2013年1月アーカイブ: Masablog

2013年1月30日

読書日記「原発をつくらせない人びとーー祝島から未来へ」(山秋真著、岩波新書)


原発をつくらせない人びと――祝島から未来へ (岩波新書)
山秋 真
岩波書店
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  著者は、能登半島・珠洲の原発建設反対運動を長く取材してきた女性ジャーナリスト。

  祝島のことは、この ブログでもふれたことがあるが、著者は対岸の半島に計画された 上関原子力発電所建設に反対する、島のおばちゃんたちのすさまじい闘争の歴史を綴っている。

 「1982年から30年間、毎週月曜日のデモ(島の中を30分歩く)は1150回を数えた」「寝間着を着て寝ることもなく、夜中の"警報発令"に備え、島の女性は夏も冬もズボンをはくようになった」

 「スイシン(原発推進派)の議員が夜の便で帰ってきたのを、おばちゃんたちが船着場に集まって、あがらせんかったこともあった。・・・機動隊がきても、それをあがらせんかった」

 海の埋め立て工事が始まった2010年からは女性(多くは80歳を過ぎた!)女性を中心に数名づつ、祝島から 田ノ浦へ毎日交替で通い始めた。浜にブルーシートを敷いて寝転んでいるだけ。「どんな言葉より雄弁な意思表示だ」

 原発計画が浮上して間もないころ、祝島の漁港前の看板に、こんな歌詞が書かれた。

       
上関原発音頭
(四)
 オシャカ様さえ言い残す
 金より命が大事だ
 人間ほろびて町が在り
 魚が死んで海が在り
 それでも原発欲しいなら
 東京 京都 大阪と
 オエライさんの住む町に
 原発ドンドン建てりやよい
 ここは孫子に残す
 原発いらないヨヨイのヨ
 反対反対ヨヨイのヨイ


 中部電力は、田ノ浦の浜を封鎖しようと、警備員を使ってスクラムを組み、人間の壁を作った。
 スクラムのなかで身体をはる人に食べ物を届けたくても、聞いてもらえない。仕方なく、食べ物を上から投げ込んだ。それでも「食べる暇ないし、食べたい気もしなくて、気づいたら三日ぐらいで三キロ痩せていた」

 中電は、田ノ浦湾に海上から出入りさせないために入り江の入り口にオイルフェンスを張ろうとした。カヤックに乗った応援のひとたちがフェンスの端をつかみ、陸へと引っぱりつづけた。それを女性たちが岩のうえへと引き上げた。
 中電側は工事施工区域で妨害するなと大音量マイクでくりかえしたが、祝島の船からは「ここは公有水面じゃろうが」という声が飛んだ。「海を汚さないように、ずっとお願いしているんですよ」。祝島の漁師たちは、反対を始めた最初からの"規範"を忘れず繰り返した。

 2011年3月11日の不幸な事故の4日後、中電は工事の「一時中断」を発表した。

 「漁に出る回数が多くなりました。・・・工事中断後、 カンムリウミスズメという絶滅危惧種にあう機会も多くなりました」

 しかし、漁業補償金をめぐるゆさぶりは続き、島の過疎化は進み、賛成と反対派住民との"亀裂"も消えない・・・。

 ▽参考にした本
 ※「原発のコストーーエネルギー転換の視点」( 大島堅一著、岩波新書)
 著者は、立命館大国際関係学部教授。これまで政府などが、どのエネルギー資源よりやすいとPRしてきた原子力発電について、国民や被災者が負担する社会的コストを綿密に計算し発電コストの実績値は火力や水力より高いとはじき出した。「脱原発を実施しても電力供給は大丈夫」と明確に示している。第12回 大佛次郎論壇賞受賞が決まった。

※「震災後のことば 8・15からのまなざし」( 宮川 匡司=ただし編、日本経済新聞出版社刊)
 1945年8月15日を体験した識者へのインタビュー集。

原発のコスト――エネルギー転換への視点 (岩波新書)
大島 堅一
岩波書店
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震災後のことば―8・15からのまなざし
吉本 隆明 中村 稔 竹西 寛子 野坂 昭如 山折 哲雄 桶谷 秀昭 古井 由吉
日本経済新聞出版社
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2013年1月26日

