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2015年10月28日

読書日記「エストニア紀行 森の苔・庭の木漏れ日・海の葦」(梨木果歩著、新潮社)


エストニア紀行―森の苔・庭の木漏れ日・海の葦
梨木 香歩
新潮社
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 ナチュラリスト、梨木果歩の真骨頂あふれる紀行文。

エストニアの首都タリンに着き、旧市街(世界遺産「タリン歴史地区」)に出かけてすぐに、著者らは「なんだか場違いなほど壮麗なタマネギ屋根のロシア正教の教会に出会う。



  アレクサンドル・ネフスキー聖堂と言います。なんだかこの建物、悪目立ちしますよね、この町では」
 通訳兼ガイドで、地元の大学で日本語を教えている宮野さんは、この教会の特色に「ぴったりと当てはまる」言葉を言ってのけた。

 フインランド湾に面するエストニアは、北と東の国境をロシアに接し、常にこの国の支配と脅威にさらされてきた。「悪目立ち」する教会も帝政ロシアの支配時代に建てられたものだった。

P1080325.JPG  以前にポーランドの首都・ワルシャワに行った際、ホテルの前に旧ソ連占領時代に建てられた異常に威嚇的な宮殿風の建物(=写真:「スターリンがポーランドに贈与したという摩天楼・文化科学館」)に違和感を覚えたことがある。それと同じような感覚だろうか。








 午後の新市街で訪ねた宮殿(ロシアのピョートル1世が建てた カドリオルグ宮殿では、庭のあちこちで新婚カップルが記念撮影をしていた。

 
 市井の善男善女が人生のスタートを祝うに十分な晴れがましさと無難さ。だがやはり、この半日回っただけでこんなに惹きつけられているエストニアの魅力とは無縁のもののように感じた。あのロシア正教の派手な寺院と同じように、「浮いて」いる。これから回ることになるエストニアのあちこちでも、北欧やドイツのエッセンスが感じられることはあっても、かつての占領国・ロシアの文化のある部分は、癒蓋のようにいつまでも同化せずに、あるいは同化を拒まれ、「浮いて」いた。けれどその癖蓋もまた、長い年月のうちには、この国に特徴的などこか痛々しく切ない陰影に見えてくるのだろうか。東ヨーロッパのいくつかの国々のように。


「歌の原」は、この宮殿の東にある。

   1988年9月11日、この場所にソ連からの独立を強く願った国民30万人、エストニア国民の3分の1に当たる人が全国から集まり、演説の合間にエストニア第2の国歌といわれる 「わが祖国はわが愛」を歌った。

これが結果的に民族の独立への気運を高め、1991年の独立回復へと繋がっていく。この無血の独立達成は、「歌う革命」と言われる。

 
 しかし、実際その場所に立つと、え、ここが、あの? と、半信半疑になるほど、ガランとしたひと気のない草地、グラウンドのようにも見えるが、奥の方に野外ステージらしきものが建っているので、やはり、ここが、そうなのだ、と往時の緊張と興奮を自分の中で想像してみる。その歴史的な「エストニアの歌」から約一年後、一九八九年八月二十三日に、ここ、タリンから隣国ラトビアリガリトアニアヴイリニュス (バルト三国という言い方もあるが、使わない)(=それぞれ違う歴史を刻んできたから、という意味だろうか)に至る六百キロメートル以上、約二百万の人々が手をつなぎ、「人間の鎖」をつくつた。スターリンとヒトラーにより五十年前に締結された、この三国のソ連併合を認めた独ソ不可侵条約秘密議定書の存在を国際社会に訴え、暴力に依らず、静かに抗議の意思を表明するデモンストレーションだった。


 北の端、タリンから南下したヴォルという町にあるホテルは「厚い森」に囲まれていた。

 窓から広がるエゾマツやトドマツの森を見ていると、著者は「こうしてはいられない、という気になって」、スーツケースから旅には必ず持っていく長靴、ウンドパーカー、双眼鏡を取り出す。

 赤い土の小道の両側の木々は厚い緑の苔で覆われている。苔の上には、紅や濃紺のベリーをつけた灌木が茂り、茸の ヤマドリタケの仲間があちこちに見える。遠くでシカの声も聞こえる。転がっていた丸太に腰を下ろす。

 
 しばらくじつとして、森の声に耳を傾ける。ゆっくりと深呼吸して、少しだけ目を閉じる。右斜め前方から、左上へ、それから後方へ、松頼の昔が走っていく。走っていく先へ先へと、私の意識が追いつき世界が彫られていく。北の国独特の乾いた静けさ。


