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2019年5月 4日

読書日記「受胎告知 絵画でみるマリア信仰」(高階秀爾著、PHP新書)



《受胎告知》絵画でみるマリア信仰 (PHP新書)
高階 秀爾
PHP研究所
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 受胎告知は、聖母マリアが、大天使ガブリエルから精霊によってキリストを懐妊したことを告げられるという新訳聖書の記載のことを示している。古くから西洋絵画の重要なテーマだった。

 著者は、この本の副題に「マリア信仰」という言葉を使っているが、カトリック教会では、聖母マリアを信仰の対象にすることを避けるためマリア(聖母)崇敬」という言葉を使っている。

 著者が最初に書いているとおり、受胎告知の事実は、新訳聖書ではごくあっさりとしか書かれていない。
 個人的には、これは聖ペトロを頂点とした初代教会が男性中心のヒエラルキー社会であったため、意識的に"女性"を排除しようとしたせいではなかったかと疑っている。しかし、受胎告知、聖母マリア崇敬が初代教会の意向を無視するように民衆の間に広がっていった現実を、この著書をはじめ参考にした本は歴然と示している。

 特に、伝染病のペスト(黒死病)がまん延し、英仏間の百年戦争が続いた13,4世紀のゴシックの時代には、聖母崇敬が強まり、聖母マリアに捧げる教会が増えていった。

 このほど大火災の被害に遭ったフランス・パリのノートルダム大聖堂を筆頭に各地にノートルダムという名前の教会の建設が相次いだ。フランス語の「ノートルダム」は「わたしの貴婦人」つまり聖母マリアのことをさすという。

 教会は普通、祭壇をエルサレムに向けるため、東向きに建てられ、正面入り口は西側に作られる。ゴシックの時代には、この西入口に受胎告知や聖母子像を飾る教会が増えた。
 入口の「アルコ・トリオンファーレ(凱旋アーチ)」と呼ばれる半円形アーチの上部外側に、大天使ガブリエルと聖母マリアを配する「受胎告知」図がしばしば描かれた。

 代表的なのは、イタリア・パドヴァのスクロヴェーニ礼拝堂に描かれたジョットの壁画。凱旋アーチの左に大天使、右に聖母マリアが配置されているらしい。
 この礼拝堂には、十数年前にイタリア巡礼に参加した際に訪ねているが、残念ながら両側の壁画の記憶しかない。

 15世紀のルネサンス期には、様々な巨匠が「受胎告知」というテーマに挑んでいく。
 イタリア・フレンツエにあるサン・マルコ修道院にあるフラ・アンジェルコの作品は、「受胎告知」と聞いたら、この作品を思い浮かべる人も多そうだ。

 このブログでもふれたが、作家の村田喜代子はこの受胎告知についてこう書いている。

 「微光に包まれたような柔らかさが好きだ。・・・受諾と祝福で飽和して、一点の矛盾も不足もない。満杯である」

 十数年前に訪ねたが、作品は2階に階段を上がった正面壁に掛かっていた。同じ日本人旅行者らしい若い女性が、踊り場の壁にもたれて陶然と眺めていた。

   このほかの代表作として著者は、同じフレンツエのウフイツイ美術館にあるボッティチェリ、ダビンチの「受胎告知」を挙げている。イタリア巡礼で見たはずだが・・・。

 岡山・大原美術館長である著者は、同館所蔵のエル・グレコの「受胎告知」を取り上げている。
 大天使が宙に浮いている対角線構図が特色。ルネサンスからバロックに移行する前のマニエリスムの特色が現れている作品だという。

 「受胎告知」というテーマは、アンディ・ウオーホルなど現代ポップアートの旗手らも取り組んでいる。著者は本の最後をこう結ぶ。

 「人々はジョットやダ・ヴィンチ、グレコらの作品を鑑賞したのではなく、深い信仰の念に包まれて、絵の前で心からの祈りを捧げたのである」

「受胎告知」絵画  クリックすると大きくなります。
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 ※参考にした本
 「聖母マリア崇拝の謎」(山形孝夫著、河出ブックス)「聖母マリア崇敬論」(山内清海著、サンパウロ刊)「黒マリアの謎」(田中仁彦著、岩波書店)「聖母マリアの系譜」(内藤道雄著、八坂書房)「聖母マリアの謎」(石井美樹子著、白水社)「聖母マリア伝承」(中丸明著、文春新書)「ジョットとスクロヴェーニ礼拝堂}(渡辺晋輔著、小学館)