読書日記「昔日の客」(関口良雄著、夏葉社刊)


昔日の客
昔日の客
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関口 良雄
夏葉社
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 朝8時からのNHK第1ラジオを聞きながら家事をこなすのが習慣だったが、突然女性2人がそろってかん高い声を出すというとんでもない番組に変わってしまい、静寂の朝が続いていた。それでも、なにかのついでにスイッチを入れてしまった時に飛び込んできたのが、この本を出版した 島田潤一郎さんへのインタビュー。

 たった1人で 夏葉(なつは)社という出版社を立ち上げ、出版から営業までこなす島田さんは、世の中で埋もれた絶版本を再版するのをテーマにしてきた。この本も絶版になって以来、たまに古書店に並ぶと1万5000円という値がつく古書ファンには垂涎の本だったらしい。同社が1000部を再版したところ、すぐに3版にまでなった、という。

 このへんの事情は、島田さんは自分のブログに 一文を書いている。「文学を尊敬する人を尊敬する。そういった佇まいが、本から香ってきて、たまらない気持ちになった」そうだ。

 さっそく図書館で借りてきてビックリした。「なんだ、この本読んだことがある!」

 図書館窓口業務のボランティアをしていた時に、ある日チームを組んだNさんから「この本おもしろいよ」と教えられたことを思い出した。
 その時は、なんとなく読み流して終わったが、今回、読み返してみると、古本屋の亭主と近くの 「馬込文士村」と呼ばれた地区に住む作家たちとの交流がなんともゆったり、陶然としていて心がなごんでくる。

 本を読む時の雰囲気、心の持ちようで、文字が目に飛び込んでくる感覚がまったく違ってくる。本とは、そういうものなのかなあと思ったりした。

 戦後、東京・大森で古書店「山王書房」を開いた 関口良雄は、ある日正宗白鳥の初版本20数冊を落札した。最初から自分の蔵書にし 売るつもりはなかった。

 その当時、正宗の作品は「この世から消え失せん事を希われている」状態だった。手に 入れた著書の1部を2つの風呂敷に包み、矢も盾もたまらず、正宗の自宅である赤い屋根の洋館を訪ねた。

 台所から非常に粗末ななりをした正宗夫人らしい老婆に「先生の古い本を沢山持ってきたので見て頂きたい」と頼む。とても署名を頼める雰囲気ではなく、関口は「一寸しょげた振りをして風の中に立っていた。夫人も黙って立っている」

 
そのうちに私の事を可哀想にでも思ったのか「それでは私が一寸みましょう。こちらへ」と言う。私は何処へ連れられて行くのかと思っていると、鶏小屋の前に連れて行かれた。さあここへと言って、夫人は鶏小屋のトタン屋根のガラクタを両手で払いのけた。私は一寸戸惑ったが言われるままに風呂敷包みを拡げた。
 正宗先生の初期のものばかり三十冊、それも本が実にきれいなので夫人は瞬間一寸驚かれた様子、「よく貴方はこんなにきれいな本ばかり集められたですねー」と私は正宗先生に期待していた言葉を正宗夫人から聞いた。嬉しくなって「私は家にはまだこの三倍位あります。この本を買うには二万円以上の金を出しました」と言うと「ヘー二万円、貴方はお金持ちですねー、偉い方ですねー」と盛んに褒めてくれる。