  キフィヌ島に入る。ここに住む女性が着る 赤い縦じまのスカートや織物は無形世界遺産。それらをIT技術をいかして世界に売っているという、テレビドキュメンタリーを見たことがある。

 森と森の中間にある木立に建つ一軒家で昼食をごちそうになる。大麦の自家製ビール、黒パン、燻製の魚、温かな魚のスープ。すべて、島のおばあさんたちの手作りだ。

 機を織っていたおばあさんがふと織るのをやめ、ぽつんと「自給自足は出来ても、お金持ちにはなれない」と呟いた。

 旅から帰国してすぐにリーマンショックが起きた。

 「あのおばあさんの言葉は『金持ちになれないけれど、自給自足は出来る』ということであった」と著者は悟った。

 サーレマー島は、エストニアで一番大きな島。車に乗り込んできたきさくなガイドの女性は、最後まで律儀な英語で話した。

 
 この島は、古いエストニアそのままの生態系が保持されています。それというのも、ソ連時代、軍事拠点だったせいでサーレマー島はほとんど孤島も同然、ソ連は西側からの侵入やにしがわへの逃亡を警戒して・・・そんな中、自然だけは見事なほど保たれました。ムース(ヘラジカ)やイノシシは約1万薮、オオカミ、オオヤマネコ、クマ、カワウソは数百匹が確認されています。・・・
  ――ではクロライチヨウキバシオオライチョウも・...‥。
 ――もちろんです。カワウソだっています。


 
 この時、私は本気で後半生をこの島で過ごすことを考えた。


 このところ、どうもピンと来る本に出合わない。「介護民俗学」とうたった本や今年度の谷崎潤一郎受賞作品のページを開いては途中下車ばかりしていた。やむをえず、本棚にあったこの本を取り出した。やはり、この著者の本は、老化した脳にもすっきり沁み込んでくれる。

 同じ著者の「不思議な羅針盤」(新潮文庫)が文庫本になったので、これも同時進行で読んだ。「サステナビリティー(持続可能性)のある生活」を考える、しっとりとしたエッセイ集だった。

2011年5月28日

読書日記「チェルノブイリ原発事故(原題・故障)ーーある一日の報告」(クリスタ・ヴォルフ著、保坂一夫訳、恒文社刊)


チェルノブイリ原発事故 (クリスタ・ヴォルフ選集)
クリスタ ヴォルフ
恒文社
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 「朝日の文化欄(5月18日付け)で、大江健三郎がこの小説を取り上げている」。友人・Mに教えられ、さっそく図書館のホームページで予約、書庫に収まっていたのをすぐに借りることができた。

 大江健三郎は、こう書いている。「福島原発の事故にあたって、私自身が見聞すること、家族の話すことの多くに、これは覚えていると既視感(デジャヴ)を抱いた根拠がこの本にあると気付いて・・・」
「デジャヴ」というのは、あまり聞いたことがなかった言葉だが、フランス語が語源らしい。辞書には「初めての経験なのに、かつて経験した感じがするような錯覚」とある。

 著者は、旧東ドイツを代表する女性作家。
 邦訳の表題は、えらく直截的な表現になっているが、東ドイツに一人暮らしをしている女性作家が、離れた場所で脳腫瘍手術を受けている弟を気遣いながらチェルノブイリ原発事故のニュースを聞いている、というのが小説のあらすじ。「破局的現在に至った文化の過去を反省する一日の報告」(訳者あとがき)だという。

 しかし読み進むうちに、福島原発事故の後、日本人の多くが味わったであろう″既視感(デジャヴ)"に出会い、ギョッとしてしまう。

 
いつもの習慣で歩きながら、毎日の昼食のサラダ用に、小さな、やわらかいタンポポの葉を摘んできたのですが、それはやはり棄てることにしました。別々の局に合わせてある小型ラジオも大型ラジオも、時報ごとに声を合わせて、生野菜は食べるな、子供に新しい牛乳を与えるな、と言い続けていますし。・・・中にはとんでもないことを考える人もいるもので、ある放送局のある町では、きのうのうちに、町じゅうのヨウ素錠剤の在庫がすっかり買い占められたそうです。


はっと気づいて、急いでベルリンへ電話しました。・・・きのうの午後は、もちろん子供たちと砂場へ行ったわよ。くやしいのは、そのあと身体を洗ってやらなかったこと。そう、お母さん、聞かなかった?子供が外から帰ってきたら、シャワーを浴びせるのよ。お風呂は皮膚をやわらかくし、毛穴が開くから、放射能をわざわざ体内に入れてやることになるの。考えすぎかしら?それならいいんだけど。


