2013年9月アーカイブ: Masablog

2013年9月20日

読書日記「四つの小さなパン切れ」(マグダ・オランデール=ラフォン著、高橋啓訳、みすず書房刊)


四つの小さなパン切れ
マグダ・オランデール=ラフォン
みすず書房
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 この本は、昨年5月のポーランド・ アウシュヴィッツ訪問に同行してくれた若い友人Yさんが自分のブログでふれているので知った。
 Yさんは、あの旅行を自分の人生のなかでかみしめようとして、この本に出会ったのだろう。図書館で、さっそく借りた。

 訳者によると、ハンガリー生まれのユダヤ人である著者は、 アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所に収容された家族のなかでただ1人生き残った。しかし、長い間そこでの体験を封印してきた。「語りはじめるには、まず自分自身について勉強し、自分の人生に意味を与えるところから始めるしかなかった」
 ベルギー、フランスへと渡り、教職の資格を取得し、心理学を修めた過程で彼女は自らの意志でカトリックの洗礼を受けた。アウシュヴィッツ・ビルケナウ収容所での「パン」の経験が、福音書のなかにある言葉とつながったからだ。

 そして、解放されて32年後に沈黙を破って刊行されたのがこの本の前半の「時のみちすじ」。周囲の人たちは驚いた。「いつもほほえみをたやさない明るいマグダさんが、こんな壮絶な過去を持っていたなんて」
 これを機会に彼女は地元の中高校生に自分の体験を語るようになった。その後に書かれた後半部「闇から喜びへ」を加えて、マグダさんが85才の昨年、この本が上梓された。

 「時のみちすじ」「闇から喜びへ」でも、マグダさんは過去の経験を詳しく語ろうとはしない。短い詩と文章で1篇、1篇が構成されている。
 彼女の体験は、巻末に2人のインタビューヤーなどによる「著者の生きた時代について」に詳しく掲載されている。

 炉がはぜる。
 空は低く、灰色と黄色に染まっている。
 風に舞い散る彼らの灰をわたしたちは吸う。
 あれから三十年
 わたしは自分の記憶のぶ厚い壁に穴を開け、揺する。
 希望をほしがっていたたくさんのまなざしが
 ほこりとなって
 消えてしまわないように。(時のみちすじ・まなざし)


 1944年春。ハンガリーから毎日1万2千から1万5千ものハンガリーのユダヤ人がビルケナウ収容所に貨物列車で送り込まれた。すでに収容されていた1人が命がけでなんどか列のなかに入ってきて、唇を動かさずに「おまえは18歳、18歳だからね」というのをマグダは耳にした。
 年齢をたずねられた16歳のマグダは「18歳」と答えた。18歳以上の若い女性は、労働に耐えられるだろうからと右の列に、母と妹は左に行かされた。
 家族の行方をたずねるマグダに女性のブロック長は、炎と煙が見える火葬場の煙突を指さし答えた。「もうあそこに入っているだよ・・・」

 厳しい労働が続いた。バラックの周囲の遺体を集め、人間の遺灰を荷車で近くの湖まで運んだ。マグダは何度もこの湖に身を投じようと思った。

 「生きることを信じよう。絶望を払いのけよう。・・・弱い人はここでは生きていけない。わたしたちは生きのびなければならない。わたしたちには生き証人が必要なのよ」
 これは、見知らぬ修道女の口から出た言葉だった。この言葉は、わたしの心の奥に根を下ろし、衰弱したときに生きる力を与えつづけてくれた。(時のみちすじ・生きる)


 
 (労働に駆り出された帰り)ゴール兼スタートの正門まで、わたしたちは駆けていかなければならない。それは、わたしたちがまだ労働に耐えられるかどうかを調べるための日課のようなものだ。・・・わたしたちは走る、恐怖で麻痺したまま。・・・鞭や杖でぶたれないように、犬に噛みつかれないようにするために、ドタ靴や木靴は捨てる。・・・死に至る選別。(時のみちすじ・足)