 古本屋亭主としての失敗談もおもしろい。

 4ヶ月前から客の1人に 「虫のいろいろ」の初版本を欲しい、と頼まれていた。
暢気眼鏡・虫のいろいろ―他十三篇 (岩波文庫)
尾崎 一雄
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振手の前には戦後の仙花紙ザラ紙の雑本が三、四十冊も積まれた。一山にして 売るのだ。
 「サア、いくら」ときた。
 「五十円ッ」と、最初の声が飛んだ。
 「七十円ッ」「八十円ッ」と、小きざみにセリ上がって行く。
 私もその山をヒョイと見た。
 「虫のいろいろ」が入っている。
 私は期を見て「三百円ッ」と飛んだ。こういう場合よほどのライバルがいない限り、一声で仕止めることが出来るものだ。仲間達が値を飛ばれてハッと思い、追いかけようか、どうしようかととまどっているうちに、本が落ちてしまうのだ。三百円の山は私に落ちた。・・・
 その夜遅くまでかかっで、仕入れできた古本の整理をした。楽しいひとときである。・・・
 そしてもう一度「虫のいろいろ」を手にとつて、驚いた。なんと、てっきり「虫のいろいろ」と思って買ってきた本は「虫のいどころ」という昭和六年に出た民謡の本であった。


 上林暁を阿佐ヶ谷の質素な自宅に訪ね、やはり旧著に署名を依頼したこともあった。

 
先生は快く承諾され机に向かった。私は署名の間、部屋の隅々に置かれた本箱や床の間の本箱にぎっしりつまってしる明治・大正の文学書を眺めていた。
  背中の黒ずんだそれらの文学書は 純粋な文学一途に生きてこられたこの孤独な文学者のつつましいお部屋に、高雅な調和を保っているように思われた。「これでいいですか」と先生は筆をおかれた きちんとした正しし字で「本を愛する人に悪人はない」と誌してあった。
 瞬間私は、こりゃあ悪人にはなれないぞと思った。
 私は先生にお別れして帰る途すがら、ほんとうの文学者に会ったという感動で胸が一杯になり、何回も何回も署名本に見入った。


 42歳で急逝した野呂邦暢は、若いころ関口の家の近くに部屋を借り、上野のガソリンスタンドに住んでいたことがあった。よく店に本を買いに来た。
 家の事情で勤めをやめ郷里に帰ることになったが、野呂は筑摩書房から出たばかりの「ブルデルの彫刻集」がどうしても欲しかった。1500円したが、旅費のことなどを考えると千円位しか都合がつかない。関口は「それなら千円で結構です」と言った。

 昭和四十九年2月。関口は野呂の芥川賞授賞式に招かれた。2,3日して娘の嫁入り道具を運び出す日に、野呂夫妻が店に訪ねてきた。野呂は「素早く上衣を脱ぎ、次々と荷物を運んで下さった」

 
話の途中で野呂さんは、何かお土産をと思ったけれど、僕は小説家になったから、僕の小説をまず関口さんに贈りたいと言って、作品集「海辺の広い庭」を下さった。  その本の見返しには、達筆な墨書きで次のように書いてあった。

 「昔日の客より感謝をもって」 野呂邦暢

海辺の広い庭 (角川文庫)
野呂 邦暢
角川書店


(付記:2013/3/12) 同じ夏葉社の「冬の本」を読んだ。
 84人の人に、冬に関する本についてたった2ページの随想を書いてもらった「小さな本」だ。

冬の本
冬の本
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天野祐吉 佐伯一麦 柴田元幸 山田太一 武田花 友部正人 町田康 安西水丸 穂村弘 堀込高樹 ホンマタカシ 万城目学 又吉直樹 いがらしみきお 池内 紀 伊藤比呂美 角田光代 片岡義男 北村薫 久住昌之
夏葉社
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 そのなかに、ミュージシャンの直枝政広が「昔日の客」を題材に書いている。題して「関口良雄の葉書」

