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2009年11月23日

読書日記「エリザベート ハプスブルク家最後の皇女」(塚本哲也著、文藝春秋刊)

エリザベート―ハプスブルク家最後の皇女
塚本 哲也
文藝春秋
売り上げランキング: 422100
おすすめ度の平均: 4.5
4 興味深かったですが、社会情勢が複雑で難しかったです
4 興味深い本
5 一人の人の人生とは思えない!


 きつーい中国語教室の宿題に追われたり、パソコンが不調だったりして、ブログを書くのも久しぶりだ。

 1992年に発刊されたけっこう古い本だが、この夏に出かけた「ウイーン紀行」を、このブログに書いた後、急に再読したくなって本棚からひっぱり出して一挙に読んだ。2003年には文春文庫(上、下)にもなっている。

著者は、毎日新聞のウイーン支局長や防衛大学教授を歴任した人で、この本で大宅壮一ノンフィクション賞を受けている。

 今年は、日本、オーストリアの交流年。様々な行事が行われており、先日も大阪・天保山で「クリムト、シーレ ウィーン世紀末展」を見てきたが、来年1月早々からは京都国立博物館で「THEハプスブルク」展も開かれる。

 この本の主役は、京都の展覧会でも活躍するであろう絶世の美女「皇妃エリザベート」ではない。その孫娘「エリザベト・マリー・ペネック」だ。

 シシイの愛称で知られる「皇妃エリザベート」は、日本でもなんどかミュージカルになっているが、孫娘「エリザベート」もそれに負けない波乱に満ちた一生を送った。

 17歳の時に宮廷舞踏会で出会った青年騎馬中尉に一目ぼれ、孫を溺愛する皇帝フランツ・ヨーゼフⅠ世の「余は軍の最高司令官として・・・エリザベートとの結婚を命ずる!」という一言で、皇位継承権まで放棄して身分違いの結婚をする。
 4人の子供に恵まれるが、夫の浮気と金遣いの荒さ、知性のなさに悩まされ、長い離婚訴訟が続く。海軍士官レルヒとの悲恋、ハプスブルク家の崩壊。そして社会民主党の指導者レポルト・ペツネックとの出会い。社会民主党に入党し「赤い皇女」とも呼ばれた79年の異色の生涯を、筆者はち密な取材で綴っていく。

 「皇妃エリザベート」の生きざまが縦糸だとすると、筆者は大切な2本の横糸をこの物語に織り込んでいく。
  •  1つは、筆者が「あとがき」で書いているように、この本が「エリザベートとハプスブルク王朝を軸にした中欧の歴史物語」であるということ。
  •  2つ目は、ハプスブルク家の歴史が、現在のEU誕生の原型になっているということだ。
 

 「エリザベート」の父で、オーストリア・ハンガリー帝国の皇太子ルドルフは、エリザベートが4歳の時に愛人と情死してしまう。フランス名画「うたかたの恋」のモデルにもなったが、筆者はルドルフをこう評価している。

 政治的外交的に鋭い洞察力を持ち、いち早く二十世紀を視野に入れていた有能な皇太子であった。先見の明があり過ぎたために、保守的な(ドイツ頼みをやめようとしない)フランツ・ヨーゼフ皇帝と衝突、父との戦いに敗れての自殺であった


 後にフランス首相となり、反ドイツ主義者であったジョルジュ・クレマンソーに会った時に、ルドルフがこう語ったという。
 ドイツ人には全く理解できないらしい、オーストリアにおいてドイツ人、スラヴ人、ハンガリー人、ポーランド人がひとつの王冠の下で一緒に暮らしていることが、どんなに意義深く重要かをーー。・・・オーストリアは、様々な人種、民族が一つの統合された指導部の下で一緒になった連合国家なのだ。世界文明にとっても大切な理念だと思っている。


 エリザベートが生まれ、育った十九世紀末のウイーンは、画家のクリムトやシーレ、作曲家ヨハン・シュトラウス親子らが活躍し「世紀末」の繁栄に酔っていた。

 しかし思いがけず第一次世界大戦が勃発し、広大な版図を持つハプスブルク帝国は崩壊、古き良き時代は突然幕を降ろす。傘下にあった各民族はナショナリズムに燃え、それぞれ自らの国家建設に走り出し、四部五裂になっていく。ばらばらになった国々はみな小国で、国づくりの困難と格闘しているうちに、ヒトラーの餌食となり、続いてスターリンの圧政に苦しみ、不幸な苦難の途をたどった。


