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2020年5月22日

読書日記「グレート・インフルエンザ」(ジョン・バリー著、平澤正夫訳、共同通信社刊)

 新型コロナ蔓延で休館になる前の図書館で、エゴン・シーレの本を見つけたが、風邪を引いた奥さんを看病していて28歳で死亡したと書かれていた。第一次世界大戦の最中に世界中で流行したスペイン風邪が原因だった。

 この本は、アメリカ発のスペイン風邪について、「巨大な攻撃に社会がどう反応し、対応したか」を、科学史家の眼で詳細にルポしたもの。約540ページの大作だ。

 「はじめに」では、「この世界的流行病による死者は、人口がいまの三分の一足らずだった世界で、2100万人に達したと言われている」「だが、いまのの疫学者は世界全体で、死者は少なくとも5000万人、おそらく1億人に達していたかもしれない」と、推測している。
 死者の多くは、2、30代の若者で「死者の数の上限をとれば、当時生きていた若者の8~10パーセントがウイルスによって殺された」

 1918年の初頭、アメリカ西部カンザス州で新型インフルエンザウイルスが発生、それがまたたく間に約500キロ離れた陸軍基地に感染、米国の第一次世界大戦参戦にともなって世界中に広まった。

 当時の米国大統領・ ウイルソンは、厭戦感のただよう国民を鼓舞し、挙国一途の戦争に向かわせた。「脅しと自発的な協力ふたつながらの手段を駆使して、政府が情報の流れを統制」していった。

 中立国であるスペインでしか、新聞が他国の病気の流行を報道することがなかった。まもなく病気は「スペインインフルエンザ」「スペイン風邪」と呼ばれるようになった。

 やがて第1波が収まり「病気は消えた」。しかし「ウイルスは消えたわけではなかった」「山火事は木の根本で燃え続け、寄り集まって姿を変え、適応し、爪をとぎ、虎視眈々と、炎となって燃え上がる機会を待ちに待っていた」

 第2波は「ポットに入れた水が沸騰するようにまず一粒の気泡が浮かび上がり、やがて湯が踊って、乱暴に渦巻く混沌状態になる」ように、じわじわと訪れた。第1波と異なり、多くの死者が出た。

 ボストンの北西にあるキャプテン・ディベンズ陸軍基地で「インフルエンザが、まるで爆発したように大発生した」
 「死体は床の上に勝手気ままに放り出され、検死解剖をおこなう部屋に入るには、またいで歩かなければならなかった」

 そのボストンからフィラデルフィア海軍工廠に300人の水兵が到着した4日後、19人の水兵がインフルエンザになった。
 やがて、死体が「遺体安置所の床から天井まで薪のように積み上げられた」状態になった。

 戦費をかせぐ自由国債のキャンペーンで、フラデルフイアでは市はじまって以来最大のパレードが実施された。2日後、インフルエンザは一般市民に蔓延した。
 葬儀屋が病気で倒れ、遺体を置く場所さえなかった。死体の山が積み上げられていった。街は凍りつき、インフルエンザは全国に飛び火した。

 軍はそれでも、輸送船で兵士を次々とヨーロッパへ輸送した。
 潜水艦の攻撃を恐れて夜は舷窓が閉められ、日中もドアは閉められ、換気は追いつかなかった。食べなければならない兵士たちはグループごとに食堂に行き、「同じ空気を吸い、自分の口に当てる手でほかの兵士が数分前に触ったテーブルやドアに触れた」
 「輸送船は浮かぶ棺桶と化した」
 あと1ヶ月で戦争は終ろうとしていた。ドイツの同盟国はすでに崩壊するか降伏していたが、「軍はひたすら兵員輸送船を海外に送り続けた」

 しかし、政府は真実を語ろうとしなかった。新聞も「恐れてはいけない」としか伝えなかった。「だが、みんながみんな神を信じようとしていたわけではなかった」

 ある医師は、病原菌が粘膜に付着しないようにと、刺激性の粉末薬品を上気道に吹きつけた。別の医師は静脈から過酸化水素を注入した。13人は回復したが、12人が死亡した。

