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2016年10月 1日

読書日記「ルーアンの丘」(遠藤周作著、PHP研究所、1998年刊)


ルーアンの丘
ルーアンの丘
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遠藤 周作
PHP研究所
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 なぜか寝づらい日が続いた深夜に、テレビ録画で見ていて表題の本をテーマにしたドキュメンタリー(NHK制作)に引き込まれた。

 題材になっている「ルーアンの丘」は、作者が1950年に戦後最初の留学生としてフランスに渡った時に残していた旅行記「赤ゲットの仏蘭西旅行」と滞仏日記をまとめたものだ。作者の没後に見つかり、1998年に単行本になった。

 県立西宮北口図書館で司書の女性に見つけてもらい、一気に読んだ。

   フランスに同行したのは、生涯の親友となった 故・井上洋治神父ら4人。

 世話をしてくれたフランス人神父の尽力で、フランスの豪華客船・マルセイエーズ号に乗れることになった。ところが、遠藤が別に記しているのによると「船賃は最低の2等Cで16万円」。
 とても貧乏留学生に払える金額でなかったが、その神父の努力で「特別に安い部屋」に乗れることになった。

 大喜びで、フランスの船会社の支店に4人で切符を買いに行き、マルセイエーズ号の模型を囲んで「俺たちの船室はどこだ、どこだ」と大騒ぎしていたら、フランス語の堪能な若い女性が「かなしそうな眼で見ていた」・・・。

   横浜港でマルセイエーズ号に乗り込み、切符を事務長に見せると、せせら笑って「船室は船の一番ハシッコだと答える。

 
皆さん、『奴隷船』という映画を見ましたか。船の端の地下室の光もはいらねえなかで、黒人たちがかなしく歌を歌っている。実に、ぼくらの船室はあそこだったんです。・・・寝床は毛布も何もねえ、キャンプベッドがずらっと並んでいるだけ。鞄をもってきた赤帽君が驚いたね。「あんた、これでフランスに行くんですか」


 港に着く度に、クレーンで荷物がドサット落とされ、船倉ホコリだらけ。食事さえ、自分たちで厨房に行き、バケツに入れて運んでこなければならない。

   シンガポールやマニラでは、日本人は上陸禁止。第二次大戦中の マニラ虐殺などの恨みを忘れらてはいない。しかし、港に着くたびにこの船艙に乗ってくる中国人、インドネシア人、アラビア人、サイゴンで降りた黒人兵は、みな笑顔で接してくる。「なぜ、中国人などを今まで馬鹿にしたり、戦争をしたりしたのだろう」・・・。

 イタリア・ストロンボリイ 火山の火柱をデッキから見ていた時、ボーイの1人が「北朝鮮軍が南に侵入した」と1枚の紙きれを渡してくれた。

 神学生のI君(故・井上洋治神父)は、よく甲板のベンチでロザリオを手にお祈りをしていた。

 Ⅰ君は帝大の哲学科を今年出て、日本に修道会の カルメル会を設立することを自分の一生の使命として、遠くフランスのカルメルで修行する決心をしたのです。もう一生家族にも会えない。全ての地上のものを捨て、孤絶した神秘体の中に身を投じる君をぽくは真実、怖ろしく思いました。彼の体は強くない。寂しがりやで気が弱い・・・。そんな彼が人生の孤絶、禁欲ときびしい生の砂漠を歩いていくのを見るのは怖ろしかったのでした。暗い甲板の陰で、ぽくは黙って彼の横に座りました。

 「君、こわくない」
 とぼくはたずねました。
 「もう御両親や御姉弟にも会えぬのだね。もう一生、すべての地上の悦びを捨てねばならぬのだね」
 「少しこわいね。何かちょっと寒けがするような気持だ」
 と彼はうなだれました。


 マルセイユに入港、パリ経由で北仏・ルーアンの駅に着いた。この街に住む建築家・ロビンヌ家で、夏休みの間、ショートステイさせてもらうことになっていた。
 改札口で、中年の美しいマダム・ロビンヌに迎えられた。間もなく、ロビン家の11人の子どもがバラバラと集まってきた。遠藤がどの出口から出てくるか分からないため、前夜から1人ずつ張り番をしていた、という。