 瀕死の女性が合図を送ってきた。手のひらに黴びた四つのパン切れ、かろうじて聞き取れる声で、わたしに言った。「ほら、これをあげる。あんたは若いんだから、ここで起こったことを証言するために生きておくれ」。わたしは四つのパン切れを受け取り、彼女の目の前で食べた。見つめる彼女の目のなかには、善意と自棄の両方があった。わたしは若く、この行為とそれを支える重みをどう受け取ればいいかわからず途方に暮れた。(闇から喜びへ・わたしの人生の意味)


 8月の点呼のとき、自分のいる列に並ぶ人々の背中と足取りが衰弱しきっているのを感じ、マグダはこっそり隣の列に移り、ガス室に行くのをまぬがれた。

 収容所にいたときは、自分の身に何が起きたかを理解しようと思ったことはない。直感の声に耳を傾けながら、本能的に状況に合わせていただけだった。直感とは生のもつ知性だ。わたしたちのなかから出てくるものではないけれども、光のほうへ導いてくれる霊感。(闇から喜びへ・直感)


 フランクフルトに近い収容所で、鉄路に沿って枕木を地面に固定する作業をさせられた。

 親切はたびたびわたしを訪れた。・・・(靴を盗まれてしまい)・・・凍りついた足の痛みはおそろしいほど生き生きとしている。・・・(労働者でもある看守の)男が、人目の届かない焚き火の近くまでわたしを連れていき、新聞紙を丸めて、わたしの足をこすった。・・・バッグから木靴を一足取り出し、わたしにはかせた。この無償の行為によって、彼はわたしを生かしてくれると同時に、自分のいのちを危険にさらしたのだ。(時のみちすじ・親切な看守)


 女性たちは徒歩で出発した。徒歩のグループにはマグダも含まれていて、四人のハンガリー出身の女性たちとともに隊列から逃れることに成功した。彼女たちは近くの森に六日間隠れていた。・・・たまたまアメリカ軍の戦車が森の縁で止まった。・・・ほとんど骸骨同然に痩せこけ、疥癬(かいせん)に蝕まれ・・・。

 一九四五年五月、四人の収容所仲間といっしょにベルギー・ ナミュール駅に到着したとき、わたしたちを待っていたのはパンだった。いい香りがした。思わずパンに向かって満面の笑みを送った。喜びが心に満ちていた。(闇から喜びへ・再生)


 あるとき、適当に聖書のページを開き、マタイ福音書の第二十五章〔三十五説から三十六節〕を読んだ。ふいに感動がやってきた。「わたしが飢えていたとき、あなたは食べ物をわたしにくれた。渇いているときに飲み物をくれた。裸でいるときは、服を着せてくれた」
 わたしは心でつぶやいた。「ここにわたしの知り合いになりたいと思う人がいる」。それ以来〈彼〉はずっとわたしといっしょにいる。(闇から喜びへ・神の顔)


 わたしは確信している。神よ、あなたは ショアを望んだわけではなく、わたしたちひとりひとりの苦しみはあなたご自身の苦しみであったことを。
 幾多の戦争の、あらゆる兄弟殺しの責任を負うべきは、わたしたちがつくり出す偽の神なのだとわたしは思う。(闇から喜びへ・希望の熱烈な支持者)


 昨年、アウシュヴィッツで感じた 「神の沈黙」への疑問に対する答えがここにあった。

 

2013年9月17日

読書日記「昭和三十年代 演習」(関川夏央著、岩波書店刊)


昭和三十年代 演習
昭和三十年代 演習
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関川 夏央
岩波書店
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 著者と若い編集者が、昭和30年代によく読まれた本や映画などをテキストに勉強会を開く。著者をリーダーに、若い世代が現在につながるこの時代の意識を知ろうという狙い。だから「演習」というわけらしい。

 この時代を中学生から大学生までを過ごした前期高齢者としては「演習」に出て来る素材のほとんどがなつかしい。かつ「ああ!あの時代を無為にすごしてしまったなあ」という感覚、感情がなんとなくツーンと胸を衝いた。

 「BOOK」データベースには、こうある。

  
昭和三十年代とは、どのような時代だったのだろう。明るく輝き、誰もが希望に胸をふくらませていた時代だったのだろうか。貧乏くさくて、可憐で、恨みがましい―そんな複雑でおもしろい当時の実相を、回顧とは異なる、具体的な作品と事象の読み解きを通して浮き彫りにする。歴史はどのようにつくられ、伝えられてゆくのか。歴史的誤解と時代の誤読を批判的に検討する。


