年3月28日

出雲紀行・下「出雲大社」、読書日記「古代出雲大社の復元」(大林組プロジェクトチーム編)、講話「出雲大社巨大本殿は実在したか」(黒田龍二・神戸大大学院教授)



古代出雲大社の復元―失なわれたかたちを求めて

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 昨年の11月3日。松江市で 「松本竣介展」を見た後、出雲大社へと急いだ。大社周辺で 「神話しまね博」が開かれている連休とあって混雑を覚悟していたが、それほどでもない。神話博の評判はもう一つだったらしい。

 出雲大社では、60年に一度の 「平成の大遷宮」が今年の5月10日に行われるのを目前にして本殿周辺は工事用の塀で囲まれていたが、拝殿(現在は御祭神、大国主大神の仮の住まいである御仮殿)近くから見ると、 大社造り、茅葺きの大屋根はほぼ葺き終わったように見える。屋根の上の千木(ちぎ)・鰹木(かつおぎ) が後ろの八雲山の頂上に迫るように大きく見える(写真①)。高さ8丈(約24メートル)と、日本一高い神社だ。

神楽殿の注連縄(しめなわ)も長さ13メートル、重さ5トンと日本最大級(写真②)。前の広場にある国旗掲揚台の日章旗も日本最大。古代出雲王朝の"遺産"はけたはずれに大きい。

 拝殿の前にもう1つ、どでかい"遺産"が残っていた。

 拝殿前のコンクリートの広場に、円を3つ束ねた橙色のサークルが3ヶ所に印されており、参拝者がしきりにカメラを向けている(写真③)。

 これが2000年4月に発見された巨大な3本柱遺跡を示すものだった。直径1・1-1・4メートルの杉材を3本1組に束ね、合わせて直径が約3メートルにもなる巨大な柱の跡が3ヶ所から出土したのだ。

 発見されたうち手前3本の 「宇豆柱(うづばしら)」は保存処理を終わり重要文化財に指定されて、いつもなら近くの 島根県立古代出雲博物館のロビーに展示されているが、ちょうど東京国立博物館で開かれていた 特別展「出雲―聖地の至宝―」に出品されていて留守。それでも、境内の「宝物館」の前に展示されているコンクリート製の模型からも、遺跡の柱が支えていたかっての出雲大社の巨大さがうかがえる(写真④)。ちなみに、現在の本殿の柱は、1組0・7メートル強から1メートル強らしい。

千木(ちぎ)・鰹木(かつおぎ);クリックすると大きな写真になります 神楽殿の注連縄(しめなわ);クリックすると大きな写真になります 巨大な3本柱遺跡;クリックすると大きな写真になります 「宇豆柱(うづばしら)」の模型;クリックすると大きな写真になります
写真① 写真② 写真③ 写真④


 平安時代に編纂された児童教養書 「口遊(くちずさみ)」 「雲太、和二、京三(うんた、わに、きょうさん)」という数え歌が載っているという。当時の「大屋(巨大な建物)」のうち、出雲大社が太郎で1番、大和の大仏殿が2番、3番が京都の大極殿、というのだ。
 それを スケッチすると、こんな比較になるようだ。

当時の大仏殿の高さは約約15丈(約45メートル)。出雲大社には「上古32丈、中古16丈」という口伝が残されている。現在でも8丈(約24メートル)もの高さを誇る出雲大社は上古には32丈(約96メートル)、中古には16丈(約48メートル)と大仏殿より高かった、という。 48メートルといえば、14階建ての高層ビルに匹敵する。

 オオクニヌシが「天の御子が住むのと同じくらい大きな宮殿を建てる」ことを条件に、お隠れになったという古事記の記述にそって、こんな巨大な神殿が造られたのか。

 それとも、日本海沿岸各地に残る真脇遺跡 チカモリ遺跡などの縄文遺跡や諏訪大社御柱祭に受け継がれてきた巨木文化、巨木信仰が、出雲大社を高く、大きく建造しようとした源なのか。

