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2019年3月29日

日々逍遙「秋田県立美術館、乳頭温泉」「北海道神社、円山公園」「横浜美術館、横浜中華街」

  

【2019年2月10日(日)】

 前日遅くにJR秋田駅前のホテルに泊まり、翌朝朝食に行ったら、窓の外にからすの群れ。
 北海道に多く見られるワタリガラスという渡り鳥で、街中でゴミをあさるのとは違う種類。旧約聖書のノアの方舟に登場したり、イギリスのロンドン塔に飼われたりしていた由緒ある鳥らしい。
  ちょうどハクチョウなどがシベリアなどに帰る季節だが、ワタリガラスもそうなのだろうか。

 
 鳥帰る五千キロてふ北帰行


 ホテルから歩いてすぐの秋田県立美術館に、以前から鑑賞したいと思っていた藤田嗣治「秋田の行事」を見に行く。

 2階の主展示場にドドドーンと広がる圧巻の大作は、高さ3・65メートル、横20・5メートルもある。依頼した秋田の資産家、平野政吉の米蔵で制作した後、壁の一部を壊して運び出したらしい。  橋の左に秋田の暮らし、右に山王祭、梵天奉納、竿灯祭りという3つの祭りが展開されており、70人近い人物が生き生きと描かれている。大作の前を何度も行き来し、あきずに眺めた。

秋田の行事          同・拡大
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    JR秋田駅から新幹線・こまち、バスを乗り継いで乳頭温泉郷へ。2泊した妙の湯は、硫酸塩と単純泉が男女交替で4つづつ。混浴と貸し切りの露天風呂もあり、湯につかりながら雪景色を堪能した。

 翌日は、乳白色の湯で知られる鶴の湯へ。乳頭温泉は、この乳白色の湯から名付けられたと思っていたが、近くの乳頭山に由来するらしい。この山「遠くから見るほど、女性のおっぱいに見える」ということだった。

 付近は、けやきらしい木を中心とした雑木林。春めいてきた日差しのなかで、小枝にかかった六花(むつのはな、俳句で雪の傍題)が輝いている。  近くの桜並木の枝に咲く雪も、量がたっぷり。前年の夏に形成される桜の花芽は、冬の寒さにさらされて目覚めるという。もう桜は、蕾のなかで満開だなと思った。  
 むつのはな木木に咲きては輝ける


妙の湯       鶴の湯            雪が咲く林
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【2019年3月3日(日)】

 JR札幌駅から地下鉄南北線、東西線を乗り継いで北海道神社へ。2度目の訪問だが、前回よりかなり雪が少ない。入り口に、今年の厄年・祝い年の掲示板が出ていた。85歳は、後厄に当たるらしい。そこまで生きていたらの話しだが・・・。

 敷地続きの円山公園を歩く。明治初期に開拓使が設置した樹木の試験場だったそうだが、広大な敷地に雑木林が広がる。イチイ、キササゲ、カシワ、ハルニレ、ミズナラなどの木々に動物をかたどった木の札に名前が記されており、楽しくなる。5月には、一斉に芽吹くという。

北海道神社           円山公園の林
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 ものの芽のさざめき初めし北原野




【2019年3月18日(月)】

 横浜・桜木町のホテルに泊まった翌日、みなとみらい地区へ。

 帆船日本丸が停泊している公園で、早咲きのオオカンザクラがほぼ満開。後ろの高層ビルランドマークタワーと競っている。
  横浜美術館前の紫木蓮の並木も花真っ盛りだ。

 美術館では、思いもよらず イサム・ノグチの展覧会をしていた。イサム・ノグチの作品を訪ねてニューヨーク札幌、高松と行脚したのは、もう8年も前だ。展示された石の彫刻になつかしさを覚えた。

みなとみらい・大寒桜             美術館前・紫木蓮
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 みなとみらい線で、中華街へ。以前にいとこ達と行った店で食事の後、横浜関帝(Guan Yu)廟横浜媽祖(Ma Zu)廟を訪ねる。三国志の英雄・関帝(関羽)、航海の守護女神である媽祖は、いずれも特に華僑の人びとの信仰を集めており、習っている中国語のテキストでなじみの神様。台湾の人らしい女性たちが長い線香を煙らせながら、深々と頭を下げていた。

 うららかや線香煙る中華廟


関帝廟                   媽祖廟
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2019年1月30日

読書日記「なぜ日本はフジタを捨てたのか? 藤田嗣治とフランク・シャーマン 1945~1949」(富田芳和著、静人舎刊)



