アウシュヴィツ紀行・下「神の沈黙」(同)
「日本の方に親しみにある方を紹介しましょう」
中谷さんが示したガラスケースの中の囚人名簿に コルベ神父(囚人番号16670)の名前があった。
同神父は、長崎に修道院を作ったりして活躍した人で、私もその足跡を訪ねたことがある。その後、故郷のポーランドに帰ったが、ナチス・ドイツに捕えられた。収容者仲間の身代わりをかって出て餓死刑を言い渡されたものの、2週間生き続けた末にフエノール注射で殺された。神父に助けられたポーランド人は90歳を越えるまで長生きした、という。
11号館の地下には、コルベ神父が殺された18号地下牢が残っている。ここでの写真撮影は禁止だったが、亡くなった前の教皇、 ヨハネ・パウロ2世が灯して祈ったロウソクが残されている。1982年にコルベ神父は聖人に列せられた。その後、現教皇、 ベネディクト16世も、同じろうそくに火を灯した。
ローマ教皇は、ヒトラーと コンコルダート(政教条約)を結び、反ユダヤの立場を取った。その一方で、多くのカトリック、プロテスタントの聖職者がユダヤ人救出に動いたことは、イスラエル人学者、モルデカイ・パルディールの書いた「キリスト教とホロコースト」という膨大な本に詳しい。
キリスト教とホロコースト―教会はいかに加担し、いかに闘ったか
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「なぜホロコーストを防げなかったか」。それは、戦後のカトリック教会の大きな課題だった。両教皇が率先してアウシュヴィッツを訪ねたのは、そのためでもあった。
ベネディクト16世は、2006年5月28日にアウシュヴィッツ・ビルケナウ強制収容所を訪れ、こう演説した。
「この恐怖の地で、ことばは失われます。最後には呆然と沈黙することしかできません。この沈黙は神への心からの叫びです。主よ、なぜ黙っておられたのですか。なぜこのようなことをお許しになることができたのですか」
神が沈黙を破るのは、イエス・キリストがこの世の終わりに来る最後の審判の日を待つしかいないのだろう。沈黙を守っておられても「神はいつもそばにおられる」という教義を信じながら・・・。
アウシュヴィッツ第1収容所での2時間のツアーを終え、3キロ離れた第2収容所・ビルケナウに向かう。
レンガ造りの「死の門」をくぐると、長い列車の引き込み線が延びている。 スピルバーグ監督の映画 「シンドラーのリスト」でおなじみの風景だ。
140ヘクタールもある広大な敷地が広がる。3本に分かれた引き込み線の降車場に止まった貨物列車から引き出されたユダヤ人男女を選別するのは、軍服姿の医師だ。約25%は労働力と生体実験用の人間として選ばれ、残りはガス室に直行させられて、チクロンBで窒息死。20分後には、ユダヤ民の特命労働隊員(ゾンダーコマンド)によって焼却炉で焼かれた。間に合わなくなると野原で焼くこともあった。
第1収容所にあり生体実験の建物は未公開だが、他の建物には、女性の不妊実験や双生児を遺伝学の材料に使った写真が掲示されている。「ここまで冷徹になれるのか・・・」。同行した内科医のYさんがつぶやくように絶句した。
ここは、単なる強制収容所跡でも、ホロコーストを忘れないための負の世界遺産・博物館でもない。
150万人ものユダヤ人たちが沈黙のなかに眠っている『広大な墓地』なのだと、気がついた。
多い時には1日に7000人ものユダヤの人たちが送りこまれたビルケナウの4つのガス室は、連合軍に追われて撤収するナチス軍によって、証拠隠滅のために爆破された。しかし、破壊し切れないまま、レンガとコンクリートの残骸が黒く風化したまま残されている。
中谷さんによると、ユダヤ人自身が自民族の持つ死への考えから、この身ぶるいのするような遺物の撤去を望まなかったという。