 それよりなにより「上古32丈、中古16丈」という口伝は真実なのだろうか。

 "巨大神殿"のロマンを探しに、拝殿から歩いて10分弱の県立古代出雲博物館に向かった。

予想外に混んでいる。ロビーから左に入った展示室の大きなガラスケースのなかに「出雲大社御本殿復元模型」(写真⑤、⑥)が5つ並べられていた。

5人の古代建築史の研究者が、自分の持つ学説にそって、発見された巨木遺跡の全体像を50分の1の模型で再現しようしたものだ。向かって左の一番低いものが現在の大社と同じ8丈(約24メートル)、真ん中の2つが11丈(約33メートル)、右側2つは16丈(約48メートル)と、一番高い。

それぞれの研究者の再現根拠を説明したボードも掲示してあるが、なぜかガラスケースの向かって左側に、十六丈神殿の10分の1模型(写真⑦、⑧)が天井まで届くように展示されてある。
 「やはり十六丈の高さが見栄えがする」という、その筋のお声がかりで出来上がったとか。制作は、松江工業高校の生徒たちだという。

「出雲大社御本殿復元模型;クリックすると大きな写真になります 出雲大社御本殿復元模型;クリックすると大きな写真になります 十六丈神殿の10分の1模型;クリックすると大きな写真になります 十六丈神殿の10分の1模型;クリックすると大きな写真になります
写真⑤:出雲大社御本殿復元模型 写真⑥:出雲大社御本殿復元模型 写真⑦:十六丈神殿の10分の1模型 写真⑧:十六丈神殿の10分の1模型


izumo taisha-00.jpg  大手ゼネコン(建設会社)の大林組は、この16丈本殿の建設が可能であったかを実証し、CG(コンピューター・グラフィックス)上で、巨大神殿を復元(右図①)してしまった。拝殿前で、巨木遺跡が出土した10年も前のことだ。

 この成果は、当初、同社の技術誌「古代出雲大社の復元 失われたかたちを求めて」(上掲)(監修・故・福山敏男、大林組プロジェクトチーム編、学生社刊)として発刊された。

 故・福山京大名誉教授、大林組が、16丈本殿実玄の根拠としたのは、出雲大社の歴代宮司家である 千家國造家に秘蔵されてき神殿の平面設計図・「金輪御造営差図」だった。

 この差図(設計図)には、3本の柱を金輪(鉄の輪)でくくって直径3メートルの柱とし、正方形の9ヶ所に建てた平面図。後に見つかった巨木遺跡とそっくりなのだ。  残念ながら高さは書いてなかったが、階段(引橋)の長さが1町(約109メートル)と書いてあった。

 プロジェクトチームは、これを第1次資料に、コンピューター上で構造解析や地震時の揺れのシュミレーションなどを繰り返し「16丈本殿の建設は可能だった」という結論を導き出した。

 この結論に反論しているのが、島根県立古代出雲博物館で「11丈模型」を制作した 黒田龍二・神戸大大学院教授

 出雲大社に同行した友人Mから「『出雲大社巨大本殿は実在したか』という講話があるようだ」と聞き、朝日カルチャーセンター川西教室で1月から月1回、計3回行われた黒田教授の話しを聞きに行った。

 渡されたレジメには「16丈本殿論争は明治時代から続いており」「その1つが、平成元年からの『黒田龍二VS大林組』」という記載があった。

講話のなかで黒田教授は、長く神社建築史を研究してきた立場から「9本の柱で、100メートルの階段(引橋)を支えるのは難しい」「ただ高い、というのは異様であり、大仏殿より高いというのは論理がねじれている」と、「金輪御造営差図」や「雲太、和二、京三」から、高さ16丈の本殿が実在したというのは無理がある、と主張した。

 黒田教授が「11丈本殿」の根拠にしたは、鎌倉時代のものといわれる出雲大社の古絵図;クリックすると大きな写真になります"出雲大社の古絵図 「神郷絵図」(左:図②)。「門と本殿の高さの釣り合いが取れている。11丈でも少し高いと思うが、根拠になるものが、これ以外にはない」という。