 松本清張の初期短編 「張り込み」を映画化した昭和33年の同名映画の冒頭10分間は、真夏の夜行列車の車中の描写だった。本筋とは深い関係はないのに「監督の野村芳太郎が描きかったのは、実は日本の夏の蒸し暑さではなかったか」と、著者は書く。

 
暑い。ものすごく混雑している。汗でべたべたする。誰もが扇子をあわただしく使います。なんとか座席を確保できた人は、それが男性なら、ほぼ間違いなくズボンと上着を脱ぎ、ワイシャツまで脱いでステテコの下着姿になります。・・・
 それほど、当時の旅行は一種の力仕事でした。


 中学2年の頃だっただろうか。ある団体に参加を許されて、東京に国会議事堂見学や靖国神社参拝の夜行列車に乗ったことがある。トンネルに入る度に、蒸気機関車の煙が入らないよう、あわてて窓を閉めた。ウトウトして目覚めた明けがた、引率者がくれた初めての冷凍ミカンの味がいまだに忘れられない。

 昭和30年代は「いちおう戦後復興をとげた敗戦国日本が痛切に『世界復帰』を願った時代」でもあった。

 南極観測の世界会議に日本は無理やりという感じで出席した。「日本はまだ国際社会復帰の資格はない」という冷たい雰囲気のなかで、なんとか参加が認められた。この時、割り当てられたプリンス・ハラルド海岸は「実は接岸不能とされた地図空白地帯でした」

 外国から借りるつもりだった観測船は実現せず、結局、海上保安庁の老補給船 「宗谷」が使われた。初の越冬隊を残し帰国の途についた「宗谷」は堅い氷海に閉じ込められ、ソ連の砕氷船「オビ」に救援された。

 
果敢なのに貧弱な装備しか持たない「宗谷」と越冬隊の姿は、戦後日本の姿そのもののようでした。子どもたちは、「不当に」世界から置き去られている日本と、氷海に閉じ込められた「宗谷」を自分の一部とみなし、その遭難と脱出のニュースを、文字どおり手に汗握って聞いたのです。


 「普通の日本人が、外国を一挙に実感する『事件』が昭和37年8月に起きた」。 堀江謙一青年のヨットによる単独太平洋横断だ。

 サンフランシスコに着いた堀江青年は、ぼさぼさに髪が伸びた頭に工員帽をかぶり、素足にサンダルでガニ股、はにかんだ青年の写真は「まさに絵にかいたようなプロレタリアの姿」だった。

  
堀江謙一の冒険は、一気にアメリカを日本に近づけました。それまで、弱い円と乏しい外貨のせいで事実上の鎖国を強いられ、政務か商用、あるいはフルブライト留学生くらいしか行けなかったアメリカを、いわば「プロレタリアでも行けるアメリカ」にかえたのでした。・・・堀江青年の冒険は、敗戦国からの脱皮という意味で大きなできごとでした。


 内モンゴルの研究をしていた梅棹忠夫は「中央公論」の昭和32年2月号に載せた論文 「文明の生態史観序説」で「日本はアジアではない」「アジアという実体は存在しない」という考えを初めて明らかにした。

 
日本はユーラシア大陸東辺の海中にあったからこそ、遊牧民の破壊的エネルギーからまぬがれた。結果、小ぶりな閉鎖系とはいえ独自文明の名に値するものを生み出し得た。そのような環境条件は、ユーラシア大陸の反対側、西方の海中にある英国とおなじだったーーー・・・
 「アジアでなくてもよい」とは、日本が欧米の仲間だというのではありません。日本は「海のアジア」であって「大陸のアジア」ではない、せっかく海の存在によって大陸と距離をおくことができたのだから、「大陸アジア」と無理に親和する必要はないというのです。


 さきにこのブログでふれた鼎談集 「時代の風音」司馬遼太郎が「日本は、アジアの国々とは別の国」と語っていたのを思い出した。
 梅棹忠夫と司馬遼太郎は、モンゴル研究を通じて長年の友人だったそうだから、両氏の意見が似ているのも当然のことだったのだ。