 
大森にあった山王書房主人であり、最近復刊された名著『昔日の客』の著者、関口良雄の旬入りの葉書が「オークションに出ている」との連絡を長男の関口直人さんから受けた。「いいですねー」と返信すると「もし気に入ったのならあなたが落札してください」と言う。邦楽CDl枚程度の金額だったし、気楽にかまえていたら縁あって落札できた。
 商品情報で伏せられていた葉書の宛名を直人さんに知らせると「開店して間もなくから の常連さん」とのこと。もう少し調べてみると稀覿本の研究本を執筆された方と同姓同名でもあるようで、その熱心な本マニアの方が手放したか、何らかの理由で市場に流れたものと思われる。この句は関口良雄『銀杏子句集』(三茶書房)にも収められていない。
 「冬川の果て○心が流れけり」銀杏子
 その「果て」のあとの○の字が特殊でわからないので直人さんに聞いてみたら大昔の「を」の変体仮名ということもわかった。
 葉書を写真立てに入れ、作業場に飾って眺めることにした。
  「冬川の果てを心が流れけり」銀杏子
 とてつもなく静かだ。ピンと張りつめた冬空が浮かび、地平の果てからシンとした一昔が聴こえてくるようだ。この句には気持ちを落ち着かせる効用がある。
 ヵーネーション『swEE→岩MANCE』の作業の問はこの句がいつも傍らにあった。
 作詞で煮詰まった時にはよくこの葉書を眺めた。時空を超えたいくつかのサジェッションあったのかもしれない。珍しく作詞で悩む事はなかった。
 
 この額を心の中で「良雄さん」と呼ぶようになった。・・・


 

2013年1月11日

読書日記「大阪アースダイバー」(中沢新一著、講談社刊)


大阪アースダイバー
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中沢 新一
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 一昨年の11月に、このブログで著者が書いた縄文時代から説き起こす東京論 「アースダイバー」についてふれた。その時にも少し書いた「大阪アースダイバー」が、昨年10月にやっと単行本になった。予想通りの人気で、図書館で借りることができたのは、昨年暮になってしまった。

 中沢は、江戸時代に大阪・道頓堀の芝居小屋で始まったと言われる「とざい、とうざい」という 「東西声」には、単に芝居前の口上ではない「もっと重い大阪的意味がこめられている」と、思いもよらない切り口で大阪都市論を始める。

 現代の大阪の街では、南北を走る「筋」という道が自動車道路などとして優先されている。しかし、実際に徒歩で大阪の街を歩き、古地図を見ても東西に走る「通り」のほうが、大阪の街の成り立ちとして重要だというのが、著者の"第六感"。

東京のように皇居(江戸城)を中心とした権力思想の都市でも、京都のように中国から輸入された観念論的に設計された都市でもなく、・・・大阪は太陽が動く東西の軸を基に設計する「自然思想」が都市の土台になっており「古代人のような自然なおおらかさと、人間の野生が都市の構造に組み込まれている」・・・


この大阪の東西方向を走るその見えない軸を、著者は自然と野生を象徴するものとして「 ディオニュソス軸」と名付け、大阪の深層をこの軸上に描き出そうとする。

 縄文の昔、人々は 河内湖(現在の大阪平野)という巨大な潟の岸辺近くにムラをつくり、生駒山の自然と河内湖のもたらす幸に恵まれて生活していた。
 人が住むことができる土地は、生駒山麓とその対岸の細長い半島(現在の 上町台地)のような地面しかなかった。

map1;クリックすると大きな写真になります ネット検索で見つけた 画像①(左)に見られるように二千年ほど前には、大阪平野は、河内湖の底にあり、上町台地の東西に広がる西成と東成も水の底にあった。天満も船場も・・・軟弱な土砂層の上にあって海水に洗われていたし、ミナミなどは影も形もなかった。

 ウメダも、 前述したように同じ状態。梅田は埋田の異名もあり、かっては海の底だったのだ。

 大化の改新(7世紀)の後、皇徳天皇は、上町台地の突端に近い高台に難波宮を建設した。この都の中央には 朱雀大路が、そのまた南には「難波大道」が続いていた。

map2;クリックすると大きな写真になります 著者は、この軸線を「生命力が美しい形と威力をもって立ち上がる『アポロンの軸』」と呼ぶ。軸沿いには、画像②(右)に見るように、四天王寺、住吉大社、古墳群など「死に関係するスポット」が連なっていった。

