2009年10月アーカイブ: Masablog

2009年10月19日

読書日記「ナガサキ 消えたもう一つの『原爆ドーム』」(高瀬毅著、平凡社)、そして「信州・無言館」



ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」
高瀬 毅
平凡社
売り上げランキング: 5311
おすすめ度の平均: 5.0
5 ナガサキの「苦悩」は、長崎だけのものではない
5 ミステリーを読むように一気に読めます
5 日本人として知っておくべき事実
5 アメリカはどうしても...


 数か月前だっただろうか。ふと手にした週刊誌のグラビア欄に、戦後すぐに撮られたらしい長崎・浦上天主堂の廃墟の写真が載っていた。

 今年の初めに浦上天主堂を訪ねたが、正面に首が取れたり、黒こげになった聖人像やレンガ壁の一部が残されている。教会内には焼けただれた「マリア像」も保管されており、爆心地から500メートルしか離れていなかった教会が壊滅状態になったことが分かる。しかし、廃墟になった天主堂は、現在の敷地内には残っていない。

再建された浦上天主堂:クリックすると大きな写真になります  長崎原爆資料館ホームページ廃墟となった天主堂の写真が載っているが、週刊誌には同じアングルの廃墟の前で縄跳びをして遊ぶ少女たちや、よじ登ってハンマーで廃墟を打ち砕く人たちの姿が掲載されていた。

 なぜ、被爆した天主堂は消えてしまったのか。その疑問に挑戦したのが、この本である。

 著者は、長崎生まれの元放送記者。長崎の放送局が制作したテレビ番組を見て「天主堂の廃墟が残っていたら、・・・原爆について考える大きなきっかけを与えるものになったに違いない」「広島に原爆ドームがあるのに、どうして長崎に浦上天主堂の廃墟は残っていないのか」という問いを膨らませていく。そして、地元取材だけでなく、アメリカの国立公文書館などで調査を続ける。

 この本を一挙に読んだ感じでは、著者はこの疑問への明確な答えは得られなかったようだ。しかし、いくつかの事実に突き当たる。

 1つは、当時の田川長崎市長が、当初は天主堂の保存を公言し、市長の諮問機関も保存の答申をしていたのに「心がわり」し、市議会で「浦上天主堂の残骸が、・・・原爆の悲惨を物語る資料として適切にあらず」と答弁、廃墟の取り壊しに賛成に転じたこと。

 もう1つは、教会を司る当時の山口司教が廃墟の保存を望まなかったらしいという事実だ。

 この2つの事実の裏には、原爆の遺産保存を望まないアメリカの周到なソフト戦略があると、著者は見る。

 田川市長がまだ天主堂廃墟の保存に前向きだった1955年(昭和30年)、アメリカ・セントポール市から突然、長崎市に姉妹都市提携の話しが持ち込まれた。日本では初めての唐突な"縁組"申し込みだった。
 翌年、田川市長は渡米、セントポール市だけでなく、シカゴ、ニューヨーク、ワシントン、ニューオルリンズ、サンフランシスコ、ハワイまで回り、国務省関係者などの歓迎を受ける。「米国から帰国した田川市長は、渡米前とは明らかに態度がかわっていく」
 1958年の臨時議会で、市長はこう答弁する。「浦上天主堂の残骸が原爆の悲惨を物語る資料として・・・適切にあらず・・・」

 同じころ、カトリック教会長崎司教区の代表である山口司教も、教会再建の資金集めのために10か月にわたって米国各地を訪問している。
 著者は、現地の新聞紙上での山口司教の発言や教会関係者への取材から、廃墟を撤去することが、アメリカ側の資金提供の条件であったらしいことを浮かび上がらせていく。

 教会が浦上という土地に教会を再建したいと願ったもう一つの理由にも、著者は言及している。浦上四番崩れに見られるように「何代にもわたった弾圧に耐え抜いた浦上の信徒にとって(原爆という)現在の『絵踏み』が行われた忌まわしい場所の上に天主堂を建てることは、部外者にはうかがいしれない重みがあるのかもしれなかった」

 西日本新聞にこんな記事が載っている。「五八年春、廃墟の天主堂は姿を消した。逆に広島はその二年後、急性白血病で亡くなった被爆少女の手記をきっかけに原爆ドームの保存運動がスタートする」(2003/08/03朝刊)。

  無言館:クリックすると大きな写真になります 先週、信州に"小さな秋"を見つけに出かけ、ある「鎮魂ドーム」を訪ねる機会があった。上田市にある「無言館」だ。

「無言館」の内部:クリックすると大きな写真になります  この美術館は、先の大戦で戦死した画学生を慰霊するため、近くで「信濃デッサン館」を開設している窪島誠一郎氏 が、東京芸術大学の野見山暁治・名誉教授と協力して集めた戦没画学生の遺作を展示している。