 世界中で数億人(米国だけでも数千人)が医師の診療や看護婦の看護を受けられず、ありとあらゆる想像のつく限りの民間療法や詐欺的治療が試みられた。「樟脳の玉やニンニクが首の周りにぶら下げられた。・・・「窓を密閉して部屋を過剰に暖めたりした」

 「アラスカのイヌイット(エスキモー)が絶滅してしまう」と、赤十字社が警告した。救助遠征隊が到着した時は、すでに遅かった。
 「バラバラ」と呼ばれる半地下式の円形住宅に入ると、棚や床の上に大人の男女、子どもの死体が山のように横たわり、手がつけられないほど腐敗していた。・・・「飢えた犬が多数の小屋に入り込み、死体をがつがつと食べていた」

 アフリカのガンビアでは、300ないし400世帯の村全体が絶滅し、「2ヶ月もしないうちにジャングルが忍び込んで、すべての集落は跡形もなくなった」

 南米アルゼンチンのブエノスアイレスでは、人口の約55パーセントがウイルスの感染、「日本でも3分の1の人口が感染」「グアムでは人口の10パーセントが死亡した」

 1919年1月、パリ講話会議が開かれた。アメリカ大統領・ウイルソンは、フランスの首相・クレマンソーと激しく対立、ウイルソンはフランスを「畜生」呼ばわりしていた。
 しかし、ウイルソンはスペイン風邪で病床から動けなくなった。復帰したら異変が起きた。
 クレマンソーの要求をそのまま飲み、ドイツが開戦の責任のすべてを負うという文書に署名した。ドイツには致命的な内容だった。
 そのことが、「アドルフ・ヒトラーの出現を促した」

 「病気ではなく、不安が社会をばらばらにしそうであった」「あと何週か続いていたら、文明が消えかねなかった」

  著者は、「あとがき」をこう結んでいる。

 

2016年12月28日

映画鑑賞記「ニコラス・ウイントンと669人の子どもたち」(マティ・ミナーチェ監 督)、 読書日記「キンダートランスポートの少女」(ヴェラ・ギッシング著、木畑和子 訳、未来社)


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 クリスマスの日。ナチスによるユダヤ人迫害に興味を持ち続けている友人Mに誘われて、この映画を見た。
 主役は、イギリス人のニコラス・ウイントン

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ユダヤ人を虐殺から救ったオスカー・シンドラー杉原千畝やこのブログにもアップした小辻節三以外にも、こんな人物がいたことを初めて知った。

 第2次世界大戦直前。ロンドンで株式仲買人をしていた29歳の時、かかってきた1本の電話がニコラス・ウイントンの運命を変えた。

 かけてきたのは、一緒にスイスにスキー旅行に出かける計画をしていたチェコの友人。ナチスによる迫害の危険が迫っており、プラハの街に住むユダヤ人を救援するために旅行をキャンセルしたい、という。

 よく事情が分からないまま、ニコラスはプラハに飛ぶ。そして、ユダヤの子供たちをチェコから連れ出す「キンダートランスポート(子供の輸送)」プロジェクトを始める。しかし、アメリカをはじめ各国はこの計画に冷たく、子供たちの受け入れを拒否した。
 ユダヤ難民の受け入れで、失業者がさらに増え、反ユダヤ主義が高まるのを懸念したのだ。
 ようやく受け入れを認めたのがイギリスだった。ただ、50ポンドの保証金を政府に払い、里親を確保すること、その費用はすべてニコラスらが立ち上げた民間団体が負担する、という条件を付けた。ニコラスは、ロンドンの自宅を事務所にし、プラハとロンドンの友人らに助けられて、旅行許可証や入国許可証を取得するための書類作成や里親を確保する仕事に没頭した。時には、許可証を偽造することまでした。