 ただ、平安末期から鎌倉中期にかけて「本殿は5度にわたって倒壊した」という記録が残っている。しかも、大陸から石の土台を築く技術が伝わっても、掘立柱の巨大神殿にこだわったのではなぜだろうか。

 そこに、古代王朝から脈々と伝えられてきた出雲文化の独自性とロマンが感じとれて、興味が尽きないのだ。

(追記:20130/3/29)  このブログを書いた翌日の読売新聞社会面に「出雲大社 本殿造営の記録」という記事が載った。  島根県立出雲歴史博物館が、 「北島國造家」の調査したところ、慶長年間(1596年-1615年)に豊臣秀頼によって本殿を造営した際の「本殿の規模などを記した記録が見つかった」と書いてある。
 江戸時代の延亨元年(1744年)に造営された現在の本殿より以前のものだから「ひょっとすると、16丈本殿?」と、同博物館に問い合わせてみた。
 残念ながら、6丈5尺(約20メートル)と現在の本殿の8丈(約24メートル)より小さかったことが分かっという。同博物館学芸員の記述によると「中世の社会的混乱もあり、16世紀末には4丈5尺(約13・5メートル)の高さになってしまった」という歴史の流れが生んだ高さなのだろう。  しかし、驚くような事実も分かった。「天井に龍が描かれ、極彩色がほどこされていた」と記録されていたのだ。同感の学芸員は「当時の豪華華麗な 桃山文化を反映したものだろう」と話す。  徳川時代の「延亨遷宮」のときも、幕府はこの流れを継承しようとしたが、出雲大社側の強い要望で、現在の白木の簡素な神殿になったらしい。  "16丈伝説"への夢はつきないが、こんな事実が後世に突然顔を見せてくれるから、歴史っておもしろい!

2013年3月22日

読書日記「葬られた王朝―古代出雲の謎を解くー」(梅原 猛著、新潮文庫)


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 昨年末、松江に「松本竣介展」を見に行くのを機会に「出雲大社」に寄ってみようと思った。

 ちょうど大社周辺では、古事記編纂1300年などを記念して 「神話博しまね」が開催されていることも知り、事前に古代出雲や神話の本を読みあさった。

 これほど多くの関連本があふれているとは・・・。考古学者や歴史学者、博物館の学芸員、出雲国造と呼ばれる宮司、街の学者といわれる人などが、口々に「出雲王朝は現存したが、大和王朝に抹殺された」「出雲に支配勢力など存在しなかった」「いや実は、ヤマトをつくったのは出雲人」などと、てんでに主張している。

 そんななかで遭遇したのが、表題の本。分からないままに3回ほど読み返し、古代出雲王朝と古代神話とのつじつまが合うように思えて、古代出雲への興味が深まっていった。

 実はこの本の「はじめに」でふれているように、著者は40年ほど前に刊行した「神々の流竄 」 (集英社文庫)に記載したことが誤りであったことを自ら証明するために、表題の本を書いたと告白している。

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    「神々の流竄 」で梅原氏は「出雲神話は大和神話を出雲に仮託したもの」と主張した。古事記には、出雲神話が全体の3分の1を占めているが「出雲」という国や勢力が実在したわけではなく、出雲神話は大和の政権内で起きた数々の事件を、出雲の地に置き換えて語っている、としたのだ。

 これでは「出雲神話ばかりか、日本の神話そのものを全くのフィクションと考える津田左右吉の説と変わりがない」。戦後の歴史家の多くもこの説を採用し続けた。
 それは「出雲には神話にふさわしい遺跡がない」ことも根拠になっていた。

 ところが、出雲では考古学上の大発見が相次いだ。1984年、85年には、出雲市斐川町の荒神谷遺跡から銅剣358本、銅鐸6個、銅矛16本が見つかった。銅剣の本数は当時の国内出土総数を上回る数である。1996年には、荒神谷遺跡から山を隔てて3キロ強しか離れていない雲南市加茂町の 加茂岩倉遺跡から39個もの銅鐸が発見された。これまた日本最大の銅鐸出土数であった。