 最初にマダムに慣れないこと、不満なこと、困ったことは、何でも話すようにと約束させられた。そして、自分の子どもとして教育するという。

 日本では、ものぐさではどの友人に引けを取らなかったのに、髪をきちんと分け、靴は少しでも汚していると夫人に叱られた。特に、食事などのマナーは厳しかった。

 「食事中葡萄酒を飲む時、前もってナプキンで口を拭くこと」
 「食事中、黙ってはいけません。話さないのは礼儀ではありません」
 「煙草を半分吸って捨てるなんて、アメリカ人のすることです」

 「もう、我慢できないと」と言ったら、夫人は答えた。
 「あなたが大学に行ったら、大学生は無作法に食事したり話したりするでしょう。・・・しかし、典雅に物事をふるまえた上で野蛮に友だちと話せる大学生と、全く無作法な大学生とは違います」

 ある日、長男・ギイやガールフレンドのシモーヌなどとピクニックに出かけた。合唱やダンスを楽しみながら、彼らと空襲や離別の繰り返しだった、わが青春を比較してみた。
 そして、インドの乞食の少女の黒くぬれた眼、マニラの海の底に失われていった青春・・・。

 急にパリに行きたくなった。
  サン・ラザール駅に着いたのは午後6時半を過ぎていた。1つの教会の祈祷台に、倒れ込むように跪いた。

 神様、ぼくは、あなたを何にもまして愛さねばならぬことを知っています。しかし、ぼくは、今、人間を愛し始めたのです。ぼくが、永遠よりも。この人間の幸福のために力をそそぐことはいけないことでしょうか。人間の善きものと美しきものを信じさせて下さい。神様、ぽくに真実を、真実として語る勇気をお与え下さい。・・・自然があれほど美しいのなのに、人間だけが、悲しい瞳をしていてはいけないのです」


fromWeb01.JPG
ロビンヌ家の人々と遠藤周作(左端から長男・ギイ、遠藤、マダム・ロビンヌ、末っ子のドミニック)


2016年4月23日

読書日記「イエス伝」(若松英輔著、中央公論新社刊)



イエス伝
イエス伝
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若松 英輔
中央公論新社
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 本の冒頭近くに出てくる著者の指摘に、エッと思った。

 「奇妙なことに、イエスの誕生を物語る福音書のどこを探しても、『馬小屋』に相当する文字は見当たらない」

 「イエスは、ベツレヘムの馬小屋で生まれた」。それは、キリスト信者なら子供でも知っている常識だろう。

 所属していたカトリック芦屋教会でも、クリスマス前になると、祭壇の脇に小さな馬小屋の模型と聖母子の塑像を故浜崎伝神父が置いていた。そして、前の芦屋川から採ってきた草やコケで馬小屋の周りを飾る手伝いをさせられたものだ。

 いや、今でも世界中の教会や家庭で同じような馬小屋の模型が作られ、クリスマスの準備をしている。

 しかし著書は20世紀のアメリカ人神学者であるケネス・E・ベイリーの 「中東文化の目で見たイエス」の一節を紹介、「イエスが中東の人であることを(世界の人は)忘れている」と強調する。

 「西欧的精神の持主にとって、"飼い葉桶"という語は"馬屋"や"納屋"という語を連想させる。しかし、伝統的な中東の村ではそうではない」

 聖書の記述( ルカ伝2章4~7節)によれば、イエスの父 ヨセフは、ダビデ王の血を引く人だった。「客人に対して、ゆえなき無礼な行いをするのは不名誉なことこの上ない」中東人にとって、王族につながる旅人であるヨセフ、 マリア夫婦は歓迎さるべき客人だった。

 しかし、一行が訪ねた家の客間には先客がおり、家族が暮らす居間に通された。

 家畜を大切にする当時の中東の村では、居間の端に複数の飼葉桶が床石を掘って造られていた。

 「出産に際して、男たちは部屋から出され、女たちがマリアに寄り添う。マリアは庶民の家の居間で、彼女たちに見守られ、歓待されながらイエスを産んだ」。そして、聖書にあるとおり居間の「飼い葉桶に寝かされた」