 「ハプスブルク王朝が滅亡しなければ、中欧の諸国はこれほど永い苦難の経験をしなくてもすんだであろう」。英国の首相だったウイストン・チャーチルも嘆いている。

 第二次世界大戦後のヨーロッパ最悪の紛争といわれる、ボスニア・ヘルツエゴビナ紛争も、ハプスブルグ王朝の崩壊に遠因があったと言えなくもないかもしれない。

 しかし、著者はエピローグで明確に語っている。
 とはいっても、王朝の復活はありえないし、一度滅びた多民族国家はもはやもとに戻らないことを、ハプスブルク帝国崩壊の歴史は教えている。
 一方で、著者はもう一本の横糸を繰り出す。

 エリザベートは「汎ヨーロッパ運動主義」に関心を持ち、それを提唱「EUの父」とも呼ばれるリヒャルト・クーデンホーフ・カレルギーへの支援を惜しまなかった、というのだ。

 こんな記述がある。
 (ヒトラー率いるドイツのオーストリア併合の危機が迫るなかで)いち早く逃亡脱出したエリザベートの知り合いもいた。パン・ヨーロッパ運動のクーデンホーフ・カレルギー伯爵・・・
  映画「カサブランカ」の主要登場人物のモデルとなるクーデンホーフ・カレルギー伯爵の逃避行の始まりである。
クーデンホーフ家の墓碑。クーデンホーフ・ミツコの名前も刻まれている(ウイーン・ヒーツイング墓地で):クリックすると大きな写真になります

 この夏、ウイーン在住のパンの文化史研究者、舟井詠子さんに案内されてシェーンブルン宮殿南端にあるヒーツイング墓地にあるクーデンホーフ家の墓地を訪ねた。
 墓碑に刻まれた名前の一つに「グーテンホーフ・ミツコ」とある。日本名は「青山光子」。「EUの父」リヒャルト・クーデンホーフ・カレルギーの母親である。



2009年9月 2日

ウイーン紀行①「ウイーンの森」


 ウイーンの森への旅は、かって貴族の別荘だった館の庭にある小さな森から始まった。

オーストリアに640年にわたって君臨したハプスブルグ家の夏の離宮だった世界遺産・シェーンブルン宮殿のすぐ近く。ビーダーマイヤー時代最盛期の1825年に建てられたこの館に、アトリエを構えておられるパン文化史研究者、舟田詠子さんのゲストルームに泊まらせていただく幸運に恵まれたのだ。

 建物の玄関は石の壁と巨大な木の扉で守られているが、庭に面して大きなガラス窓のサンルームが広がり、外壁はカラマツのこけら板で覆われている。庭には、トウヒらしい巨木のほか、サクラ、レンギョウ、カリン、アンズ、モモ、洋ナシ、クルミなどの樹木が繁り、フジの大枝が伸び、壁をおおうツタの太い枝が時代を感じさせる。
奥の小山をぐるりと回って上ると、頂上のブドウ棚から「世紀末ウイーン」をリードしたウイーン分離派の建築家・ヨーゼフ・ホフマンが設計した館などが臨める。
 舟田さんのアトリエを含めたこれらの館は、ウイーンでも貴重な建築物として文化財の保護下にあるという。

 庭のテーブルに並べられた朝食の皿には、ウイーン名産のハム、ソーセージの逸品や野菜料理が盛られ、日曜日にはいくつも教会の鐘が次々と響いてくる。向いの作曲家の館からピアノの音まで聞こえてきて・・・。なんともはや「森の都」ウイーン文化の奥深さに圧倒されてしまった。

 
舟田さんのアトリエのある館:クリックすると大きな写真になります館の外壁:クリックすると大きな写真になります庭の小さな森:クリックすると大きな写真になりますウイーン分離派(アールデコ)時代の隣邸:クリックすると大きな写真になります
舟田さんのアトリエのある館。かって貴族は、この木のドアーを開けさせ、直接、馬車を乗りいれたという庭に面した外壁はこけら板とツタで覆われている庭の小さな森は奥深く、見あきないウイーン分離派(アールデコ)時代の隣邸


 さっそく、ウイーンの森の探訪に出かけた。シェーンブルン宮殿の周辺は、もう森の一部だという。
 宮殿の南西部にある公園は、歩く人も少ない広葉樹の森。ウイーンの森を管理するウイーン市森林局の事務所の横にある門をくぐって、宮殿南部の高台にある記念碑・グロリエッテへ。道を少しそれると、昼でも薄暗いブナなどの林が続く。
  森が急に切れて、細長い草原に出た。はるか下にウイーンの街並みが臨める。なんと、この草原は、ウイーンの街に森の冷気を送りこむ「風の道」なのだ。確か、皇居に風の道を通せば、東京都心のヒートアイランド現象はかなり緩和できるという話しを聞いたことがあったが、ウイーンの街は残された貴重な遺産を見事に生かしきっている。

