読書日記「バチカン近現代史 ローマ教皇たちの『近代』との格闘」(松本佐保著、中公文庫)
月に1回、カトリック夙川教会で開かれている「信徒によるカテキズム勉強会」に時々、出席させてもらっている。
表題の本は、先月の会合で I さんや K さんに教えられ、図書館で借りた。キリスト教抜きには語れないヨーロッパの歴史が、近代から現代にまで延々と及んでいることが簡明に書かれている。
名古屋市大教授でイギリス外交史などが専門の著者は、この本のなかで、 ローマ教皇の誕生や中世の教皇覇権の歴史はたった5ページで片付け、宗教と国家の分離を図った18世紀末のフランス革命という「近代」の幕開けから表題通り「バチカン」の歴史をひも解こうとする。
象徴的なのは、1804年の ナポレオンのフランス皇帝戴冠式だった。
著書では、フランス・新古典主義の画家、 ダヴィッドの大作 「ナポレオンの戴冠」(フランス・ルーブル美術館所蔵)について書いている。
本来教皇が授けるはずの冠をナポレオンが自ら手で頭に戴いたのである。ダヴィッドの絵では後ろに座っているローマ教皇の
ピウス7世が困惑した表情を浮かべている様子も描かれる。
最近見たNHKの番組によると、ダヴィッドが事前に描いた下絵(素描) もルーブル美術館に残されているらしい。
この下絵では、ナポレオンが教皇から奪った冠を自らの頭に乗せようとしており、わざわざ戴冠式だけのために、パリに呼びつけられた教皇はなにもできずに下を向いている。
しかし、これではあまりに教皇に対して挑戦的だというダヴィッドの"演出"なのか、出来上がった作品では、しぶい顔ながら 右手で皇帝を祝福している教皇が描かれた、という。
バチカンにとっては、あまりに屈辱的な近代の始まりであった。
ソ連で生まれた共産主義の脅威に対抗するため、バチカンが ムッソリーニや ヒトラーに傾斜していった第2次世界大戦前後の様子は第4章で詳しく記される。
ローマ教皇は、イタリア王国がローマ市街の引き渡しを求めた「 ローマ問題」の解決を図ろうと、ファシズムのムッソリーニ政権に積極的に近づき、 ラテラノ条約を締結、結果的に世界最小の独立国家・バチカン市国を得る。
第2次世界大戦下で就任した教皇 ピウス12世下は、後に「ヒトラーの教皇」とも批判されほど、ヒトラーと親密な関係保持に努めた。
一昨年,ポーランドの アウシュヴィッツを訪ねた際に「なぜ、カトリック教会は、 ホロコーストを防げなかったのか」という疑問を持ったことはこの ブログでもふれたことがある。
ただ、ホロコーストへの教皇の対応について、こんな事実があったことも著者は明らかにしている。
(ローマが枢軸国と連合国戦争のはざまで無防備都市になった際)ナチス親衛隊がユダヤ人ゲットーに踏み込んだという一報を聞いたピウス12世は、すぐに・・・ドイツ大使を呼び、ユダヤ人逮捕の中止を要請した。これに対しドイツ大使は、本国政府に直接抗議するよう求めた。ピウス12世は、直接本国政府への抗議は行わず、バチカン市国内とカトリック施設にユダヤ人を匿う行動をとる。
この事実を評価した建国後のイスラエル政府はピウス12世に「諸国民の中の正義の人」賞を贈る。 しかし著者は「(ピウス12世のホロコーストへの対応は)生ぬるいという批判はついて回るだろう」と、次のような歴史認識も示す。
いずれにしろ、第二次世界大戦中のピウス12世、ひいてはバチカンに対する批判的な論調が大きくなるのは、冷戦終結後の一九九〇年以降である点が興味深い。バチカンは冷戦中、西側勢力の反共産主義の牙城であり、そのイデオロギーの拠り所として重視されていた。しかし冷戦が終結すると、封印されていたものが出てくるようになったのである。
歴史が生み出した皮肉な結果だと言えるかもしれない。
この著書の圧巻は、第8章の「ポーランド人教皇の挑戦――ベルリンの壁崩壊までの道程」だろう。イタリア人以外では約450年ぶり、共産党一党独裁国・ポーランドからはもちろん初めて選出された ヨハネ・パウロ2世と共産主義体制との闘争の物語だ。
教皇は、就任翌年の1979年6月、母国ポーランドを訪問した。教皇が共産圏に足を踏み入れるのは初めてで、東ヨーロッパだけでなく、共産圏諸国に大きな衝撃を与えた。
ポーランド共産党政権は、なんとか教皇の入国を阻止しようとしたが、教皇の絶大な人気の前に、暴動を恐れて失敗に終わった。「教皇はスピーチで、ソ連の隷属状態にあり、信仰の自由のないポーランドを間接的に批判した。・・・これがポーランドのカトリック教会と労働者の反体制運動とのつながりを生むことになる」
ヨハネ・パウロ2世はその直後、国連の安保理総会にオブザーバーとして参加、人権が尊重されていない東側共産主義国を批判する。「ポーランド訪問と国連でのスピーチは、教皇による共産主義国への宣戦布告とも受け取られた」
ポーランドで,労働者組織 「連帯」が結成され、全土に社会不安が広がるなか、1981年5月に教皇暗殺未遂事件がローマで起きた。「ソ連・KGBが計画し、ブルガリアや東ドイツが協力したという」
1983年、教皇は戒厳令下のポーランドに2度目の訪問をして政府と交渉し、非合法化されていた「連帯」の限定的復活と戒厳令の解除で合意した。
1987年には、3度目のポーランド訪問をし、ポーランドの国旗に「連帯」のシンボルを付けた旗を振る民衆の大歓迎を受けた。「ヨハネ・パウロ2世に勇気づけられた民主化運動の動きは全国的な勢いを得て、もはや止めることはできなかった」。1989年の総選挙で「連帯」が勝利し、共産党政権は崩壊した。この年、ベルリンの壁も崩壊した。
1980年代後半から ペレストロイカ(政治体制の改革運動)を推進してきたソ連のゴルバチョフ書記長は1989年12月、バチカンにヨハネ・パウロ2世を訪ねた。
新聞は「マルクス主義がカトリック信仰に敗北したことを認める『二〇世紀末の カノッサの屈辱』」と論評した。
ヨハネ・パウロ2世は教皇就任直前まで、ポーランドの古都で世界遺産であるクラクフ教区を管轄する枢機卿だった。
1昨年、アウシュヴィッツを訪ねた際、アウシュヴィッツ唯一の外国人公式ガイドである 中谷剛さんにクラクフの街を案内してもらった。
歴史地区の広場にある広場の前に教会横の建物は、ヨハネ・パウロ2世がクラクフ訪問の際に泊まった宿舎で、正面2階の窓にいまだに教皇のカラー写真がはめ込まれていた。すぐ横の教会に入ると、後方右側のベンチに「教皇が滞在中、いつも祈っていた席」と書かれた銅板が貼ってあった。
中谷さんによると、教皇が滞在中は広場に若者が詰めかけ教皇の名を呼び続けた。教皇は、いつも午前2時前後に、宿舎2階の窓を開けて、集まった人々に祝福を与えた。「あの熱気は忘れられない」と、中谷さんは言う。
ローマ教皇庁はこのほど、ヨハネ・パウロ2世が、この4月に 列聖(聖人の地位にあがる)される、と発表した。没後9年という異例の速さである。
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