 ベツレヘムに着いたヨセフ一行がやっと見つけられたのは、貧しい馬小屋。そこで生まれたイエスを祝ったのは、貧しい羊飼いたち。
 我々が、長年信じてきた物語は、西欧文明が作った虚構だったのだ。

 中東に住む聖書学者たちは、この事実を以前から理解していた。「しかし、西欧のキリスト教神学界が、長く中東文化圏の声を無視してきた」と、ベイリーは訴えている。

 だが、著者は「ベイリーが指摘したいのは、誤りの有無ではなく、新たなる聖書解釈の可能性である」という。

 
幼子イエスは、羊飼いのような貧しく身分の低い人々だけでなく、ヨセフらを迎え入れた普通の庶民や富裕な人々、「王」への貢物を持参した異教の預言者たちのためにも世に下ったのだ。
 「イエスは、救われない、孤独であると苦しむ人に寄り添うために生まれた」


 ベイリーは、イエス降誕を論ずる1文の最後を、こう締めくくっている、という。

 「確かにわれわれはわれわれのクリスマス劇を書き直さなければならない。しかし書き直されることによって、物語は安っぽくされるのではない。かえって豊かなものにされるのである」

 この本には、以前から気になっていたいくつかのことが記述されている。

 例えば、イエスと関わる女性たちのことだ。

 カトリック教会には、イエスが捕えられ、十字架につけられるまでの14の行程について書かれた 「十字架の道行き」という祈りがある。どこの教会でも、各場面を描いた木彫りや陶板の聖画が両側の壁に掛けられており、信者はその聖画を順に回ってイエスの受難を思って祈るのだ。

 イエスは、十字架を背負わされて処刑場に向かう途中、何度も倒れる。それを見て、 ヴェロニカという女性が駆け寄り、汗を拭いてもらおうと自分のベールを差し出す場面がある。

 
死刑の宣告を受けたイエスの近くに寄ることは命を賭けた行いだった。男の弟子たちにはそれが出来なかった。「十字架の道行』では、イエスの遺体を引き取るまで、男の弟子たちの姿は描かれない。道中、イエスに近づいたのは女性の弟子ばかりである。


 
イエスの時代、女性が虐げられることは少なくなかった。だが、イエスはその文化的常識も覆したのである。


 十字架で処刑される場に居合わせたのも、女性の弟子たちだけだった。

 共観福音書マタイ伝マルコ伝、ルカ伝)では、(女性たちは)「遠くに立ち」十字架上の見守っていたと記されている。

ヨハネ伝の記述はなまなましい。女性たちは「十字架の傍らに」たたずんでいたと書かれている。女性たちとはイエスの母マリアとその姉妹、クロパの妻マリア、そしてマグダラのマリアである。・・・
 天使たちのよって、イエスの復活を最初に伝えられたのもマグダラのマリアを含む三人の女性たちだった。


 イエスが誕生する前にも、女性を重視する記述が聖書に書かれている。

 身籠っていたマリアは、のちにイエスに洗礼を授けることになる ヨハネの母 エリザベトに会いにいく。
 エリザベトは、 聖霊の働きでマリアの子が救世主であることを知り、こう語りかける。

 「あなたは女の中で祝福された祝福された方。あなたの胎内の子も祝福されています」(ルカ伝1章42)

 
この一節こそ・・・"人間の口"を通して、もっとも早い時期にイエスが「主」すなわち救世主であることが告げられた場面なのである。  ルカ伝は・・・圧倒的な男性優位の当時の社会で、女性・・・に大きな役割があることを示そうとする。このことにもまた、今日再度顧みるべき問題がある。


ペトロを中心に、男性重視の組織を形成してきた 原始キリスト教会は、あえて女性の存在を軽視し、イエスに近いマグダラのマリアを「罪深い女(娼婦)」と呼ぶことさえいとわなかった。