2015年2月 6日

読書日記「ヴェネツィアの宿」(須賀敦子著、文春文庫)


ヴェネツィアの宿 (文春文庫)
須賀 敦子
文藝春秋
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 この作品は、著者が長年過ごしたイタリア・ミラノを舞台にした2つの前作とは、構成、題材とも大きく違っている。

 月刊誌「文學界」に1年間連載されたもので12篇はそれぞれ独立しているが、テーマは大きく分けて2つある。1つは、父・母・夫への思い、2つ目は、ヨーロッパという異郷を理解しようとして苦悩する姿。巧みな構成と文章で綴られた須賀敦子の"自分史"を覗く思いがする。

 1つ目のテーマでは、特に父親の思い出が多い。冒頭の「ヴェネツィアの宿」で父が愛人といるのを見つけたエピソードが、「夜半のうた声」では父と母を和解させようとする長女・敦子の試みが語られ、父の最後を看取る最終篇「オリエント・エクスプレス」へとつながっていく。

 
 すきとおるような秋のひかりのなかを、さっさっときもののすそをひるがえすようにして、父が女の人とこっちにやってくる。休日に私たちと出かけるときとおなじように白足袋をはいた父の足もとがまぶしかった。そんな格好で父が知らない女の人と歩いていることの不思議さが、とっさに理解できないほど、なにか自然な感じでふたりは近づいてきた。どうしよう。自分がこんなところまで来てしまったことの無謀さがこわくなった。でも、いまさら逃げるわけにもいかない。こまった、という気持と、いなくなった父に会えたよろこびに、頬がほてった。
 こんなところで、なにをしているんだ。父がこわい声で言った。遠くからは元気そうにみえたのに、向いあってみると、ひげがのびて、目がくぼんでいた。パパこそ、そう言うのがやっとだった。泣いてはだめだ、と思いながら、つけくわえた。パパを探しに来たんです。なにも言わないで家を出てしまうから。父は一瞬こまった顔をした。お父さまはおかげんがわるいんです。父をかばうように連れの女が言った。あまりくさくさするので、そこまでお散歩に出たところです。ちょっとざらざらするような声だった。


   
 右手でドアのノブをまわして、三十センチほど開けると、いつものように、パジャマの上に和服を着て新聞を読んでいた父が、私の顔を見て、おう、と声をかけた。母はまだ私のうしろにいた。その母の肩を私は左手で抱くようにして、部屋に押しこんだ。父が小さな叫び声をあげて、立ち上がった。なんだ、これはいったい。どういうことだ。
 パパ、おこらないでね。ドアのノブに手をかけたまま、私が言った。ママとふたりでお話なさってください。これはパパとママの問題ですから。
 なにかを投げつけてくるかと身構えた私を、父は一瞬、口惜しそうに睨んだが、あきらめたようにソファにくずれこんだ。外からドアをしめると、そのまま、中はひっそりしていた。


 
 羽田から都心の病院に直行して、父の病室にはいると、父は待っていたようにかすかに首をこちらに向け、パパ、帰ってきました、と耳もとで囁きかけた私に、彼はお帰りとも言わないで、まるでずっと私がそこにいていっしょにその話をしていたかのように、もう焦点の定まらなくなった目をむけると、ためいきのような声でたずねた。それで、オリエント・エクスプレス......は?
 死にのぞんで、父はまだあの旅のことを考えている。パリからシンプロン峠を越え、ミラノ、ヴェネツィア、トリエステと、奔放な時間のなかを駆けぬけ、都市のさざめきからさざめきへ、若い彼を運んでくれた青い列車が、父には忘れられない。私は飛行機の中からずっと手にかかえてきた ワゴン・リ社の青い寝台車の模型と(オリエント・エクスプレスの車掌長から分けてもらった)白いコーヒー・カップを、病人をおどろかせないように気づかいながら、そっと、ベッドのわきのテーブルに置いた。それを横目で見るようにして、父の意識は遠のいていった。
 翌日の早朝に父は死んだ。あなたを待っておいでになって、と父を最後まで看とってくれたひとがいって、戦後すぐにイギリスで出版された、古ぼけた表紙の地図帳を手わたしてくれた。これを最後まで、見ておいででしたのよ。あいつが帰ってきたら、ヨーロッパの話をするんだとおっしゃって。