 
深夜、泣き声がしました。わたしはびっくりして、とび起きました。完全な怪物だ!と叫んでいます。・・・しばらくたってから、ようやく気づきました。それはわたしの声でした。わたしはベッドに座って大声で泣きました。・・・わたしは大声で叫びました。
 この地球に別れを告げることになるのでしょうか?そうなったら。あなた、さぞ、つらいことでしょうね。


 図書館でボランティアをしていたとき。返ってきた「ぼくとチェルノブイリのこどもたちの5年間」(菅谷昭著、ポプラ社)という本を思わず借りてしまった。

 チェルノブイリ事故によって、原発のあるウクライナ共和国だけでなく、北隣りのベラルーシ共和国は国土の20%が大きな被害を受けた。季節風で放射能の灰の半分が風下のベラルーシに運ばれたからだ。おかげで、小児性甲状腺ガンが増え続けるという悲惨な状況になった。

 筆者の甲状腺専門医である菅谷さんは、ベラルーシで暮らしながら、現地医師の訓練とこどもたちの甲状腺ガン手術に取り組んだ。

 
(入院しているこどもの)面会に来ている親たちが、悔やんでも悔やみきれない思いを抱えていることをぼくは感じます。
  あのとき、外で遊ばせなければ・・・。
  あのとき、キノコを食べさせなければ・・・。
  あのとき、イチゴをとりに森に連れていかなければ・・・。


 
事故が起きた当時、お母さんはまだ一歳にならないターニャを連れ、(チェルノブイリから50キロしか離れていない)自分の実家でジャガイモの植え付け作業を手伝っていました。よちよち歩きを始めたばかりのターニャは、広大な畑の隅っこで、春の陽ざしをいっぱいに浴びながら、無邪気に遊びつづけていたのです。もちろんこのとき、原発史上最悪の爆発事故が起こったなどという情報は、村人のだれひとりとして知りませんでした。
 しかしその数カ月後、この村はあまりに高度に汚染されたため、政府の命令でただちに埋められ、地図の上からも消されてしまったのです。
 ・・・埋葬しなければならぬほどの村で、ターニャは遊びつづけていたのです。


 小説「「チェルノブイリ原発事故」の巻末には、反原発学者と知られた元原子力資料情報室代表の故・高木仁三郎氏の寄稿が掲載されている。

 
私の頭を悩ますのは、・・・各国政府やIAEAは、あの事故のことは過去の出来事と済ませてしまって、以前と基本的に同じような原子力計画をつづけていることである。・・・核の時代のツケがさまざまな形で混乱と霧を広がらせ、「次のチェルノブイリ」を予感させるような事例はいくらでもあげることができるが、ほとんどは世界全体によって見て見ぬふりをされているといってよいだろう。


 その高木さんが、16年前に書いた学術論文「核施設と非常事態――地震対策の検証を中心に―」(日本物理学会誌、Vol.50No.10,1995) が、今回の福島第一原発事故をピタリと予言していてネット上で話題になっているようだ。

「(地震とともに津波に襲われたとき) 原子炉容器や1次冷却材の主配管を直撃するような破損が生じなくても、 給水配管の破断と緊急炉心冷却系の破壊、非常用ディーゼル発電機の起動失敗といった故障が重なれば、メルトダウンから大量の放射能放出に至るだろう」


 もうひとつ。友人の岡田清治氏が、自分のホームページに書いていたように、福島事故発生直後にメルトダウンを予想した反原発学者の京都大学原子炉実験所助教・小出裕章氏が、今月23日の参議院行政監視委員会で参考人として陳述した。この 録画動画 の内容には戦りつさえ覚える。

 それを"文字起こし"した内容は、このブログに載っている。

 
失われる土地というのはもし、現在の日本の法律を厳密に適応するのなら福島県全域といってもいいくらいの広大な土地を放棄しなければならないと思います。
 それを避けようとすれば住民の被曝限度を引き上げるしかなくなりますけれど、そうすれば住民たちは被曝を強制されるという事になります。
一次産業はこれからものすごい苦難に陥るようになると思います。農業・漁業を中心として商品が売れないという事になる。そして住民達は故郷を追われて生活が崩壊していくという事になるはずだと私は思っています。


 福島のこどもたちが、甲状腺ガンの原因になる放射性ヨードを浴びないことを、そして放射能が風に乗って孫らのいる関東地域に広がらいようにと、ひたすら願う。