 そこで梅原氏は「学問的良心を持つ限り、出雲神話が全くの架空の物語であるという説を根本的に検討し直さなければならない」と、古事記に書かれた神話がいかに考古学的遺物によって裏付けられるかを確かめるために出雲への旅に出る。

 筆者はまず「出雲王国は スサノオから始まった」と、 「ヤマタノオロチ」伝説の分析から始める。

 古事記には、次のように書かれている。

   「その目はほおずきのように赤く、八つの頭と八つの尾があり、その身体には苔と 槍と杉が生えていて、その長さは八つの谷、八つの峰にも渡るほどで、その腹はい っも爛れています(抄訳・筆者)」

 
八つの頭と八つの尾を持つオロチが実在したとは考えられない。・・・ヤマタノオロチとは、人民を苦しめる強くて悪い豪族を指すのかもしれない。出雲王国の交易範囲は、西は朝鮮半島・ 新羅から東は(こし、現在の北陸地方)に及んでいた・・・。そしてこの越の国からやってきた豪族が出雲の山々を支配し、・・・人々を苦しめていたのではなかろうか。その強く悪しき越の豪族ども、すなわち「高志の八俣のをろち」に、スサノオは酒を飲ませ、油断させ、皆殺しにしたのではなかろうか。


 スサノオから数えて6代目の子孫である 国津神 オオクニヌシ「国引き神話」について、著者はこう解説する。

 オオクニヌシは、朝鮮半島・新羅の岬や隠岐、越の国から余った土地を引いてきて現在の島根半島を完成させた、というのが「国引き神話」の骨子。

 
この国引きをどう考えるかは問題だが、それは、かつて島であった島根半島が海面下の地盤が隆起によって本州と陸続きになり、また火山灰が堆積するなどして陸地が飛躍的に増えたことを祝賀する話であると考えるべきであろう。
 日本列島において海面が最も高くなった縄文海進は、今から約六千年前のこととされる。その後、時間の経過とともに海面下の地盤が隆起し、火山灰が堆積して現在のような広大な平野ができたと考えられている。ちょうどその頃が弥生時代にあたり、出雲の稲作農業に携わった当時の民衆は耕地が増えたことを心から喜んだに違いない。


 「因幡(いなば)の素兎(しろうさぎ)」という話しには「他愛のないメルヘンではあるが、・・・政治的な意味合いが含まれている」と、梅原氏は見る。

 
ウサギが住んでいたのは隠岐島であるが、対岸の因幡の地は鳥取の 妻木晩田(むきばんだ)遺跡が示すように、豊穣な地であり、農業文明が繁栄していたとかんがえられる。そのような本土の地を、繁栄とはほど遠い隠岐島に住でいた素兎は羨望し、なんとか海を越えて本土に渡ろうとしたのであろう。その手段として、ワニを欺いたわけである。しかし、最後まで嘘を貫けばよかったのに、どこか正直者で嘘をつけない素兎はつい本当のことをしやべってしまった。
 これは、隠岐島から本土へ移住しょうとする島民と、その移住を手伝った船頭との間に起きたトラブルを思わせる話である。


 その後、出雲の王国を継いだオオクニヌシは、越も支配し、日本海沿岸に強大な勢力を持つ大国となり、続いて南進して、ヤマトを征服しようとする。
 このヤマト征服の旅は「オオクニヌシの大勝利に終わったことは間違いない」と著者は語る。

   
関西周辺の地域には、オオクニヌシおよび彼の子たちを祀る神社や「出雲」の名を伝える場所がはなはだ多い。・・・
古くはヤマトも山城も出雲族の支配下にあり、この地を多くの出雲人が住んでいたとみるのが、もっとも自然だろう。