北端に建てられた22カ国語で書かれた石盤が並ぶ慰霊碑の前や引き込線最終点に保存されている窓のない木製列車の連結部。そこに、そっと置かれている小石や小さな缶、ガラス製のろうそく立ての1つ、1つ。それらが、訪れた遺族の思いを込めた"墓碑"でもあるのだ。
周辺の草地には、黄色いタンポポや白い花をつけた名前も分からない雑草。男性用収容所跡に1本だけ残されて白い花のリンゴの木などが死者を悼む"献花"だとしても、ここに眠っている人々の数からすると、余りに少ない。
第1収容所の廊下に並んでいた縞模様服の犠牲者の顔を浮かべながら、沈黙のうちにただ頭を下げ、その死を想うしかない。
2000年から2011年にかけて、ここを訪れる人は、若者を中心に3倍に増えた。 学校のボランティア・プログラムなどで、夏休みに草刈りのボランティアに来るドイツも高校生も増えた。いやいややってきた表情が終わる頃に変わってくるという。
移民の多いドイツで、小学生の90%が「ホロコースト」を知っていると答えたことに対して、10%も知らないのは問題であるというのがドイツのメディアの論調。「我が国・日本の若年層の歴史認識と比較するとドイツ社会の意識の高さを感じる」と、中谷さんは話す。
一方で「ガス室での虐殺なんてなかった」と主張する 歴史修正主義の主張が、いまだに絶えない。
「若い人たちには、ここを見ただけで終わってほしくない」。中谷さんは、ポツリと語った。
日本から遠く離れた、この地を訪れるだけでも、すごいことだ。ただ、ここで感じた思いを日本に帰っても「心のなかで、自分に問いかけてほしい」
世界中で民族間の争いは尽きないし、日本にも様々な差別が拡大している。人口減少化が進むなかで、来日する東南アジアの人々なども増えてくる。大きな変化のなかで「あなたは、どういう行動が取れるのか?」
30度を越えた日もあるここ数日の猛暑。すっかり日焼けしたという中谷さんは、鋭い眼を眼鏡越しに光らせ、吐くように、うめくように繰り返した。
最後に、中谷剛さんの著書「アウシュヴィッツ博物館案内」(凱風社、近く新刊を発刊予定)にも書かれていた、故・ヴァイツゼッカー大統領のドイツ終戦40周年記念演説の1節を引用して、今回のアウシュヴィッツ訪問の体験を心に留める糧(かて)にしたい。
「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目となります。非人間的な行為を心に刻まない者は、またそうした危険に陥りやすいのです」
コメント
市原 様
コメント、ありがとうございます。
アウシュヴッツに行く前に、一応勉強はしておき、帰ってきて、つたないブログを書き、一応、一段落と思っていたのですが・・・。
色んなことを心によぎり、考えさせられます。関連の本が次々、目の前に現れます。
それなりの結論など、死ぬまででないかもしれません。
ありがとうございました。
土井
Posted by 土井雅之 at 2012年5月25日 17:12
アウシュヴィッツ紀行を読み進み、写真を次々見ていくうち、胸に、腹に、重いもの
が溜まってきました。何度も深い息をしながら、読み終えました。
ユダヤの悲劇が長い歴史で繰り返し起き、いまも続いていることは、知識として頭に
ありますが、ホロコーストの現場を踏んで、初めて分かる思いが伝わってきました。
女性の髪やメガネ、靴、二重の鉄条網などなど生々しいものを、自分には正視できた
だろうかと考えてしまいます。
カティンの森事件は、忘れかけていました。追悼式典に向かうポーランド大統領夫妻
ら一行の専用機が墜落したニュースは、つい2年ほど前だったというのに―。クロアチアでルワンダで、北朝鮮ではいま何が起き、起きようとしているのか。人間の愚か
さという言葉ではすまされません。
市原 賢
Posted by 市原 賢 at 2012年5月25日 17:03
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