 しかし「大陸・中国」が最近、露骨に海の覇権を握ろうとする動きを強めるなかで、日本は「海のアジア」とノホホンとし続けられるのか。

 世界の異端児・北朝鮮が「一部とはいえ『世界の楽園』と賞讃」されたのも、昭和30年代。昭和34年には、在日コリアンの北朝鮮への「帰国運動」も始まった。

 父親を戦争でなくし母一人の手で育てられ、ボロ家に住み続けた昭和30年代。どこから回ってきたのか、北朝鮮の華やかなカラー雑誌を見ながら「北朝鮮に行ってみようか」と一時は真剣に思ったことを、戦慄を持って思いだす。

 昭和39年秋に 東京オリンピックが開催された。

 昭和三十八年夏から秋、(オリンピックの)工事で穴だらけになった東京の姿は、まだ若かった篠田正浩石原慎太郎の小説を映画化した松竹作品 『乾いた花』に記録されています。
 建設途中で一部のみ開通した首都高速道路を加賀まりこがスポーツカーを走らせます。助手席にいるのは 池辺良です。・・・
 このくだりは、石原慎太郎が・・・第二京阪国道でスポーツカーと自然に競争になり、あとで相手は 力道山だったと気付いた、というエピソードから発想されています。

 当時、東京のど真ん中・四谷にあった大学の4回生だった。貧乏学生にチケットを買う余裕などない。開会式の日、自衛隊の 「ブルーインパルス」が空中に描いた五輪のマークを見上げたのが、唯一のオリンピック体験だった。

 昭和39年10月24日、国立競技場の閉会式の「雑感」を読売新聞の遊軍記者、 本田靖春は、社に電話送稿した。

白い顔も、黒い顔も、黄色い顔も・・・若ものたちはしっかりスクラムを組んで一つになり、喜びのエールを観客とかわしながら、ロイヤル・ボックスの前を、"エイ、エイ"とばかりに押し通った。
 その前を行く日本チームの 福井誠旗手は、あっという間に一団にのみこまれ、次の瞬間、かれのからだは若ものたちの肩の上にあった。かれがささげる日の丸は、そのミコシの上で、右へ、左へ、大きく揺れた。


 2020年に東京オリンピックが、56年ぶりに開催されることが決まった。

 その招致プレゼンテーションで、安倍首相は「福島原発の汚染水は、完全のコントロールされており、日本のどこもが安全だ」と大見得を切った。しかし、汚染水対策解決の見通しなどまったく立っていないというのが真実だ。首相は、世界に向けて事実とは異なる発言で、2回目のオリンピックを勝ち取った。

 「世界への復帰」を熱望した昭和30年代という時代を経て、 G7(先進国首脳会議)のメンバーになるほどの経済成長をとげた日本は、どんなポジションで2020年を迎えるのだろうか。