 昨年12月、京都国立近代美術館で開かれていた「没後50年 藤田嗣治展」へ閉幕直前に出かけた。年明けの14日にも、「ルーヴル美術館展」の閉幕日に、大阪市立美術館に飛び込んだ。喜寿が過ぎたせいか、どうも行動のスピードが鈍ってきたような気がする。

 数え日や閉幕前の美術展


 セーターの胸すくっとして喜寿の人


 セーターの首からのぞく笑顔かな


 着古したセーターにある思ひかな


藤田嗣治は、戦後のパリで描いた「カフェ」(1949年、パリ・ポンピドゥーセンター蔵)や「舞踏会の前」(1925年、大原美術館蔵)など「乳白色の女性」像で有名だが、戦後、画壇の批判勢力にパリへ追われるきっかけになった戦争画のことが気になっていた。

 会場でも、幅160センチの大作「アッツ島玉砕」(1943年、東京国立近代美術館・無期限貸与作品)が圧倒的な迫力で迫ってきた。
 昭和18年5月、日本軍の守備隊は上陸してきた米軍に最後の夜襲をかけて玉砕した。雄叫びを上げて銃を振り下ろす兵士、敵と味方もなく折り重なる死体・・・。 画の前には賽銭箱が置かれ、人々はこの画の前で手を合わせた。フジタは時に絵の横に直立不動で立ち、鑑賞者に腰を折って礼を返した、という。

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「カフェ」
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「舞踏会の前」
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 「アッツ島玉砕」


これが戦争礼賛目的に描かれた絵だろうか。そんな疑問を抱きながら会場を出たが、1階のショップで見つけたのが、表題の本だ。

 これまでは、戦争協力への批判を強める日本画壇に嫌気したフジタが、フランス・パリに居を移した、と言われてきた。
 しかし、美術ジャーナリストである著者はこの見方に異議を示し、著書の冒頭でフジタの夫人君代さんの話しを紹介する。「フジタはことあるごとに私に言いました。私たちが日本を捨てたのではない。日本が私たちをを捨てたのだ、と」

 この著書には、2つの座標軸がある。1つは、戦後日本画壇の執拗なフジタ排斥の動き。2つ目は、そんなフジタを崇拝し、とことん支援した元日本占領軍(GHQ)の民生官だったフランク・シャーマンの存在だ。

 1946年、フジタはGHQから日本中の戦争画を集めて、米国で展覧会を開くという依頼を受けた。しかし、日本の美術界には、フジタがGHQと手を組むことを恐れる勢力があった。

 同じ年の秋、朝日新聞に画家、宮田重雄の投稿が載った。
 「きのうまで軍のお茶坊主画家でいた藤田らが、今度は進駐軍に日本美術を紹介するための油絵と彫刻の会を開くとは、まさに娼婦的行動ではないか?」

 同じころ、フジタが可愛がっていた画家、内田巌が訪ねてきて、こう通告した。

 「日本美術会の決議で、あなたは戦犯画家に指名された。今後美術界での活動を自粛されたい」
 さらに内田は、フジタが入会を希望していた新制作協会への入会も断る、と伝えた。

 新制作公募展の控え室でのこと。フジタは顔見知りの画家たちに声をかけようとした。「気付いた者たちは突然静まり返り、形ばかり頭を下げて、あらぬ方へ視線を遊ばせるばかり」・・・。

 美術界の"黒い勢力"の追求で四面楚歌に陥ったフジタを救ったのが、少年時代から画家フジタを尊敬していた米国人フランク・シャーマンだった。

 何度もフジタを訪ねて親交を深めたシャーマンは、フジタの渡米を計画、まずニューヨークでフジタの個展を開いて成功させた。
 しかし、当時の厳しい渡米の条件を満たすには、米国での保証人や定期的な収入の確保などが必要だった。

 シャーマンらは、これらの困難を次々と克服、ついにGHQの認可を得た。決め手となったのは、フジタがGHQ司令官、マッカサーの夫人のために描いたクリスマスカード、「十二単のマリアとキリスト像」だった。

 米国を経てパリに渡り、フランスに帰化して日本国籍を抹消したフジタは、渡米直前の記者会見でこんな言葉を残した。

 「絵描きは絵だけを描いてください。仲間喧嘩はしないでください。日本の画壇は早く世界水準になってください」

 ※参考にした資料


2018年10月31日

日々逍遙「小磯良平展」「武庫川・コスモス園」など

このブログが、管理システムの不調で約1ヶ月閲覧だけでなく、新しい記事の掲載もできなくなった(詳しくは、管理者n.shuheiさんの 10月22日付けブログで)。
 管理者の大変な努力で10月末には復旧したが、ブログ右側の「過去記事タイトルリスト」を見ると、11年もの読書、紀行記録が自分にとって貴重な財産になっていることに改めて気付いた。