 それが、第2バチカン公会議以降になって、やっと見直しが始まったらしい。
 その動きが、女性司祭の登場などにつながるかどうかは、あまりに"遠い道筋"だろうが・・・。

 若松英輔は、イエスを裏切った弟子・ユダのことに何回も言及する。

 そして「イエスはユダの裏切りを知りながら、なぜ回避しなかったのか」「ユダの裏切りは自由意思によるものなのか」など、以前から多くの神学者、哲学者が取り組んできた問題に答えようとする。

 聖書によれば、「最後の晩餐」の席上、イエスはユダに「しょうとしていることを、今すぐしなさい」と言い、ユダは逃げるように出ていく。

   その後のヨハネ伝の記述は「共観福音書などとは著しい違いがある」と、著者は言う。

 
さて、ユダがでていくと、イエスは仰せになった。
   「今こそ、人の子は栄光を受けた。
 神もまた人の子によって
  栄光をお受けになった
 神が人の子によって
 栄光をお受けになったのなら、
 神もご自身によって
 人の子に栄光をお与えになる。
 しかも、すぐにも栄光をお与えになる。(13章31~32)


 
「今こそ」との一語は、ユダの裏切りもまた、自身の生涯が完成するために避けて通ることができない出来事であることを示している。そのことによって、「神もまた」栄光を受けるとまで、イエスは語ったのだ。


 イエスは、神の意志による受難を実現するために、ユダに裏切りを促したということだろうか。しかし、そのことが「イエス、神が栄光を受ける」ことにつながるという聖書の言葉は、あまりに難解だ。

 ユダについての記述は、まだまだ続く。

 
福音書を読んでいると、イエスのコトバに真実の権威、威力、意味をどの弟子よりも敏感に感じ取っていたのがユダだったように思われてくる。・・・彼は、師のコトバを受容することに戦慄を伴う畏れと恐怖を感じている。・・・


   
弟子たちの中で自ら意図して裏切りを行ったのはユダだけだった。・・・もっとも美しく、また聖らかで、完全を体現している、愛する師を裏切ったユダは、イエスの実相にもっとも近づいた弟子だったのかもしれない。その分、ユダの痛みは深く、重い。


 
裏切りをすべてユダに背負わせるように福音書を読む。そのとき人は、「姦通の女」に石を投げつけようとしている男たちと同じところに立っている。


 「姦通の女」の記述は、ヨハネ伝8章に詳しい。

 
この記述を読んで、「女」に自分を重ね合わせない者は少ないだろう。今日の私たちも彼女に「石」を投げることはできない。この「女」はイエスを裏切ったユダを象徴している。


 
誤解を恐れずに言えば、ユダは私たちを含む「人間」という、罪から免れることはできない存在の象徴でもある。


 ここで著者は 遠藤周作の小説 『沈黙』の最後の場面を引用する。棄教を迫られて踏み絵を踏んだ司祭がイエスと対話する場面だ。

「(踏むがいい。お前の足は今、痛いだろう。今日まで私の顔を踏んだ人間たちと同じように痛むだろう。だがその足の痛さだけでもう充分だ。私はお前たちのその痛さと苦しみをわかちあう。そのために私はいるのだから)
 「主よ。あなたがいつも沈黙していられるのを恨んでいました」
 「私は沈黙していたのではない。一緒に苦しんでいたのに」  「しかし、あなたはユダに去れとおっしゃった。去って、なすことをなせといわれた。ユダはどうなるのですか」
 「私はそう言わなかった。今、お前に踏絵を踏むがいいと言っているようにユダにもなすがいいと言ったのだ。お前の足が痛むようにユダの心も痛んだのだから」


遠藤は、ユダを人類の代表者として描いている。ユダの裏切りは、いつもイエスの赦しと共にある。イエスは、人の弱さを裁く前に寄り添う。


 このブログでも書いたのだが、 故井上洋治神父 「遺稿集『南無アッパ』の祈り」のなかで、同じようなことを強調しておられたことを思い出した。

 某日刊紙の書評子によると「今、もっとも注目を浴びていると言っていい批評家」である若松英輔は、故井上神父を師と仰いでいる、という。

2015年6月 4日

読書日記「井上洋治著作集5 遺稿集『南無アッバ』の祈り」(日本キリスト教団出版局)