   この南北の軸に対抗して生駒山地から発する東西の軸が、目には見えない「ディオニュソス軸」。

 この2つの軸を「自分の骨格のうちに強力に組み込むことによって、ほかの都市とは違う『大阪』となった」と、著者は主張する。
 権力思考の「アポロン軸」に対し、民衆的な野生の思考軸のせめぎあいが、大阪の活力を支えてきた、という論法だ。

 「ディオニュソス軸」上に育まれてきた「 船場の商人道は、我が国の資本主義の発祥となった」

ナニワの商人世界は、まさに敗者のオンパレードである。船場に屋敷を構えた有名どころを調べてみても、鴻池家は滅亡した尼子氏の出、住友家は秀吉に滅ぼされた柴田勝家の家臣として、立派な敗軍の将であった。関ケ原の戦いで西軍方について戦って、破れた武将の関係者も多い。淀屋、心斎橋筋の大丸下村家の大文字屋呉服店など、静々たる豪商の多くが、戦場で戦って破れた敗北者を先祖としている。
 そうした敗者にたいして、大阪は聖徳太子以来の寛容さをもってふるまった。


 「アポロン軸」の西にあるミナミの繁華街・ 千日前界隈は、中世までは海の底だったところが砂州となり、陸地になった場所。かっては墓地、刑場があり、火屋(火葬場)もあった。そこが整地され、寄席、見世物小屋、芝居小屋が雨後のタケノコのように出現した。

座席の下には、二百数十年もの間、営々と埋葬され続けた人骨が眠り、その上で吉本の芸人たちが演ずる・・・芸に、人々は笑い転げてきた。・・・
 まったくここにはむきだしの人類がいる。まるで、カラカラと歯を鳴らして、白骨が笑っているように、人々が笑っている。日本中を席巻し続けてきた大阪ミナミの笑いは、このような ネクロポリス(死者の都)の上に、比類のない成長をとげてきたのである。


  漫才も「このネクロポリスで誕生」し、上町台地の 生玉(生國魂)神社の境内で「最初の落語と言われる「『彦八ばなし』が演じられた。
 「芸能の王とは、なにあろう死なのである」  著者はあとがき「エピローグにかえて」のなかで、こんなことを書いている。

東京で「アースダイバー」をやった後に、つぎは大阪でやると私が言いましたら、それはまずできないでしょうと、おもに関西出身者たちから言われました。なぜかといえば、アースダイバー的に力の強い場所を探っていきますと、大阪ではかならず微妙な問題にふれていくことになる、早い話が差別に関わる微妙な問題に抵触せざるを得ないから、東京でやったみたいに気楽な気持ちではできないよと、その人たちは忠告してくれるのです。


 しかし著者は、「あいりん地区」「コリア世界」、そして「被差別発祥の地」という「ディープな大阪」に果敢に切り込んでいく。

 おもしろいのは「大阪のおばちゃん」の原点を、朝鮮・ 新羅の女神に見つけようとしていることだ。

 この神話はけっこう有名らしく、先日の出雲旅行の際にも聞いた覚えがある。

その昔、新羅のアグ沼のほとりで、一人の若い女がしどけない格好で昼寝をしていた。その様子を太陽の神が見て、うれしくなった。太陽神は一筋の日光に身を変えて、目の前に広げられた女の股間にまっしぐら、光はみごと女陰への侵入を果たした。妊娠した女は不思議なことに、一つの赤玉を産み落とした。赤玉は美しい少女に姿を変え、成長して、新羅の王子である「アメノヒボコ(天之日矛)」の妻になった。つまり彼女は母親と同じように、あるいは母親とは違う意味で、「太陽の妻=ヒルメ=ヒメ」となったのである。・・・
 ヒルメ(日妻)となった彼女が、ある日突然、自分の故郷はここではなく、日本列島にあると言い出したのである。これには新羅の王家も困った。いくら説得しても聞く耳もたない彼女は、ついに小舟に乗って船出をして、日本にたどり着き、北九州を経てついに大阪湾に入り、・・・上町台地に上陸したのである。『古事記』には、「このお方こそがナニワの ヒメコソ神社にいまします アカルヒメである」と善かれている。