 Amazonの「カスタマーレビュー」に、この著書が取り上げた本などの抜粋が載っていた。

  • 西岸良平『三丁目の夕日 夕焼けの詩』
  • 松本清張『日本の黒い霧』『点と線』『西郷札』『或る「小倉日記」伝』『ゼロの焦点』 『けものみち』『砂の器』『眼の壁』
  • 石原慎太郎『太陽の季節』
  • 森鴎外『舞姫』『阿部一族』『渋江抽斎』
  • 三島由紀夫『午後の曳航』『豊饒の海」『鏡子の家』『宴のあと』『憂国』『仮面の告白』 『金閣寺』『鹿鳴館』『愛の渇き』『青の時代』
  • 山本嘉次郎監督『綴方教室』
  • 成瀬巳喜男監督『浮雲』
  • 井筒和幸監督『パッチギ!』
  • 芥川龍之介『舞踏会』
  • 山田風太郎『エドの舞踏会』
  • フランソワーズ・サガン『悲しみよこんにちは』
  • 堀江謙一『太平洋ひとりぼっち』
  • 木下恵介監督『喜びも悲しみも幾年月』
  • 大庭秀雄監督『君の名は』
  • 安部公房『砂の女』
  • 寺尾五郎『38度線の北』
  • 金元祚『凍土の共和国―北朝鮮幻滅紀行 』
  • 安本末子『にあんちゃん』
  • 山田洋次監督『男はつらいよ』
  • 浦山桐郎監督『キュ-ポラのある街』
  • 石坂洋次郎『陽のあたる坂道』『若い人』『青い山脈』
  • 大江健三郎『ヒロシマ・ノート』
  • 大島みち子・河野実『愛と死をみつめて―ある純愛の記録』
  • 高野悦子『二十歳の原点』
  • 本田靖春『不当逮捕』
  • 市川崑監督『ビルマの竪琴』
  • 川島雄三監督『幕末太陽傳』
  • 田中絹代監督『乳房よ永遠なれ』
  • 中平康監督『狂った果実』
  • 今井昌平監督『豚と軍艦』
  • 舛田利雄監督『赤いハンカチ』
  • 江崎実生監督『夜霧よ今夜もありがとう』
  • マイケル・カーティス監督『カサブランカ』
  • キャロル・リード監督『第三の男』
  • ジュリアン・デュヴィヴィエ監督『望郷』
  • 早坂暁脚本『夢千代日記』
  • 小松左京『日本沈没』


 ああ昭和、30年代は遠くなりにけり!

2013年9月 4日

読書日記「森の力 植物生態学者の理論と実践」(宮脇 昭著、講談社現代新書)

森の力 植物生態学者の理論と実践 (講談社現代新書)
宮脇 昭
講談社
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 横浜国立大学名誉教授の  著者は、85歳の現在まで、ポット苗という40年前に発案した植樹法で国内外1700カ所に4000万本もの木を植え続けてきたという驚異の人。

 最近は、東北被災地の再生に取り組む 公益法人「瓦礫を活かす森の長城プロジェクト」副理事長や 「いのちを守る森の防潮堤推進東北協議会」名誉会長として「120歳まで生きて、このプロジェクトの完成を見届けたい」と、人々に勇気を与えずにはおれないエネルギーあふれた活動をしている。

 著者はまず、ボランティアによって植樹された東北被災地の30年後の「ふるさとの森」へと案内してくれる。

 
ひときわ目立つ背の高い樹は、タブノキ。多数の種類の樹種を混ぜて植樹する「混植・密植型植樹」という宮脇理論によって、シラカシ ウラジロガシ アカガシ スダジイも見事に育っている。

 森の中に入ってみる。

 タブノキなどの高木が太陽の光のエネルギーを吸収するため、森の中は薄暗い。
 そのなかでも、 モチノキヤブツバキ シロダモなどの亜高木が育っている。

ヒサカキ アオキヤツデなど、海岸近くでは シャリンバイ ハマヒサカイなどの低木も元気いっぱいだ。トベラの花からは甘い香りが漂ってくる。

 足元には ヤブコウジ テイカカズラ ベニシダイタチシダ ヤブラン ジャノヒゲなどの草本植物が確認できる。


 著者が、長く学んだドイツには「森の下にもう一つの森がある」ということわざがあるという。「一見すると邪魔ものに思える下草や低木などの"下の森"こそが、青々と茂る"上の森"を支えている」という意味だそうだ。

  自然植生の森には、人間の手が入る必要はない。森に生きる微生物や昆虫、動物の循環システムが確立しているからだ。

 しかしこれまで我々は、森林従業者の老齢化と安い輸入ない南洋材におされて、マツ、スギやヒノキの森の下草刈りなどが行われず、森が荒れてしまったと、様々な機会に聞かされてきた。

 著者によると、マツ、スギ、ヒノキなどの針葉樹林は、第二次大戦後の木材需要に対応するための人工林。その土地になじんだ自然植生でない 代償植生であり「極端な表現を許されるなら、ニセモノの森」である、という。

 「もともと無理をして土地本来の森を伐採してまで客員樹種として植えられてきたスギ、ヒノキ、カラマツ、クロマツ、アカマツなどの針葉樹。その土地に合わないために、下草刈り、枝打ち、間伐などの人間による管理を止めた途端に、 ネザサ、ススキ、ツル植物の クズ ヤマブドウ、などの林縁植物が林内に侵入繁茂します。そのため山は荒れているように見えるのです」

