読書日記「鴨居玲 死を見つめる男」(:著、講談社)、「一期は夢よ 鴨居玲」(瀧 悌三著、日動出版)「踊り候え」(鴨居玲著、風邪来舎)「鴨居玲画集―夢候」(作品著作権者・鴨居玲、発行者・長谷川徳七)
鴨居玲のことを知ったのは、いつだっか?たぶん、昨年の夏、師事している 酒井俊弘神父からいただいた長崎からの絵葉書から強烈な印象を受けたのが最初だったような気がする。
表題の最初の著書が出たのを新聞書評欄で知って図書館で借りることができたのが、今月初め。同時になんと作品約100点を集めた巡回展 「没後30年 鴨居玲展―踊り候えー」が伊丹市立美術館に回ってきているのを知って出かけ、鴨居玲の世界をたっぷりと堪能できた。
長谷川智恵子が、著書の「はじめにー」で「鴨居の作品を知る人は、少なからず『暗鬱だ』『暗い』という印象があるだろう」と書いている。これは 日動画廊副社長という画廊経営者だから出た表現でもあったのではないだろうか。画廊から絵画を買う人は、個人ならたぶん自宅の居間にふさわしい「きれいな」絵を探すだろう。
しかし「心の叫びを描く」( 長谷川徳七)ことが仕事である画家の作品が「暗い」のは、 ドガや レンブランドの自画像を見ても分かる。
鴨居の作品には「暗さ」のなかに、光と色彩が巧みに使われ、見る人の心に沁み込んでくるなにかを感じる。
代表作の1つ 「酔って候う」や「おっかさん」、そして真っ赤に塗り込まれたキャンバスに浮かび出る 「出を待つ道化師」は、その暗さの中に浮き立つ表現力、ユーモア、哀愁に見る人は引きつけられる。
しかも、これらの絵をじっくり見ていると、描かれた人物が鴨居玲その人であることが分かってくる。鴨居が「 自画像の作家」と呼ばれたゆえんでもある。それは、酔った老人やピエロは、生きることに苦しみ、悩み、酒に助けを求める鴨居自身の姿でもあった。
長谷川智恵子の著書によると、鴨居は正真正銘の"酔っ払い"であっただけでなく「格好よさ」(没後30年展図録の表紙と裏面より)の美学を貫いた男(おのこ)でもあった。
著書には、鴨居に会った最初の印象がこう書かかれている。
「当時、絶大な人気のあった三船敏郎にどこか似ていて、彼より、一回り身体が大きく国際的な雰囲気があった。・・・今まで知っている多くの日本の洋画家とは、まったく異質のもの――異邦人のような空気――を感じた」
24歳のころ、芦屋市にあった 田中千代服装学園の講師をしていたが、女生徒たちが「素敵な人」と騒ぎ、同じころに教えていた 六甲洋画研究所には、ブルーのシャツ、赤いズボン姿、大型オートバイ 「陸王」に乗って現れた。
スペインに住んでいた四十三歳の頃には、乗っていたオペルを緑色の ムスタングに乗り換え、パリに移ってからも「格好がいい」と狭い道を無理して乗り回していた。
鴨居は、四十一歳の時に描いた「静止した刻」で、安井賞を受けて遅まきの画壇デビューをはたした後、スペインの バルデペーニャスに同棲していた写真家の 富山栄美子と3年間住んで村の人々を多く描いたが、その後は描くテーマを探すのにいつも苦悩していた。
いくつか描いた教会の絵について、鴨居は自著「踊り候え」で「描いているうちに、いろいろな飾りや、窓が邪魔になってきましたので、段々ととりのぞいているうちに、御覧の通りのっぺらぼうになりました」と書いている。
「ドワはノックされた」は、「アンネの日記」に、「蜘蛛の糸」は、芥川龍之介の作品に触発された。
女性の裸体画にも、日動の長谷川徳七に勧められて挑戦した。富山栄美子をモデルにした「石の花」は、戦後すぐに上映されたソビエト映画に触発され「愛し合う二人が、抱擁したまま石と化してゆく・・・」(「踊り候え」より)姿を描こうとした。
しかし、裸婦像をうまく描けない鴨居の焦燥感は死ぬまで続いた。
晩年の代表作「1982年 私」という200号の大作からは、「もう描けない」という悲鳴が聞こえてきそうだ。
白いキャンバスを前に描かれた鴨居の自画像は絵筆も持たずぼう然としている。後ろを向いている裸婦、魂を抜かれたような酔っ払いやピエロ、心配そうに画布をのぞき込む片腕を亡くした「廃兵」・・・。いずれも、鴨居が過去に生き生きと描いてきたモデルたちだ。
最後の作品である「肖像」は、自らの顔をはぎ取って手に持った顔のない自画像である。鴨居は、死ぬ前「キリストの『最後の晩餐』を描きたい」と、大きな長方形のテーブルを買っていた、という。長谷川智恵子は「この顔のない人間は鴨居の『最後の晩餐』を予告する作品であったのだろうか」と書いている。
鴨居は、満足する作品ができるたびに、なぜか自殺未遂騒動を起こした。
昭和60年9月7日。鴨居は、自宅前に止めた自動車のなかで排ガスを吸って息を引き取った。長谷川は「自殺」をにおわし、「一期(いちご)は夢よ』の著者、瀧悌三は事故とみている。57歳だった。
なきがらは、姉・ 鴨居洋子の希望で、西宮市にある母の墓の横に葬れている。
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