読書日記「生まれ出づる悩み」(有島武郎著、新学社文庫)。そして「アート・エード・東北」構想
市立図書館の一般開架ではなく、書庫に埋もれていた明治時代の有島武郎の本を借りる気持ちになったのは、今回の東北大震災について書かれた記事がきっかけだった。
3月26日付け読売新聞朝刊に芥川喜好・編集委員が連載している「時の余白に」というコラムで「〝災害の深い喪失の中から立ち上がった″漁師出身の油絵画家・木田金次郎」がこの本のモデルと書かれていた。
私が君に始めて会ったのは、私がまだ札幌に住んでいるころだった。・・・
君は座につくとぶっきらぼうに自分のかいた絵を見てもらいたいと言い出した。君は片手ではかかえ切れないほど油絵や水彩画を持ちこんで来ていた。・・・
君がその時持って来た絵の中で今でも私の心の底にまざまざと残っている一枚がある。それは八号の風景にかかれたもので、・・・。単色を含んで来た筆の穂が不器用に画布にたたきつけられて、そのままけし飛んだような手荒な筆触で、自然の中には決して存在しないと言われる純白の色さえ他の色と練り合わされずに、そのままべとりとなすり付けてあったりしたが、それでもじっと見ていると、そこには作者の鋭敏な色感が存分にうかがわれた。そればかりか、その絵が与える全体の効果にもしっかりとまとまった気分が行き渡っていた。悒鬱(ゆううつ)――十六七の少年には哺(はぐく)めそうもない重い悒鬱を、見る者はすぐ感ずる事ができた。
しかし、この少年が作者の前から姿を消して十年後。突然、舞い込んだ3冊の手製のスケッチ帳と1通の手紙を見て、作者は北海道・岩内の地を訪ねる。少年は、逞しい漁師に成長していたが、絵を描くことへの熱情は失っていなかった。君がその時持って来た絵の中で今でも私の心の底にまざまざと残っている一枚がある。それは八号の風景にかかれたもので、・・・。単色を含んで来た筆の穂が不器用に画布にたたきつけられて、そのままけし飛んだような手荒な筆触で、自然の中には決して存在しないと言われる純白の色さえ他の色と練り合わされずに、そのままべとりとなすり付けてあったりしたが、それでもじっと見ていると、そこには作者の鋭敏な色感が存分にうかがわれた。そればかりか、その絵が与える全体の効果にもしっかりとまとまった気分が行き渡っていた。悒鬱(ゆううつ)――十六七の少年には哺(はぐく)めそうもない重い悒鬱を、見る者はすぐ感ずる事ができた。
「会う人はおら事気違いだというんです。けんどおら山をじっとこう見ていると、何もかも忘れてしまうです。だれだったか何かの雑誌で『愛は奪う』というものを書いて、人間が物を愛するのはその物を強奪(ふんだく)るだと言っていたようだが、おら山を見ていると、そんな気は起こしたくも起こらないね。山がしっくりおら事引きずり込んでしまって、おらただあきれて見ているだけです」
怒涛のような嵐のなかで船を操って九死に一生を得たり、家族や周辺で数えきれない不幸に出会ったりしながら、山への自然への憧れを捨てずに絵筆を握る漁師の異常ともいえる激情を綴られていく。
そして、小説は、以下の1節で終わる。
君よ、春が来るのだ。冬の後には春が来るのだ。君の上にも確かに、正しく、力強く、永久の春がほほえめよかし‥‥僕はただそう心から祈る。
有島武郎は、大正12年に軽井沢の別荘で情死する。それをきっかけに漁師・木田金次郎は、画家として独立することを決意する。
しかし、有島が祈った″春″は、とんでみないかたちでやってきた。
芥川編集委員の記事には、こう記されている。
昭和29年の洞爺丸台風で岩内大火に遭い、千五、六百点という作品の一切を家とともに焼失した時、61歳でした。町は壊滅し、彼も丸裸になった。翌朝、焼け跡にへたりこむ木田の写真が残されている。
その直後から彼は圧倒的に再び描き出し、人生の残り8年で代表作のすべてを生み出したのです。筆が猛然と画面を走り、線の激しい交錯のうちに豊潤きわまりない空間が開けます。
その直後から彼は圧倒的に再び描き出し、人生の残り8年で代表作のすべてを生み出したのです。筆が猛然と画面を走り、線の激しい交錯のうちに豊潤きわまりない空間が開けます。
金次郎が生涯を過ごした北海道岩内町に設立された「木田金次郎美術館」掲載されている 「大火直後の岩内港」という作品を見ていると、東北・三陸海岸の港の写真が二重写しで浮かんでくる。
この記事を読んだのと同じころに、前回のブログにも書いた神戸・島田ギャラリー ・島田誠さんのメールマガジンが届いた。島田さんは、文化で被災地に貢献する「アート・エイド・東北」という構想を進めている、という。
この構想は、島田さんらが阪神大震災直後の1995年2月に立ちあげた 「アート・エイド・神戸」の実績から実現に向けて動きだそうとしている。
「アート・エイド・神戸」の活動については、島田ギャラリーのホームページに詳しいが、市民や企業からの寄付や事業収入、復興資金からの助成などを財源に、チャリティー美術展、被災アーティストへの支援(1人10万円)、被災詩集の出版などの事業を実施した。2001年に活動を終了した今でも様々な文化振興の輪は広がり続けている。
今月初めには「アート・エイド・東北」の実現に向けた話し合いも持たれた。
東北の文化施設の多くが被災し、再開のメドがたっていないことや、東北在住のアーティストにはキャンセルが相次ぎ、仕事を失ったことが報告された。とりあえず、来年3月までに行われるプロジェクトに総額100万円(1件20万円を限度)、来年4月以降に実施されるプロジェクトに総額100万円(同)を助成することを目標にすることになった。5月初めには「アート・エイド・東北」を立ち上げることを目標にしている。
島田さんは、阪神大震災直後に「このような時期になぜアートなのか」という疑問に「人は生きていくには空気や水やパンが必要だが、それだけでは生きていけない。心の問題、すなわち希望が大切だ」と答えた、という。
そして、神戸新聞で連載しているコラムで「お金の品格」と題して「寄付する喜び」について語っている。
寄付をした人々が播いた1粒、1粒の種が芽をふき、被災者のよろこびに育つことを願う。
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