 マツ、スギなどの針葉樹は、成長が早いかわりに自然災害や山火事、松くい虫などの病虫害を受けやすい。最近、大きな問題になっている花粉症も「あまりに多くの針葉樹が大量に植えられたことが影響しているのではないか」と、著者は疑う。

7万本の松原が津波に襲われ、たった1本残った松も枯れてしまった。;クリックすると大きな写真になります。" P1080967.JPG;クリックすると大きな写真になります。
7万本の松原が津波に襲われ、たった1本残った松も枯れてしまった。 高田松原再生を願う横幕。マツの替わりにタブノキを植える動きも、全国各地で見られるという。
 昨年、東北へボランティアを兼ねた旅に出かけた際、陸前高田市の海岸に植えられていた約7万本の松林が見事に津波に打ち倒された荒漠とした風景を目にした。

 近くの橋には「国営メモリアム公園を高田松原へ」という大きな横幕が張られていた。松林を再生しよう、というのだ。

 著者は「確かに クロマツは海辺の環境に強い。・・・人がしっかり管理し続けられるところでは、必要に応じて今後もマツ、スギ、ヒノキをよいと思います」と言う一方「東日本大震災を経験したいまこそ『守るべきは、人為的な慣習・前例なのか、・・・景観なのか。それともいのちなのか』を考えてみる必要があるのではないでしょうか」と語っている。

 著者は、日本の土地本来の主役である木々が、人々の命を救った例をいくつかあげている。

 昭和51年10月に起きた山形県酒井市の大火で、 酒井家という旧家に屋敷林として植えられていたタブノキ2本が屋敷への延焼を防ぎ、同市では「タブノキ1本、消防車1台」を合言葉に植林運動が続けられている、という。

 対象12年9月の関東大震災の時には、「 旧岩崎別邸の敷地を囲むように植えられていたタブノキ、 シイ カシ類の常用広葉樹が『緑の壁』となって、(逃げ込んだ)人々を火災から守った」

 平成7年1月の阪神大震災の際、著者は熱帯雨林再生調査のためにボルネオにいたが、苦労して神戸に入った。

 長田区にある小さな公園では常緑広葉樹の アラカシの並木が、その裏のアパートへの類焼を食い止めたことを目にした。
 鎮守の森
の調査でもシイノキ、カシノキ、モチノキ、シロダモなどは「葉の一部が焼け落ちても、しっかり生きていた」
  神戸市の依頼で植生調査をしたことがある六甲山の高級住宅地の上にある斜面でも「土地本来の常緑広葉樹のアラカシ、ウラジオガシ、シラカシ、 コジイ、スダジイ、モチノキ、ヤブツバキなどが元気に繁っていた」

img1_04.jpg 平成13年3月の東日本大震災の直後に、なんどか調査に行った。仙台のイオン・多賀城店の近くでは、平成5年に建築廃材を混ぜた幅2,3メートルのマウンド(土手)の上に地元の人と一緒に植えたタブノキ、スダジイ、シラカシ、アラカシ、ウラジオガシ、 ヤマモモなどの木々は「大津波で流されてきた大量の自動車などをしっかり受け止めでもなお倒れていなかった」

 土地本来のホンモノの樹種は、深根性、直根性、つまり根を深く、まっすぐ降ろして、その下にある石などをしっかりつかむため、家事や地震、洪水にもびくともしない。

 著者は、すべて瓦礫と化した被災地に言葉を失ったが「この瓦礫は使える」とも確信した。東北の本来種であるタブノキなどを植樹すれば、深く根を降ろし、埋めてあった瓦礫をしっかりつかんで、大津波も防いでくれる。それが、冒頭に著者が30年後の世界として案内してくれた"自然植生の森"なのだ。

 海岸などに瓦礫を混ぜたマウンド(土堤)をつくり、ボランティアの人々が拾い集めたドングリで育てたポット苗を植林する。「瓦礫を活かす森の長城プロジェクト」による小さな森が、こうして東北各地で少しずつ育ち始めている。





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