遺稿集「南無アッバ」の祈り (井上洋治著作選集)
井上 洋治
日本キリスト教団出版局
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昨春亡くなった故・井上洋治神父 の著作集を先月初めに、朝日新聞書評欄で見つけた。なつかしく、かつ正直ちょっと驚いた、というのが実感だった。


 もう50年以上も前のこと。大学を出て新聞社に就職、信仰からも教会から遠ざかっていた時期に、この著者の本を買い込んだ記憶がある。

 数年前から、2度の引っ越しをした機会にあふれかえっていた所蔵本を本棚ごと整理したのだが、わずかに残した書棚に、著者の本がなんと5冊も残っていた。
 カトリックの信仰が身につかず、それなりに悩んでいた時期に出合った著書をなんとなく捨てがたかったのだろう。

 しかし、この「『南無アッバ』の祈り」は、私が知らなかった井上神父が築き上げた世界を描き出したものだった。

 「著作集5」は、遺稿集と銘打っており、様々な講演、講話、対談集などが収められている。晩年に書かれた自伝的エッセイ「漂流――「南無アッバまで」のなかに、神父が見たある夢が記録されている。

 
 ある夜。神父は、中年の長い髪の女性に「長い間、お待ちしていました」と、暗い森が広がる道へと案内される。そこへ、突然大聖堂が浮かび上がる。神父はそこへ女性を連れて行こうとするが、女性は「このなかにははいれないのです」と涙を流す。


 「カトリック教会は、信者同士で結婚した場合、離婚を認めません。ですから私のように、信者同士で結婚してから離婚し、いまいちど好きな人ができて再婚した場合、国はその結婚を認めてくれても、教会は認めてくれません。ですから日曜のミサにあずかっても、祭壇に近づいてパンを頂く友人たちの後ろ姿を哀しい思いでながめるだけ。決して祭壇に近づくことはできず、一番後ろの席で涙を流しているしか仕方がないのです。あの森のなかには、そういう私の仲間たちが淋しく集まってお祈りをしているのです」


   1950年、東京大学を卒業した井上青年は、親の反対を押し切ってフランスの カルメル会男子修道院に入会しようと、豪華船「マルセイエーズ号」に乗り込んだ。暗い4等船室で、留学に行く遠藤周作とたまたま同室になった。

 修道院で井上修道士は、20世紀の有名なフランスの神学者、ジャン・ダニエルーの「過去をひきずりすぎているキリスト教は、もう現代人のからだに合わなくなっている。現代人のからだに会うように・、キリスト教という洋服を仕立て直さなければならない」という言葉に出会う。

 「既存のキリスト教がからだにピタッとこなくて、着にくいな、不愉快だな・・・そう思いながらじたばたしてきた」井上青年は、この「服の仕立て直し」が自分に課せられて大きな課題だと気づいた。

 1957年に帰国した井上元修道士(カルメル会を退会した)は、カトリック東京教区の神学生として受け入れられる。

 帰国してびっくりしたのは「日本のカトリック教会がすっぽりと浸りこんでしまっている、呑気というか平和というか、少し理解に苦しむ、とにかく何の問題意識すら感じられないその雰囲気であった」

 その当時の先進的なフランスのカトリック教会は、保守的なバチカンとの間のきしみもあり、まさに疾風にあおられたような危機感にゆれていた。そこから帰国してきた私は、危機感の一片すら感じられない日本のカトリック教会やローマ以上にローマ式に思えた神学教育に、ただ唖然とするばかりであった。
 「ヨーロッパ・キリスト教という豪華な、しかしダブダブの着づらい服を仕立て直さなければ駄目だ」などということを口にしようものなら変人扱いされそうな雰囲気のなかで、再び窒息感にとらわれた私は、一縷の望みをいだいて、遠藤周作さんを訪ねた。