 そして、最初に200人の子どもを乗せた列車がプラハ・ウイルソン駅(現在のプラハ本駅)を出発、計8本の列車が仕立てられて計669人の子どもたちを逃し、彼らは生き延びた。

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 チェコでの帰属意識や財産、仕事を捨てきれなかったこともあったのか。残った親たちは、その後の第2次世界大戦の勃発によるナチ・ドイツ軍の侵攻で、強制収容所に送られ、ほとんどの人が亡くなった。

cap-03.jpgcap-032.JPG この映画の原案本となった「トランスポートの少女」の著者、ヴェラ・ギッシングも、この列車に乗った1人、当時10歳だった。
ギッシングは、この著書のなかで駅を出発した時のことをこう回想している。




 駅のホームでは不安な面持ちの親たちがあふれかえり、列車は興奮状態の子供たちでいっぱいでした。そこで繰り広げられていたのは、涙と、最後の注意と、最後のはげましと、最後の愛の言葉と、最後の抱擁でした。出発の笛がなると、私は思わず「自由なチェコスロヴァキアでまた会おうね!」と叫びました。その言葉に、私の両親もまわりの人も、近くにいるゲシュタポを気にして不安そうな顔になりました。汽車がゆっくりと動き始めると、多くの人びとの中、私の目には、身を切られるような苦しさを隠そうと必死に笑顔を浮かべる最愛の両親の姿しか入りませんでした。


   確かに映画でも、列車はドイツの軍服に囲まれていた。
 ナチが支配しているなかで、子どもたちだけでも、なぜ出国できたのか?

 このことについて、「トランスポートの少女」の訳者である木畑和子・成城大学名誉教授は、映画のパンフレットで「当時のナチ政権がまずとったのは、ユダヤ人の強制的出国政策であった」と解説している。この政策の目的の1つは「ユダヤ人たちの資産を奪い、貧窮化したユダヤ人を大量入国させて、相手国の負担にさせることであった」

 子どもたちを乗せた列車は、ナチが支配する恐怖のニュールンベルク、ケルンを抜け、オランダのから船でイギリスに渡り、ロンドンに着いた。

 途中、オランダの停車駅では、民族衣装の女性たちがオランダ名産のココアと白いパンをふるまってくれた。
 この白いパンを食べたであろうヴェラ・ギッシングはしかし、著書のなかでは丸くて堅いチェコのパンを何度もなつかしがっている。

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 ニコラスのリストには、出国させるべき6000人の子どもの名前が載っていた。
 しかし、250人の子どもたちを乗せた9本目の列車が出発しようとした1939年9月1日、ドイツ軍のポーランド侵攻で第2次世界大戦が勃発した。計画は中止され、子供たちは強制収容所で死んだ。

 これを悔やんだニコラスは、彼の偉業についてけっして語ろうとせず、里親や助けた子どもたちとも会わなかった。

 それから50年後、1988年のある日。ニコラスの2度目の妻グレタが屋根裏部屋でほこりをかぶった1冊のスクラップブックを見つけた。そこには、ニコラスが救った子どもたちの住所などの詳細な記録が残っていた。

 ニコラスによって生かされた80人の"子どもたち"が見つかり、テレビ番組で対面した。

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 世界中で暮らす"生かされた"子どもたちと、その子や孫は約2200人に及ぶという。

 彼らや、ニコラスの行動に感動した多くの人々は、世界各地で様々なボランティア活動を始めた。それが"ニコラスの遺産"となって、今でも大きく広がり続けている。

 ニコラス自身も、自らの活動を多くの子どもたちに語り始めた。
 エリザベス女王からナイトの爵位を与えられ、チェコの大統領からも栄誉勲章を受けた。2015年、106歳で世を去った。

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 子どもたちが到着したロンドンの リヴァプール・ストリート駅前には、当時の様子を残した銅製の群像が立っている、という。