 コンクリート打ちっぱなしの建物のドアを押すと、薄暗いなかに画学生が残した作品が次々に浮かび上がってくる。「生きたい」「生きたかった」という叫びが聞こえてくるような、異常に静かな空間だ。

 家族や恋人、自宅近くの風景画が多い。横に短い文章が添えられている。没年、22歳、27歳、33歳・・・、フイリッピン・ルソン島、中支、沖縄・・・。あまりに若く、あまりに遠い無念の死だ。

 「無言館」にある絵の一枚 「あと5分、あと十分、この絵を描きつづけたい。・・・生きて帰ってきたら必ずこの絵の続きを描くから・・・安典はモデルをつとめてくれた恋人にそういいのこして戦地に発った」

「無言館」にある絵のもう一枚
「『ばあやん、わしもいつかは戦争にゆかねばならん。そしたら、こうしてばあやんの絵も描けなくなる』」
「きよしがつぶやくようにいうと『なつ』はうっすらと涙をうかべただけで何もいわなかった」  

無言館第2展示館:クリックすると大きな写真になります「第2展示館』の前にあるモニュメント:クリックすると大きな写真になります 平成8年に開館した「無言館」の近くに、最近「第2展示館」も完成した。

 「屏風絵 茄子」(小野春男)という日本画に引かれた。
 「先生の絵の茜色は亡き息子さんの鎮魂の色ですか」「父竹喬(文化勲章を受章した日本画家・故小野竹喬)はなにも答えなかった」

 ※参照:「生誕120年 小野竹喬展」

2009年10月 3日

北京紀行「書店巡り、そして国慶節前夜」


 北京の街をのぞいてきた。

  実質2日半という短い日程だったので、北京に6つある世界遺産のいくつかを見られれば、というぐらいの気楽な気持ちで出かけたが、なかなか・・・の旅でした。

 ホテルでチェックインをすませた午後2時半。さっそく近くの地下鉄・建国門駅から1号線で2駅目の王府井駅で降り(地下鉄は一律2元=約26円)、出版社の「商務印書館」を目指した。北京最大の繁華街・王府井大街を北に向かって歩く。

 路の一部は歩行者天国となっている。日曜日とあって大変なにぎわい。おのぼりさんのように、左右をキョロキョロ見ながら10数分。あった、あった、路の向かい側に。現地の人のまねをして、自動車やバスを避けながら路を横切った。この出版社の1階に小売部があるのだ。
 この出版社が出している「现在汉语实词搭配词典」という中国語の辞書を買うのも、今回の目的の1つ。週に1回通っている神戸の中国語教室の先生に勧められた本で、動詞や形容詞などの正確な配列を調べられる。

 私の実力ではちょっと手に余るのだが、たった30元(約400円)の小型の辞書なので、教室の同級生である中国語の使い手たちへのみやげになるかとも考えた。
 ところが出版元というのに、店員の答えは「没有(ありません)」。しかたなく「日语常用词搭配词典」(日本常用語配列辞典)というのを46元(約605円)で衝動買いした。この本、なんとほこりだらけ。レジの横にほこりを取る台みたいなものでぬぐい、袋のも入れないで渡された。店頭に並べられた写真集をパラパラめくってみたが、やはり黄砂らしい砂ぼこりが指先につく。ホテルの窓から見たどんよりした空の犯人はこれか、と気付いた。

 バス(1元=約13円)で地下鉄・王府井駅に戻り、西へ3つ目の西単駅で降りる。この駅の真上に中国語教室の先生に教えてもらった北京最大の書店、北京図書大厦がある。その広さ、混みよう、日本の「ジュンク堂」も顔負けだ。買い物客はスーパーにあるような台車付きのワゴンに本をいっぱい詰め込んでレジに並んでいる。
 辞書コーナーは、8階建てのビルの3階。店員も多く、担当も細かく分かれているようだ。やって来たちょっとやくざっぽいお兄ちゃんに頼むと、書棚をひとわたり眼で追って「没有」。たった一言を残して、さっさと消えてしまった。いささか、あ然!