 「生涯の同志」となった遠藤周作が「洋服の仕立て直し」の第一作ともいえる小説 「沈黙」を出版したのは、1966年の春だった。

 「沈黙」は、切支丹迫害時代、日本に宣教にやってきた宣教師ロドリゴが捕らえられ、精神的に追いつめられた末、踏絵を踏んでイエスを裏切り棄教する、という物語。このロドリゴの裏切りを、遠藤さんはイエスの一番弟子のベトロの裏切りと重ね合わせて措いていく。師イエスを裏切ったベトロは、自分を赦してくださっているイエスのあたたかな慈母のような慈愛のまなざしにふれて、神は、「言うことをきく者には限りない祝福を。しかし言うことをきかない者には、三代、四代までの呪いと罰を」という「旧約聖書」「申命記」にいわれているような父性原理の強い神ではなく、もっと裏切り者をも包みこんでくださる母性原理の強い神であることに目覚めていく。そのベトロのようにロドリゴも、師イエスが告げておられた母性の原理が強く、やさしくあたたかな神に目覚めていくという点が、ここでもっとも大切なのである。


                                    ′
 しかし、この「沈黙」が与えた影響は、キリスト教世界において、全く私たちの予想を大きく裏切るものとなっていった。
 「沈黙」に対して轟々たる非難、批判の言葉が降りそそいだのである。そしてその批判は、もっぱら次の一点に集中していた。すなわち、イエスが、踏み絵を前にしたロドリゴにむかって、「踏むがいい」と言ったという点に対してである。踏み絵を踏んでしまって痛悔したロドリゴをイエスが赦すのは当然としても、ロドリゴに棄教という悪行をイエスがすすめたりするわけがない、というのである。


 ・・・たしかに倫理的分野での一般論からすれば、イエスが罪となる悪行をすすめたり、命令したりするはずはない。その通りであろう。しかし、「最後の晩餐」の席上でのイエスのベトロに向けられたまなざしは、「お前がつかまって処刑されるのをこわがっている気持ちは痛いほどよくわかるよ。裏切ってもいいよ。私はあなたをうらみはしない。ガリラヤで待っているよ」という、母のような、ひろいあたたかな赦しのまなざしであり、ベトロに対してもユダに対しても、裏切りの行為を決して力ずくで止めようとなどなさっておられなかったこともまた確かである。〃イエスは一体何を私たちに告げたかったのか、イエスはその十字架まで背負った苦難の生涯で、何を私たちに語りかけていたのか......。もっと、しっかり「新約聖書」に取りくんで、それを知らなければならない"。これが遠藤さんの「沈黙」が私に投げかけた強烈な課題であった。


 聖書の勉強を続けるうちに、井上神父は「心の琴線をぎゅっとつかまえてかきならす」言葉に出会う。エレミアスとい著名な聖書学者が残した「イエスの示した神はアッバと呼べる神なのだ」という指摘だった。

「エレミアスによれば、アッパというのは、イエスが日常弟子たちと話していたアラム語という言語において、赤ん坊が乳離れをしたむきに、抱かれた腕の中から父親に向けて最初に呼びかける言葉であり、親愛の情をもって父親を呼ぶ言葉として、大人も使うという。」

 神は「旧約聖書」の「申命記」が語るような、嵐と火の中でシナイ山頂に降臨し、言うことをきかない者には三代、四代に及ぶまでの厳罰をくわえる神ではなく、赤子を腕のなかに抱いて、じつと悲愛のまなざしで見守ってくださっている父親のような方なのだと、イエスが私たちに開示してくださったのだということを、エレミアスによってアッパは教えてくださった。


 先週の日曜日、たまたまこの本を持って東京に出かけた。四谷のイグナチオ教会で「三位一体の主日」ミサを受けた。第2朗読で使徒パウロの「神の霊によって導かれた者は皆、神の子なのです。・・・この霊によってわたしたちは『アッバ、父よ』と呼ぶのです」(ローマ人への手紙8章14-15)が読まれた。