 「太陽の妻」の子孫である「大阪のおばちゃん」というという存在の背後には「恐ろしいほどに深い歴史の真実が隠されている」と、著者はおばちゃんたちに喝采を送る。

 そして「エピローグにかえて」の最後で、こんなことまで書く。

大阪の空洞化をさらに加速しようとしているのは、 新自由主義的グローバリズムです(その通り!)。・・・そういう問題に維新の会はどう対処しているのでしょうか。橋下市長と維新の会の背後に、私はどうしても新自由主義を語り続けて来た人々の野望を感じ取ってしまいます。・・・  しかし問題は、現在大阪に疲弊をもたらしているものが、これまでの大阪の ポピュリズムを突き動かしてきたものとは、異質な原理であるという点です。・・・  しかしどうも最近「大阪のおばちゃんたち」はそのことに少し疑問をいだきはじめているように感じます。・・・もう少し時間が経てば、かならず強靭な「大阪の原理」「大阪の理性」が再び働き始めるはずです・・・。




2013年1月 5日

読書日記「松本竣介 線と言葉」(コロナ・ブックス編集部編)「『生誕100年 松本竣介展』図録」(岩手県立美術館など編) 出雲紀行・上「島根県立美術館・松本竣介展」


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ネット検索をしていた昨秋、盛岡の 岩手県立美術館(盛岡市)で開かれた画家松本竣介の生誕100年展を知った。
 ちょうど東北ボランティア行を計画していた時期だったが、残念ながら盛岡の会期は終わり、松江市に巡回していた。

 本屋で買ってきた 「新潮日本美術文庫45 松本竣介」(日本アート・センター編)で、青を基調にした清逸でいて透明感のあふれた色調に引かれた。矢も楯もたまらず、友人Mらと昨年11月の連休に松江市に飛んだ。

 2日の夕方、空港から宿に向かうバスの窓から宍道湖に映える夕日のなかに浮かびあがった会場の島根県立美術館を見る僥倖に恵まれた。この 「夕日の見える美術館」は、湖岸の芝生から夕日を楽しんでもらうために閉館時間を「日没後30分」にするという、自治体としてはなかなかシャレたことをしている。

 翌日朝、松江大橋の北端にある宿から美術館までは、整備された宍道湖畔の遊歩道を歩いて20分弱。開館時間の少し前に会場に入ることができた。

 竣介は、旧盛岡中学1年の時に、流行性脳脊髄膜炎にかかり、聴力を失ったことをきっかけの一つとして画家を志すようになったが、昭和4年中学を3年で中退し上京してしまう。

建物;クリックすると大きな写真になります このため、広い会場に展示された作品に、盛岡時代の作品は少ない。すぐに、透明感のある青い絵の具の上に、太い黒い線で形どられた 「建物」(1935年、福島県立美術館蔵)や「婦人蔵」(1936年、個人蔵)などが並んでいる。

 素人目にも明らかに、ルオーやモヂリアニの影響が見てとれる。

 竣介自身「モヂリアニが好きになったのも理由の一つは、量を端的に握んでゐる天下一品の線の秘密にあった」「モヂリアニの作品は、長いこと私を翻弄した。実際困った程だった」と記している。

 竣介は「線に生きた」画家だった。「線は僕の気質などだ、子供の時からのものだった」という言葉が「松本竣介 線と言葉」のなかにある。同時に「線は僕の メフストフェレス(悪魔)なのだが、気がつかずにゐる間僕は何も出来なかった」という言葉も引用されいる。

 岩手県立美術館の原田光館長は「『線描家』序説」(「松本竣介 線と言葉」より引用)という短文に、こう書いている。

 
烏口で引いた硬質の線、何度でもなぞり返して生まれる細線の束、太線の流動、子どもの絵にでてくるような奔放な線、それぞれの線の質を生かすため、青の加減の目くばりがさえたとき、線は街になり、街歩きする人々の姿へと転じる。竣介は無闇な線描家ではない。したたかな計算によって線を生かす工夫に余念がない。デッサンを繰り返してからでないと画家竣介の基本の確立であったろう。