須賀敦子という人物の意志の強さをうかがい知ると同時に、この本の随所にちりばめられた流麗、静謐な文章に引き込まれる。

イタリアから日本に帰って教職についていた60歳過ぎの著者は、シンポジウムに招かれて久しぶりに訪れた「ヴェネツィアの宿」で、「古い記憶」を思い出し西洋と日本の間を「ほこりにまみれて歩きつづけてきたジプシーのような自分の姿」を見つめる。

 ある夏の夕方、南フランスの古都 アヴィニョンの噴水のある広場を友人と通りかかると、 ロマラン(ローズマリー)の茂みがひそやかに薫る暮れたばかりのおぼつかない光のなかで、若い男女が輪になって、古風なマドリガルを楽器にあわせて歌っていた。身なりは、そのころ多かったヒッピーふうだったけれど、歌声は、しろうと、というのではなくて、しつかりした音程だった。あ、中世とつながっている。そう思ったとたん、自分を、いきなり大波に舵を攫われた小舟のように感じたのだった。ここにある西洋の過去にもつながらず、故国の現在にも受け入れられていない自分は、いったい、どこを目指して歩けばよいのか。ふたつの国、ふたつの言葉の谷間にはさまってもがいていたあのころは、どこを向いても厚い壁ばかりのようで、ただ、からだをちぢこませて、時の過ぎるのを待つことしかできないでいた。とうとうここまで歩いてきた。


ローマ留学時代を綴った「カラが咲く庭」。このなかで、寄宿舎の院長であるマリ・ノエル修道女は、著者にこう問いかける。

「ヨーロッパにいることで、きっとあなたのなかのヨーロッパは育ちつづけると思う。あなたが自分のカードをごまかしさえしなければ」

「大聖堂まで」では、パリに留学した際、 ノートルダム大聖堂から シャルトル大聖堂までの巡礼の体験が語られる。
 カトリック左派の 労働司祭の指導で、約3万人の若者が議論をしながら約80キロの道を歩き、夜は農家の納屋に泊めてもらう。
 はじめてヨーロッパに来た著者は、言葉の壁だけでなく「この国の人たちのものの考え方の文法みたいなものへの手がかりがつかめない」ことで苦しんでいた。それをなんとか「自分の手でさぐりあてたい」と思ったのが、この巡礼に参加したきっかけだった。

 2日間、歩き続けて疲れ切っているのに、満員の大聖堂にさえ入れず、有名な シャルトル・ブルーのステンドグラスも見られなかった。だが、教会の外壁に並んだくぼみで、 洗礼者ヨハネの像を見つける。(キリストが世に出るのを)待ちあぐねて「ほとほと弱ったという表情」は「私たちにぴったりね」と、フランスと中国人を父母に持つ友人・モニックと話す。

 パリの寄宿舎でルームメイトだったドイツ人のカティア・ミューラーは、公立中学の先生を辞めてやってきた。
 「しばらくパリに滞在して、宗教とか、哲学とか、自分がそんなことにどうかかわるべきかを知りたい」「いまここでゆっくり考えておかないと、うっかり人生がすぎてしまうようでこわくなったのよ」(「カティアが歩いた道」から)

 同じ思いでいた著者にとって「カティアはなかなか手ごたえのある同居人だった」

 ※(追記)
 須賀敦子は、敬けんなカトリック教徒だったが、61歳から8年間、怒涛のように書き綴った作品のなかでは、その信仰のことにほとんど触れていない。  ところが先日、 オプスディ・セイドー文化センターでの勉強会で、テキストのなかに「愛するとは・・・」という著者の言葉を見つけて、出典を探した。

 
 生きることが、大切なのだと思う。生きるとは、毎日のすべての瞬間を、愛しつくしてゆくことである。それは、「現世」に目をつぶって、この世を素通りしてゆくことではない。愛するとは、人生のいとなみを通して、神の創造の仕事に参加することなのである。


     
 キリスト教徒の召命を生きるということはすなわち、神の御言葉を、すなわち、愛を、どのような逆境にあっても、もちろん、どんな楽しい時にでも、本気で信じているものとして生きることなのである。それは、だから、日常のあらゆる瞬間を、心をこめて生きることにほかならない。


(須賀敦子全集・第8巻に所収されている雑誌「聖心の使徒」掲載「教会と平信徒と」より抜粋)