2015年7月アーカイブ: Masablog

2015年7月26日

読書日記「長いお別れ」(中島京子著、文藝春秋刊)

長いお別れ
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中島 京子
文藝春秋
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 元中学校長で公立図書館長もした東昇平の病名がはっきりしたのは、3年前のことだった。
 頻繁に物がなくなり、記憶違いも続いていたある年の夏、昇平は2年に1回、同じ場所で行われている高校の同窓会に辿り着けなかった。

 認知症外来で、「ミニメンタルステート検査」を受けたところ、30点満点で20点だった。初期の アルツハイマー型認知症と診断され「3年から5年、進行をゆっくりにします」と、薬を処方された。それから、もう3年が経っていた・・・。

 昇平は妻の曜子と一緒に、長女の茉莉が夫赴の赴任について行っているサンフランシスコに出かけた。行く時から着いてからも「俺は帰る、帰る」と繰り返した。
 昼食のたびに生牡蠣を食べ「牡蠣を食べるなんて、久しぶりだよ!」と、いつも同じ言葉を繰り返した。

 夏休みに日本に一時帰国した茉莉の長男・潤が昇平と2人、留守番をしたことがあった。

 
 「それで、あんたは誰だったっけ?」
 という質問に、五分に一度くらい、潤だと答えさえすれば、
 「おう、そうだった」
 「潤だな」
 「ずいぶん、大きくなったじゃないか」
 「それで、あんたのお母さんは誰だったっけな」
 「二中だったよね?」・・・
 いつのまにか、潤は昇平の孫ではなくて、何か失態を演じて校長室に呼ばれた生徒として扱われているようでもあった。
 「だけどまあ、そういうこともあるからな。あんたが初めてじゃないんだ。次からちゃんとやればいいんだ」
 と、唐突に祖父は言ったりした。


 しかし、元国語教師の昇平は、デイサービスセンターから持ち帰った「難解漢字」のテストを見事に読み解いて、孫の度胆を抜いた。

 
 屠蘇(とそ)、熨斗(のし)、御神酒(おみき)、独楽(こま)、獅子舞(ししまい)
 簾(すだれ)、筧(かけひ)、笊(ざる)、簪(かんざし)、筵(むしろ)


 潤の弟の崇が宿題の絵日記に描いたスケッチブックの隅に、昇平は「蟋蟀(こおろぎ)」と迷うことなく書いて、驚かせたこともあった。

 しかし、昇平の症状はどんどん悪化していった。

 電話に出た三女の芙美に、昇平は興奮気味に話した。

 
 「おほらのゆうこおうが、そっちであれして、こう、うわーっと、二階にさ、こっとるというか、なんというか、その、そもろるようなことが、あるだろう?」・・・
 「すふぁっと。すふぁっと、と言ったかなあ、あれは。ゆみかいのときにだね、うーつとあびてらの感じが、そういう、あれだ、いくまっと、いくまっとじゃない、なんだっけ、なんと言った、あれは?」


 アメリカから、長女の茉莉が国際便で送ってきたアルツハイマー治療の新薬は、昇平の話す意欲に働きかけても、失われた語彙を甦らせることはできなかった。

 症状はさらに進んだ。話す意志を失った昇平は、訪問入浴に来た介護スタッフに「やだ!」を繰り返したり、睡眠中に紙おむつにしたうんこを妻・曜子のベッドに並べたりした。
 曜子が網膜剥離で緊急入院している間に、昇平も発熱して入院した。右足を骨折していた。隣にいない妻を探し求めてベッドから落ちたためらしい。
 昇平はほとんど言葉を失い、病院のベッドで終日うつらうつらしていた。

 妻・曜子は思う。

 
 ええ。ええ、忘れてますとも。わたしが誰だかなんてまっさきに忘れてしまいましたよ。
 ・・・妻、という言葉も、家族、という言葉も忘れてしまった。・・・
 それでも夫は妻が近くにいないと不安そうに探す。不愉快なことがあれば、目で訴えてくる。何が変わってしまったというのだろう。言葉は失われた。記憶も。知性の大部分も。けれど、長い結婚生活の中で二人の間に常に、あるときは強く、あるときはさほど強くもなかったかもしれないけれども、たしかに存在した何かと同じものでもって、夫は妻とコミュニケーションを保っているのだ。


 米国・カルフォルニア州の公立中学の校長室。
 呼び出された孫の崇は「祖父がおととい死にました。長い間、認知症の病気でした」と話した。
 校長は、自分の祖母も同じ病気だったと言った。

 
 「『長いお別れ(ロンググッドバイ)』と呼ぶんだよ、その病気をね。少しずつ記憶を失くして、ゆっくりゆっくり遠ざかっていくから」


   直木賞受賞作 「小さなおうち」も書いた 筆者自身も、認知症で実父を失くしている、という。

 この本の題名は、 レイモンド・チャンドラー 同名小説にちなんだものらしい。

 

2015年7月 8日

読書日記「牡蠣とトランク」(畠山重篤著、ワック株式会社刊)


牡蠣とトランク
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畠山重篤
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著者は、東北・気仙沼の著名な牡蠣養殖漁業家で NPO法人「森は海の恋人」理事長。 このブログでも何度か紹介させてもらっている。