 ホテルのフロントに相談することにした。翌日、フロントにいた「高」という名札を付けた若い女性に事情を話すと、さっそく中国最大の検索エンジン「百度」で調べてくれた。確かにこの本は写真付きで載っている。その下に書店のリストが記載されている。なんと高さんは、2日にわたって18の書店に電話してくれたが、いずれも「没有」。

 「インタネットで購入してみてもいいですか」と、高さん。「ぜひお願いします。できれば5冊ほしいのですが・・・」。
 日本に帰る朝、上司であるフロントの男性の携帯電話に非番らしい高さんからメールが入った。「出版元から今、連絡がありました。この本は現在、廃番だそうです」。

 「お世話をかけました、ありがとう高さん」。名刺の裏につたない中国語で感謝の言葉を書き、上司の男性に託した。

 10月1日の建国60周年を祝う国慶節パレードも終わったが、北京を訪ねた9月末の街は、厳しい警戒ムードと国慶節の準備を急ぐ華やいだ雰囲気が交錯していた。

 繁華街の王府井大街でさえ、パトカーなどの警察車が何台も止まり、武装警察官が機関銃めいた銃を持って警戒、警察犬を連れた警官が常時、パトロールしている。中国の公安組織がよく理解できないが制服も様々で、人民軍兵士も警戒に参加しているらしい。

 一方、世界一広いといわれる天安門広場には、国慶節のパレード用なのだろう、幅50メートル、高さ8メートルという長大なLEDスクリーンがデンと据えられ、広場の両側には、赤と金色で彩った巨大な柱が計56本、並べられている。柱には、漢民族と55の少数民族を示すイラストが描かれている。  建国50周年の時と比較にならない異常な警戒体制は、最近頻発したチベットや新疆ウイグル自治区で起こった騒動を意識したものだろうし、56本の柱は、他民族国家・中国の民族間融和を改めて狙ったものらしい。

 10月1日。国慶節の式典をインターネットの生中継で見ていたら、チベット自治区のパレードカーには「調和のとれたチベット」、新疆ウイグル自治区の車には「天山(山脈)からの祝意」と書かれていた。

 世界遺産・天壇公園でも、国慶節の準備のために北京市の花といわれる月季花(チャイナローズ、庚申バラともいう)の花壇が整備され、世界遺産・故宮(紫禁城)を一望できる景山公園の階段のてすりを取りかえる作業も急ピッチ。胡同見物の人力車が集まる什刹海公園の道路わきには北京の木、アカシアの白い花から甘酸っぱい匂いが流れていた。
 そして、世界遺産の万里の長城の広大な景観や故宮の折り重なるように連なる瑠璃瓦に感じ取れる中国の長大な歴史・・・。

  そんな景観を楽しむ観光客に交じりながら、この国の広さと複雑さに少しふれられた気がした。

王府井の歩行者天国:クリックすると大きな写真になります王府井小吃街の串焼き屋さん:クリックすると大きな写真になります北京最大の書店、西単・北京図書大厦ビル:クリックすると大きな写真になります同書店の広大な売り場:クリックすると大きな写真になります
王府井の歩行者天国。
若者たちのカジュアル姿は、意外に地味な感じ
王府井小吃街の串焼き屋さん。
生きたサソリ、カイコの幼虫、ムカデのから揚げ、あります。
北京最大の書店、西単・北京図書大厦ビル同書店の広大な売り場。一番奥には、天井までのカギ付きガラス書棚が並び、屈強な男性が客の求めで、本を取り出してくれる
防弾チョッキと銃で警戒する武装警察隊員クリックすると大きな写真になりますクリックすると大きな写真になりますクリックすると大きな写真になります
防弾チョッキと銃で警戒する武装警察隊員。
見て見ぬふりで通り過ぎる人、カメラを向ける人・・・(王府井大街で)
国慶節のために用意された各民族のイラストが入った柱の列(天安門広場で)天安門広場にデンと据えられた大型LEDスクリーン。かなり鮮明な画面だ天壇公園を彩るペキンローズの花壇
クリックすると大きな写真になりますクリックすると大きな写真になりますクリックすると大きな写真になりますクリックすると大きな写真になります
景山公園から一望できる故宮。夕日の瑠璃瓦が輝く北京の木、アカシアの花が匂う下で、胡同見物の客を待つ人力車(什刹湖公園で)延々と山なみを縫う万里の長城北京の古典芸術、京劇。
観客の半分を占める米国人観光客がしきりにカメラを向けていた(演目は白蛇伝、湖広会館で)
13_P1050836.JPGクリックすると大きな写真になりますクリックすると大きな写真になりますクリックすると大きな写真になります
広大な骨董品市場・潘家園旧貨市場。陶磁器、玉、メノウ・・・なんでもあります羊肉しゃぶしゃぶの名店・東来順王府井店。炭火でたく火鍋に入れた具をゴマだれで食べる庶民の味、炸酱麵の老舗・老北京炸酱麵大王北京ダックが焼けるのを待つコックさんたち(北京大董烤鸭・南新倉店で)




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