 イエス・キリストはまた、十字架の貼り付けになる前夜、 ゲッセマネの園で「アッバ、父よ」(マルコ書14章36)と、神に祈っている。

 やがて井上神父は「アッバの導きで、法然上人に出会う」ことになる。

 (四十三歳で京都に下山するまで、ひとり比叡山の黒谷の青龍寺で道を求めておられた(法然)上人を苦しめた課題、すなわち、"金のある人は寺にお布施をすることによって、頭の良い人間はお経を学ぶことによって、意志の強い人は戒律を厳守することによって救われよう。しかし金もなく、頭も悪く、意志も弱い人はどうしたら救われるのだろうか。ただ涙するしかないのか〃、というのがまさに上人から私の心に烈しく問いつめられてきた思いだったのである。
 上人のように、独り、暗い杉木立の道を、人々の哀しみや痛みや涙をともにするため自らの叡山を降りるべきなのか。
 私は辛かった。苦しんだ。そして、この問いをさけようと、浴びるように酒をのんだ。


  そして、このブログの冒頭に書いた「夢」を見る。

  2001年、故井上神父は「法然 イエスの面影をしのばせる人(筑摩書房)という本を書き、法然上人の生涯をこんな言葉で締めくくった。

 あるいは富がなく、あるいは学問がなく、あるいは強い意志がなく、あるいは女として生まれたことによって、救いの道をとざされていた人たちにただ一筋の南無阿弥陀仏によって救いの道を開き、国家権力、朝廷権力にこびることもなく、ついに最後まで無位無冠、墨染の衣一枚で生きぬいたその生涯であった。


 社会の下積みの生活に喘ぎ、そのうえ救いへの遺さえ閉ざされていた人たちの哀しみや痛みをご自分の心にうつしとり、救いの門をその人たちに開かれたため、あの孤独と苦悩と屈辱の死をとげられた、師イエスの生涯の真骨頂を、アッパは法然上人の生涯を通して私に示してくださったのだといまも私は信じている。


  1986年、井上神父は当時の東京教区の白柳誠一大司教(後の枢機卿)から、 インカルチュレーション(文化内開花)担当司祭としての任命書を受けた。
 ただし①カトリックの小教区教会では活動しない②ミサで使う言葉、少なくとも「奉献文」決して変えない、という条件がついた。

  神父は、マンションの1室を借りて、 「風の家」という活動を始めた。

  風の家で挙げられるミサでは「南無アッバ」の祈りが奉げられる。「南無」は法然の「南無阿弥陀仏」から取った「全面的にすべてをおまかせします」という意味だという。

  しかし井上神父の死後、ミサのなかでこの「南無アッバ」の祈りが唱えられることはほとんどなくなったらしい。

  井上神父は、著書でこう書いている。

 神は「モーセ五書」が伝えるような、厳しい「祝福と呪い」を与える方ではなく、「アッバ」(お父ちゃーん)と呼べる方であり、イエスの福音は 「モーセ五書」のそうした神観の否定と超克の上になりたっているということ。またいまひとつは、神と人間と自然は切り離されておらず、「モーセ五書」の『創世 神は 「モーセ五書」が伝えるような、厳しい 「祝福と呪い」を与える方ではなく、「アッバ」 (お父ちゃーん)と呼べる方であり、イエスの福音は 「モーセ五書」 のそうした神観の否定と超克の上になりたっているということ。またいまひとつは、神と人間と自然は切り離されておらず、「モーセ五書」の「創世記」に記されているように「生きとし生けるものはすべて人間によって支配される」というもの(『創世記』一章二八節)ではなく、パウロが『ローマの信徒への手紙』八草で言っているように、同じ「キリストのからだの部分としてともに苦しみともに祈る」存在なのだということである。


高齢化社会に向かうなかで、カトリック教会は井上神父が「夢」に見た厳しい戒律を変えようとしない。社会が認知に向かっている同性愛につても結論を出せずにいる。


神は、井上神父が語っているように、ユダの裏切りもペトロの3度の裏切に対しても、直接言わなくても「裏切ってもいいよ」と、やさしいまなざしを見せている。それが「新約聖書」の正しい読み方ではないのか。そんな確信を強くした。