 あまり好きな言葉ではないが、 "終活" の一環にもなるかと「日々逍遙」というコーナーも作ってみることにした。

2018年10月28日(日)
 阪急夙川駅で、昔テニスクラブで一緒だったYさんに20年ぶりにばったり。サングラスを外して見せた顔には、私同様それなりの年輪が刻まれていたが、テニスは相変わらず続けているという。2007年に中国にご一緒したKさんも同じテニスクラブらしいが、テニスを日課のようにしていたMさんは「もう、しんどくなった」と最近クラブを辞めたらしい。これも"終活"かな・・・と。

 待ち合わせた友人Mとポートアイランドの神戸市立小磯記念美術館へ。特別展「没後30年 小磯良平展 西洋への憧れと挑戦」が開催中で、全国の美術館から集められた代表作や新発見、初公開作など約130点が展示されている。

 見覚えのある兵庫県立美術館所蔵の「T嬢の像」や東京藝術大学が貸し出した「裁縫女」が、戦前の中産階級の生活を鮮やかに描きだして秀逸だ。

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 珍しいことに「娘子関を征く」「カリジャティ会見図」(いずれも国立近代美術館・無期貸与作品)など、かなりの戦争絵画が展示されていた。

 ちょうど、京都国立近代美術館で「没後50年展」が開かれている藤田嗣治は、多くの戦争絵画を描いたことへの非難に嫌気をさしてフランスに戻って、死ぬまで日本に帰らなかったということだ。小磯良平も自分の画集に戦争絵画を載せることを非常に嫌ったという。東京芸術大学教授として活躍した戦後の生活の中で戦争責任の声とどう決別したのだろうか。

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 戦後に描かれた「働く人びと」(小磯美術館寄託)という大作は、同じ油彩ながら戦前の作品とがらりと筆使いが違っている。なぜだろうか。

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 東京・赤坂の迎賓に飾られている「絵画」「音楽」の2作は、やはり小磯の迫力が満溢 した作品だ。この展覧会では、小さなカラー模造図が展示されているだけだったが、やはり本物が見たい、と思った。

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  【2018年10月16日(火)
 武庫川左岸(尼崎市)の「武庫川コスモス園」に出かけてみた。
 13日に開園したばかりで、まだ咲きはじめといった感じだが、7つの区画にピンク、白、黄色のコスモス約550万本が今年も元気に咲きそろおうとしている。昨年は、台風の被害を受けてほぼ全滅しており、2年ぶりに復活した風景だ。
 ここは、もともと旧西国街道を結ぶ「髭の渡し」と呼ばれる渡し場があったらしい。サイクリングロードなどが整備されている右岸・西宮市側に比べ、左岸は未整備なところが多く、ここもゴミの不当投棄で荒れていた。コスモスの名所に変身させた地元市民グループの努力をありがたく思う。

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2018年10月8日(月)
 久しぶりに、西宮市立北山緑化植物園に出かけた。まだ紅葉には早かったが、シューメイギク、コムラサキ、ミズヒキなどの秋の花が咲きそろっている。  カツラの木の下のベンチで休憩。カツラの大木を訪ねた鉢伏への旅を思い出した。
 
 秋晴れへ伸びる桂や幹太し


 まだ青いがカリンの実がたわわに実っている。自宅にカリン酒をつけているのを思い出し、帰って飲んでみた。澄んだ琥珀色をした、なかなかの出来だった。張られたレッテルに「2016年11月作成」とある。たしか、神戸女学院のシェクスピア庭園で収穫した実を漬けたのだと思う。

下のサムネイルをクリックすると大きな写真になります。
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2018年10月27日(土)
 2週間に1回の俳句講座(講師:池田雅かず「ホトトギス同人」、於・神戸六甲道勤労市民センター)の日。
 最初に講師が「鳴け捨てし身のひらひらと木瓜の花」という句を黒板に書き、主席者の評価を聞いた。「良い句」と思った人は1人、私も含めて残り20人弱は「良くない」に手を挙げた。

 実はこの句は、AI(人工知能)の作、だという。
 北海道大学の川村教授が、過去の俳句5万句をAIに詠み込ませて開発したソフト「一茶君」に「鳴」「木瓜の花」という兼題を与えて自動生成させたらしい。
 友人の1人は「なかなかいい句だ」と、高い評価をした。はたしてAIは、将棋、碁に続いて俳句でも勝利するだろうか。