 しかし、オオクニヌシの出雲王国は、内部分裂と韓の国からきた アメノヒビコという強力な神に追い詰められて崩壊の危機にたつ。そして、ついにヤマトから使者がやってくる。
  「国譲り」神話である。

 オオクニヌシは、大きな大社を建造することを条件にお隠れになる。

 梅原氏は「隠居」とも「稲作の海に隠れた」とも書いている。"自決した"という事かもしれない。

 次に梅原氏は、さきに書いた荒神谷遺跡や加茂岩倉遺跡で出土した青銅器が、どのような形でスサノオ、オオオクニヌシの「出雲王朝の歴史に結びつくのか」を考えるために調査を続け「銅鐸の起源は出雲にある」という結論を得る。

 そして「これほど大量の青銅器を所有したのは地方の豪族であるか、それとも王であるのか」と、考古学者や歴史学者に問いかけた、という。

彼らはしばらく沈黙し、首を傾げながら「王としか考えられませんね」と答えた。王だと言えば、私とともに彼らが今まで信じていた「出雲王朝は存在しなかった」という説は覆ってしまうのである。・・・これほど多くの宝器を所有したのは間違いなく出雲王朝の大王であり、おそらくオオクニヌシといわれる「人」であったに違いない。


 さらに「荒神谷遺跡などから出土した銅器に『☓』印がついているのは、死者に贈られたものの印だろう」とする一方、こんな推論をしている。

荒神谷遺跡は 「出雲風土記」に記された ヤマトタケルの家来が住みついた地であった。それは出雲の神の反乱を恐れたヤマト朝廷が派遣した進駐軍のような軍隊であったと思われる。おそらくそこはかつてイズモタケルが住んでいたところで、イズモタケルは、『古事記』 が語るようなオオクニヌシ政権崩壊後もなお細々ながら十七代紋いた出雲王朝の最後の王であったのではなかろうか。とすれば、そこはかつてオオクニヌシの住んでいた宮殿があったところである。そしてその町外れの小さな丘の中腹に、オオクニヌシの大切にしていた青銅器を埋めて、黄泉の回の王となったオオクニヌシに贈り届けようとしたものと考えてもおかしくはない。


 ちなみに、現在オオクニヌシが祀られている出雲大社は、荒神谷遺跡から西北に10数キロのところにある。

▽その他、参考にした本

  • 「出雲と大和」( 村井康彦著、岩波新書、2013年1月刊)
      大和の中心三輪山に出雲系の神が祭られていることなどを理由に「出雲勢力は早くから大和に進出し、< 邪馬台国も出雲人が立てたクニだった」という新説を打ち出した。
      著書には、茶の湯などいわゆる京都学のものが多いが、突然の"古代史"帰り・・・?。

  • 「出雲大社の暗号」( 関 裕二著、講談社刊)「『出雲抹殺』の謎」(同、PHP文庫)
      著者は、独学で日本古代史を研究した歴史作家。「出雲を解くヒントは、祟りである」と書く。

  • 「出雲の古代史」(門脇禎二著、日本放送教会刊)「古代日本の『地域王朝』と『ヤマト王朝』(上)」(同、学生社刊)
     著者は、京都府立大名誉教授の歴史学者。「1世紀ごろスサノオに率いられた朝鮮の東海岸から渡来した新羅人系統集団 "スサ族" が先住の 海人族を駆逐、2世紀には出雲の砂鉄地帯を占領した」と解説している。

  • 「『出雲』からたどる古代日本の謎」(瀧音能之著、青春出版社刊)
     著者は、日本子古代史が専門の駒沢大学教授。「出雲と九州・宗像との親密な関係」についての記述が興味をひく。「ヤマト王国が出雲にこだわったのは、新羅を仮想敵国と見ていたから」とも。

  • 「古代史コレクション⑧ 古代史を疑う」(古田武彦著、ミネルヴァ書房刊)
     著者は、高校の教師を長く勤めた異色の古代史研究家。「古代、中世には多くの王朝が並列していた」という 「多元王朝説」を展開している。

     


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