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2014年10月 5日

読書日記「太陽の棘(とげ)」(原田マハ著、文藝春秋)


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 物語は、米国・サンフランシスコの小高い丘の上に診療所を持つ、84歳の精神科の医師、エドワード・ウイルソンが午睡から覚め、目の前に飾られた1枚の絵の思い出から始まる。

 
 少し毛羽立った、けれどリズムカルな筆致は、さざ波の上で跳ねている太陽の光を、大地を豊かに覆う夏草を、そのあいだをかき分けて通りすぎる風を感じさせる。
 この海は、はるかな沖縄の海。


 1948年、スタンフォード大学を出たばかりの24歳のエドは、在沖縄アメリカ陸軍の従軍医として那覇に赴任した。

 休みの日に、親から送ってもらった真っ赤なオープンカー・ポンティアックに、同僚のアランを乗せ、デコボコ道の坂を上り切ったところで、粗末な木切れに書かれたアルファベットらしい文字を見つけた。

 「NISHIMUI ART VILAGE( ニシムイ・アート・ヴィレッジ)」

 
 エンジンの音を聞きつけて板とトタンで作った家々から、人々がひとり、ふたりと出てきた。・・・
 どの顔にもいかなる戦(おのの)きもなかった。どの顔も、ただ、光に満ちていた。
 こうして、私は、出会ってしまった。――出会いようもない人々と。
 ゴーギャンのごとく、ゴッホのごとく、誇り高き画家たちと。太陽の、息子たちと。


 沖縄の言葉で「北の森」を指す「ニシムイ」にあるこの集落は、米国人好みに肖像画やクリスマスカードを売って生計を立てながら、自分たちの作品を作成していこうとしている芸術家たちのコロニーだった。

 ほとんどが、東京美術学校(現在の国立東京芸術大学)の出身で、後に沖縄画壇のリードする若者たちだ。

 セイキチ・タイラと名乗る若者に案内されて1軒のアトリエに入った。安っぽい合板の壁にぎっしりと油絵がかかっている。その多くは風景画。女性の人物像もあった。

 
 すばやいタッチ、鮮やかな色彩、おおらかな色面。一見すると、セザンヌか、ゴーギャンか、マティスか、・・・。それでいて、誰にも似ていない。きわめて個性的(ユニーク)だ。
 これは・・・とんでもないものをみつけたぞ。
 体の隅々までもがじわりと痺れてくるのを私は感じた。・・・上出来のナパ・ワインを口に含んだ瞬間によく似ていた。


 宿舎に帰ってからもエドは、眠るに眠れずにいた。

 
 夏空に湧き上がる入道雲のような、力強い絵画。激しい色彩とほとばしる感性。荒々しさの中にも、均整のとれた構図のせいか、不思議な安定感がある。・・・  むせかえるような光に満ちた。絵だった。


 こうして、若い米軍精神医と日本の芸術家の卵らとの交流が始まった。

 エドは、昔習っていた油絵を再開し、アランもタイラに絵の手ほどきを受け始めた。

 エドたちは米国の実家から送ってもらった絵具やカンヴァスをニシムイの芸術家に贈り、タイラはエドの肖像や自画像を渡した。

原田マハ「太陽の棘」の表紙には「事物よりちょっとハンサムに描かれた」エドの肖像画、裏表紙には、タイラ(実名は玉那覇正吉)の自画像が掲載されている。荒々しいほど力強いタッチで描いたタイラは、挑むような眼鏡越しの眼差しで、見る人を見つめる。

玉那覇正吉は後に「ひめゆりの塔」を設計し、その慰霊碑の右にある「百合の花」のレリーフも制作、長く琉球大の教授を務めた。

 エド(実名は、スタンレー・スタインバーグ) はニシムイの若き芸術家たちのかなりの作品を購入したが、2009年に里帰りし、沖縄県立博物館・美術館でニシムイ・コレクション展が開かれた。同館には、ニシムイ出身の芸術家の作品も多くを所蔵されている。