白い建物;クリックすると大きな写真になります
 「線の画家」竣介は、同時に「青の画家」でもあった。

 作家堀江敏幸が自著「郊外へ」(白水Uブック刊)の表紙カバーに竣介の 「白い建物」(1941年、宮城県立美術館蔵)を選んだ理由について「線と言葉」の冒頭文に書いている。

 
空の青みは、中央を左右に横切る高架線のホームの上、画面の四分の一ほどにすぎず、残りを占めているのは、建物の壁だ。白、灰色、茶色、黒、灰緑色。粗塗りのようでいてそうではなく、面で捉えられているようでいて、そのじつ線のリズムがすべてを支えている。青はいたるところ沁みだして白を上書きし、灰に溶け込み、さらにまた藍鼠や桝花に変化する。鉄骨のいかにも重そうな建造 物なのに、海に浮かぷ空っぼの貨物船を思わせる相対的な軽みがあり、人の気配を消しつつ負の印象を与えない。この絵を措いている(私)は、幾度も表面を削られ、また絵の具を乗せられて出来あがった見えない多重露出像となって、青と同様、壁のいたるところに在しているようだ。
  画布ではない板の堅さと、透明な絵具を溶いて薄め、乾いている絵具の上に薄く塗って膜をつくるグラツシの技法が硬質な輝きをもたらしている反面、青を水槽のガラスにうっすらと張り付いた苔のように、鈍く、半透明にひろげていく。画家はこの膜に身を包んで画面のなかに姿を消し、耳を澄ますという行為さえ許されない静寂に身を潜めている。ここには、ある種の若さにしかない繊細さと脆さが、そして若さだけでは持ち得ない時間と沈黙の積み重ねがある。


 浅学非才の身。これほど1つの絵画に惚れ込み、入り込み、表現した文章に会った経験がない。
 ただ、じっと透き通るような空の青に引きこまれ、白い壁の合間に浮かぶブルーに目をこらすしかなかった。

立てる像;クリックすると大きな写真になります 自画像;クリックすると大きな写真になります  竣介の作品なかで、最も迫力があり、名が知れているのは、 「立てる像」(1942年、神奈川県立近代美術館蔵)竣介がよく描くさびれた街の風景のなかに、等身大にも見える大きな人物がスクッと立っている。人物は、 作品「顔(自画像)」(1940年、個人蔵)とそっくり。モデルは、竣介自身であることが分かる。

 神奈川県立近代美術館の水沢勉館長が「『生誕100年 松本竣介展』図録」に寄せた文によると、子どもたちにこの絵を見せると「画面の中から帰ってきたかの様子で戦争が描いてあるね』」と答えたという。

 廃虚の仁王立ちになっている竣介は、耳が聞こえないために兵役を免れている不安と虚無感を浮かべつつ、戦争に反対する不退転の決意を作品にしたように見える。

五人;クリックすると大きな写真になります  作品「五人」(1943年、個人蔵)からも「家族と共に生き残ってみせる。負けないぞ」という叫びが聞こえてくる。縦1・6メートル、横1.3メートルの大作だ。

 竣介「反戦の画家」とも言われる。

 日中戦争が始まった翌年。美術雑誌「みづゑ」新年号に掲載された「国防国家と美術」とい座談会で、陸軍省の将校らが「大事なのは国家であって文化は国家の産物にすぎない。だから総力戦に備えて絵描きも国策に協力すべきだ」と発言したのに対し、竣介は猛然と反論に出たことがある。