シェーンブルン宮殿とウイーンの市街:クリックすると大きな写真になります宮殿内の森:クリックすると大きな写真になります「風の道」森の観察路の説明板:クリックすると大きな写真になります
グロリエッテから見たシェーンブルン宮殿とウイーンの市街人気も少ない宮殿内の森森を貫く「風の道」森の観察路の説明板


 マリア・テレジアの夫のフランツⅠ世が1792年、宮殿内に作った世界最古という動物園に入ってみた。
 パンダやペンギンは珍しくもないが、階段を上って森の木々や葉を下からでなく目の前で眺められる樹木観察路があるのが「森の都」の動物園らしい。
 所々に、樹木の葉や小鳥、小動物など森の住民を解説した掲示板まである。ブナ、シデ、シナノキ(菩提樹)、トネリコ、カエデなどの名前が書いてある。

 オーストリア連邦森林局(現在は民営化されてオーストリア連邦森林株式会社)の林業専門家であるアントン・リーダーが書いた「ウイーンの森―自然・文化、歴史―」(戸口日出夫訳、南窓者刊)によると、ウイーンの森の木々の75%がブナ、ナラなどの広葉樹、25%がクロマツ、トウヒといった針葉樹という。
 針葉樹が多いドイツの黒い森と違って、広葉樹がつくる明るい森がウイーンの人々の開放的でのんびりした気風を育てているのだろうか。

 著者と訳者によると、ブドウ畑や居住地を含めたウイーンの森の総面積はおよそ1250平方キロと、東京23区の2倍以上。
世界のいかなる大都市も、このような周辺部を持つものはなく、・・・その自然のなかで、ビーダーマイヤー時代には、シューベルトの「美しき水車小屋の娘」やベートーヴェン「田園」が生まれ、ウイーンの森と音楽の都が結びついた


 舟田さんに、さらに森の奥へと案内してもらった。
 夕方、中心街・リンク沿いにあるウイーン大学前のショッテントーア駅の地下ターミナルで待ち合わせてトラム(路面電車)38番でワインを飲ますホイリゲが並ぶグリンツイングへ。そこで白ワインを軽く飲み、バス38Aで海抜484メートルのカーレンベルクに着く。

 カーレンベルクのことをアントン・リーダー氏は「忘れがたい場所」の筆頭にあげて、こう書いている。
頂からウイーンを見下ろせば、その中心にはシュテファン大聖堂も見える。少し先にベルヴェテーレ宮殿も見える。きらきら光るドナウ(川)のわきに国連都市のビルがあり、その右にプラーター(公園)の大観覧車も小さく確認できる。・・・真下の麓には一面に葡萄畑が広がり、それが上方のブナ林のなかに吸い込まれてゆく。


 この丘にある小さな教会にも、ウイーン市指定の史跡であることを示す国旗を模した旗が掲げてある。
1683年、ポーランド王率いるキリスト教連合軍が、この教会でミサにあずかった後、一気に斜面を駆け降りて、ウイーン城を包囲していたトルコ軍を急襲、敗走させた、という。

 ウイーンの森が終わるレオポルヅベルクまで森のなかを歩く予定だったが、時間がなくなった。ブドウ畑の間を早足で降りる。「ブドウ畑を持つ首都はウイーンだけ」と、舟田さん。

予約した7時は少し過ぎたが、ワインセラーの庭にはウイーンの街を真下に臨む席が用意されていた。降りた分だけ、街が近く見える。
 ローストポークにチーズ味のパテ、オリーブがいっぱい入ったサラダと、白ワイン。街が少しずつ夕日から夜景に変わっていく。ウイーンの森で飲むワインの一口、一口が、深く静かに身体に回ってきて・・・。

ホイリゲの陽気なボーイさん:クリックすると大きな写真になります;">カーレンベルクの丘から見たウイーン市街:クリックすると大きな写真になります;">キリスト教連合軍が祈願した教会:クリックすると大きな写真になりますワインセラーの団らん:クリックすると大きな写真になります
ホイリゲの陽気なボーイさん。チップはずみすぎ?カーレンベルクの丘から見たウイーン市街。左にドナウ川が見えるキリスト教連合軍が祈願した教会。18世紀初めに再建された(壁にあるのが、史跡指定の旗)ウイーン市街の夜景を眼下に、森のなかの団らんは続く


ウィーンの森―自然・文化・歴史
アントン リーダー
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