読書日記「ディアスポラ」(勝谷誠彦著、文藝春秋刊)
日本人の精神構造を大きく変えてしまった「3・11」。文学の分野でも、これから「フクシマ」をテーマにした様々な作品が発表されていくのだろう。
川上弘美の 「神様 2011」については、このブログでもふれた。この小説もポスト「フクシマ」の1つだろうと思って手にしたが、10年前に書かれたものと知っていささか驚いた。随所に故・小松左京の名著「日本沈没」に似た予見があふれている。
著者の勝谷誠彦のことはまったく知らなかったが、ちょっと破天荒な経歴を持つコラムニストだったことも、ちょっとした驚きだった。
「事故」とだけ呼ばれる出来事で日本列島は居住不能になり、日本人は世界中に設けられた難民キャンプに散っていく。
主人公の「私」は国連職員。チベットの首都・ラサから2000キロも離れた奥地・メンシスに「日本人難民状況巡回視察官」として派遣されて来る。
キャンプで人々がランプの灯火の下ひそひそと話す夜、ただ「事故」と呼ばれる出来事、私たちが有史以来くぐり抜けてきた災厄など語るほどのことですらないと思われる、あの出来事・・・。
(灯)の背後の闇にこそ、会うべき人々がうずくまっているのである。東海に浮かぶ恵まれ過ぎた島に、ぬくぬくと何十万年も抱かれていた人々が、裸で、むつきもされぬ赤子のように。
(灯)の背後の闇にこそ、会うべき人々がうずくまっているのである。東海に浮かぶ恵まれ過ぎた島に、ぬくぬくと何十万年も抱かれていた人々が、裸で、むつきもされぬ赤子のように。
難民キャンプのあるチベットの地は、世界最大級の高原が広がる自然豊かな土地だった。しかし、今やいたるところで腐臭が漂う場所になってしまった。
コンクリートで造られた階段を上がると、四角に切られた穴が並ぶのだが、そこまでたどり着くのが苦行なのだ。人糞の散乱は階段から始まる。なんとか踏まずに昇っても、穴の横には足を置く場所がない。大便の主は、すべからくここで漢人と呼ばれる中国人だ。チベット人たちは遊牧民の誇りとして、便所などというものは使わない。
キャンプの近くの湖には、苛性ソーダが飽和状態ぎりぎりまで溶け込んだぬめぬめとした異臭を放つ水が寄せている。プラスチックやガラスの砕けたものなども累々と重なりあっている。
このことは漢人の宿痾(しゅくあ)としか私には思えない。彼らは、いかなる美しい風景の中にも平気でゴミを投げ捨てるのである。
こんな描写で、著者は、 チベット自治区という名のもとに中国がこの地域を支配、チベット人はすでに"難民"になっている現状を浮かび上がらせる。
この地域の日本人難民キャンプを統括しているユダヤ人の国連職員・ダヤンが登場してくることで、表題の 「ディアスポラ」の意味が分かってくる。
「私たちは二千年間、世界に散らばっていました。紀元七三年
マサダという砦に立てこもっていた最後のユダヤ国民がローマに滅ぼされてから、再び建国に成功するまで。その出来事を私たちは民族離散、ディアスポラといいます」
ディアスポラ。今日からここにいる(日本の)人々の生には未来永劫、禍々しい影のように、その言葉が寄り添うに違いない。
ユダヤ(イスラエル)人のダヤンの口を通して、国連、世界は日本人に終わることのない放浪を強いようとしていることが示される。
実は「私」は、国連職員としての仕事以外に、かって日本を支配していた「組織」の人々から"密命"を受けている。
もし、また日本人たちがどこかで土地を得て集まろうとする時に、はたして求心力たりうるものがあるのかどうかということを、あの人々は考えているのである。・・・
世界中に散った、日本人たちの集団の中に、新たなる「核」が生まれつつあるのか。「組織」の彼らは、少なくともそれを知りたいのだ。
世界中に散った、日本人たちの集団の中に、新たなる「核」が生まれつつあるのか。「組織」の彼らは、少なくともそれを知りたいのだ。
しかし難民キャンプにいる日本人の一部は、チベットの風土に同化する道を選ぶ。