「牡蠣大好き人間」としては、読まずにはいられない。新聞広告を見て申し込んだ翌日にAMAZONから届き、その日の晩に一挙に読んだ。

本は、気仙沼湾にそそぐ大川上流の室根山で昨年行われた「森は海の恋人植樹祭」での 2人の男同士の会話で始まる。
 1人は著者、もう1人はフランスの高級バッグメーカー、 ルイ・ヴィトン社の5代目当主、パトリック・ルイ・ヴイトン氏。

「この木が大きくなると、いいトランクになりますよ」
 「私はいい牡蠣を想像しましたよ」
 「やっぱり」
 二人は顔を見合わせ大きな声で笑った。

トランク(旅行用の大型鞄)は、ルイ・ヴィトン社の創業商品。もともと婦人服用の白木の箱を作る職人であった創業者が独立して作り始めたのが木製の軽いトランクだった。「トランクも牡蠣も、原点は森にある」というわけだ。

50年以上も前、生牡蠣文化の発祥の地であるフランスで、牡蠣が全滅しかけたことがあった。稚貝のウイルス性の病気が発生したのだ。

それを救ったのが、宮城県の養殖業者だった。ミヤギ種のマガキの稚貝を空輸、ローヌ川が注ぐラングドック大河ロワールが注ぐブルターニュなどで養殖された。現在では、フランス産の牡蠣のほとんどはマガキだという。

 

1984年、40歳の著者は、仙台市の「かき研究所」に勉強に来ていたフランスの女性研究者の案内で、ブルターニュの牡蠣産地を訪ねた。

 
干潟に点在するタイドプール (潮だまり) に目をやると、おびただしい数の生きものがうごめいていた。ヤドカリ、カニ、タツノオトシゴ、イソギンチャク、ハゼやカレイの小魚など、子供の頃、我が家の前の干潟で遊び相手であった面々である。思わず涙がこみあげてくるような懐しさを感じた。自分の子供たちにも経験させようと浜に連れ出したとき、三陸の海辺からこうした生きものたちは姿を消していたのだ。
 「ここは、川が健全なのだ」と反射的に閃いた。
 

川沿いのレストランでは、シラスウナギ(ウナギの稚魚)や ジビエ(食用の野生の鳥獣)料理が名物だった。川の上流には、深い森が続いている、という。

小さいとき父に連れられ、キジ、ヤマドリ、ウサギなどの猟に行った。野鳥やウサギなどがいるのは決まって実のなる落葉広葉樹の森であった。その後、国策で森が常緑針葉樹の杉山に変わると、なんにもいなくなつたからである。
 ・・・フランス人はジビュ料理を食べたいがために落葉広葉樹の森を保護してい るのではないか。そこは腐葉土層も深い。大雨が降ってもスポンジ状の腐葉土に浸み込み地下水を滴養する。結果として、川は清流となり川魚も増える。河口域の海では牡蠣、オマールエビ、ヒラメ等の海産物も豊富に捕れるのだ。
 沿岸の海で暮らす漁民は、海のことだけ考えていては駄目なのではないか。
 

その頃、気仙沼の海に「問題が生じていた」。海が汚れて赤潮が発生、牡蠣の生長が悪くなってきていたのだ。

 

大川沿いに歩いてみると、農薬を使う水田には生きものの姿はなく、輸入材に押されて売れなくなった杉山は放置され、乾燥した土が雨に流されて川や海が濁っている。

 

「大川源流の室根の山に落葉広葉樹の森をつくろう」。漁民たちが語らい、室根村の賛同を得た。1989年9月、室根の山頂に大漁旗が翻った。植林運動「森は海の恋人」運動はこうして始まった。子供たちを対象にした体験学習も続けた。室根の村は、農業を環境保全型に切り替えた。

 

「海に青さが戻ってきた。牡蠣の生長は順調になり、秋にはサケの大群が大川に帰ってくるようになり、メバルやウナギも姿を見せるようになった」

 

そんな矢先、2011年3月11日、巨大津波が襲ってきた。

 高台にあった著者の自宅はかろうじて残ったが、牡蠣の養殖施設や工場、船のすべてが津波にのまれた。老人ホームに入所していた母親も助からなかった。

 

海辺から生きものの姿が消えたことも心配だった。「海が死んだのではないか」と疑った。

「森里連環学」を提唱している、京都大学の 森克名誉教授のチームが調査にやって来た。

 

「畠山さん、大丈夫です。牡蠣の餌となる植物プランクトンのキートセロスが、牡蠣が喰いきれないほどいます」
 「今回の津波を冷静に判断すると、被害が大きいのは干潟を埋めた埋立地です。川や背景の森林はほとんど被害がありません。海が撹拝されて養分が海底から浮上してきたところに、森の養分は川を通して安定的に供給されています。海の生き物は戻ってきます。・・・」

 

海の瓦礫が片づき養殖いかだを浮かべれば、家業が続けられると確信した。

 

フランスから支援の申し出が次々にあった。50年前、フランスの牡蠣が絶滅しかかった時、宮城県産の種苗が救ったことへの恩返しだという。

 

ルイ・ヴィトン社から、森と海の恋人運動に支援の申し出のメールが突然、届いた。

 

建物や物品の購入だけでなく、いかだを浮かべる漁場づくりに働く人たちの給料も、ルイ・ヴィトン社は支援の対象にしてくれた。

 

2012年の正月過ぎ、養殖場の跡取りである長男の哲が「牡蠣の筏が沈みそうになっている」と言った。通常は2年かけて生長する牡蠣がわずか半年で出荷できるまでに育ったのだ。「喰いきれないほど餌のプランクトンがいる」おかげだった。





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