 4月号に掲載された「生きてゐる画家」は、いささか分かりにくい長文のものだが、冒頭だけをみても、時局に逆らう決断とした言葉が満ちている。

 
沈黙の賢さといふことを、本誌一月号所載の座談会記録を読んだ多くの画家は感じたと思ふ。たとへ、美学の著書などを読んでゐるよりも、世界地図を前に日々の政治的変転を按じてゐるはうに遥か身近さを想ふ私であつても、私は一介の青年画家でしかない。美といふ一つの綜合点の発見に生涯を託してゐるものである私は、政治の実際の衝にあつて、この国家の現実に、耳目、手足となつて活躍してゐる先達から見れば、国家の政治的現状を知らぬこと愚昧を極めた弱少な蒼生に過ぎないのである。そのやうな私が、現実の推進力となつてゐる方達の言説に嘴(くちばし)をはさむといふことは甚だしい借越であるかも知れない。だが、座談会『国防国家と美術』の諸説の中から私は知らんとする何ものも得られなかつたことを甚だ残念に思ふものである。今、沈黙することは賢い、けれど今たゞ沈黙することが凡てに於て正しいのではないと信じる。


 出雲の出かける直前に、図書館から借りることができた「 舟越保武随筆集 巨岩と花びら ほか」(求龍堂刊)を開いて、アッと思った、舟越保武はなんと、旧岩手中学の同級生で、上京してからも絵画と彫刻とジャンルは違っても互いに励まし合ってきた仲だったのだ。

 この随筆集に「松本竣介の死に寄せて」(岩手新報 1948年8月14日号)が収録されている。

  
水晶のような男だった
 透明な結晶体のような男だった
 適確な中心をえて円満であり
 しかもその稜ほ十分に切れる鋭さをそなえでいた
 構いなく冴えた画家だった
 美についで底の底まで掘りさげて語り合える
 これは得難い友であった
 言葉少なに意味深く、切るように話しの出来る友であった
 自らの仕事を鋭く解剖し、絶えず我が身を鞭うって、精励する真の作家であった
 その竣介が
 突然死んでしまった
 竣介の絵の前で、幾多の既成作家、浸心の大家たちが、冷汗をかいて反省したことであろう
 美術界はかけがえのない作家を失った
 美術家の真の生き方を、純粋な声で絶叫しつづけた
 竣介は
 今は骸になってしまった
 水族館のように静かな青い光のアトリエには
 飽くことのない探究の記録、数々の素描油絵の
 習作が輝いていた
 心ある画家、文芸家たちにほんとうに愛されていた竣介が、なんということだ
 死んでしまうとは
 「アトハキミガヤレ」
 と死んだ竣介はいうにちがいない
 イヤだ、
 も一度生きかえって、あの橋の絵を描いてくれ
 君ののこした子供の絵を仕上げてくれ
 竣介、僕は君に初めて怒鳴りつける
 なぜ断りなしに死んだのだ


 どうしても見たいと思っていた1枚の絵があった。

 竣介の絶筆となった「建物」(1948年、東京国立近代美術館蔵)だ。

 画集を見ただけでも、不思議な感覚に抱かれる絵だ。竣介の「青」をおおうように白と茶色ではみ出すように描かれているのは、教会だろうか。その上に描かれた竣介の細い「線」太い「線」・・・。まるで2枚の絵を重ねたように、荘厳さと立体感にあふれた絵だ。

 島根県立美術館を歩きまわった数時間、この絵を見つけることはできなかった。出口近くで係の人に聞いたら、近くで鑑賞していた女性が「その絵、この展覧会に来ていないのです。私も、見たかったのですが」と、声をかけてくれた。

 この絵は、現在世田谷美術館に巡回中の「生誕100年 松本竣介展」にも展示されておらず、所蔵している東京国立近代美術館の「60周年記念特別展 美術にぶるっ!」で見れる、という。

 会期末の14日直前に東京に行く用事がある。のぞくことができればと思う。

 ▽参考にした本
 ・「求道の画家 松本竣介」(宇佐美 承著、中公新書)
 ・「青い絵具の匂い 松本竣介と私」(中野淳著、中公文庫)
 ・「アヴァンギャルドの戦争体験―松本竣介、滝口修造そして画学生たち」(小沢節子著、青木書店刊)

求道の画家 松本竣介―ひたむきの三十六年 (中公新書)
宇佐美 承
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青い絵具の匂い - 松本竣介と私 (中公文庫)
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