高山病に苦しんでいた中年の主婦が、不法就労で働いていた店で殴られたのがもとで死ぬ。夫と娘は火葬でも土葬でもなく、 鳥葬を選ぶ。「お母さんを風に還すの」と、娘はつぶやく。
娘の友人であるチベット人・ナムゲルは、こう説明する。
「まず、魂を抜く。あとの肉体は、モノだ。それでも天上に送るために、鳥に食べさせるのだ。専門の処理人が、鋭いナイフなどをつかって、遺体を切る。細かく、細かくだ。小麦粉を混ぜ込むこともある。それを、岩の上に置く。すると、鳥たちがあつまってきて、食べていく。あっという間。おしまい」
鳥葬場までは遺体と処理人しか行くことを許されていない。最後のわかれの儀式は、峠で行われた。僧たちの読経が終わった後、列席した日本人たちが歌い出す。
うさぎ追いし、かの山
小鮒釣りし、かの川・・・
鳥葬場までは遺体と処理人しか行くことを許されていない。最後のわかれの儀式は、峠で行われた。僧たちの読経が終わった後、列席した日本人たちが歌い出す。
小鮒釣りし、かの川・・・
やって来たユダヤ人・ダヤンがしたり顔で講釈する。
「家族や民族はどうしても、二つのことにこだわるんだよ。名前と、肉体の始末だ」
「しかし、そんなものはとどのつまり、どうでもいいことだ。・・・魂は名前を持たず、魂は肉体を持たない」
「けれども、そのこだわりが、家族や民族のよりどころじゃないのか」
「ヘッ」
ユダヤ人は、足元の石を蹴る。・・・
「名前のかわりに番号を刺青され、影も形もなくなるまで、バーナーで燃やされ、いや、それどころか髪の毛で、スーツ、脂(あぶら)で石鹸を作られても、彼らはユダヤ人だった」
「しかし、そんなものはとどのつまり、どうでもいいことだ。・・・魂は名前を持たず、魂は肉体を持たない」
「けれども、そのこだわりが、家族や民族のよりどころじゃないのか」
「ヘッ」
ユダヤ人は、足元の石を蹴る。・・・
「名前のかわりに番号を刺青され、影も形もなくなるまで、バーナーで燃やされ、いや、それどころか髪の毛で、スーツ、脂(あぶら)で石鹸を作られても、彼らはユダヤ人だった」
母を見送った娘は、チベット人の青年の手にしっかりと握られて、高原のなかに消えていった。
読み終えて、あまりに長い歴史を持つ 「ホロコースト」を思い、「3・11」以降"沈みゆく"列島のなかでもがいている日本人の「核」はなになのか・・・と問いかけてみる。
コメント
森のひまじん様、令夫人様
ごぶさたしています。山小屋では、暖炉の焚火が赤々と燃えていることでしょう。我が家は、まがいもののペレットストーブ。それでも、火の色を楽しめるし、節電になるしでがまんしています。
コメント、ありがとうございます。高尚な本?・・・。そんなことはありません。ブログでは、ちょっぴりカッコをつけているのでしょうか。
先日読んだ、漫画家・こうの史代のエッセイ「平凡俱楽部」は、ちょっとした拾いものでした。横山秀夫の「半落ち」の映画をBSで見て腑に落ちず、文庫本を買いに走ったり・・・。
貴兄がブログに書いておられた葉室麟の「蜩ノ記」、直木賞候補になりましたね。取れたらいいですね。
当方も、図書館に借り入れ予約を入れてみます。
一度「ふく」で一杯やりたいですね。お二人とも、お元気で。
Posted by 土井雅之 at 2012年1月 9日 19:40
ご無沙汰です。
ブログもコメントする方も、格調が高過ぎて・・・。
しきいが高いとはこのことでしょうね。
でも、市○さん、生○さんら、懐かしい名前があり、ついコメント欄を開いてしまいました。
私は文学も詩も素養がないので、正直、コメント出来ませんが、女房と一緒に精読させていただいています。
とくに女房は「素晴らしいブログね。あの本もこの本も読んでみたい」と申しております。
嗚呼、それに比べてわがブログの質の低さ・・・。
ともかく、お元気そうでなによりです。
Posted by 森に暮らすひまじん at 2012年1月 9日 17:49
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